夜曲「Fall down」 第二話  夕坂貞史・作

「私はですね……売れなくていいじゃなくて、売れたくないんです」
『え……………………!?』
 ぞくり、とした。
 僕は、スピーカーは、何も考えていなさそうな笑みを浮かべているだろうと勝手にあたりをつけていた相手、彼女を凝視した。
 しかし、闇から流れ落ちたような漆黒のレコードプレーヤーは、その細やかな細工に彩られた銀色の縁でもって僕の視線を跳ね返す。それは、どうやら見透かすどころか、こちらがその奥から見透かされているような錯覚を生み出した。
 さっきまでのセレンとは、違う。
 真っ先に振動面を突き抜けた、この衝撃を強いて言い表すならば、得体の知れない恐怖だ。理屈ではない、無機物にあるまじき本能が、レコードプレーヤーたるセレナード・リートを畏怖している。
 スピーカーである僕には呼吸の必要などないが、上手に息ができない。
『な、なんで、そう、思うんだ?』
 一個一個の言葉を区切って、ようやくそれだけ言葉にすると、これ以上は動けないほどの倦怠感が僕を包み込んでいた。
 僕が浮かしかけた体を展示棚の薄布の上に落ち着けると、セレンはなんてこともないように理由をのたまった。
「そんなの決まってるじゃないですか、ナンセンスだからですよ」
 真面目な響きはそのままに、セレンはその存在を少し緩めた。
 少しだけ、さっきのような緩い空気が流れ始めた。
 それにしても、ナンセンス? いったい何が。
「何が、ですか? ふふふ、だって私はレコードプレーヤーとして残り神の生を受けたんですよ?」
 何が言いたいのかわからなかった。レコードプレーヤーだからなんだというのか。残り神になったからなんだというのか。
 関係ない。僕の前には、関係ない。
『だから、誰かの手に渡って使ってもらうのが幸せだと思うんだけど』
「お馬鹿さんですね。せっかく誰かにこの音を聞いてもらえるのに、それを幸せに感じる自分がいなくなっちゃったら全然意味がないじゃないですか」
『おい、姫さん。人が……いや、物が悪い……これも表現としては変か。えっと、あれだ。性格が悪いぞ』
 レンジの声は耳に入らない。僕は、セレンの声に少し唖然とした。
 確かに、残り神はその姿を留めなくなるか主を得るかによってその意思を喪失する。これが残り神の事実上の、死だ。
 でも、しょうがない。そもそも、僕らは存在しないはずなのだから。居てはいけないとまでは言わない。ただ、僕らは超常。常ならざるものだ。
 どう考えたって、僕はセレンの考えに賛同しかねた。
 僕の考えの全てを一言に集積させる。
『僕は、そうは思わない』
「でしょうね」
 だというのに、セレンのそのどこか躱したような物言いに、少しばかり腹が立った。
 食って掛かろうとした、そこへ冷蔵庫とアイロンが入ってくる。
『まあ、君たちもそこまでにしたまえ。主義主張の話なのだからいつまでたっても平行線だ』
『そーそー、答なんてありゃしないでしょうに』
 二人の言うことは正しい。放ちかけた言葉を、僕は配線の奥に仕舞い込み押し黙った。
 僕たち以外の残り神の話し声や街中から聞こえる喧騒は遠く聞こえる。小さなこの身体にはいささか広く感じられるデパートの五階は、よく音を通した。
「これは、個人的な話ですけど……」
セレンが呟く。
「目的を果たそうとしてとった行動で、目的を果たそうとした自分が居なくなってしまうなんて、滑稽な話でしょう。……だから、これは呪いだと思うんです。道具以上のことを望んだ私への罰なんだって」
 もう終わった話題のつもりだったのに、セレンは言う。とはいえ、最後に自分の問題という小規模にまでスケールを落としているため、文句もつけづらい。
 やはり、最古参。卑怯だとは思うものの、それだけの貫録はここにあった。僕は見落としていたのだと痛感した。
 窓から降り注ぐ月明かりが床を反射してセレンに差す。
 銀の縁は青くきらめく。漆黒の顔は笑わない。けど、少しだけ切なげで、さっきは恐怖すら感じていた相手だというのに、不相応にも守ってあげたいとすら思ってしまった。
 って、あれ? 守る? 何から?
 いったい、僕はどうしたんだ。
 回路が激しくクロックし始める。
 そんな自分ですらわからなくなりつつある心境のまま、僕は音を生み出す。
『僕は……』
『! ……みんな、何か聞こえる?』
 被った。スマートフォンが小さく緊張感に満ちた声で叫ぶ。
『ふむ、予定よりずいぶんと早いようだが……』
『こんな時に限って時間をずらしてくるなんて、あたしたちの話って聞かれるはずないわよね?』
『え、何事なの?』
 僕には何が起きているのかわからない。さっき自分が何かを言いかけたことも忘れて誰へともなく問いかけた。それに答えたのはレンジだった。
『警備員、だろうな』
「でしょうね。でも、決行は今日です。それは変わりません」
『警備員? だったら元の位置に戻らないと! それに決行って、何を!?』
 僕はほとんど喚いていた。そんな僕を、新参者の僕を、セレンは慈しむように見据えて言う。
「……コンサート、ですよ」
 なんだって?
『警備員が来てるんだよ! どうしてコンサートを……』
「何を当たり前のことを聞いているんですか? “聞く人がいるから”歌うんですよ」
『見つかったら大変なことになるじゃないか!』
 僕は叫んだ。人に見つからないようにするのは残り神にとって重要なルールだ。最低限の常識の一つだ。
 しかし、セレンは動じない。すべてを見透かしたような表情。さっきと同じだ。自己紹介したときとは真剣味が違う。
 僕は身構えることしかできない。そこへ最大級の爆弾が投下された。
「ええ、だからというのもあります。最後の思い出作りっていうやつです」
 一瞬、頭が真っ白になった。
 どうして僕は、どうしてセレンは。
 いや、そんなことより最後って一体?
『さて、そろそろこっちの声で話さないといけませんね。では、みなさんお願いします』
 僕を置いてセレンはみんなに指示を出す。それを受けて、みんなは散開する。
 新入りの僕だけが知らなかった計画。僕はただ見ていることしかできない。
 もともとのコーナーが比較的入り口に近い冷蔵庫の上へセレンは登っていく。
 酷く嫌な予感しかしない。
 小さくなっていくその背中に向けて問う。
『ねえ、一つだけ聞かせてよ』
『どうしました?』
『最後ってどういうこと?』
『……どんなものでも寿命があるっていうことです』
『……僕にはわからないよ』
 泣きそうな僕を包み込むような漆黒。すべてを飲み込む漆黒。セレンは微笑んで言った。
『今はそれでいいんですよ』
 懐中電灯の光はまだ遠い。
『話は済んだかい。もう行かせていただきたいのだが』
 冷蔵庫の低い声が間に入る。それにセレンが答える。
『ええ、だいじょう――』
『僕も行く』
 それを僕は遮った。
『僕は新参者で、今夜知り合ったばかりで、この計画がどういうものなのか全く知らないよ。でも、最後まで見届けたい』
『しかし……』
 僕の発言に冷蔵庫は渋る。けれど、セレンは躊躇なく快諾した。
『いいですよ。これも何かの縁でしょうし、これでもしお別れだったとしても後味悪いですからね』
 僕たち以外誰一人、いや、誰一つとしてただの道具のように静まった中、持ち場を離れる背徳感。異様な夜は坂道を下り始めた。

To be continued.