企画小説 『悪の勢力』 by K

 「相良子のやつめ、あんなこと言っといて……結局なんにもないじゃない! おまけに仕事が増えたし!」
 朱鷺子はぷりぷり怒りながら校庭を歩いていた。その脳裏では当の友人が相変わらず屈託ない笑顔を見せ続けている。
 「ね、知ってる? 校庭の隅っこに生えてるあの木。あの木ね、根っこにお守りが埋まってて、それに願い事をすると、年に一つだけ叶うんだって」
 「ほんと? それ」
 それを真剣に聴く自分が今となっては気恥ずかしい。
 「ほんとだって。去年卒業した先輩に聞いてさ。それで毎年願い事が叶ったら、元の根本に埋めとくんだって。それで代々ここの生徒に受け継がれてるんだって言ってたよ」

 今となってはどうしてあんな話を信じたか分からない。しかし、あのときにはどんな怪しい情報にも喜んで帰依してしまうほど切羽詰まっていたのだ。それこそ真空の宇宙空間に投げ出された人間が藁をも掴むような心境だったのだ。
 しかしその結果がこれだ。教師どもにこってりしぼられて、後片付けするためにもう一度犯行現場に戻ってきて見てみたら、自分の所業に呆れかえるしかない。まるでこの木をどこかに移植しようとしたかのように、木のまわりが掘り返されている。なんだこれは? 誰が、何のために? 冗談交じりに自問する。怪奇現象としてムーが取材に来るレベル。さりげなく転がっているスコップでそれを行うのは見るからに大変そうだ。夢中だったとはいえ、よくやった。誰も褒めてくれないだろうから、自分で褒めておこう。
 しかし、この時間を他のもっと有意義なことに使えなかったのだろうか。
 もちろん結局、相良子の言っていた『お守り』は見つからなかった。それで文句を言ってやろうと思ったのに、ケータイには出ないし、メールにも返信なし。部室にもいないから、もしかして帰ったかと思って校内を探していると、教師に見つかって尋問される。
 そりゃそうだ。膝小僧も袖口も、おまけにせっかく手入れした爪の中まで泥だらけなんだもの。
 言い訳も空しく、朱鷺子はさんざん絞られたすえに、一人で穴埋め作業に当たるはめになる。
 自分が悪いと分かっているし説教に長く拘束されることほど、無駄な時間もない。こんな馬鹿なことをしでかせば自発的に反省だってしたくなると言うものだ。
 (なのに、あんなにおんなじことばっかり繰り返し言わなくたっていいのになあ)
 愚痴をこぼしたって仕方ない。とにかく、小錦じゃないんだから、自分の尻拭いくらい自分でしないと。
 と、自分が対面している状況に正面から対峙しようとするのだが、やっぱりいつだって現実は力ずくで心をくじきに来る。
 ここは校庭の目立たない片隅とはいえ、別に四方を壁に囲まれた収容所的密室空間と言うわけではなく、放課後の部活に汗を流して、青春の貴重な一瞬一瞬を健全に過ごしている生徒たちからは普通に見える。小さなスコップを持って、見慣れない土山の横に立ちつくしている朱鷺子は、もしかしたら視線を集めているのかもしれない。実際に視線を集めているかどうか、振り返って確かめる気にはとてもなれない。
 ああ、穴があったら入りたい!
