何も無かったらかかないでね! その10

 ――最近、なんだかクラスの雰囲気がよくなった。
 いや、一年二組だけでなく、学校全体の雰囲気が。廊下を歩いていて、特にそう思う。外は今日も雨なのに憂鬱そうな顔をした生徒はどこにもいない。もちろん僕の目に映った範囲内でだけど。
 みんな溌剌としていて、それでいてそわそわ落ち着かない感じ。
 青春してる、とでも言い表せばいいのか。
 あのアンケート調査からほどなくして、『交際届け』について生徒会から説明があった。今後新たに交際をはじめる男女は生徒会にその旨を報告し許可を得ること、と。そのあまりに突拍子もない内容に誰もが疑問の声をあげた。クラスの女子が夏目さんに「あんなの馬鹿正直に出すわけないでしょ」「生徒会なんて関係ないし」と口々に言っていたのをよく覚えている。
 ところが、生徒会の副会長と会計が付き合いだしたという噂が学校中を駆け巡ると、しだいに風向きが変わってきた。一番最初に交際届けを提出したことになる二人の仲睦まじい様子が、校内のあちこちで見られた。僕も二人が一緒にお弁当を食べているところをたまたま目撃したことがある。
 才媛とスポーツマン。このカップルに憧れた生徒たちが、おそらく二番目以降の交際届け提出者になったのだろう。やがて『生徒会に認められたカップルはうまくいく』というようなジンクスが流行りだし、実際多くの男女交際が生徒会に認められた――修一から聞いた話や勝手に耳に入ってきた情報をまとめると、そういうことになる。
 藤村さんが生徒会長になってからたった一ヵ月半で、この学校は大きく様変わりした。
 みんな、満ち足りた日々を送っているようだ。
 そう、僕以外のみんなは……。
「健吾」
 背後から呼ばれた。修一だ。
「終わった?」
「ああ。待たせたな」
「いいよ別に。購買行ってたし」
 僕はパンの袋をちらつかせる。ちょうど教室に入るところだった。
 昼休みになると修一はよく教室から消える。選挙管理委員会はなくなったというのに、いまだに水野先輩とやらとつながりがあるらしい。ちょっとした仕事を頼まれているのだとか。適当に切り上げて御役御免となるはずだったのにとこの前愚痴ってたけど、僕は修一がすこし羨ましい。
「しっかし、人減ったなあ」
 僕の机に弁当箱を広げながら修一がぼやく。ひとつ前の席を無断で借りている。たしかに彼の言うとおり、教室には二十人ほどしか残っていない。
「そうだね」
「こんな天気だってのに、一体どこで食ってんだか」
「みんないろいろ忙しいんだよ。部活とか、委員会とか、それに――」恋愛とか。「――中間も先週終わったことだし」
「ったく、生徒会もけったいなことに力入れてるよな」
 あたかも僕の心中を悟ったかのような台詞だった。
 思わず斜め後ろを窺ったけれど、そこに夏目さんの姿はなかった。視線の先にあるのは時間割変更の記された黒板と、何枚も重なって端が丸まっている掲示物だけ。彼女の場合は、きっと生徒会の集まりだ。
 たとえ夏目さんがこの場にいたとしても、僕たちの会話になんて耳を傾けないだろうけど。
 僕になんて。
「…………」
 視線を正面に戻すと、修一がじっとこちらを見つめていた。
 箸が空中で止まっている。
「何?」
「健吾ってさ、まだ夏目のこと気にしてる、よな?」
「……どうしたんだよ、急に」
 頭の奥が、きゅっと締めつけられる。
 まさか修一からその話を切り出されるとは思わなかったので、一瞬、『夏目のこと』が何を指しているのか判断がつかなかった。
 修一は去年の夏の出来事について全部把握しているわけではない。夏目さんに言われたことが原因でスランプになった、僕が打ち明けたのはそれだけだ。それ以上を話すことはできなかったし、修一も知ろうとはしなかった。文化祭の最終日以来、僕たちの間でこのことが陽に話題に上ることはなかったのだ。
 それなのに、どうして今になって。
