blue-ryu-comic blue-spring-jojo その12(3)

 窓から朝の白い光が差し込み、部屋の中を明るく浮かび上がらせている。もう風の唸りも木々が騒ぐ音も聞こえず、その代わりどこか遠くの方から、チチチ、という小鳥の軽やかなさえずりが耳に届いてくる。嵐は完全に過ぎ去ったのだ。
 私は椅子に腰掛けたまま、ぼんやりと、朝の日差しに照らされた床を見つめていた。時刻はもう、七時を回っている。カチカチと時計が時を刻む音と、時折聞こえる鳥のさえずりが、私一人がいるだけの静かな部屋の中で、やけに耳に響く。
 ふと、その静寂の中に、かすかな音を感じた。毛足の長い絨毯に大方吸い取られているようだが、それは確かに足音だった。足音の主は、この部屋の前で立ち止まったようだ。扉越しに、何やら話し声のようなものが聞こえる。
 と、扉が向こう側にゆっくりと開いた。そこから入ってきたのは東条だった。手に湯気立つ二つのカップを載せた盆を持っている。東条は部屋に入ってくると、振り返り、扉を開けてくれた見張り役の青波幸生に、ありがとう、と軽く頭を下げた。それから何気ない口調で言う。
「すみませんが、あなたは皆のいる大広間に戻っていてくれませんか。明日香さんは私がきちんと見張っておきますから」
 幸生は、少し迷うような表情を見せたが、すぐに頷き、扉を閉めた。絨毯に吸収されてわかりづらい足音は、すぐに聞こえなくなった。
 東条は、私の座っている椅子の前の机に盆を置いた。カップの中には、透き通った綺麗な色の紅茶。ちゃんとミルクと砂糖も持ってきてくれた。彼は、私がストレートティーは苦手なことを知っているのだ。
「どうぞ、明日香」
 東条は言うと、カップの一つを持ち上げた。この部屋に椅子は一つしかないので、ベッドの縁に、私と向かい合うようにして腰を下ろす。彼は無言で見つめる私に、カップを少し掲げてみせてから、ミルクも砂糖も入っていない紅茶に口をつけた。
 それを見て、私もようやく、盆の上のカップに手を伸ばした。自分の前に置いてから、ミルクと砂糖を入れて、かき混ぜる。少し白っぽい色になった紅茶を一口飲むと、適度な甘さが口の中に広がり、じんわりとした熱さが喉から腹へと落ち込んでいった。思わずほうっとため息をつく。
 そんな私を、紅茶を飲みながら眺めていた東条は、そっとカップを口から離した。
「……そろそろ、落ち着きましたか」
 私はカップを手に持ったまま、東条の顔を見つめた。軽く口元を引き結び、黙って頷く。彼はわずかに目を細めた。
「ふもとの方で道を塞いでいた土砂は、あらかた取り除かれたそうですよ。警察も、もうすぐここに到着するはずです。……その前に、一度あなたと二人で話をしておきたいと思いましてね。内容を聞かれたくなかったので、幸生さんには皆のところへ行ってもらいました」
 そう言って、彼はカップに残っていた紅茶を飲み干した。私も黙ったまま、温かい液体を少しずつ喉に流し込んでいく。
 私以外の、青波邸浪岡邸に残っていた者たちは、使用人も含めて、全員青波邸の大広間に集まっている。警察が来るまでに浪岡家の者たちが逃げ出さないよう、青波家の者たちが監視している形だ。もっとも本人たちは、今遁走しても警察から逃げおおせるはずがないと諦めているようで、特に目立った動きはしていないらしい。ただ、私の方は放っておくと、また先ほどのように浪岡家の者を襲いかねないとみなされ、こうして自室に閉じこめられている。窓はあるが、ベランダも脱出のための足がかりもない三階なので、出入り口は扉だけだ。その扉の前を、青波家の者が交代で見張っていたのだが、東条は先ほどその役についていた幸生を追い払ってしまった。
 私が紅茶の最後の一口を飲み終え、カップを盆の上に戻すと、東条も立ち上がり、カップを置いて、またベッドの縁に腰掛けた。私はその動きをじっと見守っていたが、彼がまっすぐ視線を向けてくると、私の方から口を開いた。
