『Acta Est Fabula』 エンディミオン

 いつからだろう。世界がこの、名も無き病に蝕まれ始めたのは。
 気付く間もなかった。まるで季節が変わる時の様に至ってさり気なく、それでいて確実に、病は世界を侵食していった。変化を感じる者が出始めた頃には既に遅かった。もうこの世界は、決まりきった物語を辿るだけ。運命の読み手を演じる事しか出来なくなっていた。


 一ヶ月ほど前。私が最初の異変を感じたのは、学校に行く前の早朝、テレビのニュースを見ていた時だった。日々の退屈なニュースが頭を通り抜けていく中で、一つだけ私の脳裏に焼きついたニュースがあった。
 都内に住む高校生が自宅マンションの屋上から飛び降りて自殺した。落ちた先――マンションの裏側は川になっていたらしく、その時はまだ息があったようだが、翌日溺死体となって下流で発見された。享年18であった。
 それ自体は、何の変哲もない日常の一部だった。年齢から鑑みれば、受験の苦労に耐えかねて、などと適当な理由を付ける事も出来る。理不尽な世の中に疲れた高校生が己を憐れんで自殺した。どこにでもあって、それでいて少々ショッキングな出来事。いかにもマスコミが飛び付きそうな代物だ。ニュースを見た私も最初はそう思っていた。
 しかしニュースはそれで終わりではなかった。原稿を読み上げるアナウンサーとそれを聞く解説者が困惑の渦に巻き込まれていく、その様子が手に取る様に理解できた。もちろん私も例外ではなく。画面から聞こえてくる異変の足音にただ、奇異の目線を向ける事しか出来なかった。
 ――そのマンションでは以前にも自殺があったため、屋上に一台の監視カメラが設置されていた。常時誰かが監視しているというわけではなく、録画のみをするもの。「抑止力」というやつだ。今回の事件でその神話は見事に崩壊したわけだが、それはともかく、そのいたずらな瞳は彼の三途への道程も確かにとらえていたのだった。映像は結局流されなかったが、「流せない」と言った方が適切なのかもしれない。活字におこされた彼の行動は奇々怪々、まさに狂気と呼ぶにふさわしいものであった。

 屋上の扉を勢いよく開きやってきた彼は、両腕を天に向かって伸ばし何かしら訳の分からない事を叫んで、その直後うつぶせに倒れ込んだ。五分程の沈黙。その後ふいに仰向けに反転したかと思うと、何を血迷ったのか、背中の方から何者かに引きずられるかのように屋上の縁へと自ら近づいていった。さながら悪魔によって地獄へ引き込まれてゆくように。気味が悪い。一方、映像からは彼が抵抗しているようには見えなかったらしい。ただじっと、己の拳を見つめ続けていたとか。酷くトーンの低い近隣住民の声は余韻となってやけに長く私にしがみつき続けた。発見された時、彼の口角はつり上がり不気味にうすら笑いを浮かべているようにも見えたという。
気味が悪い。だが。
 日常に突如として出現した異変。そして私も渇き切った現代人の一人に他ならなかったのだ。同じ日、学校から帰ってきた私は部屋にこもり、ラップトップのディスプレイと睨み合いを始めた。まだ報道からそれほど時間は経っていないはずだが、さすが情報社会と言ったところか。その時既に「彼」はネット上で恭しく祀られていた。彼について書かれたスレッドが乱立し、いつも通り混沌が渦を巻く某有名電子掲示板サイトでは、しかしその注目は「二つの疑問」に集中していた。これはダメだろと言いたくなるような、一方で不謹慎と知りつつもクスリときてしまうようなタイトルのスレッド。その冒頭から、人々の注目を集める疑問の一点目――どこから流出したのだろう。彼の遺書らしきものがおそらく全文、掲載されていた。

あぁ神よ、私の神よ。そこにいらっしゃったんですね。雑踏の中、いつも俯いていたのにも関わらず私は気付けませんでした。どうかお許しください。しかし懸命である神は以前よりご存じだったことでしょう。その通りです。天を仰ぐ彼らに、私は疑念を抱いていました。いつか神のお怒りに触れるのではないかと恐れていました。果たしてその時がやってきたようです。どうか、どうか私の魂だけは御救いください。生贄としてこの身体を捧げ、今まさに神の身元に参りますから。あぁ私の神よ。混沌に沈むこの世界から、どうか私を御救いください。