「今更かもしれないけどよ」またも心を読まれているかのような台詞。「あいつ、絵画教室に通ってたんだと」
「通ってた?」
「そう。中三の、夏休みまで」
 あの活発そうな容姿からはとても信じられない、とはまったく思わない。夏目さんが絵画教室に通っている(通っていた)らしいということは中学のときからなんとなく気づいていた。修一はろくに聞いていなかっただろうけど、県のコンクールで入選したとかでときどき朝礼で表彰されていたのだ。それほど実力があるのに美術部に入らないのは、おそらく他にちゃんとしたところで絵を習っているからなのだろうと考えていた。
 夏目さんは中三の夏休みまで絵画教室に通っていた。
 これまでの付き合いから、修一の言いたいことはわかる。しかしわからないのは。
「どうして修一がそんなことを」
「あいつの友達から聞き出したんだよ。ほら、応援演説してた子。それより時系列理解できてるか? 夏目は絵画教室で何かトラブルがあって、お前は単に八つ当たりされただけかもしれなくて、だから気に病む必要なんか」
「そうじゃなくて、何でわざわざ!」
 つい声を荒げてしまった。
 修一のぽかんとした顔。
 周りのクラスメイトの視線を感じたので、僕は声量をぎりぎりまで下げる。もう遅いけれど。
「関係ないんだよ、八つ当たりだろうと何だろうと。夏目さんがどんな思いで暴言を吐いたとしても、僕が空っぽなことに変わりはないんだよ。……変われないんだよ。みんな充実した高校生活を過ごしているのに、僕だけ中三の夏のまま変われない」
 変わりたかったのに。
 変われると思っていたのに。
「本当に今更だよ、どうして今になって言うんだよ。わざわざ聞き込みなんかしちゃってさ。おかしいよ、そんなの修一らしくないよ」
 僕は言ってしまう。
「修一、最近変わったよ」
「……ちょっと来い」
「わっ」
 袖を引っ張られて、無理やり立ち上がらされた。
 そのまま廊下へ連れ出される。足音をたてながら前を歩く修一がどんな顔をしているのか、僕には想像することしかできない。
 怒った?
 怒って当然か。
 僕みたいなうじうじしたやつなんて、好かれるわけがない。『嫌いな生徒の名前』の項目に書き込まれることはあっても、他の項目に書き込まれることなどありえない。僕だって、自分が大嫌いなのだから。
 下駄箱の前で修一は立ち止まった。僕の袖から手を離し、振り返る。意外にも修一の表情は、自虐めいた薄笑いに近かった。
 人気のない、仄暗い空間に二人。
 さっきからずっと聞こえていたはずなのに、雨の音がやけに耳に入る。
「……くそ、これじゃ水野先輩と同じじゃねえか」
 そう呟いてから、修一は僕に語り始めた。
「まず訂正しておく。俺は去年の夏のことを穿り返すために夏目のことを調べていたわけじゃない。絵画教室に通っていた云々は、水野先輩に頼まれて夏目のことを調べているうちにたまたま知っただけだ。第一、夏目と健吾の間に何があろうとそれはあくまで二人の問題であって、俺が関与する筋合いは一切ない」
 一呼吸置いてから、
「と、思っていた。今日までは」
 と付け足した。
「今日まで、って」
「正確にはついさっき、水野先輩の愉快な話を聞くまでな。今じゃ俺は、お前と夏目のこと、わからんけどできればお前と藤村雪帆のことにも、積極的に踏み込んでいきたいと思っている。それを俺らしくないと言われても仕方ないな。どう考えても水野先輩の影響だ」
 藤村雪帆。
 やっぱりあのとき修一が言おうとしていたのは、藤村さんのことだったんだ。
「藤村さんは、小学校が一緒だっただけだよ……」
「へえ。その藤村さんだけど、生徒会長になってからとんでもないこと企んでいるぞ。そうだ、どうして交際届けはあるのに別れるときには届け出の必要がないのかわかるか?」
「え?」
 どんどん違う話題になっていく。まだ修一自身も考えを整理できていないのか。