「ねえ、東条君……。さっきのパントリーでの話のことで、聞きたいことがいくつかあるの。教えてくれる? あなたが何で、あんなに色々なことを知っていたのか。あなたが一体、何者なのか……」
 膝の上に置いた両手を、無意識にきゅっと握りしめる。東条は私を見つめたまま、一つ瞬きし、静かに頷いた。
「ええ。私もその話をするためにここに来たのです。あなたにだけは、知っておいてほしくて」
 そう言って、彼は軽く眼鏡を押し上げる、いつもの仕草をした。
「そうですね、ではまず、私が何者なのかから話しましょうか。私が色々なことを知っていたのも、そこに起因するので。……と言っても、私の正体など大したものではなく、先ほども行ったとおり、浪岡家の長男なのです。もっとも、粉太郎氏の前妻である理香子さんと、その浮気相手との間に産まれた子なのですけれどね」
 私は驚いて目を見開いた。その反応に、東条はかすかな苦笑を口元に滲ませる。
「まったく、青波浪岡両家の者たちは、なぜこうも揃って遊び好きなのでしょうね。……しかし、浪岡家が不倫の産物たる弓子さんを殺したことからも、察してもらえるかと思いますが、私はあの家では完全に厄介者扱いでした。浪岡家当主の妻が、どこかの馬の骨と作った子供などが世間に知られたら、浪岡家の威信は地に落ちる。ただ、さすがに産まれたばかりの赤子を殺すのは彼らにとっても忍びなく、人目の届かないところに監禁することで、その存在を隠し通そうとしたのです。まあ、明日香と同じ境遇と言えますが、私の方がずっとマシだったでしょうね。閉じこめられたのは屋外のコンクリートの穴ではなく、使われていない物置でしたし、一人の女給が私の世話係となって面倒を見てくれましたから。ただ、そこには理香子さんも粉太郎氏もほとんど来たことがなかったので、親子で互いの顔は知り合わないでいましたが」
 東条が実の母を「理香子さん」と名前で呼ぶことが、彼にとって母親がいかに遠い存在だったかを感じさせた。思い返してみれば私の母の頼子は、私に敵意と攻撃ばかり向けてくる、危険で恐ろしい存在だったが、その分彼女は私の精神の大きな範囲を占めていた。私の中に、彼女は確かに「いた」のである。東条と彼の母親の間には、そういう近さすらまったくなかったのだ。
 東条は淡々とした声音で続けていく。
「その物置の中で、私は育っていきました。世話係の女給は、私に同情して優しくしてくれたし、食事もきちんと与えられていましたが、部屋から出ることだけは許されませんでした。一つの部屋の中しか世界を知らないまま、私は成長していきました。そして、五歳ぐらいのときだったでしょうか。ある日突然、鍵がかかっているはずの部屋の扉が開き、同じぐらいの年頃の女の子が入ってきたのは。私と女給、それにその子自身も、とても驚きましたが、やがて女の子は自己紹介をしてくれました。……その子は、青波弓子と名乗りました」
 私は音を立てて息を呑んだ。まさかここで弓子の名が出てくるとは思わなかった。私は見開いた目でまじまじと東条を見つめ、呟くように尋ねた。
「弓姉ちゃん、だったの? その子、本当に弓姉ちゃんだったの?」
 ええ、と東条は頷いた。
「当時の私には、青波弓子という子がどのような存在なのかは、知るよしもありませんでしたけれどね。彼女は青波武生氏に連れられて、浪岡邸にやってきていたのですが、彼と離れて屋敷内を探検している間に、その物置に行き着いてしまったようなのです。扉が開いたのは、女給がうっかり鍵をかけ忘れていたからです。私と弓子さんは、少し言葉を交わしましたが、女給がすぐに追い返してしまいました。浪岡家の者にも、青波家の者にも、絶対に私と出会ったことを口外しないように念押しして。弓子さんは残念そうな顔をしながらも、その日は大人しく武生氏のもとへ向かったのですが……」
 そこで東条は、すっと目を細めた。微苦笑のようなものをちらりと浮かべる。