 目の前の穴を親の敵でも見るような眼で睨みながら、朱鷺子は今年の夏の暑さを予想させる4月後半の風に騒ぐ木の葉を仰ぐのだった。
 「あれ?」
 彼女の目が何かをとらえる。
 「あれ、なんだろ?」
 穴を飛び越えて、木の、彼女の頭より少し高いところにある洞に手を突っ込んで、中を探る。すると、何かが手に当たる。少し湿った紙の感触だ。
 彼女は、う〜ん、と背伸びをしながらそれを懸命に取り出す。それは宛名も何も書いていない便せんだった。どれくらいの間そこに入っていたのか、水気でグシャグシャだが、雨をしのいでいる分だけ、どうにか読めないこともなさそうだった。
 朱鷺子は中から、四つ折りにしたルーズリーフを取り出して読みはじめた。


 その半年ほど前の同じ場所の話である。
 「ふう」
 木の幹に背中を預けながら、樹冠の間から差し込む陽光に目を細めて、少年は溜息をついていた。制服の上着を脱いで、タイも外してしまっているその姿は、わけもなく、なんだかどこからか逃げてきたかのような感じを纏っていたが、幸いその姿を探す追手は周囲にはいなかった。というか、そもそもその時、そこには彼以外人影はなかった。だから彼も、心おきなく一人の世界に入ることができた。
 まだ紅葉の時期には少し早いのにわくらばが目立つその木は、疲れ切った様子の少年と奇妙な相似を成していて、その中の数枚が千切れて、少年のまわりを舞いながら落ちてくる。少年は目の前をゆらゆらと揺れるそれに思わず手を伸ばし、拳を握って掴み取ろうとするが、それはまるで逃げる意思を持っているかのごとく、指の間をすり抜けていってしまう。
 少年はその拳を見て、眼鏡の奥で微かに、本当に微かに、自嘲的に笑った。あのときと一緒だ。あのときも、世界はこうやって僕の指の間をすり抜けてしまったんだ。
 もう少しで、世界をこの手の中につかめると思ったのに……

 世界は死に至る病に蝕まれていた。悪の勢力が、世人の知らぬ間にこの世を覆い尽くし、人の心に闇の種をまこうとしていたのだ。しかしそれに気付く者はほとんどいなかった。いたとしても、一人では何もできないと、ただ手をこまぬいて見ているだけであった。それはあまりにもゆっくりとさりげなく進行したので、気付いた時にはすでに手遅れで、すでに抵抗の手段すら奪われていたのだ。まるで、毛細管現象によって布地が水分を吸い上げていくように、世界の網の目の中に音もなく闇が染みとおって行った。
 しかし、そんな中立ちあがる一人の男がいた。彼は、たった一人でこの世界を救うために、日夜大都会の闇から闇へと飛び回り、暗躍する悪の勢力と死闘を繰り広げ続けていた。彼の名は、波々伯部全一郎、政府によって特別に拳銃の所持を許された高校生探偵である。
 彼は、かつて高校生でありながら、世界レベルのモトクロス選手として名を馳せていたが、その運動能力に目を付けた悪の勢力によって、改造人間にされてしまったのだ。しかし、危ういところで悪の脳改造の直前に逃げ出したのち、自らの青春を投げ出して、吹きすさぶ風のよく似合う戦鬼として、ただ愛のため、戦い忘れた人のために、涙で渡る血の大河、夢見て走る死の荒野、世界の平和を守って戦い続けていたのだ。
 しかし、敵もさるもの、彼らは誰にも知られぬうちに、各国の政府の中枢に絡む人間をそっくりに作られたアンドロイドに入れ替えて、裏で政治を操ろうとしていた。彼らの手腕のあまりの鮮やかさに、被害者本人ですら、自分がアンドロイドに入れ換えられていることに気付かなかったほどである。
