キャピタル・C・インカゲイン その11(2)

 順仁の姿が、瞬時に稲玉士のそれに変わる。異常な興奮に満ちたその目が律子を見据えたとき、十六夜はとっさに能力を使い、時を止めた。
 律子に向かって風を放とうとしていた順仁が、文字通り凍りつく。完全に動かないのを確認して、十六夜は息をつきながら肩の力を抜いた。律子の方に、ゆっくりと顔を向ける。
「怪我は、ないね」
「ええ。まだ何もされていませんから」
 殺されようとしていたにも関わらず、律子は普段通りの平静な声で応じる。彼女の度胸に内心で舌を巻きながら、十六夜は順仁と、部屋の隅を血だまりで染めている人間を見た。
 B−Aの、大井剣也のいるはずの部屋だったが、そこに転がっている死体は彼のものではなかった。だが、その顔には見覚えがある。確か、CCIの役員の一人で、彼も能力者だったはずだ。
「どうして、こいつがここに……?」
 順仁の方はたまたま強盗を働きに来ただけかもしれないが、自分たちが仕事をするはずの場所に、まったく関係のない役員が来ているなどあり得なかった。十六夜の呟きに、律子の顔にもかすかに困惑の色が浮かんだ。
「わかりません。この件を任されているのは私たちのはずですが。しかし、そもそもここにいるはずの大井剣也も見当たりませんしね」
「確かに、ここのホテルのはずだったんだよね?」
「それは間違いありません。受け取った書類には確かにここと記されています。もっとも、上の方で何か手違いがあったのかもしれませんが」
「手違いなんてあり得ないと思うけど……でも、手違い以外には考えられないよなあ……」
 首をひねりながら、十六夜はぶつぶつ言っていたが、やがてまた一つ息をついて、気持ちを切り替えた。
「とにかく、早いところここを出よう。ホテルからある程度離れてから時間を流せば、こいつも追ってこないだろう」
 順仁をちらりと見やりながら言うと、律子は、ええ、と頷きを返してきた。
 ホテルを出ると、冷たい風が容赦なく体に刺さった。十六夜は肩を竦めながら、車を停めてある地下駐車場に向かって歩き出す。表面では隣を行く律子に倣い、なるべく平静を装っていたが、その実胸の中には、薄雲のように不安が広がっていた。
 なぜ、大井剣也はあの部屋にいなかったのか。なぜ、あの役員はあの部屋にいたのか。もしかして、あの役員は自分たちを待っていたのだろうか? しかしそうだとしたら、一体何のために……。


 がくんと体が揺れ、楓ははっと目を覚ました。
 昼の光の差す見慣れない部屋が目に映り、一瞬ここがどこだかわからなくなってしまったが、すぐに思い出して、ああ、と声を上げた。ここは、レジスタンスの拠点のマンションの一室だ。避難所の体育館で、結局眠れずに夜通し語り合っていたあと、あとは地元の住民と消防に任せようということで、楓と花梨、レジスタンスの二人は、何とか動いていた新幹線で首都圏の方に戻って来た。もちろん楓はこちらに来る必要なんてなかったのだが、何となくで金魚のフンみたいにくっついてきたのである。ここに到着し、マンションの一室――昨日までは別のレジスタンスメンバーの部屋だったそうだ――を割り当てられたのが昼前ぐらいだった。窓際の椅子でこれからどうしようか考えるうち、日差しの温かさとたまった疲れとで、ついうたた寝の中に落ちてしまったようだ。
 手足を伸ばし、欠伸をしてから、楓は改めて、これからどうしよう、と考え込んだ。夜の体育館で、花梨から学校での樹の様子は大体聞き終わった。もうやり残したことはなく、あとは死ぬだけ、という感じだった。だが、どこでどう死んだらいいのかイマイチわからなくて、何となくこんなところまでついてきてしまっている。
 自殺するなら人気のない場所の方がいいかな、などということを考えていたとき、不意に、携帯のバイブのかすかな音が耳に届いた。楓はぱっと、音の聞こえてくる方に顔を向ける。洋服かけにかけておいた、このB−Aの体が纏っていたロングコートだった。
 楓はコートに近づき、そのポケットに手を入れる。細かく振動する小さな塊が手に触れた。楓はそれを引っ張り出し、表示画面を見る。そこに示されている発信者は、「F−G」となっていた。
 楓は少し首を傾げたが、携帯を開くと、耳にあてた。
「もしもし?」
『――よかった。まだ死んでないみたいね』
 どこか安堵したような、F−Gの声が耳に滑り込んでくる。それから、彼女は真剣な声音になって尋ねてきた。
『あなた、死に場所を探すって言っていたけど、見つかった?』
「まだね」
『――だったら、ちょっと付き合ってくれない?』


 花梨は窓辺の椅子に腰かけて、ぼんやりと外の景色を眺めていた。差し込む日の光が肌に温かい。しかし花梨の気分は、日差しの明るさとも温かさとも正反対の方向に沈んでいた。
 ここに戻って来たものの、アンもギルも、もちろん自分も、これからどうすればいいかわからなかった。それぞれの部屋へと分かれたあと、花梨はずっとこうして窓辺に座っていた。座って、どうするか考えようとしていた。だが、いくら考えようとしても、どうしても思考がまとまらない。
 自分に何ができるのか。何かできるのか。できたとして、自分のすることに意味があるのか。そういった問いが頭の中を巡り、巡り、そして結局答えを出せないまま、胸中に重く落ち込んでいく。さっきから何度も何度も、これの繰り返しだった。
 早耶佳だったら。昨日の朝まで、この部屋に一緒にいた友人のことを思う。彼女だったら、自分のようにうだうだと悩んだりせず、即座にやるべきことを見定めて、行動に移すのだろう。それができず、自身の中だけで葛藤し、結局行動を起こさない自分は、やはり偽善者のふりすらできていない臆病者なのかもしれない。昨日の人狼との戦闘の際に紗香が責めてきたことは、確かに的を射ているのかもしれなかった。
 花梨は奥歯を噛みしめながら、改めて窓の外に意識をやり、そしてはっとした。
 楓が、外を歩いているのが見えたのだ。マンションの駐車場を横切った彼女は、前の道路まで出ていくと、きょろきょろと辺りを見回した。それから彼女は駐車場の入口にある小さな柱に近づくと、それに背をもたせかけ、腕を組んだ。誰か人待ちをしているようだった。
 楓はあそこで、誰を待っているというのだろう。何だか気になり、花梨は慌てて部屋を出ると、マンションの階段を駆け足で下っていった。
「あら、花梨さん」
 花梨が早足で近寄っていくと、楓は柱から背を離し、ひょいと眉を上げてみせた。
「どうしたの? 私に何か用?」
「いえ、用ってわけじゃ、ないんですけど……」
 軽く乱れた呼吸を整えながら、花梨は楓を見つめた。
「楓さんは、ここで何をしてるんですか? 誰か待ってるんですか?」
 思い切って聞くと、楓はちらと考えるような様子を見せたが、すぐに一つ頷いた。
「まあ、別に隠さなきゃいけないことじゃないでしょう。ええ、そうよ、人待ち。昨日の夜に私を避難所まで乗せてきてくれた、テロリストの女を待っているの」
 花梨は小さく息を呑む。
「あの人を……?」
「ええ。コードネームはF−Gっていうらしいけどね」
「どうして、その人を待ってるんですか?」
 重ねて問うと、今度は楓は、少しの間黙っていた。だが、やがて一つ息をつき、言った。
「なんでもね、私に協力してほしいそうよ。彼女はテロリストの穏健派の方にもパイプを持っているらしいんだけど、その穏健派上層部の持つ情報を手に入れたいんですって。そのために、私の……というよりこの体の持つ能力を使ってほしいらしいの。危険かもしれないけど、どのみち私が死に場所を探しているなら、それを提供することになるかもしれないし、穏健派にテロ行為をやめさせることにつながると思うから、一般的な考え方からいったら正しいことをすることになるはず、と言っていたわ」
 最後の方の部分に、花梨は驚いた。
「テロをやめさせるって……なんで? あの人もテロリストなんでしょう? なんでそんな邪魔するようなことするんですか?」
「さあ。彼女は急進派だったみたいだから、穏健派が気に入らないとかあるのかもしれないけど。私にはよくわからないわ」
 肩を竦めながら楓は言い、それからかすかに笑みを浮かべた。
「まあ、死ねるんだったら私は別にそれでいいし。それに、あのF−Gのこと、なんか気になってるのよね。だからちょっとぐらい、手伝ってあげてもいいかなって」
 軽い調子でそう言う楓を、花梨はじっと見つめた。口調こそ軽いものだったが、その瞳は真剣な光を含んでいた。それを見てとると、花梨はかすかに目を細めた。
「……楓さんは、強いんですね」
 ぽつり、と声を落とすと、楓は虚をつかれたように目をしばたたかせた。