 厨二病、という言葉がスレッドに氾濫していた。同感だ。だがそれは彼の最期からは切り離された感想であって、実際に彼が彼の神のもとへ旅立った事を考えればもっと深刻なはずだ。どうかしている。世の中は確かに「混沌に沈」んでいるかもしれないが、彼の精神世界と比べればずっと平穏なのではないか。私だったらたとえ世界に絶望したとしても、彼の言う「神」のもとへ行こうなどとは考えないと思う。そもそも仮に神が存在するとしても、彼の言葉通り全知全能なら、こんな不誠実な事を言っている私を助けようとは思わないに違いない。
 そして疑問の二点目も同じスレッドで解消されていた。映像はあげられた後削除されていたものの、スクリーンショットが何枚か残されていた。
 画像は青年が仰向けになったところから始まっており、画面を下に送っていくごとに建物の縁へと近づいてゆく。さながら連続写真のようだ。目を凝らしてみても、紐などで引っ張られているようには見えなかったし、ましてや他の誰かが映りこむこともなかった。朝のニュースは極めて正確だったようだ。ただ、ニュースを見た時には知り得なかった事が一つだけ分かった。彼は落下せんとするまさにその瞬間にも、ある言葉を叫んでいたのである。最後の画像。彼が落ちる瞬間を記録した画像の端に、赤い文字で上からその文字が書き残されていた。
Acta est fabula!」
 物語は終わった。ローマ帝国初代皇帝、アウグストゥスが臨終の際に遺したとされる言葉。それ以上の事は知らない。だがこれだけは分かる。彼はやはりどうかしていたらしい。少なくとも一高校生が、比較的常識がある方だと自負している高校生が「どうかしていた」と思う程には、どうかしていたのだろう。物語は終わった。アウグストゥス本人はともかく、彼の短すぎる人生を締めくくる言葉がそんなもので良かったのだろうか。電源を落とした黒い画面に神妙な面持ちの顔が映っている事に気付いて、私は首を横に振った。
 ちょうどその時、母親が夕食の完成を伝えに部屋へやってきた。「うん」といつも通り返事をして私は、ラップトップを二つに折りたたんだ。
 
 * * *
 
 日常が戻りつつある金曜日だった。その日私は学校の帰りに、授業で使うルーズリーフを買うため、駅前の文房具屋に立ち寄っていた。いつも使っているものを早々に選び会計を済ませると、店の床に薄紅色の光が何筋か走っていた。出入り口のガラス越しに見上げる。薄い雲の切れ目から夕空が光を放っている。綺麗だった。
 手を引かれたような心地がして扉を開くと、聞こえるのは場違いな高音のリズム。おかしくてふっと微笑むと、夕暮れはやはり私を薄紅色に染めている。立ち止まって溜息をつかせる程に、その時の空は印象的な美しさを連れていた。きっと明日は晴れるのだろう。
「何だあれ?」
「うわ、マジかよ」
 日常が再び姿を消したのはその時だった。前触れという言葉は嘘だったのだろうか。何も、気づく限りでは何も起きていない。要するに気付けなかったのだ。あるいはやはり何も起きておらず、それが前触れだったのかもしれない。人だかりができている。突如として目の前に現れた非日常に、自分の中で恐怖ともう一つの何かが生まれるのを感じた。
 見上げた先には人の影があった。横から見ているのだという事は分かるが、逆光でその表情は確認出来ない。けれど状況は私に全てを教えてくれた。それは非日常だと。気を付けろ。さもないと――。その後の言葉は掻き消えてしまった。ビルの上に伸びる人影が、ゆらりと不敵に揺れる。
 消防とか、警察には連絡したのだろうか。そんな考えがふと浮かんで、自分がその場に立ち尽くしていた事に気が付いた。右、左と視点を動かすと、随分冷静に空を見上げる男が目に入る。私は小走りで彼に駆け寄った。
「あの。通報は、もう?」
「すごい……」
 すごい?
 意味が分からなかった。疑問が浮かびすぎて言葉が出ない。この男はいったい何を言っているのか。つまり彼は、そういう事なのだろうか。しかし冷静さが帰ってくると、その考えもまた間違っている事を私は知った。落ち着きを取り戻した聴覚が、己を疑うような言葉をふいに捉えていた。
 オォ、カミヨ――
 はっとして振り返ると、私はいつの間にか取り囲まれていた。そして気付かされた。ここに集う者は誰しも皆諸手を天に広げ、彼ではなく、その先を見つめている。
 
 おぉ、神よ
 遂にいらっしゃった
 どれだけ待ち焦がれたことか、この時が来るのを
 我々を救いたまえ
 我々を導きたまえ
 そして彼らに審判を
 あなたを冒涜し、汚す者たちに
 永遠の闇を
 