 全一郎は自分の活動の裏からのサポートを失って孤立し、一度は心を挫かれそうにもなった。しかし偶然訪れた寂れた銭湯の脱衣場のマッサージチェアの横に置いてあったアイソレーション・タンクの中で彼に訪れた変性意識状態(Altered states of consciousness)においてプレアデスから受け取ったスピリチュアル・メッセージによって2012年に起きると予言されたアセンション(惑星地球の次元上昇)が、彼に新たな希望を与えた。彼は子どもたちの夢と頭上をよぎる流れ星だけが供給することが出来る宇宙最強のエネルギー「コスモ」を使って、怒涛の反撃を行い、とうとう敵の本拠地である太平洋の地図にも載っていない人工島に乗り込んで、悪の野望を打ち砕くことが出来たのだ。
 こうして世界は救われた。
 そして戦いに敗れ去っただけでなく何もかも失ってしまった悪の首魁、百々目鬼千三郎(本名松尾裕生)は、ほとんどの人に知られぬまま終わってしまった自らの戦いの記録と言う名の妄想を書き連ねたルーズリーフの束を便せんに入れて、校庭の片隅の木の洞の奥に、誰にも見られないように押し込んだのだ。なぜそんなものを書いてしまったのかは誰も知らない。多分、友だちがいなくて暇だったのではなかろうか。
 しかも本当は、自分が世界を征服する妄想をするはずだったのに、いつの間にか適当に考えた敵役のヒーローが勝ってしまっている。文章を読んでいても明らかに、書き始めてすぐ面倒くさくなった気配が濃厚に感じられる。
 なぜそんな恥ずかしいものを、引越しのために去っていく学校に残そうとするのかは、ますます理解不能だか、彼は今や情勢不安な未開の地である群馬に行ってしまった。とても連絡は不可能であるので、謎は謎のまま、真相は闇から闇である。
 しかし、その彼も気付いていない事実があった。実は本当にこの世界は今、死に至る病に蝕まれていたのである。それはデフレであった。
 デフレとは何か。それを説明するためには少し経済学の大雑把な説明が必要である。
 確認しておかねばならないことは、経済学の始祖アダム・スミスの理論では不況など起こりえない現象である、と言うことだ。
 不況とは、皆がものを買わなくなること、するとアダム・スミスの理論ではものが安くなり、充分安くなればみんなものを買うようになる。終わり。
 のはずなのに、なぜか現実にはいくら安くなっても、誰もものを買おうとしないことがある。それが不況だ。
 ではなぜ不況は起こるのか。様々な理由が考えられているが、その一つがデフレだ。デフレはだんだんものの値段が安くなる現象だ。そうすると、今買うよりも、少し我慢して、あとで買った方が得とみんな思ってしまう。そうすると、いくら安くなっても、もっと我慢しようとして皆ものを買わなくなってしまうのだ。
 これと並行した原因としてあげられるのが、単に買いたいものがない、ということだ。これだけものが溢れてしまえば、みんなそうそう大きな買い物をしたりしないし、ここ数年のパーソナル・コンピュータや携帯電話の発達も、かつての車やテレビなどの高度成長期の産物と比べたら、生活スタイルを大幅に変えはしなかった。なくても割とどうにかなって、別に世の中の流れに遅れたりはしないのだ。
 だからこそ別に買わなくてもいいもの買わせようと宣伝合戦は熾烈さを増し、それが逆に消費者の不信感を煽ってしまう結果になってしまっている。
 その結果起こることは、ひたすらものを買わずに、小さく縮こまりながら意味もなく貯金し続ける消費者の出現であり、これは事実上の資本主義への緩やかなボイコットだ。
 貨幣と言うものは不思議なもので、なぜお金で今日何かが買えるかというと、お金をもらった人がそのお金で別のものが買えるからである。そして、その人がそれで買い物が出来るのも、その次もまたそのお金で買い物が出来るからである。
 つまり、貨幣が使えるためには、その貨幣は永遠に使える必要があるのだ。
 実際、例えば一週間後日本円がただの紙切れになることが分かれば、それが皆に知れ渡った瞬間に、日本円は紙切れになってしまうのだ。