「強い? 私が?」
「はい。……何と言うか、心が強いなって、思ったんです。自分の思いをきちんと持っていて、それに従って行動して。揺れていないって言うんですかね。たとえそれが死にたいという気持でも、確かに持って動いていられるってすごいなって。私は……」
 そこで花梨は顔を歪めた。たまっていた思いが、胸の底から喉元へと、急速に突き上げてくる。こらえきれなくて、花梨は早口で言葉を吐き出し始めた。
「私は、そういうこと、できないんです。自分の気持ちをしっかり持てない。いや、持ってはいるのかもしれないんですけど、それを実行に移すことができない。結局のところ、怖いんですね。臆病で、何もできなくて、そのくせ綺麗事ばっかり口先だけで振りかざしてる。偽善者のふりすらできていない、どうしようもない卑怯者なんです」
 なぜ、こんなことを言っているのかわからなかった。これからテロリストに潜りに行く楓にしてみれば、こんなところで思いを吐露されても、迷惑以外の何物でもないだろう。そうわかっていても、言葉は溢れてきた。
「私は、もっと……揺れない、強い心を持ちたいんです。楓さんのように」
 吐き出すように花梨がそう言ったとき、不意に楓の目元がつっと歪んだ。彼女はわずかに顔をうつむけると、呟くように言った。
「……私だって、そんなに強い心を持っているわけじゃないわ」
 やや力のないその声に、花梨は言葉を詰まらせた。楓は顔を上げて花梨を見つめると、ふっと笑みを浮かべた。どこか自嘲の感じられる笑みだった。
「私も、もとの体だった頃は、強い心なんて全然持っていなかった。他の人の目を気にして、いつでも優等生であろうとして、結局それで自分自身を追い詰めていた。全然強くなんてなかったの。……でもね」
 楓の笑顔から、少しだけ暗い色が消えた。
「この体に移ってからは、何と言うか、吹っ切れちゃった感じ。だから、あなたも吹っ切った方が楽になるかもよ?」
 その言葉に、花梨は一瞬呆気に取られた。それからはっと気づき、慌てて首を振る。
「そんな、吹っ切るなんて……簡単にはできませんよ……」
「だから、そう思い詰めなくていいってこと」
 楓は、不意に真顔になった。
「臆病だっていいじゃない。こんな世の中になっちゃって、怯えない人なんて誰もいやしないわ。怖がることなんて、当然すぎるほど当然のことよ。偽善者っていうのも気にしてるみたいだけど、そもそもこんな秩序やルールの崩壊した世界で、偽善って何なの? こんな中で、何が善で何が悪か、何が偽善で何が偽悪かなんて、もう決められるものなんかじゃない。結局のところ、あなたを責められる人なんて誰もいないのよ」
 楓は、花梨の目をまっすぐに見つめた。
「もっと自分に自信を持ちなさい。そして、一つ言っておきたいのは、そうして自分を追い詰めるのをやめたあとに、残った思いを大切にしなさい。自分は何をしたいのか。何を為したいのか。自分の本当の思いに向かって一直線に進んで、後悔だけはしないようにしなさい。それが、強い心を持つってことじゃない?」
 花梨は、答えなかった。答えられなかった。何も言えず、瞬きもできずに、ただまっすぐな光の宿った楓の瞳だけを見つめていた。
 どこかから、車のエンジン音が聞こえてきた。だんだんとそれは近づいてくる。やがて右の方から見覚えのある車がやって来て、楓の真後ろで停まった。窓が開き、運転席から昨日のテロリストの女性が楓に声をかける。
「乗って」
 楓は頷きながら、くるりと体の向きを変えた。助手席側のドアを開ける。そのまま乗り込むかと見えたが、楓は思い直したように、また花梨の方を振り向いた。
「そういえばね」
 笑いながら、楓は言った。今まで見た中で一番柔らかい笑顔だった。
「あなたは樹に疎ましがられていると感じていたでしょうし、確かにそういう部分もあったと思うけれど、それでも樹は、あなたと接することに安らぎを感じていたようよ。樹の中にいたとき、何となくだけど、それがわかったわ。こんな風に、あなたにもできることはあるのよ。――ありがとう、樹の支えになってくれて」
 そう言い残すと、楓は体の向きを戻し、車に乗り込んだ。ドアを閉め、シートベルトをしながら、運転席の女性に何か声をかけている。女性はそれに頷き、ちらりと花梨を見てから、車を発進させた。エンジン音とともに、車がだんだんと遠ざかっていく。
 花梨は立ち尽くしたまま、それを見送っていた。やがて車が角を曲がり、完全にその姿が見えなくなっても、いつまでもその場に佇んでいた。


「で? 何なの、あなたがこれからやりたいことは」
 腕組みをしながら、楓はF−Gに尋ねた。それに対し、彼女は前を見たまま、淡々とした口調で言った。
「これから、東京にあるテロの拠点へ行くわ。といっても、そこは県境近くにあるし、ここも東京にすごく近いから、そうはかからないけど」
 ハンドルを切りながら、彼女は続ける。
「もともとテロには三つの派閥があって、それぞれ牽制し合いながらもそこを拠点として活動していたんだけれど、急進派は壊滅したし、その結果中立派は穏健派に吸収されたから、今あるのは穏健派だけね。私は穏健派にもパイプを持っているけれど、本来急進派だから、あまり穏健派について深入りはできない。……これから私は、テロの拠点に入って、穏健派上層部が持っている機密を探り出したいの。それをあなたに協力してほしい」
「機密ってどんなものよ?」
 楓が聞くと、F−Gは少しだけこちらに視線を向けてきた。
「あなた、親種のことは知っている?」
「ええ。樹の中にいたときに聞いたから」
「なら話は早いわ。私が探りたいのは、親種のありか。穏健派が、穏健とは名ばかりで、親種を手に入れて人類そのものを滅ぼそうとしているのは知っているかしら? そして彼らは、先日ついにそのありかを見つけたらしいの。だけど私は、そんなテロ行為なんて起こさせたくない。だから、私は彼らより早く親種を手に入れ、それを破壊して、穏健派の手に渡らないようにしたいのよ」
 その言葉に、楓はぴくりと眉を寄せた。組んでいた腕をほどき、F−Gの横顔をじっと見つめる。
「あなたは、何なの? 急進派だったから、穏健派の邪魔をしたいの? それともテロリストだったくせに、テロ行為を憎んでいるの? あなたは――何者なの?」
 楓の問いに、F−Gは少しだけ間を空けた。一つ息を吐きだし、それからやはりこちらに目を向けることなく、前を見据えたままそっと答えた。
「私は――B−Aの、大井剣也の、姉よ」
 楓は、すぐには反応できなかった。彼女が何を言い出したのか、とっさにわからなかったのだ。唖然として彼女の横顔を見つめ、その言葉の意味を何度も頭の中で確かめてから、ようやく苛立ちを込めて言葉を発した。
「何を……何を言ってるのよ。こいつの姉は、とっくに死んでるじゃない。大体、あなたの顔は、こいつの姉とは全然違うでしょ。何、馬鹿なことを……」
「昨夜、話したわよね。死霊の話」
 楓の言葉を遮って、F−Gが言った。楓が声を呑みこみ、わけがわからないながらも「ええ」と頷くと、F−Gは続けた。
「そのとき、私は言ったでしょう? 死霊は死体に取り憑いて、その体を動かすようになることもあると。私は、まさにそれだったのよ」
 信じられない告白に、楓は完全に絶句した。F−Gはそんな自分に構うことなく、変わらず前を見つめたまま、わずかにその目を細めた。
「テロリストの仕掛けた爆弾で、確かに私は一度死んだ。でも、残されるB−A……剣也のことを考えると、絶対にこのままでは死にきれないっていう思いが強かったんでしょうね。気づいたときには私の霊は、テロに巻き込まれて死んだこの女の体の中に入っていた。その体で目覚め、何が起こったのか悟った私は、この女の家族には記憶喪失のふりをして接していた。家族は悲しみながらも私の世話をしてくれたんだけど、私の中では、どうやったらそこから逃げ出せるのか、剣也はどうなったのか、そればかりが気にかかっていたわ。そしてそのうちに、能力者が巷に現れるようになり、私のもとにもあの手紙が届いたの。……死霊だった私に、自分の生き霊を取り憑かせる能力が与えられるなんて、何とも皮肉なものよね。都合よく、その辺りで家族が能力者の戦いに巻き込まれて亡くなった。だから私は家から逃げ出し、剣也の行方を求めて探し回ったの」
 不意に、彼女の横顔を、悲痛な影がよぎった。
