『幽霊文字』渋江照彦

サークル誌『林檎』のお試し版として、渋江照彦『幽霊文字』を掲載します(この作品自体は『林檎』には収録されていません)。
お題となる専門用語もまた『幽霊文字』です。
(作者にとって)未知の専門用語から、一体どのような作品ができるのか。
お楽しみください。
  

幽霊文字(お題「幽霊文字」) 渋江照彦

「今日は、幽霊文字という物を見せてやろう」
 文化史学科の瀬能教授はそう言うと、私に意味深な笑みを浮かべた。
「幽霊文字ですか?」
 内心また教授が変てこな物を発見したのかと思いつつ、私は興味半分世辞半分で尋ねた。
「ああ、そうだ。平安時代の文字なんだがね、何でも幽霊が書いたという曰くつきの物なんだよ」
 これなんだがね、と言いながら教授が見せてくれたのは、文字とも何とも言えない様な物が写されている写真だった。私は一応平安時代を専攻しているので、ある程度その時代の崩し字は読める自信があったのだが、その文字は全く今までに読んできたどの様な文書の崩し方にも似ていなかった。一瞬、文字が余りにも下手糞なのかとも思ったのだが、途端に瀬能教授が私の心中を見透かしたかの様にコホンと咳を一つした。
「言っておくが、それは崩し字が下手という訳じゃ無いんだ。幽霊文字は今までに五点見つかっているんだが、どれも全く同じ文字の形をしていた。要は、それが崩し字では無く基本形である、または崩してはあるが一般的な崩し字である事が推測できる訳さ」
「はあ……」
 私は聊かの困惑を込めてその文字を見やった。しかし、何度見つめても一文字も読めない。そもそも、平仮名なのだろうか?年代はどのくらいかと瀬能教授に尋ねると、全く判別出来ないとの返事だった。
「まあ、紙の種類と古文書学的な書式から推察してみれば平安時代初期から中期だと思われるけどね。何せ、年号と思われる個所の文字が全く判らないからね……」
 瀬能教授は笑みを崩さないままに、自分で沸かしたコーヒーを美味しそうに啜った。
 それからも暫くの間、解読を試みようとあらゆる知識を総動員してみたのだが、やはり全く判らなかった。だが、逆に判らないからこそ好奇心が増してしまうというのも事実だった。というよりも、悔しい。
「どうだね、その文字、ちょっと興味が湧かないかな?」
 瀬能教授が横からそう尋ねて来た。多分、教授は私がこの文字に興味を示すだろうと考えてこの写真を見せたのだろう。だとすれば何とも白々しいセリフである。なので、私は何も答えずに教授が次に何を言うのかを待った。私が何も言わないでいると、瀬能教授はフッとため息を漏らした。
「まあ、興味が湧かないなら別に良いんだけどね……。折角数少ない幽霊文字の写本を一つ託そうと思っていたのに……」
 その言葉に、私は直ぐに飛びついた。瀬能教授は現金な奴だなと苦笑しながらも、最初から用意してあったのであろう幽霊文字の原本を私に預けた。それは巻物状になった物で、太さ的にそれ程でも無かったが、今までに見た事も無いような文字を自分一人だけでじっくりと眺めて研究できるという事に浮足立っていたので、別に不満では無かった。
        ・
 午後七時頃にアパートの八畳間に帰ると、私は早速ゴチャゴチャになっていた書類や研究書の類を机の上から一掃して、瀬能教授から貰って来た幽霊文字の写本をその上にそっと置いた。直においても大丈夫なのだろうかと思ったので、帰りに新しく買ってきた敷物を机の上に掛けてその上に広げた。
 写本自体は、最近になってやっと完成した物なのだそうで、墨もかなり真新しく、その点は少しばかり興ざめしたが、今までに掻き立てられていた好奇心を一掃する程の物では無かった。
 早速一文ずつもう一度確認して行くが、やはり何が書いてあるのかは判らない。唯、みせけちの様な物は確認出来たので、古文書的な規律には従っているらしい事は判った。行数は全部で二十三行あった。その内、恐らく日付や署名の欄であろうと思われる部分を削除して考えると、本文は全部で十四行。それだけは一応分かったのだが、さてそれ以上の事になると全く判らない。まず、日付の部分をもう一度平安時代の年号を辞書を引き引き確認して行ったのだが、さっぱり崩し字に該当すると思われる文字には行き当たらない。もしや鏡文字にでもなっているのかと馬鹿な妄想を浮かべて手鏡で一文字ずつ確認していったのだが、最初から奇妙な形をしている文字列に更なる怪奇趣味を加えるだけに終わった。