 貨幣というシステムは、まるで虚空につり下げられたフックか何かのように、永遠の未来への信頼によって支えられている。
 こういうシステムは実は他にもたくさんあり、経済から他の例をとると、最近話題の国の借金なんかもそうだ。あれを批判するのに、「これを全部返すためには、一人何円払わなくてはいけない。国民にこれだけの負担をさせるのは云々」みたいな議論をする人間がいるが、これはそもそも国は借金を一回で払う必要はないし、今の世代や次の世代が払う必要もなく、何世代もかけて返していけばいいのである。こういうのを、例えば個人の借金などとナイーブに混同するのはまずい。そもそも、借金はいつか返しきらなくてはいけない、という考え方すら通用しない。国の借金で問題なのは増え続けることであって(これは国の経済が不健全であることを示している)、それが減っているか横ばいだったら別に大した問題ではない。
 それはなぜかと説明を求められたら、「国家と言うのは永遠に続くから……」と答えることになってしまう。これは、それだけでは相当胡散臭い話に聞こえると思う。
 ちなみにその胡散臭さを小説にしたのが、ダグラス・アダムズの『若きゼイフォードの安全第一』で、この小説では「アオリスト棒」(アオリストとは、ギリシャ語の未完了を意味する時制である)という未来からエネルギーを奪ってくる装置が登場する。そんなことしたらあとで困るではないか、という批判に、未来もさらにその未来からエネルギーを奪ってくればいい、と反論するのだ。もしかしたら、未来に廃棄物を残して今エネルギーを取り出す原子力批判も込めているのかもしれない。
 とにかく、胡散臭いのだが、この経済の仕組みはとりあえず上手くいっているのだ。そしてことは経済だけではない。例えば、我々の「道徳」という感情も、未来がどこまでも続くから支えられているのだと言う事実は『ギャグマンガ日和』のエピソード『終末』を見ていただければ分かるだろうし、アクセルロッドとかの道徳を進化ゲーム理論で考える人達の本を読んでも面白いと思う。
 現代社会と言うのは、「これからもずっと上手く生き続ける」とみんなが思っていないと上手くいかない社会なのだ。もし、みんなが「このまま上手く行ったりなんか絶対しない」と思ってたら、それ以外がすべて完璧なのに、この世界は上手くいかなくなってしまうのだ。
 これはかなり危うい。人びとが未来に希望を持てないという事態は、それ自体が死に至る病なのであり、デフレもまた未来に希望を失った人々の経済的自殺の結果であると同時に原因である。
 これこそが、この世界を覆い尽くそうとしていた闇なのである。

 「あれ、なにやってんのお?」
 様子を見に来た相良子が見たのは、まったく仕事の穴埋めをせずに、穴の端に腰かけて、熱心に何かを読む朱鷺子の姿だった。
 相良子はまさか自分のヨタ話(単位系の「Yotta」=「10の24乗」から、物凄く誇張された話と言う意味)を信じて、こんな不祥事を起こすほど友人が馬鹿だとは思っておらず、気が引けて体育館倉庫に隠れていたのだが、なんだか心配になってきて見に来たのだ。気まずさから、逆にできるだけ何気ない風を装って話しかけようと思っていると、その当の朱鷺子は、座りこんで手元の紙を見つめている。
 「それなに?」
 肩から覗きこんでみると、ルーズリーフになにやらたくさんの文字が書いてある。が、紙が湿ってフニフニのゴワゴワになっている上に、字が滲んでよく読めない。
 「ねえトッキー? それ何なの?」
 相良子は肩を揺すぶって、朱鷺子を現実に連れ戻そうとする。朱鷺子は自分以外の人間がそこにいることに始めて気付いたように、びっくりして顔を上げる。その瞳が不思議な色合いに潤んでいることに相良子は軽くショックを受ける。
 「な、泣いてるの?」
 「えっ!?」