「でも、私が見つけ出したときには、剣也はあれほど憎んでいたテロの仲間に入ってしまっていた。私は呆然としたけれど、とにかく彼のいるテロに入って、そばで行動するようにしたの。真実を話したって信じてはもらえないだろうから、せめて彼を見守りたかったし、できるなら彼にテロをやめさせたかった。私はそんなことを望んでいないし、そんなことをしても彼自身も幸せになれないのがわかっていたから。だから、彼と一緒に行動するふりをして、テロ行為の内容を探り、親種の存在がわかると、一人でそれを探し出そうとした。探し出して、破壊して、彼にトウキョウ帝国なんてものを諦めさせたかった。……そのうちに、穏健派が親種関係で稲玉士を気にしているようだとわかったから、彼に接触したかったんだけど、空振りに終わったみたいだから、こうなったら直接、穏健派から情報を盗み出すしかないって思ったのよ」
 F−Gが口を閉じても、楓はしばらく無言だった。エンジンの音ばかりが、沈黙の降りた車内に響く。『東京』の標識が道の前方に見えてきたとき、ようやく楓はぽつりと口を開いた。
「でも……もうB−Aは、この世にいないようなものじゃない。それでもあなたは、まだそんなことをしようっていうの?」
 この問いは、予想していたのかもしれない。F−Gは、ふっと寂しげな笑みをその顔に浮かべた。
「それでも、やるしかないのよ。ずっとこの道を進んできたんだもの、今さら変えることなんてできない。私にはこの道しか、もう残されていないの」
 切なげに笑うF−Gを、楓は声もなく見つめた。一瞬、ほんの一瞬だけ、B−Aを許して彼にこの体を空け渡してやってもいいかもしれない、という思いが頭を掠めた。目の前のこの女性のために。
(……何考えてるのよ)
 楓は頭を振った。確かにF−Gの思いは胸に迫るものがあったが、では自分の思いはどうなる。樹を殺したこの男を絶対に許さない、これは決して揺らぐことのない憎しみだ。確かに、せめてB−Aに、この女性の思いを聞かせてやりたいという気持ちもあるにはあったが……。
 そこで、楓はふとあることに気づいた。はっと目を見開いてしまってから、慌ててF−Gを横目で見やる。前を見て運転しているためか、彼女は自分の様子に気づかなかったようだ。心の中で軽く息をついてから、楓は今の自分の思いつきを頭の中に転がしてみた。
 ――この体の奥深くにいるB−Aは、楓の見聞きする事柄を、楓と同じように感じているのかもしれない。楓が樹の中にいたときのように。
 もちろん、それはわからない。楓が樹の中にいたときは、相手の中に侵入する能力を持った楓が奥で大人しくしていたのであって、楓の方が体を乗っ取って体の持ち主の意識を遠くに押しやっている今のケースとは、違うものなのかもしれない。だが、とりあえずF−Gには言わない方がいいだろう。恐らく彼女は、今の話はB−Aには聞かれたくなかっただろうから。
「……あなたは」
 ふと、F−Gが言った。
「剣也の体を操ってテロ急進派を壊滅させたとき、どうやったか覚えている?」
「え、どうやった、って……」
 急に別のことに話が飛んで、楓は少し戸惑った。F−Gが何を聞きたいのかわからないまま、とりあえずあのときのことを思い出す。
「こいつの体を乗っ取って、最初の三人は黒で呑みこんで、それで……」
 自分のやったことを頭で辿っていた楓は、ふっと眉根を寄せた。
「……あれ? ちょっと、樹を殺された怒りで冷静じゃなかったんだけど、そういえば、どうやったんだっけ……」
 何となく、この体を奪ったときに、自分には目の前のこのテロリストたちを殺せると、直感的にわかったような気がする。だから、その直感に従って何かをしたのだ。それによってテロリストたちを殺した。
 顔をしかめる楓を横目で見て、F−Gは静かに言った。
「剣也はね、理由はわからないけど、特異な力を持っていたのよ。私たちの体に宿っている種が、時が来たら暴走して、宿主を滅ぼすことは知っているのよね? 剣也は、互いに誓い合った能力者の種を、任意で暴走させることができたの。そして、それを応用して、急進派のメンバーに死の瞬間が迫ったときには、剣也が遠隔でその力を使い、メンバーの命を奪うようにしていた。敵の能力者に種のエキセントラ力を奪われるぐらいなら、リーダーの剣也に取りこまれた方がずっといい、ということでね。あなたは多分、その力を使って、急進派を壊滅させたのよ。……私を除いてね」
 赤信号で、車が停まる。F−Gは、ここで初めて、楓をまっすぐに見つめた。
「だから、気になっているのよ。どうして私だけが残ったのか。私以外にあの場にいなかったメンバーも死んでいたようだから、離れていたからというだけでは説明がつかない。それは、あなたが無意識にそうしたのか、それとも……」
 言いさして、F−Gは口籠ってしまったが、楓には彼女の言いたいことがわかった。つまり、B−Aが最期の力を振り絞って楓に抵抗し、F−Gには種の暴走が及ばないようにしたのではないか、ということだ。たとえ彼がF−Gのことを姉と知らなくても、彼女に好意を持っていたのは事実だ。F−Gのことを、最期のときにも守らなければならない女性と思っていたのだろうかと、彼女はそれを気にしている。
 もしそうだったなら、彼女は少しは救われるのだろうか。だが、楓には首を振ることしかできなかった。
「わからないわ、ごめんなさい。私もあのとき我を忘れていて、何が起こったのか、私が、B−Aが何をしたのか、よく覚えていないの」
 それを聞いても、F−Gはしばらく黙っていた。信号が青になって、車を少し走らせてから、ようやく「そう」と呟いた。その横顔からは、明確な表情は読み取れなかった。楓はかすかに胸に痛みを感じながら、F−Gから顔を背け、窓の外を流れる景色を見つめた。


 F−Gの車を降り、少しだけ歩いたところにあったそこは、今は使われていないと見られる小さなビルだった。古ぼけたその外壁を見上げ、楓は隣のF−Gに尋ねた。
「ここ?」
「ええ。こんな見た目だけど、中は結構立派なのよ」
 F−Gが頷いたとき、不意に近くで声がした。
「おい、F−Gか? 遅かったな」
 楓とF−Gが、声の方に顔を向けた。街路樹の陰から、小柄で眼鏡をかけた、初老の男性が出てくる。誰かと一瞬楓は警戒したが、F−Gは平然とした様子でその男性に近づいた。
「教授。例の部屋はどこだったの?」
「ああ。穏健派の上の奴らが隠している情報は、三階西側だよ。立ち入り禁止になっている廊下があるだろ? あそこをずっと行って、右に曲がって、突きあたったところにある厳重な扉の向こうの部屋だ」
「自分で依頼しておいて言うのもなんだけど、よくわかったわね」
「まあな。穏健派の中に、I−Vっていう穏健派上層部の構想に怯え始めている奴がいるんだ。そいつにつなぎを取ったら、教えてくれた。ま、そういうツテでもなきゃ、急進派と懇意にしていた私が穏健派の内部を探れるわけがない」
 肩を竦めながら、教授と呼ばれた男性が言う。それから彼は、楓の方に顔を向けた。
「へえ、見た目はやっぱりまったく変わってないんだな。だが、今体を動かしているのはB−Aじゃないんだろ?」
「ええ、そうよ」
 楓がそう答えると、教授は一瞬目を丸くしたあと、にやりとした笑みを浮かべた。
「驚いた、まさかこんな女言葉がこいつの声で聞けるなんてな。あいつがいなくなったのは寂しいが、これはこれで面白いかもな」
 それから、彼はもう一度F−Gに向き直る。
「じゃあな、せっかく手を貸してやったんだから、しっかりやれよ。私はこれから穏健派の手の届かないところにトンズラする」
「そう。……悪いわね」
「なに、もともと急進派側だった私なんて、留まっていたら遅かれ早かれ穏健派に殺されるよ。じゃ、あんたも頑張れよ」
 楓の方に目を向けてきた教授に頷きを返すと、彼はくるりと踵を返し、最後に軽く手を振ってから、楓たちから離れていった。
「あの人は?」
 小さくなっていく後ろ姿を見ながら楓が聞くと、F−Gは答えた。
「私たち急進派の中で、研究職とでもいうような立場にいた人よ。能力者じゃない一般人だけどね、剣也はよく彼に助けられていたわ」
 教授が角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、F−Gは小さく息をついた。それから、もう一度テロリスト拠点のビルを見上げる。迷いのない瞳で。
「さあ、私たちも行きましょう」


「ルナ? どうしたの?」
 後ろの方から声をかけられて、花梨ははっと振り向いた。いつの間にか、アンとギルがすぐ近くまで歩いてきていた。
「窓の外を見たら、こんなところであなたが立ってたから。どうかした?」
 すぐそばまで来たアンが、花梨の顔を覗き込みながら問うてくる。
「あ、うん、ちょっとね……」
 花梨は口籠った。楓のことを話すべきか迷ったのだ。だが、花梨のその様子を見てか、アンは重ねて聞いてきた。
「ひょっとして、楓がどこへ行ったか知ってる?」