 私は全速力でそこから逃げ出していた。胸の奥で警告音が大音量で響き渡っている。どうかしていたのは私の方だ。なぜあんな狂った場所に居続ける事が出来たのか。なぜすぐに逃げ出さなかったのか。悪寒が大量の汗を額から吹き出させる。
 後ろからわっと歓声が上がり。私は振り返る。
 時間が逆戻りする。
 永遠の闇を
 彼らに審判を
 我々を救いたまえ
 すごい……
 うわ、マジかよ
 薄紅色の光が何筋か
 Acta est fabula
 もはや非日常という言葉さえかすむ狂気の渦が、閉ざされた世界を舐りまわる。
「おぉ!」
 歓声と共に夕闇にかすんでいた人影がゆらり。いっそう大きく揺れた、けれど。自分の目が見開かれてゆくのを、口元が緩んでゆくのを感じる。影は振れ戻らない。ブックエンドを失ったむき出しの本が、ゆらり、ゆっくり傾くかのように。ゆらり。人の針が5を刻む。それがどの針を表しているのかは明白だった。
 時間の流れが急速に早まっていく。否、ただ元に戻っただけか。いずれにしても目を背ける時間などどこにもなかった。歓声の中から別の声が聞こえた気もするが、正直よく覚えていない。

 それからどうやって家に帰ったのだろう。後に駆け付けた警察から話を聞かれたりしなかったのだろうか。思い出せない。記憶の中で鮮明に焼き付いて離れないのはただ、あの恐ろしい光景。腕を伸ばす人々。あの時と同じ言葉。
Acta est fabula!」
 
 * * *
 
「それで、話って?」
 月曜日の放課後、静まりかえった教室。綺麗な夕日が射し込んでいる。寒気を感じてしまった。金曜日以来、夕日に限らず、赤色系の光を反射するもの全てに恐怖を覚えるようになってしまった。薄紅色の夕空の中でよりいっそう映える赤が焼き付いて離れない。初めて見た人の死は、思っていたよりもずっと生々しくて、凄惨だった。特にあの、狂気の衆と諸共に地面に叩きつけられる様は、まさに地獄を見ているようで――
「大丈夫?」
「え?」
 顔色悪いよ。目の前で少し屈み気味に私の顔をのぞき込む親友は、眉間に皺を寄せながらそう言った。透き通った瞳の向こうに、強ばった女の顔が移っている。そう、みたいだね。言葉には出なかったけれど、瞳の中の彼女は確かにそう言っていた。
「大丈夫。それより、さ――」
 やはりこんな事に意味があるとは思えない。思えない、けれど。昨日までは、誰かに相談するのはどうかと提案する自分を否定的に見つめていた。そんな事をして何になる。答えなど得られるはずがない。けれど朝、登校して彼女の顔を見たら、独りでに弱音がこぼれ出ていた。放課後、時間空いてる? ちょっと話があるんだけど。表情を失った親友を心配してくれたのだろうか。今と同じように私の顔をのぞき込んだ彼女は、何か言葉をかけようとして、しかしそれを飲み込んでくれた。分かった。じゃあ放課後、私の教室に来て。ほっとするの同時に、随分長い間緊張の糸が張り続けていた事に気付かされた。
「最近、ちょっと変じゃない?」
「変って、何が?」
 焦れったい、どうして分からないの。叫び出したい気持ちがふつふつと胸の奥から沸き上がってくる。けれど彼女が見つめているのはあくまでも私の顔。その先に思い当たるものは本当にないようだった。
 そうだ、彼女を責めてもしょうがない。それこそ意味がないじゃないか。落ち着こう。ゆっくりで良い。そもそも、彼女に思い当たる節が無くても不思議ではない。最初の自殺は都内で起きたものだったから大々的に報道されたが、私が見た狂気は結局のところ、休みの間に周知される事はなかった。もちろん近隣の主婦達の語り草になった事は確かだが、里沙が二足の草鞋を履いていない事もまた疑いようがない。何だか奇妙な気分だった。事態を冷静に見つめる自分が心の中に立っていて、しかし見つめる先では恐怖の中に沈み込みそうになる自分が必死に足掻いていて。
「これ知ってるでしょ?」
 あぁ、これね。差し出された携帯の画面を見た彼女は小さく二回程頷いて、もう一度私の顔を見た。それで? その表情は私に問いかけていた。恐怖を浮かべる私とは対照的に、未だ好奇心が垣間見える。
「実はこの前、これとすごくよく似た事件を駅前で見たんだけど……」
「うん」
「何か変、なんだよね。事件自体もそうだし、何て言うか、周りまで」
 しかし彼女は首を傾げるだけだった。今度こそ私の中でリミッターが外れる。
「何で分かんないの? 変なんだって! 自殺した人も見てる人も、みんな変。異常だよ。どうかしてる!」
「だから、何が変なの?」
「『Acta est fabula』! 死んだ人が言ってた。それに、見てる人はみんな――」
「神様に、祈ってた?」
「え――?」
 どうして、知ってるの? 知らないような素振りを見せていたのはなぜ? それに知ってるなら最初から分かったはず。私が何に怯えているのか、私が何を言おうとしているのか。
 けれど今思えば、間違っていたのは私の方だったのだろう。私達のやりとりは、最初から噛み合うはずのないものだった。そのやりとりの中で理解など得られるべくもない。私は独り目をつぶりながら、進む見込みのないままに走り続けていたのだ。――知らない土地の上を。
「あれ? 私いま、何を?」
「え?」
「何か、考え事してたみたいで覚えてなくって」