 朱鷺子も自分が涙ぐんでいることに、言われて始めて気づいたらしく、急いで制服の袖でゴシゴシと目の周りを拭きとる。おかげで次に顔を上げたとき、彼女の目の周りが少し赤くなっていた。
 「あ、相良子! あんたどこ行ってたの? ケータイにも出ないし! あんたのおかげで、面倒なことになってんだから、あんたも手伝いなさいよ」
 気を取り戻した朱鷺子は相良子に集中口撃を喰らわそうとするが、相良子はそれに取り合わず、
 「あんただって、全然仕事してる様子ないじゃん」
 と軽くいなしたのち、
 「そんなことよりさ……」
 と本題を切りだそうとする。
 「そんなことじゃないよ! 本題はこっちだよ!」
 「その紙なに? なんか一生懸命に読んでたみたいだけど」
 未だに大切そうに握りしめている数枚の紙束を指さしながら訊く。
 「え? これ? ああこれね」
 朱鷺子はその水気でくっつきかけている紙束をめくって、見せたい場所を探しながら相良子に見せようとする。
 「これねすごいんだよ! 水でよく読めなかったり、意味が分かんないとこも多いんだけどね。さっき読んでて分かったことはね……ええと、ほら、ここ」
 そしてようやく見つけた核心部分を指でさしながら、
 「ここに書いてあるでしょ。『こうして世界は救われた』って!」
 と満面の笑顔で言い切った。相良子は、おまえは何を言っているんだ? と言う顔で相手の顔を見つめるが、当の本人は、どうすごいでしょ? という自信満々の顔で相手の反応を待っている。
 「ね、すごいでしょ!? だって世界救われちゃったんだよ! これ書いた人が誰か分かんないけど、とにかくすごい人だよ。なってったって、世界救っちゃったんだからね」
 相良子は脱力しながら溜息をつく。どうやら本気だ、と言うことを悟ったのだ。そして目頭を揉みほぐしながら、この愚かしくも可愛い友人に、できるだけ優しい声色で話しかけようとする。
 「そ、そーなのかー。世界、救われちゃったかー。それは困ったなー」
 その結果思い切り馬鹿にした声色になってしまった。しかし幸か不幸か相手はそんなことにすら気付かないほど、自分が大発見の内容に興奮しているようだ。
 「あたしさ、全然知らなかったよ、この世界が悪の勢力に征服されそうになってたなんてさ。でも相良子もそうだよね? だけど、この人があたしたちの知らないうちに世界を守ってくれてたんだよ。それをかんがえるとあたし、なんだか泣けてきちゃってね。もっとみんなこの人に感謝すべきだよ、いろいろと……」
 そう話しながらもまた感動が込み上げてきてしまったらしく、またうるうると瞳に涙をにじませる。
 相良子は心配を通り越してなんだか心配になってきてしまった。この子はこのまま大人になって、将来的にいろいろと困ったことにならないのだろうか。悪い男に騙されたり、変な物を売りつけられたりしないのだろうか。今のうちに、サンタさんはいないとか、子どもはこうのとりが運んでくるんじゃないとか、酢を飲んでも体は柔らかくならないとか、「紫の鏡」という言葉を20歳まで覚えていても死にはしないとか、いろいろと教えておくべきなんじゃないだろうか。本人にとってはいろいろショックかもしれないけれど、本人のためにそうすることが親友としての自分の義務なんじゃないだろうか。そう相良子には思えたのだ。
 そしてそのためには、多少の痛みも経験してもらわなければいけないだろう。恥を掻くことが一番の薬になることだってあるだろう。
 と言うわけで、相良子はからかい半分にこう言ったのだ。
 「それなら、みんなに教えてきたら? みんな、その人が世界を救ったこと知らなかったんだから」
 それを聞いた瞬間、朱鷺子は、なぜそれに気付かなかったのか! という軽い衝撃を受けた顔になり、相良子の手を強く握って、上下にぶんぶん振り回して、
 「すごいよ相良子! その通りだよね! あたし言ってくる」