「弓子さんはそれからも、浪岡邸を訪問するたびに、こっそり私のところへ訪ねてくるようになりました。物置に閉じこめられ、世話係の女給以外誰にも顧みられないこの私に、同情を覚え、また純粋に興味を持ってくれたようでした。女給は最初、私のことが青波家に漏れるのを恐れ、また浪岡家の者が弓子さんに気づくのではないかと危惧して、弓子さんを止めようとしていましたが、やがて彼女も弓子さんの来訪には目をつぶってくれるようになりました。弓子さんは私にたくさん話をし、菓子なども持ってきて、時には女給に手伝ってもらって、こっそり二人で屋敷の庭ぐらいまで出るようになりました。彼女の存在は、私にとって、とても大きな心の支えになったのです」
 東条は話しながら、どこか遠くを見るような瞳をしていた。懐かしさの滲んでいるその口調に引き込まれ、私の目の裏にも弓子の面影がちらついた。婚約が決まる前によく見せていた、こちらが元気づけられるような明るい笑顔を。
「……弓姉ちゃんらしいよね」
 ぽつりと私が言うと、東条は深く頷いた。
「そうですよね、本当に……。そうして私と弓子さんとの交友は続いていきましたが、私が十歳になったときでした。弓子さんが、嬉しそうな悲しそうな顔をして、私のもとにやって来たのは。……妹ができたと、彼女は言いました」
 私ははっと瞠目した。鼓動が少し、速くなる。東条はじっと私を見据えたまま、話を続けた。
「妹ができたのは嬉しいけれど、彼女は半年ほどしたら中庭にあるコンクリートの穴の中に放り込まれてしまうと、弓子さんは泣きそうな顔で言いました。聞いている私には、どうすることもできなかったのですが……しかし弓子さんは、幼いながら立派な人で、母の目を盗んで妹の面倒を見るようにしたのですね。そちらが忙しくなり、以前ほど頻繁には私のもとへ来なくなりましたが、それでもたまにやって来ては、私に妹のことを細かく話して聞かせてくれました。そのうち写真も撮って、私に見せてくれました」
 写真。そういえば確かに、神崎が私のところへ姿を現すようになったばかりの頃、彼がカメラを持ってきて私を撮ったことが一度だけあったような気がした。撮影という生まれて初めてのことに、カメラに強張った顔を向けた覚えがあるが、恐らくそのときの写真だろう。
 東条の声が、不意にわずかに低くなった。
「そして、私が十四歳のときでした……世話係の女給が、ある日の夜中に、私をこっそり物置から出して、屋敷の外に私を導いてくれたのは。逃げてくださいと、彼女は言いました。このまま物置の中などで一生を終わらせず、逃げて自由になってくださいと。私は弓子さんのことが気がかりで、少しためらったのですが、彼女には私から言っておくと女給が言ってくれたので、私はついに吹っ切れて、夜の町へと逃げ出していきました。いつか必ずこちらから弓子さんを訪ねようと、心に誓って」
 遠い過去を思うような口調で、それでも力強い響きで、東条は言った。ふっと、私は昔のことを思い出す。東条が十歳のときに私が産まれたのなら、東条と私は当然十歳違う。そして彼が十四歳のときに逃げ出したなら、そのとき私は四歳だ。確かそれぐらいの頃、弓子が嬉しそうな、でもどこか寂しそうな顔で、穴の中に下りてきたことがあったように思う。私がその表情のわけを尋ねると、彼女は、「彼、行っちゃったんだ……。やっと自由になれて本当によかったけど、でもちょっと、寂しいな……」と、どこか独り言のような口振りで呟いていた……。
 私は思わず、やや願うような口調で尋ねていた。
「それで、それで東条君は、そのあと弓姉ちゃんに会えたの?」
 東条は、静かに私を見つめた。感情の動かない瞳に、彼が何も言わないうちに答えはわかってしまった。
「いいえ……残念ながら」
 予想通りの答えを、彼は返してきた。