 花梨が驚いてアンを見つめると、彼女は軽く肩を竦めてみせた。
「ギルと話してたんだけど、ちょっと彼女に用があって二人で部屋を訪ねてみたら、誰もいなくて。探してたときに、たまたま窓の外を見たらあなたがこんなところに立ってたから、何かあったのかって気になったの」
 言いながら、問いかけるような視線を送ってくる。花梨は軽く口を結んでから、こくりと頷いた。
「実はね……」
 楓の向かった先やその目的について話していくにつれ、アンの顔には厳しさが浮かんでいった。一方で、ギルの方には特にそういった表情の変化は見られなかった。花梨が口を閉じると、アンは顔をしかめたまま、深く息を吐きだした。
「――そう……」
 呟きながら、何かを考えるような顔つきの彼女に、ギルが声をかける。
「まあ、どのみちもういないんなら、いいんじゃないか。やっぱり俺は、あいつでどうこうできるとは思わないし」
「どうこうって?」
 言葉の意味がわからず花梨が口を挟むと、ギルはわずかに眉根を寄せた。
「アンは、楓を使って親種の位置を探れないかって言ってたんだよ」
 思いがけない言葉だった。目をぱちくりとさせる花梨を見ながら、ギルは続ける。
「ほら、フレンの種は、親種と引き合う特異性を楓の種から引き継いでただろ? で、B−Aがフレンを殺したから、その特異性は恐らく奴の種に移っている。今、楓の種と奴の種は、融合してるのか別々なのかよくわからないけど、どのみちB−Aの体に宿ってはいるだろうから、楓には親種の位置がわかるんじゃないかって、アンと話してたんだ。だから、楓を訪ねようとした」
 そこで、ギルは複雑そうな表情になった。
「でも、正直俺は、たとえ親種の位置がわかっても、そこからどうにかできるとは思えない。そりゃ、レジスタンスは親種を見つけて破壊することを目的にしてたけどさ、それはCCI本部に乗り込んでプロジェクトをやめさせても、同じことをしでかそうって奴が現れないようにするためだっただろ。けど、レジスタンスが壊滅した今、この少人数でCCIに乗り込むことなんてできないから、前提からして崩れてしまってるんだ。だから……」
「それでも」
 アンが、低い声で口を挟んだ。目元がかすかに歪んでいた。
「それでも、何かしたいのよ……。何ができるじゃなくて、何かしたいの。ここまで進んできたんだもの、死んでしまったみんなのためにも、今さら諦めたくないじゃない……」
 それだけ言ってから、彼女は唇を噛んで黙り込んだ。ギルも、それ以上は何も言わず、口元をぎゅっと結んでいる。
 花梨は言葉もなく、二人を交互に見つめた。どちらの言い分もわかる。どちらも考え詰めて苦しんでいるのもわかる。どう言葉をかけていいかわからず、花梨もまた何も言えなかった。三人の間で沈黙が重く固まり始めたそのとき、ふとギルの目が動いた。
「――あ」
 彼の漏らした呟きに、花梨とアンは彼を見た。ギルは、驚いた顔で花梨たちとは別方向を見ていた。その視線を辿って見つけた姿に、花梨も驚く。
「……ちょうどよかった、外に出ていたんだな」
 花梨たちがいる駐車場の入り口辺りまで道を歩いてきた稲玉士は、そう言いながら、花梨たちとは少し距離を取ったところで立ち止まった。
「稲玉君……どうして? なんでここがわかったの?」
 驚きを隠しきれずに花梨が尋ねると、士は相変わらず無愛想な表情で答える。
「神奈川に来たのは、まあ偶然だな。東京よりは安全かもと思って、交通機関乗り継いできたんだ。で、この地域の辺りまで歩いてきたときに、何となく昨日の義足の男がここにいるような気がしたんだ」
「何、それ」
 アンが胡乱気な口調で尋ねると、彼はあからさまに不機嫌そうな顔になった。
「俺だって知らない。本当に何となくだけど、あの男の位置がわかるような気がしたんだ。で、そのときに、あの男はお前たちと一緒に行ってたはずだから、お前たちもいるかもしれないって思って来た。聞いておきたいことができてな。ま、あの男の気配はちょっと前にここから離れたみたいだけど、しばらくこの辺にいたんなら、やっぱりお前たちもこの辺にいるんじゃないかと考えたんだ」
 その説明にも、アンとギルは不可解そうな表情を隠さない。花梨はそれを横目で見ながら、とりあえず士に聞いた。
「それで、何? 聞いておきたいことって」
「手紙にあった、種が暴走するまでのタイムリミット。あれは、本当にあるのか?」
 唐突な問いだった。花梨は虚をつかれて瞬きする。それから、小さく頷いた。
「うん。あるみたいだよ」
「それはいつなんだ?」
「ん……そこまではわかってない」
 正直にそう答えると、士は目をすがめ、苛立ったような声を上げた。
「なんだ、知らないのかよ。ま、あんまり期待できないかもとは思ってたけど……ならいいや、じゃあな」
 そう言ってくるりと体の向きを変えた士に、花梨は一瞬呆気に取られたが、すぐに慌てて呼びとめた。
「待ってよ。聞きたかったことってそれだけ? そんなにさっさと行くことないんじゃない?」
 すでに歩き出しかけていた士は、足を止めて振り返ると、ひどく面倒くさそうな顔を向けてきた。
「それだけだよ。別に俺は、お前たちと仲良くお話するために来たんじゃない。俺はもともと、この戦いにはできるだけ加わらないつもりだったんだ。それよりは、自分の好きなようにぶらついて、好きなことをしていたいんだよ。で、自分が死ぬかもしれないそのときがわかってたら、もっと効率よくそれができるだろ。だから、お前たちならタイムリミットについて何か知ってるかもと思って来ただけだ。それ以外の理由は何もない」
 ためらいもなく言い切る士に、ギルが心底呆れたような声を投げた。
「何だよ、お前は。戦う意志もないくせに、俺たちを都合よく利用するだけ利用しようってのか?」
「そうだ。それが何か悪いか?」
 鬱陶しそうに士が言う。あまりの言い草に、ギルの顔にちらりと苛立ちの色が浮かんだ。二人を取りなそうと、花梨は慌てて言葉を探す。
「あの、二人とも……」
 だが、その言葉は半ばで途切れた。
 花梨たちと士との間の真ん中あたりの空中が、突然そこだけ陽炎で覆われたかのように歪んだ。そして次の瞬間、その歪んだ部分から、外側に向かって猛烈な風が吹き付けたのだ。
 暴風に殴りつけられ、花梨は後ろによろめいて、そのまま尻餅をついてしまう。何が何だかわからず、髪を吹き乱されながら、掲げた手の向こう、風の寄せる方を見極めようとしていると、不意に風がやんだ。
 花梨は顔にかかった髪を払い、先ほど空間が歪んだ部分を見た。そして息を呑む。
 そこには、稲玉士が立っていた。そのさらに向こうで、驚愕の表情を浮かべている士と、まったく同じ姿形を持つ人物が。
 突然現れた稲玉士は、ゆっくりと首を巡らし、今まで花梨と話していた方の士の方を見た。その顔はこちらからでは見えなかったが、次に彼が発した声には笑みが滲んでいた。
「やっと見つけた、稲玉士」


 F−Gとともにテロの拠点に入った楓は、すれ違う穏健派メンバーに疑いのこもった目を向けられたり、F−Gがそれを取りなすように彼らに話しかけるのを見たりしながら、上手く人の目が途切れたときを見計らい、教授の教えてくれた、穏健派上層部が情報を隠している資料室までやって来た。この扉には、セキュリティロックの他、取っ手に見るからに頑丈そうな錠前が取り付けられていた。高度なロックの機械と比べると随分原始的な気がしてしまうが、確かにこれなら、たとえ機械の方のロックを破られても、中に入ることはかなわないのだ。F−Gが、持ってきていた様々な道具を使い、ロックをすべて解除してから、楓は扉の前に見えない壁を作り出した。錠前を、壁と扉とで挟み込み、強く圧迫する。錠前はしばらく軋むような音を立てていたが、やがてガチャンという音とともに、押し潰されて砕けた。
 楓が壁を消し去ると、F−Gが壊れた錠前を取っ手から取り外した。そのまま彼女は取っ手に手をかけ、ゆっくりと引き開けた。そっと中に入っていく彼女に、楓も続く。
 部屋の中に足を踏み入れた楓は、壁にずらりと並んだ書棚と、そこに収められている膨大な量の書物や資料を見て、うんざりした気分でため息を落とした。
「こんな中から探すの?」
 気が進まない楓とは対照的に、F−Gは早くも書棚の一角に手を伸ばしている。
「大丈夫。ぱっと見たところ、皆に開放されている資料室と、資料のまとめ方や並びは一緒よ。親種に関するものは、多分この辺りにあるわ」
 言いながら、引き抜いた資料の一つをぱらぱらとめくっている。楓も気を取り直し、その辺りに近寄った。F−Gが資料を抜き出した辺りのものを、同じように引っ張り出す。見てみると、確かにそこには親種の情報が載っているようだった。二人はしばらく黙々と字面を辿っていっていたが、不意にF−Gが驚いたような声を上げた。