 と満面の笑顔で走り出そうとする。
 「え、ちょ、おま」
 自分の言ったことに瞬速で後悔して止めようとする相良子の手をすり抜けて、朱鷺子はグラウンドの後片付けをしている運動部の方に掛けていってしまった。
 「それは、さすがに……」
 予想を越えた親友の馬鹿さ加減に呆然としながら、自分の適当な思いつきで彼女が大きな心理的ダメージを受けることに、大きな罪悪感を感じた。もしかしたら、それだけでなく、学校中に「痛い子」という評判が広がってしまうかもしれない。しかしその時には、自分が最後まで彼女を支えよう、と相良子は決意した。たとえ彼女が自分に怒りを感じて近づけさせてもらえないとしても。
 そんな今まで感じたことのない英雄的な責任感を、胸の中で育んでいると、遠くでどよめきが起きるのが聞こえた。
 なんだろうと、思って顔を上げると、グラウンドに人だかりが起きている。朱鷺子が走って行った方だ。
 相良子は胸騒ぎがした。それは嫌な予感とか虫が知らせるとかそんなチャチなものでは断じてない、もっと恐ろしく意味不明なものの片鱗だった。
 そちらに向かって走って行くと、それ以外の人間もみな、その中心の騒ぎを見に集まってきている。
 「なんだなんだ?」
 「なんか起こったらしいぜ」
 「なんか世界が救われたらしいってさ」
 「マジで? それ今日の話?」
 「それがちがくてさ、なんかずっと前に救われてたんだけど、今日まで気付かなかったらしいよ」
 「へえ。でもどっちにしたってそりゃすげえじゃん! もっと騒ぎになってもいいだろそれ!」
 「ヤッベエ! テンション上がってきた。お祭りじゃん!」
 「とりあえず胴上げしようぜ!」
 「わっしょいわっしょい」
 相良子の予想通り、その騒ぎの中心には朱鷺子がいた。いま彼女は、たくさんの人達に担ぎあげられて、何回も夕方の天気のいい空に向けて打ち上げられている。
 「あっはっは! ちょっと、世界を救ったのはあたしじゃないよお!」

 そう言いながらも、胴上げされるのは別に悪い気分でなさそうな朱鷺子であった。そうしているうちに、騒ぎは学校中に伝播し、運動部ではない生徒たちや教員たちまでこの相良子の一言が元で自然発生した騒ぎに引き寄せられて、彼女が唖然と見守るその目の前でこの大きな人だかりは巨大化していき、すぐに彼女自身も飲み込まれてしまう。
 その意味不明なお祭り騒ぎは学校の中だけにとどまらずに、その外の町に、市に、国に、世界に広がって行った。世界がいつの間にか、誰も存在を知らない高校生探偵とやらに救われたと言う話は、すぐに世界中でトップニュースとして報道され、何日も世界中の識者の議論の的となった。そしてそのニュースは結果的に、世界中の人達の心に救った諦めの心を駆逐し、購買意欲を復活させることにより見事にデフレを終結させて、世界全体の経済を安定成長に向かわせていったのだった。結果的に、民族間の争いも減り、世界は平和に近づいた。
 こうして、友だちのいない妄想少年と、フィクションと現実の見分けのつかない馬鹿少女によって世界は救われたのだ。
 その日、彼女の胴上げを中心に作られたその人だかりは衛星軌道からも見え、まるでマスゲームで作られた大輪の花のように見えたと言う。それを宇宙から見降ろしながら、地球征服をたくらんでいた悪の宇宙人達は、言った。
 「地球人ノ経済感覚ニ歪ミヲ生ジサセ、経済しすてむヲ崩壊サセタノチ、ヤスヤスト征服シヨウトオモッテイタガ、ソウハ問屋ガ降ロシテクレナカッタヨウダ」
 「我々ニハ、マダマダ地球人ノ意識構造ノ研究ガ足リナイラシイ。マタ千年後カ二千年後ニ雪辱ノ機会ヲ持ツコトニシヨウ」
 こうして悪の勢力の野望は打ち砕かれ、世界は救われたのであり、その直後、朱鷺子がもともと『お守り』に祈ろうと思っていた願い事である「お通じ」も無事訪れたのであった。
 めでたしめでたし。