「私は屋敷から逃れたあと、しばらく町をさまよっていましたが、やがて偶然出会った眼鏡山氏に引き取られました。彼は事務所の経理をこなせる人材を探していたのです。私の方でも、何か職に就きたかったし、探偵業に関わっていれば、そのうち弓子さんや彼女の妹のことなどを調べられると思ったので、お互いに渡りに船だったのですね。そうして彼の下で懸命に働き、少しずつ探偵調査のやり方などを身につけてきた頃でした……弓子さんが、バルコニーから転落して亡くなったというニュースを聞いたのは」
 そう言った東条の声は、淡々としていた。いつも通りの平坦な口調で、そこからは感情の揺れは感じられない。でも、と、私はふと思った。もしかしたらその感情のないような顔や声は、彼が孤独な生活の中で身につけた仮面なのではないだろうか。思えば私もそうだ。弓子や、せいぜい神崎しか頼れる人がおらず、頼子や辰夫に怯えながら過ごす日々の中で、私はまったくの無表情でいる方法を覚えてしまった。弱みを見せないように、すべての感情を殺して振る舞うすべを。今回の双草荘の事件でも、東条が出てくるまでは、自分を律するために、皆の前では常に無表情を保っていた。
「初めてその事故を聞いたとき、私は信じることができませんでした。それは眼鏡山氏も同様でしたね。あとから思えば、バルコニーから落ちたのが粉太郎氏ではなく、よりによって弓子さんだったのが、彼には衝撃だったのでしょう。そこで、我々は双草荘の付近に出向き、外から様子を調べようということになりました。そして、私と眼鏡山氏が別々に行動したときに……私は双草荘のすぐ近くの道端で、昔私の世話係をしていた女給と偶然再会したのです。彼女は私を見て驚きましたが、事情を聞くと浪岡邸の中に一度戻り……弓子さんの遺書を持ってきたのです」
 東条は言うと、懐から封筒を取り出した。その中から彼が取り出したのは、一枚のかなり小さな紙切れだった。やや黄ばんでいるが、大切に保管されていたのか、破損はなさそうだ。彼が机に置いたその紙切れを一目見て、私は息を呑んだ。
 そこにはやや震えた、それでも丁寧な筆致で、こう書かれていた。
『明日香をお願い。――籠から自由になった鳥さんへ』
「これは私に向けたものだろうと、女給は言いました」
 紙の上の文字に視線を落としたまま、東条は言った。
「私はこれを受け取り、弓子さんの願いを受け取りました。そして、必ず彼女の妹を――明日香を、助け出そうと思ったのです」
 東条はそこで、薄く笑って肩をすくめてみせた。どこか自虐的に思える笑いだった。
「まあ、そうは言っても、私にはどうすることもできませんでしたけどね。神崎さんなどは、青波家と親しかったので、彼らを訪ねるふりをして、ついでにあなたの様子を見に行くこともできたようですが。青波邸には警備の者もうろついているし、青波家と面識もない者が、中庭に忍び込み、ましてやあなたを外に連れ出すなどというのは、不可能だったのです。……しかし五年前、あなたは自力で中庭の牢獄から脱出してくれた。夜の町で、写真の面影を確かに残すあなたを見かけたときには、目を疑いましたが、それでもとにかく私のもとに保護しようと思って、あなたに声をかけたのです」
 夜闇の中から現れて、路頭に迷っていた私に声をかけてくれた東条の姿を思い出す。何のためらいもなく私の手を取り、眼鏡山の事務所まで導いてくれた。眼鏡山を説得して私を引き取らせ、探偵助手となった私を親身にサポートしてくれる彼が、私の過去を知っているのではないかと感じたことは、一度や二度ではなかったけれど、まさかこんな理由があったとは……。
「そう、だったんだ……。長年の謎が解けたよ。でも、弓姉ちゃんが、そんなに私のことを気にかけていたなんて……」
 浪岡家の者に精神的に追いつめられ、迫ってくる死の足音すら感じていたはずなのに。最期の最期まで、この私のことを心配してくれていたなんて。思いが突き上げ、涙が滲んできたが、まだ聞かなければいけないことがある。私は目元を拭いながら、東条を見た。
「それで、東条君はいつわかったの? 弓姉ちゃんが、実は神埼朱実や浪岡家の者に殺されたんだってことが」