「どうしたの?」
 資料から顔を上げて、楓が尋ねる。だが、F−Gは答えなかった。視線をこちらに向けてくることもなく、ただ手に持った資料を、信じられないというような表情で、穴があくほど見つめているだけだった。焦れた楓が再度問いかけようとした、そのときだった。
「――お探しの情報は、見つかったかね?」
 後ろの方から、しわがれた声がぶつかってきた。楓とF−Gは、弾かれたように振り返った。部屋の入口のところに、後ろに数人の男を従えて、一人の老人が立っている。一見柔和そうなその顔は、しかしその実、背筋がぞくりとするような冷たい影を裏に含んでいた。
「K−X……」
 F−Gが呟きを落とす。彼女は老人をじっと見据え、一度深呼吸をすると、手にしていた資料を持ち上げて、掠れた声で聞いた。
「どういうことなの、これは」
 その問いに、K−Xと呼ばれた老人の笑みが一層深くなった。裏に潜む、影も。
「どう、とは?」
「これによると、親種があるのは……親種があるのは、稲玉士の中ということじゃない」
 思いもよらない発言だった。楓はK−Xのことも一瞬忘れ、驚愕の瞳でF−Gを見た。彼女はこちらを一瞥もせず、あくまで視線をK−Xに据えている。楓がもう一度K−Xに目を戻したとき、彼はぎゅっと口の端を持ち上げた。
「そのままの意味だ。我々穏健派が、CCIの中にスパイを送り込んでいるということは知っていよう? その彼が、つい先日仕入れてきた情報なのだ。すべての能力の根源ともいえる親種が、選ばれた者の一人、稲玉士の中に埋め込まれているのだとな。だから、奴に接触し、親種を奪いさえすれば、我々の手で能力者を増やすことができる」
 K−Xは、芝居がかった動作で両手を広げてみせた。
「もうすぐだよ。もうすぐ、トウキョウは我々の手に落ちる。今、隣の部屋では、CCI本部にしかける爆弾が完成を迎えようとしている。それを使ってCCIを壊滅させれば、もう邪魔者はいなくなる。夢にまで見たトウキョウ帝国が、この手で実現できるのだ」
 それからK−Xは、楓の方に目を向けてきた。その瞳に愉悦が浮かぶのを見て、楓はふと、この老人はB−Aの体を動かしているのが別人だとは知らないのだと理解した。
「どうだ、B−A。もともと部下をすべて失った今のお前には、できることなど何もないのだろうが、それでも我々がこうして望みを実現させようとしていることは、さぞ悔しかろうのう?」
 楽しそうに言うK−Xに、どう反応したらいいかわからず、楓はただ黙っていた。しかしK−Xはそれを気にする様子もなく、愉快そうな口調のまま、言葉を継いだ。
「もっとも、我々の情報を盗もうなどとしたお前たちは、トウキョウ帝国の実現をその目で見ることはかなわんがな」
 彼が言い終わると同時に、背後に控えていた男の一人が、素早くその前に進み出てきた。男がこちらを見た途端、体を見えない縄で縛られたかのように、手足の自由が利かなくなった。
「くっ!」
 楓はB−Aの能力を解放した。男の足元に箱を出現させ、それを一気に大きくする。男が箱に跳ね飛ばされると同時に、体を拘束していた力がふっと解けた。
 F−Gが懐から拳銃を取り出し、一瞬で狙いを定めて撃った。一発目は、拘束の能力を使った男の頭に穴を空けたが、K−Xを狙った二発目以降は、かばうように進み出ていた別の男の出現させた大きな楯に阻まれた。
 それを見た楓は、壁を作り出すと、K−Xたちの方向へそれを突進させた。楓の壁と男の楯が、激しい音とともにぶつかり合う。一瞬の均衡のあとに、勝ったのは楓の方だった。防御を破られた男は、壁の直撃を喰らい、後ろのK−Xたちも巻きこんで、大きく後方に吹っ飛んだ。
 楓とF−Gが空いた入口から外に出たとき、三人目の男が、長く伸びた爪を振り上げながらこちらに向かってくるところだった。楓は素早く壁を作り出し、男がそれにぶつかって後方に弾かれたところで、壁を消す。F−Gが瞬時に拳銃を構えて、その男の胸を撃ち抜いた。男は血を噴き出しながら崩れ落ちたが、そのとき、異常を察知したのか、K−Xが何らかの方法で知らせたのか、K−Xと楯の能力の男の向こうから、何人もの人がこちらに走ってくるのが見えた。F−Gは一つ舌打ちをすると、右手の通路へと駆け出した。
「こっちよ! 早く!」
 楓は身を翻し、彼女のあとを追った。K−Xの怒鳴り声と、それを掻き消すように近づいてくる足音が耳朶を打つ。楓がF−Gに追いついたとき、後ろの方から、能力による光線や氷柱が飛んできて、楓たちの体を掠めていった。楓はぎゅっと歯を食いしばり、能力が飛んでくる中を、F−Gとともにひたすら駆け抜けていく。


 花梨は声もなく、尻餅をついた格好のまま、二人の士を見つめていた。そばのアンとギルも、言葉の出ない様子で立ち尽くしている。花梨から顔が見える方、先ほど言葉を交わした方の士もまた、呆然とした表情でもう一人の士を見ていたが、やがて彼は、合点がいったような顔つきになった。もう一人の士を見る目を、すっとすがめる。
「六条順仁か」
 こちらから顔を背けている士の方から、にやりと笑ったような気配が伝わってきた。
「あったり〜。この間、あんたから姿と能力をコピーしたんだ。で、あんたに仕返しをしに来たってわけ」
「仕返し?」
「そ。この胸にあんたがつけた傷のね」
 順仁と呼ばれた方の士がそう言うと、向こうの士は呆れた表情になった。
「俺はお前を殺すこともできたのに、見逃してやってあれだけで済ませたんだぞ。なのにそれに対して仕返しなんて、何考えてるんだか」
「それ以上、軽口を叩かない方がいいよ。今の僕は無敵なんだから。ま、といっても、あんたをなぶり殺すことは決定してるんだけどさあ」
 それから、順仁は不意に花梨たちの方を振り向いた。士の顔に、士は絶対に浮かべないだろうというようなうすら笑いを張り付けている。胸の悪くなるような嫌な笑いだった。
「ここにいるのは、あんたのお友達? だったら、あんたの前でこいつらを殺してやってもいいかもね」
「そんなむざむざとやられるわけないでしょう」
 アンが怒鳴りながら、手の中に光の弓矢を出現させた。彼女が順仁に向かって構えると、彼の笑みが一層濃くなった。
 唐突に、アンの手の中から弓矢が消えた。消したのではない、彼女の意思に反して消え失せたのだ。アンは何が起こったのかわからない様子で、構えた姿勢のまま、呆然とした瞳で順仁を見つめている。それを見て、順仁は声を立てて笑った。
「あんたの、というより今ここにいる僕以外の者の能力を無効化したんだよ。この稲玉士の体が、風の能力と一緒に持ってた能力なんだけど、これが本当に便利でねぇ」
「俺が?」
 士が、驚いた声を上げると、順仁は軽く彼の方を振り返った。
「なんだ、やっぱり気づいてなかったんだね。ま、前に戦ったとき、あんたその能力使ってなかったもんね。……さて、じゃ、どうするかな? 誰から殺そうかな?」
 楽しくてしょうがないような声で言いながら、順仁はぐるりと面々を見渡した。そして、その視線を花梨に据える。瞳が残忍な光にきらめいた。
「――決めた。まず、あんたからだ」
 花梨はとっさに、自分の能力を使おうとした。だが、いつもなら何の苦労もなく発現できるはずの拒絶の力は、まるでそんな能力などもともと体に宿っていないかのように、片鱗すら現れることはなかった。順仁はそんな花梨を、狂気と愉悦に爛々と輝く瞳で見据える。彼の周りを取り巻くように、刃のような鋭さを含んだ風が湧き起こり――。
 そして次の瞬間、その風はやんだ。掻き消されるようにそれはなくなった。そして風の中心だったところには、稲玉士の姿ではなく、中学生ぐらいの少年が立っていた。少年は一瞬笑みの浮いた顔を硬直させ、それからぐるりと自分の周りを見回した。
「あれ?」
 風が再び起こる気配はない。
「え? え?」
「馬鹿か、お前は」
 士が、心底呆れたと言いたげな表情で、少年――順仁を見ていた。
「俺は気づいてなかったっていうのに、わざわざ無効化の能力を持ってることを知らせるなんてな。そして、オリジナルと単なるコピーと、二つの同じ能力がぶつかった場合には、オリジナルの方が勝って当然だと、そんなことにも頭が回らなかったのか?」
 言い放った士の周囲に、風が起こる。先ほどの順仁と同じように、刃のような鋭利さを持つ風が。
「ひっ、ひいいぃぃ!」
 順仁が悲鳴を上げながら、花梨たちの方へ逃げだそうとした。恐怖に引き攣ったその顔が、次の瞬間、激しい血飛沫を上げて胴から切り離された。目の前に、首を失った胴体が、走りかけた勢いのまま前のめりに倒れてくる。激しく噴き上げる血潮が降りかかり、花梨はうっと顔を歪めた。