 あれぇ? おかしいなぁ。彼女は困ったようにへへっと笑ってみせた。私には分からない。その笑顔がどんな意味を持つものなのか。あるいは、彼女がどちらの人間なのか。
「聞いてる?」
 もはや里沙の言葉は耳に届かなかった。彼女とどうやって別れ、帰宅の途についたのか。やはり私は思い出せない。
 
 * * *
 
 ここはどこなのだろう。記憶は曖昧で不鮮明だ。それに、もはや思い出す事に価値が見いだせなくなってきている。ここがどこで、私がどうやってここに来てそして、ここに来た私が誰なのか。それすらもどうでも良いような。霧がかった意識の中で、ふと掌を見る。私はなぜ、あの時……
 いつからだろう。世界がこの、名も無き病に蝕まれ始めたのは。
 意識はぼやけてきているけれど、この世界に異変が訪れている事だけははっきりと分かる。いつからだったのかは忘れてしまったが、狂気はとどまることなく、すべからく「かつて私達のものであった世界」を包み込んでいった。否、今も進行していると言うべきか。昨日も一昨日もその前も、誰かが祈り声を上げながら神の元へと旅立っていった。
Acta est fabula!」
 今もあちこちから聞こえてきている。神よとか、お慈悲をという言葉と共に。果たしてこの瞬間、人でなくなる「かつての人」は何人に及んでいるのだろうか。
 だがもはやその事実さえ考える価値がないものと思ってしまうのは、やはり病の影響だろうか。まぁ、そうだとしても私にはあらがう術など残っていない。私に出来るのは、この事実をまだ神の元へ墜ちていない人々、墜ちようとしていない人々に伝える事だけ。

 手製の封筒の中から紙を四枚、確認した後元に戻す。朦朧とする意識の中で、私にはこんな事しか出来なかった。あとは「祈らぬ人々」に任せる他は何も、囚われの身となった私には打つ手がなかった。
 オォ、カミヨ――
 どこかから聞こえてくる誰ぞやの声を聞きながら、私はもう一度掌を見つめた。なぜ私はあの時、気付けなかったのか。あの時既に私は病に心を奪われていた。あちらの人々を非難しつつも、自らがこちらからあちらへ渡る途上にあったのだ。あの時に気付けていれば私は今、ここに立っていなかったかもしれない。あちらの世界に立ったまま、明るい未来を見通せていたはずで……
 うん? あちらとはどちらだ? それに、明るい未来とは?
 まぁ、いいか。そんな事を今悔いてもどうしようもない。それにそろそろ、時が満ちる。
 
 
 私は遂にその場所に足をかけた。もう後戻りは出来ない。いや、そんな言い方をしていては失礼か。私は救われるのだから。救ってくださるのだから。
 白い光が見えた。あれが私の目指す場所らしい。手を伸ばすと、光は一段と強くなった。それが嬉しくて、より一層遠くを掴もうとする。その繰り返しだった。神よ、私に応えてくれ。私を救ってくれ。審判の前に哀れなこの私の、罪深い手を掴んでくれ。
 ――アァ!
 聞こえた。確かに聞こえた。神は約束してくれた。私は救われたのだ。
 あぁ。この方の腕の中で、何の苦痛もなくまどろみに墜ちてゆけるなんて。
 間違いない。これこそが私の追い求めていた世界。求めていた現実。
 そう、終わったのだ。
 アチラの世界での。
 私ノ。
 ものガたリガ――
Acta est fabula!」
 
 * * *
 
 あれ? なんか落ちてるぞ。
 ほんとだ。なんだろう、これ?
 知らね。そんな事より本当なんだろうな?
 間違いない。絶対あれは人だった!
 じゃあ早く行こう。警察が来ちゃったら多分見られないぞ。
 ああ!
 
 
 その場に残されたのは四枚の、何かしらの絵が描かれた紙だった。一枚だけを見てもただの絵にしか見えないが、そこでは一つの物語が始まろうとしていた。