「『生徒会が認めた男女は絶対に別れさせないし、もし別れるとしたらそれは生徒会の工作によるもの』だからだよ。ま、水野先輩の受け売りだけどな。要はあの生徒会長、校内のありとあらゆる人間関係を操りたいんだよ。面白くねえ」
「……藤村さんは」
 そんな人じゃないよと言おうとして、口ごもる。
 僕の知る藤村さんは遠い過去のものだ。彼女はすっかり変わってしまったのだ。美しい微笑み以外の何もかもが。
「その反応だと昔は違ったみたいだな。まああんな小学生がいたら怖いけど」
「藤村さんも、変わっちゃったから……」
「そうそう、それが本題だった」
 話がそれたわ、と軽く笑って。
 それから修一は僕の両肩をがしっと掴んだ。
「お前さ、変わったとか変われないとかうだうだ考えてるみたいだけどさ、それって正直どうかと思うよ」
 いきなり真っ向からぶつけられた言葉。
 僕は何も返せない。
「そりゃ人は変わるよ。俺だって変わったよ。昨日までの俺だったらお前にこんな暑苦しいこと言わなかっただろうよ。でもな、変わったからって何なんだよ。それがどうしたんだよ」
「…………」
「だって、お前が今の俺のことを『変わった』って思うんなら、お前は今の俺のことを過去の俺と別人とは考えず、同じ『田所修一』として認識していることになるだろ。俺の言動や性格以外のところにお前の思う『田所修一』があって、ありつづけるんだろ」
 つまりそれって、変わってないってことじゃないか。
 修一は言う。
 それはめちゃくちゃな論法だったけど、何故だか僕の中にすっと入ってきた。
 ――そうか。
 藤村さんは変わった。いろんな意味で、手の届かないような存在になってしまった。でも、一目見て僕は彼女が藤村さんだとわかったんだ。別人とまでは思わなかったんだ。
 夏目さんは昔の僕を変えた。空っぽであることを自覚した僕は、大嫌いな自分のまま変われなくなった。でも、元から僕が僕じゃない人間になれるはずがないんだ。須藤健吾は変わらないんだ。
 疑念が解けたわけでも、自分を好きになれたわけでもないけど。
 それでもすこしだけ、今ここに画材があればいいのに、と思えた。
「たとえば俺が全身整形したとするよ? それでもお前は俺のことを田所修一と認識する、すなわち表面的な特徴の変化と個人としての本質の……ああ、自分でも何言ってるんだかわかんねえ」
「大丈夫、わかったから」
「そうか?」
「うん。ありがとう」
「なら良かった。すまんな変なこと言って。あっ、あと、もし健吾が水野先輩の計画に協力してくれるんなら、俺的にはすごく助かるし、もしかしたらお前の悩みも解決できるんじゃないかって……」
「何それ。頼まれた仕事の話?」
「いや、俺もまだ迷ってるんだ」
 ちょっとした犯罪だし、と修一は声を潜めた。
 
 
 
 先週の土日から晴れが続いて、今朝の空も雲ひとつない快晴だった。梅雨明けかな。自転車通学の私にとってはありがたい。
 水溜りを切るようにして自転車を走らせていると、前方を見覚えのある人物が歩いていた。
「日下部先輩」
「あら、夏目さん」
 私も日下部先輩の隣で自転車を引いて歩くことにする。彼女は生徒会の中でも話しかけやすいほうだ。特進クラスにもいいひとはいるんだ、意地の悪い人ばかりじゃないんだ。そう思わせてくれる。我ながら特進クラスに対してひどいイメージを抱いているなあとも思う。
「近所なんですね。いいなー。今日は鮎川くんと一緒じゃないんですか?」
「コウくんは朝練がありますから……」
 日下部先輩の照れ顔は可愛い。
 先輩には失礼な話だけど、先輩と鮎川くんが本当に付き合うとは予想外だった。そもそもは、全校生徒に示す理想的なカップルとして雪帆に仕立て上げられたロールモデルだったのだ。大人しめの先輩にやんちゃな後輩という取り合わせはぱっと見いかにもラブコメめいているが、日下部先輩はまだしも鮎川くんはやんちゃという表現じゃ済まないだろう。
 鮎川くんと言えば、先週の会合ではこんなことがあった。