 どくどくと血を流し続ける胴体の脇に、順仁の首がごろりと転がる。花梨は呆然とそれらを見つめた。ふと、足音を感じて顔を上げると、士がこちらに向かって歩いてくるところだった。彼は順仁の死体のそばで立ち止まると、それを眺めた。その顔はわずかに強張っていた。
「……初めてだな。こうして、人を殺すということは」
 ぽつんと、士は言葉を落とす。その声にも、硬さが混じっていた。何を言ったらいいかわからず、花梨が士の顔を見つめた、そのときだった。
 目の前の順仁の死体から、不意に何かが湧き上がった。目に見えるものではない。肌が感じる、力の奔流とでもいうべき凄まじい何かが、順仁から噴き上がり、それはそのまま、目を見開く士の体へと流れ込んでいった。押されたように、士が一歩後ろによろめいたとき、奔流は士の中に流れ尽くし、肌への圧迫はふっと掻き消えた。すべては一瞬のことだった。
「今の、は……」
 士が、自身の両手のひらに視線を落としながら呟く。それに対し、アンが答えた。
「こいつの種の持っていた力……エキセントラ力っていうんだけど、それをあなたが吸収したのよ。能力者が殺し合った場合、勝った方が負けた方のエキセントラ力を吸い取るから」
「でも、よっぽどすごいエキセントラ力を持ってたんだな、こいつ。俺たちにもその流れがわかるなんて」
 順仁の死体を見下ろしながらギルが言ったが、士は反応しなかった。ただ、広げた自分の両手のひらを、黙ったまま見つめているだけだった。


 脇腹に熱い痛みが走り、F−Gはうっと呻いた。力の抜けかけた足を鞭打って走らせながら、左手に見えてきた扉を指し示す。
「あそこに……」
 やや後方を走っていた楓が、「わかった」と短く答えるのが聞こえた。彼女が追手を阻むため、廊下を遮るように壁を作る間、F−Gは飛び付くようにして扉を開けた。駆けてきた楓が、扉を取り囲むように壁を築いてから、扉を閉め、鍵をかける。ふっと一つ息を吐きだした途端、脇腹の痛みがひどくなって、傷口を押さえながらずるずると崩れ落ちてしまう。
「大丈夫?」
 楓は聞きながら、自分たちの飛びこんできた部屋を見回した。小さめの机と椅子、書棚があるだけの、狭い部屋だった。
「こんなところに飛び込んでどうする気なの? 逃げ場なんてないわよね?」
 尋ねてくる楓に、F−Gは痛みに顔をしかめながらも笑ってみせた。
「もう、逃げる気なんてないわ。この傷だもの、逃げ切れない。あなただってそうでしょう?」
 問われた楓は、一瞬言葉に詰まったあと、苦笑いを浮かべた。その服のあちこちに血が滲んでいて、額にもびっしりと脂汗が浮いていた。
「まあね。私も結構あちこちやられてるし、義足がそろそろ悲鳴を上げててね、上手く走れない。確かに逃げ切るのはもう無理よね。……でも、逃げるのを諦めるなら、どうしてこんなところに入ったの? 死ぬまでの時間稼ぎ?」
 楓の言葉に、F−Gは首を振った。脇腹の激痛をこらえ、這うように部屋の中央に近づく。机に体をもたせかけながら、荒い息とともに言う。
「さっきの、稲玉士が親種を持っているっていう話。あれを、あの子……水附花梨に知らせようかと思って」
 楓が、驚いたように目を見開いた。
「あの子に? どうやって?」
「昨夜、私はあの子に憑いたでしょう。一度憑いた者になら、離れていても、位置を探り出してまた憑くことができる。もっとも、憑いて親種のことを知らせたところで、あの子がどういう行動をとるかはわからないけど。でも、せっかく探し当てた真実だもの、それを有効に利用できるかもしれない人に、伝えておきたいと思って」
 F−Gは楓に手のひらを向け、話しかけないように示してから、目を閉じた。脈打つ傷の痛みを無理矢理に頭から閉め出し、精神を集中させる。ふわっと、生き霊となって体から抜け出ると、同時に傷の痛みが切り離されたように掻き消えた。実体を持たない存在となったF−Gは、部屋の壁を、ビルの外壁をすり抜ける。空へと舞い上がり、街を見下ろすと、昨夜憑いたときに覚えた、花梨の気配の距離と方向を探った。どうやら、朝いた場所と同じところにいるようだった。そちらの方に飛んでいくと、予想通り、楓を迎えに行ったマンション前の道路に、花梨はいた。レジスタンスと見られる二人のほか、なぜか稲玉士もいて、少年の死体も転がっている。だが、今はそれらに疑問を感じている暇はない。F−Gは一気に降下すると、花梨の背後にすっと取り憑いた。
 ――花梨さん?
 呼びかけると、花梨が驚いたように声を上げた。ほかの者たちが視線を向けてくるのにも構わず、花梨は戸惑ったように問いかけてくる。
「F−Gさん? え、どうして……」
 ――時間がないわ。とりあえず、私の言うことを聞いてちょうだい。
 F−Gは手早く、テロリスト拠点で起こったことと、穏健派リーダーたるK−Xの語った親種のことを話した。絶句している花梨に、最後に付け加える。
 ――もちろんこのことで、あなたにどうしろとは言わないわ。でも、誰かに伝えずにはいられなかった。少しでも、あなたがあなたの道を歩む手助けになれれば嬉しいわ。
 遠くにいる自分の体が、限界を訴えているのがわかった。負傷している身では、長い能力使用は負担になるのだ。F−Gはすっと花梨の体から離れると、再び舞い上がり、空を横切り、拠点のビルの壁を通り抜けて、自分の体の中に飛び込んだ。体に戻って来た途端、脇腹の痛みが襲ってきて、呻き声を上げてしまう。歯を食いしばりながら、そっと瞼を開けると、自分の顔を覗き込む楓と目があった。F−Gが戻って来たことに気づいた楓は、そっと後ろを振り向いてみせる。その視線の先にある扉の向こうからは、いくつもの能力をぶつけるような、派手な音が聞こえていた。
「壁は、何重か築いておいたんだけど、今攻撃されてるのが最後の壁よ。……それももうすぐ破られるわ」
 楓の言葉に、F−Gは「そう」とだけ言葉を落とした。黙ったまま、今にも壁を破ろうとする激しい音が響くのを聞いていると、不意に、体の中心から力が抜けてくるのがわかった。唇を噛みながら、F−Gはうつむいた。
「結局、私のしてきたことは、意味があったのかしら」
 ぽつり、呟く。楓が視線を向けてくるのを感じたが、顔を上げることはしなかった。
「剣也のためと思って、今までずっと突き進んできたけれど、そんなもの、自己満足以外の何ものでもなかったのかもしれない。私がそばにいたからといって、剣也がそれで救われたわけでもない。私のしてきたことは、何の意味も持たないことだったのかもしれない……」
 それは今までずっと、蓋をかぶせるようにして、見ないようにしてきたことだった。言葉にするにつれて、今まで心を支えていたものが、砂のように崩れていくのがわかった。そうして崩れたものの中、残ったのは、どうしようもないほどの虚しさと無力感だった。F−Gは震えながら息をつき、片手で目元を覆って、虚しさがゆっくりと体を蝕んでいくのを感じていた。
「――まったく、しょうがないわね」
 不意に、呆れたような楓の声がした。そっと手を顔から外して顔を上げると、楓が自分を見つめていた。彼女は一つ息をつき、目を閉じる。と、その表情が、わずかに変わったように見えた。
「楓? どう……」
「――本当に、しょうがない人だよ」
 F−Gは、口を開いたまま固まった。瞬きすることもできず、目の前の男を見つめる。こちらを見るその目つきも、表情も、今までとはまったく異なっていた。
「こんな馬鹿な男に、どこまでもついてくるなんてな。何を考えているのかわからない。思えば、昔からそうだったよ」
 聞き慣れた口調。ぶっきらぼうだが、しかしその裏に、自分に対する親しみをほんのわずかに滲ませている。間違いなく、今目の前で話しているのはB−A……自分の弟の、大井剣也だった。楓が、この最期の瞬間に、彼に体を空け渡したのだ。自分と話をさせるために。
 F−Gは、詰めていた息をようやく吐きだした。その顔に、ふっと自嘲に似た笑みを浮かべる。
「……仕方ないじゃない。馬鹿な女は、馬鹿な男に惹かれるものよ」
 剣也はそれに対し、わずかに顔をしかめてみせた。ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱しながら、苛立った口調で言う。
「さっきの話だけど。君がそばにいたからといって、僕が救われたわけでもないだって? 馬鹿言うなよ。僕が、君にだけは種の暴走が及ばないよう抵抗した意味がわからないのか。矢羽楓も言っていただろう、僕が君に好意を感じていたと。君の存在は、確かに僕の支えになっていたんだ。姉さんだと気づかなくてもな。それだけでも十分、君は僕を救ってくれたよ」