 瀬能教授は幽霊が書いたという噂があるのだと言っていたが、確かにこの様な変てこな文字が書かれていたらそう思いたくもなる。そうやって暫くの間文字をこねくり回してああでもないこうでもないとやっていたのだが、フッと今時間はどの位だろうと思い、何気なく壁に掛けてある時計を見つめて目を疑った。
 時計は丁度午前一時を少し過ぎた所だった。自分は確か午後七時ごろに家に帰ってから直ぐにこの幽霊文字を見つめていた筈なのだが、六時間も時間が経過しているとはとても信じられなかった。幾ら集中していたとしても、そんな時間経過に気づかぬ訳が無い様に思われた。
 そこで少しばかり薄気味悪くなって、慌てて立ち上がると尿意を催した。そこでトイレへ行こうとしたのだが、扉の方へ目を転じて身体が固まってしまった。
 扉は入って来た時に確かに閉めていた筈なのだが、今は開いていた。そして、薄暗い何の明かりも灯っていない短い廊下の奥、丁度玄関の当たりに何かが浮かんでいるのが見えたのだ。薄桜色をしたソレは、良く目を凝らして見ると和服だった。更に目を細めて見れば、どうやら和服を着た女性が首を吊っているらしいのだ。
 明りは何一つ点いていないその中で、薄桜色の和服がやけに鮮やかに目についた。
 私は身体が固まったまま、その和服をジッと見つめていたのだが、その内に扉がゆっくりギギギと音を立てて閉まり始めた。まるで鋼鉄の扉を無理やり閉めている様な音だった。
 そして、扉が全て閉まった途端に、玄関の方から女性の断末魔の様な叫び声が聞こえて身体の自由が利くようになった。同時に、私は背後に何かの気配を感じた。先ほどまで全く感じなかった何とも言えない香りが部屋に充満していた。目の前には、閉まってしまった扉が見える。勿論、身体は自由に動かせる。しかし、今動いたら致命的に不味い状態になる事が本能的に理解出来たので、私はそのままの姿勢で目を瞑った。背後の気配は中々消えてくれなかった。そうして、段々と私の意識は薄くなって行った……。
          ・
 次に私が気づいた時には、日は既に高々と上がっていた。どうやら部屋の中で倒れたまま寝てしまっていたらしい。
 私は何も考えずに机の上にある写本を引っ掴むと、碌に用意もせずに瀬能教授の元へと向かった。
 幸い、教授は研究室に居た。私は笑みを浮かべている教授へ無言で写本を返した。しかし、教授は別段驚いたという素振りも見せなかった。
「やっぱり、何かあったかい?」
 ただ一言、そう尋ねただけだった。しかし、私は全てを話すのが億劫だったのでコクリと頷くだけだった。その時、私の脳裏には内裏に存在していたという大きな桜の木に関するとある貴族の日記の記述が浮かんでいた。何でも、其処では良く女房などが首を吊って果てていたらしく、「首吊りの桜」という名称で呼ばれていたらしい。そして、私にはこの幽霊文字の出所が何処なのか大体の見当がついていた。瀬能教授にとっては調査前の厄除けの積りだったのだろうが、こちらとしては良い迷惑だ。
「教授、この文字はもしかして内裏から発掘されたのですか?」
 私は最後にそう尋ねた。
「さあ、ご想像にお任せするよ」
 瀬能教授のはぐらかした様な返答が全てを語っていたので、私は一応満足した。
 そのまま私は教授に別れを告げてフラフラと研究室を出た。
 研究室の扉を開けた瞬間に、部屋で嗅いだのと全く同じ香りが幽かにしたが、疲れていたので気にしない事にした。
 
 
 

【用語解説】幽霊文字(情報工学
JIS基本漢字に含まれるのにもかかわらず、典拠不明である文字の総称。「壥」や「墸」、「彁」など。このようにコンピュータ上で表示させることはできるが、意味も読みも用例も不明である。