 生徒会の通常業務を一通り終えてから、例の案件の処理作業が始まる。人間関係の管理が始まる。全校生徒の人間関係はすべてデータベース化されていて、生徒会室のパソコンに保存されている。パソコンを操作するのが日下部先輩で、交際届けや調査書を確認しては先輩に指示するのが雪帆。書記の私は記録係だ。会計の鮎川くんは、特にやることがない。
 あまりに暇だったからだろうか、彼は脈絡もなく提案した。
「会長さん、そろそろ恋愛関係だけじゃなくて敵対関係の管理も視野に入れない?」
「それは『嫌いな生徒の名前』の項目のことかしら」
「そーそー。全校生徒の嫌いな生徒を特定の個人に集中させたら、みんな幸せになれるだろ?」
「残念だけど、すでに今後の展開は『空白項目を埋めること』に決まっているの。また次の機会にね」
 ……思い返してみると、雪帆の対応にも問題があるような。
 生徒会の会合を繰り返して、雪帆のやろうとしていることはだいたいわかった。だけど、それが良いことなのか、悪いことなのか、私には何とも言えない。『青春』の二文字をそのまま実現したような、すばらしい学園生活。志は立派だ。だけど、手段が正しいのかと問われると、簡単には頷けない。人間関係の管理を、それこそ特定の個人に任せてよいものだろうか?
 それに、どうしてあの子がそんなことをしようとしているのか、それも私にはわからない。
「夏目さん?」
 日下部先輩が横から覗き込んでいた。
「あっすみませんぼーっとしちゃって」慌てて取り繕う私。「えっと、前から訊きたかったんですけど、アンケートのイラストって先輩が描いたんですか?」
 勢いでどうでもいいことを質問してしまった。
 アンケートのイラストというのは、一番下の『何も書くことがなかったら書かないでね!』という注釈に添えられた謎のキャラクターのことだ。猫とも犬ともつかぬ動物を模したそのキャラクターは、可愛らしくはあったが、強いて言えばヘタウマに属すタイプの絵柄だった。明らかに雪帆の趣味ではないから、日下部先輩かなとぼんやり考えていた。
 しかし先輩の返答は違った。
「私は絵の才能がないので……。たしか、会長の友人の瀬々さんだったかと」
「ええっ」
 瀬々重祢の知られざる一面を垣間見てしまった。
 雪帆と会うのは生徒会室くらいのものなので、最近は瀬々重祢と鉢合わせることがなかった。どうやら生徒の身辺調査は彼女の率いるチームが担当しているらしいけれど、詳しいことは聞いていない。教えてもらえない。その辺りも私が不信感を募らせている原因だけど。
 他の生徒は、何とも思っていないのかな。
 管理されていることなんて、気づいてもいないのかな。
「……日下部先輩、もうひとつ訊いてもいいですか?」
「はい。何ですか?」
「先輩は、雪帆の思想に賛成しているんですよね? どうしてですか? 先輩はこれでいいと思っているんですか?」
「そうですね……、ちょっと長くなるかもしれませんが……」
 そう前置きしてから、日下部先輩はゆっくりと話し出す。
「去年前期の生徒会選挙で、選挙管理委員のある先輩に非常にお世話になったんです。私は書記候補で、今期と同じく信任投票だったのですが、いろいろと不慣れなところも多くて……、そんなところをよく助けていただいたんです。彼はただ選挙管理委員としての職務を全うしただけでしょうし、私のことを覚えてくださっているかもわかりませんけれどね」
 でも、と日下部先輩の口調は重くなった。
「無事に書記に任命されてから、まずは要領を掴むために過去の議事録を読もうと思ったのですが、昨年度の議事録を開いて私は驚きました。会合の出席欄に、お世話になった先輩の名前があったからです。それも生徒会としてではなく、ええと……、たとえるなら重要参考人のような扱いでした」
 正しくは、罪人のような扱いだったのではないか。
 何故か私はそう確信した。