 東条はすぐには答えず、机の上の弓子の遺書を手に取り、大事そうに封筒の中に戻した。そしてその封筒をまた懐にしまうと、ようやく明日香に視線を戻し、軽く息をついた。
「……最初に弓子さんの死の裏に何かあると知ったのは、事故から半年ほどが経ったときでした。眼鏡山氏のスチールケースから、彼がバルコニーにしかけた罠について記された書簡を見つけたのです。あれを読み、何者かが眼鏡山氏の罠を利用して弓子さんを殺したのだとわかりました。明日香もあれを見て、昨日の夕刻、浪岡邸の方にやって来たのでしょう?」
 私が黙って頷くと、東条も頷き返した。
「それから私は事の真相を探ろうと、以前世話係の女給と出くわした場所に行きました。そこを彼女がまた通る可能性は高いし、彼女なら何か知っているのではと思ったのです。しばらくそこをうろついていると、果たして彼女はやって来ました。私は彼女を捕まえ、眼鏡山氏の罠のことを話し、弓子さんの死には何かがあったのではないか、あなたはそれを知っているのではないかと問いつめました。彼女は最初答えるのをためらっていましたが、ついに話してくれたのです。粉太郎氏と弓子さんの関係や、浪岡家の中で企てられた陰謀のことを」
 そのとき不意に、東条の瞳が冷たく燃え上がった。はっと背筋を強張らせる私の前で、東条は強く拳を握りしめ、低い声で言葉を継いだ。
「彼女自身は、弓子さんを殺したくなどなく、その陰謀にはあまり関わらないようにしていたらしいですが、陰謀そのものを止めることは、女給一人の力では無理だったと言いました。せめてもの罪滅ぼしとして、彼女は陰謀に関わった者たちの名前など、知っていることを洗いざらい語ってくれました。それをもとに、私は長い間、浪岡家や神埼朱実さんのことを、あちこちに手を伸ばして探っていきました。――弓子さんを殺害した彼らに、復讐をするために」
 目を強く光らせ、口元に獰猛そうな笑みを浮かべた東条を声もなく見つめながら、私は改めて彼という人物を知るような気がした。恐らくこれが彼の素顔なのだろう。いつもは孤独の中で身につけた仮面を、何重にも重ねて隠しているが、憎んでいる人のことになると、こうして仮面の下の激情を覗かせる……。
「復讐の方法としては、大体は、彼らの犯行を暴き、彼らに刑罰を与えよう、というものでした。特に浪岡家については、九年前の殺人や、さらには粉太郎氏と頼子さんとの不倫関係を世間に知らせれば、資産家として没落の一途を辿らせることができますからね。……ただ、浪岡家や神埼朱実さん、それに弓子さんをストーカー的に追い回していた眼鏡山氏などは、警察に真実を明かせば、相応の報いを受けさせることができましたが……そうはいかない人もいたのです。それが、神崎弘さんでした」
 突然出てきたその名前に、私ははっとした。先ほどの推理ショーで、眼鏡山を恨んでいたと言った、東条の冷たい声が思い出される。
「それ、さっきも言ってたよね。でもなんで、東条君はそんなにお父……」
 お父さんと言ってしまいそうになり、私は慌てて口をつぐんだ。そんな私を見ながら東条は頷く。
「あなたの父が神崎さんだということは、弓子さんから聞いていましたよ。神崎さんと頼子さんが不倫をして、その結果産まれたのがあなただということは」
 言ってから、眼鏡の奥の瞳を煌めかせる。
「そしてあなたも気づいていたでしょう? 彼は、娘であるあなたや弓子さんのことを忘れてしまっていたのです。自分があなたたちを連れて逃げなかったばかりに弓子さんが死んでしまったのだという、後悔と自責の念から逃れるために。私にはそれが……許せなかった」
 東条は、関節が白く浮くほど強く手を握りしめ、噛みしめた歯の間から漏らすような、押し殺した声で言った。