 F−Gが目を見開いたそのとき、ばりん、と派手な音が扉の向こうから響いた。楓の築いた最後の防壁が破壊されたのだろう。残ったただの扉など、あっという間に破られる。能力があたって早くもたわみ始めた扉を見ながら、剣也は呟いた。今度は苛立ちを含まない、静かな口調だった。
「今まで、すまなかった。君の苦悩を、何も察することができなくて。本当に悪かったと思っている。でも……」
 すっと、剣也は視線を向けてきた。今までにないほどに、まっすぐで、真剣で、それでいて愛しさのこもった、瞳を。
「それでも許してくれるなら、言わせてくれ。今までちゃんと伝えたことはなかったから。僕は、君が好きだった。前の君も、今の君もね。――愛しているよ、千晶姉さん」
 F−Gは、千晶は、呼吸も忘れて剣也を見つめた。その告白の意味が心に響いた瞬間、両の目に涙が盛り上がる。溢れ出し、頬を伝い落ちるしずくもそのままに、千晶は剣也に近づくと、深く口づけを交わした。剣也の熱い腕が、体を抱きしめてくる。そっと唇と唇を離すと、千晶は剣也の胸に顔をうずめた。涙を浮かべながら、それでも最高に幸せそうな笑みを、その顔に湛えて。
 激しい音とともに、扉が内側に破られる。同時に流れ込んだ能力の渦が、部屋中に荒れ狂い、二人の姿を呑みこんだ。


 能力の嵐が少しずつ収まっていくのを見ながら、穏健派のメンバーたちはほうっと息をついていた。ちょこまかと随分しぶとく逃げ回られたが、ようやく仕留めることができた。やれやれと笑みを浮かべたり、肩を回したりしていた彼らは、突然、間近から炎に襲われた。あまりに不意に、それも味方の中から起きた攻撃だったので、為す術もなく全員が炎の中に呑みこまれる。悲鳴を上げる間すらなかった。
 一瞬で辺りの人間を焼き尽くした楓は、小さくため息を吐きだした。こうなることはわかっていた。殺した相手の精神に侵入する、それが自分の能力。ならば、自分が体を乗っ取った人物が殺されれば、またその殺した相手の体に侵入する。殺され続ける限り、このいびつな生の連鎖は終わらないのだ。
(でも、いい加減、私も死にたいな)
 死ぬためにここまで来たのだ。こういつまでも生き長らえたくはなかった。恐らく、自分が死ぬには自害しかないのだろう。この体の能力で自分自身を焼くことはできるのか、それともどこかに拳銃かナイフでも持っていないかなと、服の中を探ろうとしたそのとき、先ほどのK−Xの言葉が、一つの考えとともに頭の中を駆け抜けた。
 ――隣の部屋では……。
 楓は一瞬だけ、その場に立ち尽くした。しかしすぐに、ふっと微笑をその顔に浮かべる。それから、彼女は身を翻した。先ほど自分たちが逃げ出してきた方へ。
 駆けていくと、ちらほらと穏健派メンバーたちと遭遇した。中には話しかけてくる者もいたが、楓は無視してその脇をすり抜けていった。F−Gと入っていった資料室の左手にある、大きな扉の前に来ると、そこで立ち止まった。扉の横には、様々なロックの機械。この扉を破ることができるだろうかと考えていると、不意にロックの機械の横のスピーカーから声がした。
『L−Uか? どうした、あいつらを始末したか?』
 K−Xの声だった。楓はスピーカーを見つめ、顔を上げる。扉の上の方に、小さなカメラが取り付けられているようだった。中から、これで扉の外の映像が見られるのだろう。
「はい」
 そう答えると、扉の内側からかすかに足音が聞こえた。がちゃり、と音を立てて、扉が内側から開けられる。扉を開けた男の向こうに、大仰な台の上に載せられた爆弾らしき機械と、そのそばに立つK−Xの姿が見えた。
「ふむ。ご苦労だったな、L−U。これで、我々を邪魔立てする者は――」
 K−Xの声は、火を噴き上げた男が倒れる音で途切れた。何事かと目を見開く彼の瞳に、自分に向かってくるL−Uの姿が映る。いや、正確には、自分の隣の爆弾に。
「な、何をっ……!」
 止めようとするK−Xを、楓は突き飛ばした。派手な音を立てて床に転がり、白目を向いたK−Xを、しかし楓は意にも介さない。爆弾に向かって手を掲げ、その中に、この体の持てるすべての力を凝集させていく。燃えるように熱くなった手のひらから、力を一気に放出しようとするその瞬間、楓の頭に、今日マンションの前で向き合っていた少女の、張りつめた顔が浮かんだ。楓は、少し、ほんの少しだけ、口の端で笑みを作る。
 自分でも言ったように、今のこの世界で何が善で悪かなんてわからないし、自分がやっているこのことも、本当に正しいかわからない。正しくなくてもよかった。あの子の行く道から、少しでも障害を除けるのなら。少しでも、あの子の力になれるのなら。
 手の中から凄まじい勢いで、渦巻く火炎が放射される。赤いうねりは瞬く間に、破壊の力を秘めた金属の塊を呑みこんだ。


 どこかから、地を揺るがすような爆音が轟いた。
 突然のことに、花梨たちはびくっとして、音のした方向を見た。青い空に、ものすごい勢いで黒煙と火柱が噴き上がっている。そこまで離れた地点ではないようで、黒煙がみるみる膨れ上がっていく様子も、その合い間を昇る炎の赤い揺らめきもよくわかった。
「何、あれ……まさか、能力者の戦い?」
 呆然とした口調で、アンが言う。花梨も声もなく爆発の方を見つめていたが、やがて先ほどの、F−Gが伝えてきた内容がふっと頭に浮かんだ。
「もしかして、楓さんたちかも……」
 呟くようにそう言うと、アンとギルが驚いた顔でこちらを見た。
「楓? どうして? やっぱりさっきのは、あのテロリストの女と関係あったのか?」
 せっつくように、ギルが聞いてくる。先ほどF−Gから衝撃の事実を告げられて、花梨はアンやギルがかけてくる声も聞こえず、自分の頭の中で跳ね回る思考を必死に整理しようとしていたのだ。そこに、あの爆音が聞こえてきた。
 花梨はギルに頷きかけたが、どう説明したものかと、彼やアン、それに士を、ぐるりと見回した。そのときだった。
 すっと、肌が何かを感じた。花梨ははっと顔を上げる。視線を上げた先には、何も見えなかった。だが、目には見えなくても、先ほどと同じ、肌で感じる力の流れがこちらに向かってくるのが、はっきりと感じられた。黒煙の立ち昇る方から。
 目を瞠る花梨たちの前で、力の流れは、やはり先ほどと同じように、士のもとへと一直線に向かってくると、彼の中へと飛び込んでいった。士は思わずといった様子で、逃げるように後ろに退いたが、そのときにはもう力は彼の中に入り尽くしていた。
「何なんだ……どうしてまた、俺の中に力が……?」
 自身の胸を見ながら、わけがわからないというように士が言う。それに、花梨は答えた。
「もしかして、楓さんの種が、稲玉君の中の親種に引かれて飛んできたのかも」
 その言葉に、皆は弾かれたように花梨の方を見た。一番激しく反応したのは、アンだ。
「どういうことなの!? 親種が稲玉士の中にあるって!?」
 詰め寄らんばかりの彼女を手を上げて押しとどめながら、花梨は先ほどのF−Gの話を説明した。話が進むにつれて、皆の表情に驚愕の色が浮かんでいく。
「だから、テロ拠点で楓さんたちは危機に陥ってたみたいだから、タイミングから考えて、さっきの爆発もそれに関係あるんじゃないかって思って。で、ここから先は、今起こったことからの推測だけど、楓さんはあの爆発でテロリスト穏健派を滅ぼしたんじゃないかな。そうしたら、その人たちの種の力は楓さんが吸収したでしょう。でも、楓さん自身も多分あの爆発で死んじゃってる。とすると、その集まった種の力はどうなるかってことになるんだけど、さっきギルが話してくれたように、楓さんの種は多分、まだ親種と引き合う特異性を持ってたんだよ。稲玉君が楓さんの位置がわかったのも、だからだろうね。それで、どこにも行き場がなくなった楓さんの種は、親種と引き合って稲玉君の方に飛んできたんじゃないかなって、そう思ったんだ」
 だが、この推測が的を射ているなら、楓はもういないのだ。つきんとした痛みを胸に感じながら、花梨は口を閉じる。アンとギルは、呆気に取られたように花梨を見つめていたが、やがてその視線を士に移した。同じく呆然とした様子だった士も、彼らの方に目を向ける。
「どうする、アン」
 士を見たまま、ギルが尋ねる。アンは硬い表情で答えなかった。
「思いがけない形で親種が見つかったわけだけど、こいつをどうかするか? でも俺は、親種が人の中に埋め込まれている以上、たとえこいつを殺しても、親種はそのままこっちの種と融合するだけだと思う。それにそもそも……」
「……そもそも、私たちにはこの人は殺せない。わかってるわよ、それぐらい」
