何も無かったらかかないでね!その11

 藤村雪帆にとっては水野雅臣の行動など大した痛手ではなかった。羊の群れの番犬をしているわけではないのだから、その中にごくまれに羊でない何かが混ざり込んでいたとしても予想通りでしかない。しかし、だ。
 「意外でしたね」
 瀬々重祢の言葉に雪帆はキーを叩く手を止めた。雪帆の隣の机に腰掛けた彼女は、真っ赤なハートを見据えていた。彼女を見た時に偶然見てしまった人工的なひどく癇に障るそれから、雪帆は目を逸らした。授業中の為か、そもそも授業などやれる状況ではないが、校舎内は静まり返っている。その中で重祢は再び口を開いた。
 「須藤健吾まで水野雅臣に同調するとは」
 「有紗から何か聞いた?」
 重祢は首を横に振った。聞かずとも生徒の身辺調査をくまなくしている彼女が知らないわけがない。自らの愚問に苦笑して、打ち終わった資料を印刷した。授業後に行われるはずだった会合用の資料と臨時会合の資料と、明日配る水野雅臣の処分に関する生徒会報。重祢が一部を受け取り、儀礼的に目を通す。生徒会報に真実はいらない、どうせ読まれることなくゴミ箱に運ばれるのだから。誰も真実なんて求めていないのだから。
 「出頭した水野以外の処分は如何しましょう」
 「水野先輩だけでいいわ、今は」
 「今は、ですね」
 重祢は微かに眉を寄せた。それに気付いた雪帆は付け足した。元々体育会系の要素を持つ重祢はどうもこうしたことに関しては熱くなりやすい。気づいて適度に抜いてやらなければ暴走しかねない。その点では鮎川浩紀と同じである。が、彼女は雪帆に裏切り行為をすることは一生ないであろうという、一種忠犬めいた異常な忠誠心がある。故に彼女を愛おしく思い、友人として接している。
 「だって証拠を突きつけたってあんな毒にも薬にもならないような一般男子生徒を裁いたとしても面倒しか起こらないもの。人間関係を管理して、『青春』を絵に描いたような学園生活を実現する。水野先輩はそれと相容れなかった可哀相な脱落者」
 「それが私達と、私達の目的の為に力を貸してくださった方々の為です。それは重々承知していますが」
重祢は暫し考えているようであった。が、やがてあなたにお任せすることにしますと肩を竦めて笑う。雪帆は彼女の反応に満足して微笑んだ。

 
 夏目有紗は苛立ちのまま水野雅臣を見下ろしていた。
 「そうやって睨まれ、見下ろされるのはあまり気持ちがいいものではないね」
 制服の詰襟までホックをきちんと止めるような、真面目過ぎる水野が授業をさぼるなんておそらく彼が生きてきた約十五年間の中で初めてではないかと思う。そして後輩の自分にここまで敵意全開の目を向けられるのも。
 「座らない?せっかく授業をさぼったんだ。まぁ、屋上が汚いから座りたくないっていうなら…」
 「聞きたいことがあります」
 「だろうね。夏目さんが今生徒会役員か一個人として僕の目の前に来ているのか、それ次第で答える内容は変わると思うよ」
 有紗は舌打ちしたくなった。雪帆がどのような処分を下すのか、今日の昼の集会で決定するだろうがはっきり言って有紗には目下の疑問以上の何物も対して興味がわかない。特進クラスで二年も過ごした人間が自分の単純な考え方を想像することができないはずがない。あえて、それも確認と牽制のつもりで、だろう。
 「あのハートはマスキングですよね。模造紙か何かでハート型の穴を作っておいて、それを貼りつけた上からスプレーで塗装した。それなら早く来れば一人でできなくもないですね」
 「そうだね」
 「でも、黒い蛇は違います。水野先輩の絵じゃない」
 水野は貼り付けた笑みでなぜそんな風に思うんだい、と言わんばかりに首を傾げた。
 「須藤健吾、ですよね」
 あいつの絵だけは、有紗は間違えない。雪奈が託してくれた絵の夢を、有紗が捨ててしまった夢を受け継いだというのにその絵をあんなことのために使った。有紗はとっくに才能に見切りをつけていた、だから軽々と受け継いだあいつが羨ましくてけれどどこかで雪奈の夢に自分の夢も重ねて託した。空っぽだと言ったのは言い過ぎだとは思っていない。気づいて、その空っぽの中身を生める方法を考えてほしかった。ただそれだけなのだ。
 「やれやれ、藤村君以外にこんな伏兵がいたなんてね」
 水野は肩を竦めてから、まぁいいかと呟いた。
 有紗はその言葉の意味がわかっていた。雪帆は須藤健吾にもその友人の田所修一にも一切の処分を与えるつもりはないのだ。彼女は現生徒会にとって目の上の瘤になりつつある水野雅臣を都合よく処分することだ。それに有紗の主張は単なる勘と言われてしまえばそれまでで、水野雅臣が雪帆の前でその件について認めて漸く成立する危ういものだった。
 「須藤君の絵はどうだい」
 「どうして、そんなことを聞くんですか」
 「散々君のことを気にしていたからね。少しは変われたかなってね」
 「関係ないです」
 水野はそうかと笑った。有紗はとりあえず何に対するものか分からないが礼を言ってその場を立ち去った。


散々引き伸ばしてこのクオリティ。本当にすみません。水の先輩の口調謎だ…。
有紗の件をちゃんと回収できたかわかりませんが次の方、よろしくお願いします。