「弓子さんは彼を信じていました。いつか彼が、穴の底の明日香を何とかして助け出してくれるんじゃないかと、希望を込めて私に語ったことも、一度や二度ではありませんでした。私もそれに同意して、いつか私も明日香も自由の身になって、三人で会えることがあるかもしれないねと、弓子さんと明るい未来を話し合ったこともありました。……それなのに、自分が楽になりたいばかりに、娘のことも弓子のことも完全に忘れてしまった神崎さんのことが……どうしても許せなかった。でも、彼は別に犯罪を行ったわけではないので、刑罰を与えることはできませんでした」
 そこで、東条はふっと笑った。思わずぞっとしてしまうほどに、冷酷で凄絶な笑みだった。
「だから、私は神崎さんを狂わせたのですよ。――実の娘も弓子さんの思いも見捨てた彼に、私自身が罰を与えたのです」
 私は黙ったまま、笑う東条の顔を見つめていた。何も言えなかった。どういう感情を見せたらいいかもわからなかったし、まだどんな感情でも、彼の恐ろしいほどに激しい怒りの前には、虚しいものに感じられた。東条も何も言わずに私を見つめ、不意に降り立った沈黙の中、時計のカチカチという音だけが二人の耳朶を叩いていた。
 何十秒経っただろう。ふっと、東条の瞳から、苛烈な輝きが薄れた。彼は肩の力を抜き、軽く息を吐き出しながら、視線を膝に載せた自分の手の上に落とした。前髪が落ちかかり、私からその表情を隠す。
「……私は、弓子さんのことが好きでした」
 そっと、東条は言葉を紡ぐ。
「それが恋愛感情だったのかどうかはわからなかったし、今もわかっていません。でも、『好き』という思いそのものは間違いありませんでした。あの物置という牢獄の中、彼女が、彼女だけが、明るく輝く私の希望でしたから……」
 それきり再び黙ってしまった彼を、私もやはり見つめるだけだった。窓の外のどこかで、一際大きな声で鳴き交わされた鳥たちのさえずりが、朝日に照らされた静かな部屋の空気を震わせた。


 そのとき。私はふと、眉を上げた。時計の音でも、鳥の鳴き声でもない、何か別の高い音が、鼓膜をかすかに震わせたような気がしたのだ。
 予感が胸の中に落ちる。私は窓に歩み寄ると、じっと外の景色を見つめた。この屋敷の広い庭の、さらに向こうに広がる山の木々。こんもりと茂る緑の隙間から、ちらりと、赤く光るランプと白黒の車体が目に入った。かすかに耳に届くサイレンの音。――警察が、ついにやって来たのだ。
 パトカーの姿は、また木々の中に消えてしまった。目と耳で確認できるほどの距離であっても、山道は曲がりくねっているし、スピードも出せないだろうから、まだもうしばらくはこの屋敷には到着しないはずだ。
 私が窓に手をあてたまま、ぼんやりと外の景色を眺めていると、東条がいつの間にやら隣に立っていた。同じように窓の外を見下ろしながら、ぽつりと呟く。
「……私は、一つあなたに謝っておかなければなりません」
 言葉の真意がわからず、戸惑って視線を向けた私を、東条もまた見つめ返してきた。その瞳には先ほどまでの怒りはなく、代わりに言葉の通り、詫びるような色がかすかにあった。
「明日香がこの連続殺人を始めたきっかけは、私の推理ショーだったでしょう? 浪岡邸で、眼鏡山氏に対して披露した」
「う、うん。でも、あの推理ショー、あれは……」
「そう。あの推理は、真実ではありませんでした。いや、真相の一部分だけを取り上げていたと言った方が正しいかな。罠を仕掛けたのは確かに眼鏡山氏でしたけれど、それで実際に弓子さんを殺した犯人は、神埼朱実さんと浪岡家の者たちだったのですから」
 東条はかすかに目を伏せた。
「もちろん、私には屋敷に来る前から、真相はすべてわかっていました。あの物足りない推理は、故意に行ったものだったのです。眼鏡山氏が、彼が仕掛けた罠のせいで弓子さんが死んだ――実際には浪岡たちの陰謀がありましたが――ことに対して、少しでも罪悪感を持っているのかどうかを確かめるために。まあ、罪悪感があってもなくても、警察に突き出そうとは思っていたのですが、ただ単に知りたくてね。……でもまさか、それを明日香が外で聞いているとは、さすがに思いも寄らなかった。そのショーのせいで、明日香が眼鏡山氏を殺し、朱実さんや女給も殺していったとなると、その死には私にも非があるかと思って」