「彼がもともと特進クラスの生徒であり、当時の生徒会長の怒りを買ったせいで特進クラスから落とされたことを私は知りました。度重なる校則違反や教師への不敬など、適当な理由付けがなされていましたが、おそらく真実の理由は恋愛沙汰でしょう」
 生徒を特進クラスから落とす。
 雪帆の代ならともかく、この学校の生徒会長にそんな権力があったなんて。
「当時の生徒会長に会いに行って目の前に議事録を突きつけてやれば、もしかしたら何かが覆ったのかもしれません。ですが、そんな勇気はありませんでした。先輩本人が動いていない以上、どうしようもないことだったとも今なら思います。それでも、私は自らの無力さを二重に感じていました。ひとつは憧れの先輩のために行動することができなかったこと。もうひとつは」
 言葉が途切れた。
 日下部先輩は立ち止まり、こちらをちらりと心配そうに見る。
「こんなこと、夏目さんに話していいものでしょうか……」
「私は構いません。続けてください」
「そうですか。……もうひとつは、書記という役職の無力さです」
 先輩の視線の先には正門、そして登校する生徒たち。
「生徒は、生徒会の業務にまったく興味がありません。生徒会関連の掲示物は、教室にあっても誰にも読まれることがありません。夏目さんがせっかく作成してくださっているものを無意味だと切り捨てているようで申し訳ありませんが……でも、そうなのです。先輩が特進クラスから落とされたことは、しっかりと生徒会報のバックナンバーに書かれていました。よく読めば、誰だってその内容がおかしいことにも気づけたはずです」
 私は一年二組の教室を思い浮かべる。
 教室の後ろ、何枚も重なって端が丸まっている掲示物。
 教卓の中やゴミ箱に捨てられた生徒会報。
「誰でもこの学校で何が起きたのかを知ることのできる環境にあったはずなのに、誰もが無関心でした。それどころか、ずいぶん後になってから面白半分に噂を立てる人までいました。『何故だか知らないけれど』、成績に問題はなかったのにも関わらず特進クラスから落ちたらしい、と。ろくに知ろうともせずによく言えたものです」
「だから、生徒を管理しないといけないと思ったんですか?」
「……そうです。ですから私は会長を支持します」
 それはいつもの優しそうな雰囲気のままで、かえって悲しそうにも見えた。
「会長は、すごい人です。任命式の日には既に一年以上前の議事録の内容を、つまり先輩のことを把握していたのです。私からは一言も話してもいないのに、ですよ。会長ほど努力を重ねていて、この学校のために力を注いでいる人を、私は他に考えつきません。夏目さんもそうは思いませんか?」
「ええっと……」
 急に振られて、私は返答に困ってしまう。
 努力している、力を注いでいるという点では日下部先輩に同感だ。雪帆は本気でこの学校を管理しようとしている。近くで見ていて、それははっきりとわかる。
 生徒は生徒会の業務に無関心で、この学校で何が起きているのか知ろうともしないという主張も正しい。現状がそのとおりだから。特進クラスも一般クラスも、今の生徒会を受け入れている。というか、スルーしている。『生徒会に認められたカップルはうまくいく』というジンクスを流行らせたのが他ならぬ生徒会であることにも思い至らない。愚かにも踊らされている。楽しそうに男女でフォークダンスを踊っている。それは彼ら彼女らにとって、輝かしい日常なのだ。
 だけど私は……。
「あれ、一体何でしょうか」
 いつの間にか正門を通り過ぎていた。何やら騒がしい。
 私は俯き気味になっていた頭を上げ、日下部先輩が指差す方向――中央館を見る。
 そして、絶句する。
 北館や体育館、部室棟などに囲まれるようにして建っている小さな真新しい校舎、それが中央館だ。三学年の特進クラスと生徒会室があるところ。藤村雪帆の拠点。
 その中央館の一階の壁が、真っ赤なハートのラクガキだらけだったのだ。
 いや、中央館だけではない。
 北館の一階も。体育館も。部室棟も。