 アンが、小さな声で呟いた。確かに、それはわかりきったことだ。能力無効化の力を持つ者が相手では、どんな能力者だってほとんど無力だ。それに、今の士は、恐らくとてつもない力を持っている。先ほど順仁の種から吸収したエキセントラ力は、とても強大なものだったし、今の楓の種のエキセントラ力も、たくさんの能力者を殺したテロリストたちの力をすべて吸収したためか、やはり肌で感じられるほどに強いものだった。今の士からは、かすかなオーラのように身の内のエキセントラ力が滲み出ているのさえ感じ取れる。
 士はアンたちの会話を聞いても、特に何も言わなかった。黙ったまま、目をすがめただけだ。皆の間に沈黙が広がりかけたそのとき、不意に携帯の着信音が響いた。ギルははっとしたように腰の辺りを見ると、慌ててズボンのポケットから携帯を引っ張り出す。着信相手を見て目を見開くと、彼は携帯を開いて耳にあてた。
「もしもし? ルークか? お前、無事だったのか!」
「ルーク?」
 アンが、驚いたようにギルを見た。花梨も同様だ。確か、ルークとはCCIに潜入しているレジスタンスメンバーのはずだ。昨日の人狼との戦い以降、アンやギルが何度携帯にかけてもつながらなかったそうで、正体がばれて殺されたのかもしれないと言っていたのだ。ギルはしばらく言葉を交わしていたが、やがてはっとしたように腕時計を見やると、アンの方に顔を向けた。
「アン、今、携帯ラジオ持ってるか?」
「え、持ってるけど……」
「じゃ、すぐにつけろ。多分どの局でもだけど、今発表してるところらしい」
 何を、とは聞かず、アンはすぐに上着の内ポケットからラジオを取りだした。電源を入れると、ザザ、というかすかなノイズとともに、ひび割れた音声が流れ始めた。どうやらニュースのようだ。眉をひそめて、アナウンサーのざらついた声を聞いていた花梨とアンは、やがて、驚きに目を丸くしながら顔を見合わせた。
 首脳陣が、日本の首都を東京から名古屋に移すと発表したらしい。テロリストの攻撃が東京に集中しているので、そこから政治の中心を避難させるのが目的らしかった。
「正式発表されたのは今さっきだけど、昨日の時点でもほのめかしはしてたらしいよ。俺たちは昨日、ラジオ聞く暇なんてなかったけど」
「でも、どうしてルークがそれを知らせてくるの? このことがCCIに何か関係あるの?」
「ああ、大ありなんだ。まだラジオ切らないで」
 ラジオの電源を切ろうとしていたアンに、ギルが言う。アンが怪訝そうな顔で電源スイッチから指を離したそのとき、アナウンサーの声が言った。
『――なお、首脳陣が言うには、日本の選ばれた者たちには、ぜひ新たな首都に来訪願いたいとのことです』
 花梨とアンは、息を呑んだ。選ばれた者たち。テロリストが東京に能力者を集めたときと、同じ言葉だった。
「どういうこと、テロリストは壊滅したのに……まさか、この呼びかけをさせたのはCCI?」
「そのまさかさ」
 苦い顔つきでギルが言うと、アンの顔が強張った。
「政府関係にまで、CCIは手を出しているの?」
「ああ。そもそも、首脳陣に首都を移させたのはCCIらしいんだ。そして、そんなことをさせた目的は……」
 アンの顔から、すっと血の気が引いた。
「……ホワイトキャッスルを、名古屋に出現させるためね。確かに名古屋は、都市としての規模は東京に劣るけれど、文化的、経済的な中心性は、日本のどこよりも強い。能力者が淘汰されてきたから、首都を移すことでさらに名古屋の中心性を高め、同時にそこに能力者を集めて殺し合いをさせ、一気にホワイトキャッスル出現にこぎつけようっていうのね」
「そういうことらしいな。CCIの幹部も、名古屋に向けて出発するらしい」
 答えるギルの顔も青白かった。一拍置いて、彼は続けた。
「それで――俺たちはどうする?」
 その問いに、アンは黙ったまま答えなかった。どうするべきか。それは彼女にもわからないのだろう。CCIに呼び出されるままのこのこ名古屋に向かうのも馬鹿げているが、だからといってここに留まり続けて意味があるのか。そんなふうに考えているのだろう。黙り込んだ二人の間に、花梨の静かな声が割って入った。
「私は、行くよ。名古屋に」
 アンとギルが、驚いたように顔を向けてきた。
「ルナ、あなたが? あなたは、戦いが嫌いだったんじゃないの?」
 戸惑いを隠せない様子のアンを、花梨はまっすぐに見つめた。
「……嫌いだよ。でも、戦いを終わらせるための戦いも、あるんじゃないかと思って」
 今胸にある思いを的確に表す言葉を探しながら、花梨は続ける。
「こんな戦いを引き起こしたCCIに対して、私は戦いたい。CCI本部に乗り込むのはもう無理だって言ってたけど、彼らが本部を離れて名古屋に来るのなら、攻める隙があるかもしれない。たとえ彼らを止めることができなくても、何か私にも、できることがあるかもしれない」
 花梨は大きく息を吸い込んだ。
「もちろん、怖いよ。死ぬかもしれない。でも、どのみちもう戦いから逃れることなんてできないと思う。それなら、私は自分自身の意志で進みたい。楓さんやF−Gさんが進んでいったように。最後の最後で後悔したくないから、私は、名古屋に行く」
 口を閉じても、アンもギルも、何も言わなかった。じっと、花梨の顔を見つめているままだ。わかってもらえるようにと、花梨も彼らから目を逸らさずにいると、不意に、思いもかけない方から声がした。
「……俺も、行こうかな」
 突然の声に驚いた花梨たちは、揃って声の主――稲玉士の方を見た。
「稲玉、君……? でも、それこそあなたは、戦いの場からずっと逃げてきたんじゃないの……?」
 どうして今さら、という思いを隠せない花梨をちらりと一瞥して、士は深々と息を吐きだした。それから、ぽつりと言う。
「今水附が言ったのとちょっと重なってるけど……やっぱり逃げられないんだよな、と思ってな」
 広げた自分の手に、視線を落とした。
「俺は、戦いなんて嫌で、今日までずっと逃げてきたんだけど……でも、さっき初めて実際に人を殺して、それに、親種なんてものが体の中に入ってるって知って、極めつけに、なんかこんなにすごい力を持っちゃったわけだろ? ここまできたら、もう逃げられるもんじゃないっていうのを思い知ったんだな」
 開いた手を、軽く握り締める。
「ま、行ったって何ができるかわからないけど……行くだけでも行ってみるかって、そんな気になってな」
 拳に視線を落としたままの士を、花梨は見つめた。いつも人から距離を取り、誰かと言葉を交わすのさえ疎ましそうにしている彼が、こんな風に心情を吐露するなんて。それだけ彼も、思い詰めているのだろうか。
「私も行くわ」
 ふと、アンが言った。いつもの強い光が、その瞳に浮かんでいる。
「ルナの言う通り、確かにCCIのメンバーが名古屋に来るんだったら、彼らを攻めるチャンスだもの。少人数でも何とかなるかもしれない。やっぱり私も諦めたくないし、こんなところでじっとしているより、最後までレジスタンスの一員として戦いぬくことを選ぶわ」
 言い終わり、一つ息をついてから、アンはギルに視線を向けた。彼は口の端で笑う。
「……この展開で、一人行かないなんていうわけないだろ。でも、じゃあなんだ、結局みんなで名古屋に行くってことなんだな」
 笑いながらのその言葉に、しかし士は顔をしかめてみせた。
「勘違いするなよ。俺は別に、あんたたちと一緒に名古屋に行こうって言ってるわけじゃない」
「え、なんだ、お前は一人で行くつもりなのか」
 眉を上げながら言うギルに、士は当然のように頷く。が、そのあとに付け加えた。
「まあ、向こうでお互い会うことはあるかもしれないけどな。状況によっては、少しぐらい力を貸してやるかもしれない」
「それは心強いわ。それだけの力を持つあなたが味方なら、CCIの連中なんて怖くないもの」
 アンの言葉に、士は鼻を鳴らしただけだった。くるりと背を向け、そのまま立ち去っていく彼を、ギルは呆れ顔で見送る。
「実際、あいつが手を貸してくれることなんてあり得るのか?」
「さあね。まあでも、少なくとも彼はCCIの言いなりになるようなことはないでしょう」
 苦笑を浮かべながら、アンが言う。それから彼女は、花梨に目を向けた。それを受けて、花梨は大きく頷く。
「じゃあ、行こうか――名古屋へ」


(担当・白霧)
 結局遅くてすみません。しかもむっちゃ長い。なんで私は短くまとめるのこんな苦手なんだろう……。
 でも、ここまで来たので、せっかくだからパート3まで書いちゃいたいです。「いくらなんでも書きすぎだろ!」と思う人は突っ込んでください。突っ込まれなかったら続き書いちゃいます。今度はさすがにこれほど長くなることはないはずです。