「そんなことないよ」
 私は思わず叫ぶように言った。
「そんなことない。東条君は悪くないし、謝る必要もないよ。結局、私が悪かったんだもん。怒りや憎しみに突き動かされるまま、次々と人を殺していったなんて、今から思えば野蛮すぎた。私も東条君みたいに、罪を暴いて警察に引き渡すっていうやり方にすればよかったんだ」
「私も神埼さんを狂わせたことは、少々野蛮だったかもしれませんがね」
 何気ない感じの東条の言葉に、しかし私ははっとなった。冷たい不安が胸を揺らし、私は自分が青ざめていくのを感じながら東条を見た。
「東条君は……何か、罪に問われるの? お父さん……神埼さんを狂わせたことが、もしかしたら罪になるとか、そういうことは……」
 東条は、ふむと声を漏らしながら顎に手をあてた。その表情はあくまで静かだった。
「恐らく、大丈夫でしょう。私は暴言を吐いたわけでもなく、ただ彼と話を合わせ、事実を彼に告げたのみです。それに、私と神埼さんの会話を聞いていた人物は他に誰もいません。本当に私の言ったことのせいで神埼さんの気が触れたのか、それとも別の理由によるものなのか、それは誰にもわからないのです。こんなあやふやな状況で私を逮捕することなど無理でしょう」
 その言葉に、私は心の底から安堵した。ずっと弓子のことを思い、私を支えてきてくれたこの人が、刑務所に入れられてしまうなどとなったら、あまりに耐え難かった。肩の力が抜け、深々と息を吐き出した。
 パトカーのサイレンの音が、だんだんと近づいてきた。もう一度窓の外に目をやると、木々の枝葉を透かして見えるその白黒の車体は、先ほどより随分近くを走っていた。もうすぐ青波の誰かがこの部屋に呼びに来るだろう。
 私はそっと目を細めながら、朝日に緑をきらめかせる木々と、その合間を走るパトカーを見つめた。あともう少しで、私は警察に引き渡される。そのあとどうなるのかは、よく知らない。刑務所に入れられるのか、少年院のようなところに連れ込まれるのか、それすらもわからない。ただ、しばらくは普通の社会には戻ってこられないだろう。それでいいと思えた。私はそれだけの罪を犯したのだから。ただ、もう一度世間に戻ってこられたそのときには、私は本当に自由になっているだろう。今回のことで、長年囚われてきた青波と浪岡の呪縛から、ようやく逃れることができたのだ。そんな確信が、心のどこかにあった。
 そんな私の心境を見透かしたかのように、東条は言った。
「明日香。あなたが帰ってきたら、一緒に弓子さんの墓参りに行きましょう。浪岡家の墓所は知っています。弓子さんも、大きくなったあなたを見て、さぞ驚くことでしょう」
 私が東条を見上げると、彼は微笑んできた。今まで見た彼の笑みの中で、一番柔らかいものだった。つられて私も笑顔を向ける。笑い合ったまま、私たちはしばらく見つめ合った。
 サイレンの音がふと定まった。パトカーが屋敷の門の前に停まったのだ。ばたばたと駆けてくる足音がして、東条さん、明日香さんと、青波幸生の呼ぶ声が扉越しに聞こえてきた。
 東条が返事をしながら扉に向かう。私もあとに続きかけて、ふと足を止め、窓の方を振り返った。青く澄み渡る空を見上げながら、私は心の中で呟いた。


 ごめんね。弓姉ちゃん。ありがとう。
 いつか絶対東条君とお墓に行くから、それまで待っててね。


 それから私はまた前に向き直り、東条の背中を追っていった。


(担当・白霧)
よう〜やく終わりました。疲れた……。
結局(1)(2)と同じぐらいの長さになってしまいましたね。
時間的にも非常に長くかかってしまい、申し訳ないです……。
回収してない伏線も色々あるかと思いますが、まあ勘弁してやってください。