 野次馬と化している生徒が邪魔でここからではよく見えないけど、どの建物にもハートマークがある。
「すみません先輩、先に行きます」
 返事を待たずに私は走り出した。正門脇の駐輪場に自転車を置いてから、中央館に向かう。中央館の周りに人だかりが少ない理由はすぐにわかった。そこに雪帆がいたのだ。たった一人で、じっと立っていた。隣に並ぶことはできなかった。
 ハートマークは近くでみるとずいぶんと大きく、私が両手を広げたくらいのサイズだった。どれも異様に均一で、整った形をしている。作図の跡らしき細い線が残っているものもあったが、わざと後から描き加えたのだろう。現実的に考えれば、マスキングだろう。模造紙か何かでハート型の穴を作っておいて、それを貼りつけた上からスプレーで塗装したのだ。
 気持ち悪いくらい人工的に作られたハート。
 それだけではなかった。
 雪帆の目前で、四匹の黒い大蛇がうねっていた。こちらはマスキングではなく、刷毛や筆で描かれたものだろう。大蛇の中でも一際巨大で、自身の抜け殻を下敷きにしている一匹が、おそらく雪帆。残りは私たちだ。
 そう、これは――。
「諷刺画ね」
 私がすぐ後ろにいることに気づいているのかいないのか、雪帆は微動だにせず呟いた。
「いえ、生徒全体に対するパフォーマンスと言ったほうがいいかしら。啓蒙してるのよ。馬鹿でもわかるように絵に描いて」
「雪帆」やっと隣に立つことができた。
「遅かったわね。鮎川くんは三十分前にはもう来てたのに。やっぱり彼にとってアーチェリー場は神聖な場所なのね、『停学じゃ足らん、腕を折れ』とか物騒なこと言ってたわ」
 その口ぶりから、どうやらアーチェリー場にもハートマークは描かれていたらしいとわかった。
 それに、犯人はこの学校の生徒であると雪帆が睨んでいるということも。
「どう? 私はこういうの全然わからないんだけど、これって上手なのかしら。たしか有紗って、絵を習ってたよね?」
「もうやめたし、こんなもの見せられたって……」
「ふうん」
 そのとき「か、会長!」と悲鳴のような声があがった。四匹の黒蛇と私たちを割るようにして日下部先輩が駆け込んでくる。息も絶え絶えの様子だけど、何だろう、それとは別の理由で青い顔をしているような。
「どうしたの」
「い、今、生徒会室の前で、『僕がやった』と……」
「水野先輩ね」
「えっ。……はい。そうです……」
 応えてから、がっくりとうなだれる日下部先輩。
 そんな先輩には目もくれず、雪帆はまたあの微笑みを浮かべる。
「共犯者が気になるけれど……、まあ、美術部員を調べるのは後回しね。私は水野先輩と軽くお話して一旦出直してもらってくるから、日下部先輩はしっかり鮎川くんを見張っておいて。――あと、昼休みは臨時会合だから」
 それだけ言い残して、雪帆は去っていった。
 日下部先輩もいなくなって、私は独りきりになる。
 タイミングを図ったかのように、始業五分前の鐘が鳴った。さっさと教室に行かなくては。そう思ったのは授業が始まるからではない。久しぶりに、あのときの怒りが蘇ってきた。果たして休み時間まで抑えていられるだろうか。
 あの四匹の黒蛇。
 あれは須藤健吾が描いたものだ。私の目は誤魔化されない。
 許さない。
 あいつがこんな絵を描くなんて、絶対に許さない。
 だってあいつは。
 ――地元の子が全コンで入賞したって新聞に載っててさ。しかも同じ中三なんだって。すごいよね、尊敬しちゃうよ。で、入賞した作品が自画像だって書いてあったから、僕も自画像初挑戦してみようかなー、なんて。
 あいつは、雪奈の夢を受け継いだんだ。
 雪奈が私に託すと言った、雪奈の夢を。
 私が捨てた雪奈の夢を。捨てることしかできなかった雪奈の夢を。
 あいつは、軽々と受け継ぎやがったんだ。
 許さない。
 絶対に許さない。
(担当:17+1)
 
 
 
次回担当は雪緒さんです。
よろしくお願いします。