キャピタルCインカゲイン その2

 樹は声によって現実へと引き戻された。別に戻る必要もない乾ききった現実だ。それなのに何故、戻ってきてしまったのか。それは、樹に届いた声が、現実の忘却をも喪失させるほどに、不愉快極まりない音色だったからだ。その声は泣き声と呼べるほどに可愛らしいものではなく、むしろ、図太い雄叫びと呼んだ方がしっくりくる。

 

 叔父だった。姉の父親が、泣き喚いているのだ。握りこぶしを地に叩きつけ、大きく震える背中を丸め、おいおいと喚いている。天塩にかけた我が娘が血塗れで倒れているのだから、当然といえば当然の反応だろう。叔父は笑う時、とても下卑た声になる。しかし、現在、樹のもとに届いた叔父の声は大衆の同情を誘うものだった。可哀想に。あんなに可愛い娘さんが、今は血塗れになって倒れている。可哀想に。それでも、樹だけは同情などしたりはしない。叔父が可哀想なのはこの一瞬だけ。樹はこいつのろくでなしの面を嫌というほど見てきた。
 

 樹は無意識のうちに動かない姉と叫ぶ叔父を見ていた。動くものと動かないもの。美しかったものと醜いもの。樹はそれらをずっと見つめることで比較してみたかった。
 

 すると、冷たくどす黒い何かが、胸の奥底にじわりと広がっていくのを感じる。黒に侵食されていくようだ。もう少し具体的に例えるのなら、仲の良い友人がいなくなってしまったのに、何事もなく日常に回帰してしまったような感覚。
 

 絶望に対する軽蔑。


「…………お前という奴は」
 

 ふと、樹は叔父の視線を認識した。自分と同様、叔父もこちらに軽蔑を伴う視線を向けている。目が赤くなっていた。この人はこの短時間でどれだけ泣いたのだろう。そして、これからどれほど泣き続けるのだろう。叔父は赤くなった目で、樹を刺すような視線を投げかけている。叔父は自分を殺そうとしているのではないか。そんなことさえ考えてしまうほど、鋭い眼差しだった。


「この子がこんな目にあっているのに、お前という奴は、ぼうっと突っ立っているだけで……」
 

 言葉によって感情はよりいっそう揺さぶられ、叔父の目からはまた涙が溢れる。よく見れば、鼻水まで垂らしているではないか。汚らわしい。樹は汚らわしいという言葉しか浮かべられない。人が感情的になる様は、この上なく見苦しい。たとえそれがお涙頂戴の感動ホームドラマだったとしても、樹は肯定的な感情を抱けないし、抱こうともしない。


 ただ、見苦しい。ただ、醜い。ただただ、滑稽。


 どうしてお前は何もしない。
 なんて冷血な奴なんだ。
 お前は鬼だ。
 人間のまがいものだ。
 どうしてお前でなく、この子がこんな目に合わなくてはならないんだ。


 叔父は言葉を矢継ぎ早に紡ぎ、樹を責め立てた。樹はそれに反論せず、反応すらせず、ただ受け入れた上で、叔父を見つめる。
 

 なんて愚かな大人だろう。この人は他者を罵倒することでしか、忌避したい現実をやり過ごせない。弱い奴。「どうしてこの子なのか。どうして樹ではなかったのか」と、そればかりをずっと繰り返すつもりらしい。得てして世の中は理不尽なもの。消えてほしい奴こそが地を這いずり回り、美しきものは儚く消える。そんな常識を今更学んだなんて、馬鹿な奴。
 

 やがて、叔父は姉を助けるため、道行く人に縋り付き、救急車を呼び、対応のために姉のもとを離れていった。
 

 本当に、叔父はいつも怒って叫ぶだけだ。樹は半ば呆れながら、ゆっくりと姉に近づいた。姉が負傷してから、どれだけの時間が流れただろう。樹にはほんの数十分にしか感じられないが、怪我人にとってのその時間は、苦痛を嫌というほどに味わうのに十分な長さだ。


「……姉さん」
 

 姉は苦痛に喘いでなどいなかった。単に血を浴びて眠っているだけに見えるのだ。姉の周囲の空気は膠着している。彼女が彼女のままで目覚めることは二度とない。そんな気がした。姉はもう遠くへ旅立ってしまったのだろうか。彼女の目は長い睫毛の陰に覆われている。白く柔らかそうな頬の面影はもう見られない。生気が感じられない。


「姉さん」
 

 姉の名を口にするたび、樹の中にはある衝動が湧き上がってくる。この衝動の名前を思い浮かべることはできない。叔父の抱えていた絶望とは違う。自分の冷え切った軽蔑でもない。けれど、確実にどこかで覚えた衝動。何かに対する違和感。
 

 自分には、お涙ちょうだいの家族ドラマを演じられるほどのあたたかみなど、存在しないはずなのに。それは叔父の言うとおりだし、今だって、気にしているのは異能力者と自身の命なのだ。それなのに、なぜ、姉から目を離すことができないのか。
 

 自分の身体が、警告を放っているかのように、熱い。


「姉さん」
 

 樹は力のこもることのない姉の手を掴んだ。


「…………ッ!」
 

 そして、愕然とした。姉の手もまた、熱を帯びている。これだけの出血でも、彼女はまだ生きている。助かるかもしれない。


「ごめん、な、さい……」


「……姉さん?」
 

 彼女は樹の腕に、愛おしそうに縋り付いた。彼女の手は冷たく、震えていて、赤いものでべたついている。樹は戸惑ったまま、彼女を見つめる。この後の言葉が、彼女の最期の言葉になるのかもしれない。そう思われるほどに弱々しく、彼女は樹に呼びかけた。


「ごめんなさい、樹……」
 

 姉の肉体に異変があらわれたのは、その次の瞬間だった。
 

 姉が黒くなっていく。樹の能力ではない。樹はこんな風に黒を操れない。黒が肉体に広がっていくたびに、姉は苦しそうに喘いだ。そして熱に浮かされたようにごめんなさいを繰り返す。


 次の異変は彼女の顔に、その瞳に起こった。輝いていた瞳は力を失い、光を失い、闇を灯した。ここまでは、死への旅路と何ら変わりはない。問題はその後だ。彼女の目が窪んだ。穴でも開いたかのように、顔の奥へと吸い込まれていった。次に、形のよい鼻梁。震える唇。白い頬。全てが窪んでいく。
 

 顔に、穴が、開いていく。


「樹、助けて……」
 

 口を失ってもなお、姉はどこからか想いを届けている。たった二つの、ちっぽけな想いだ。ごめんなさい。助けて。謝罪と要求を請うて、樹の腕を顔へと持っていく。顔に開いた暗闇の中へと、だ。
 

 喰われる。
 

 樹の判断は一瞬で下された。彼はすぐに姉の手振り払った。すると穴が姉の肉体に増殖した。今度は心臓部だった。


「痛い。痛い。ねえ、痛いよ。樹、痛いの。助けて。謝るから、だから、助けて。ごめんなさい。今更だけど、ごめんなさい。助けてほしいの。私の顔が無いの。このままだと体まで無くなっちゃう。お願い。助けて。樹。助けて。私の顔が無いの。樹が持ってるんでしょう? 樹だけが、私の顔の在り処なの。お願い。頂戴。返して。そうすれば、私は助かるのよ。お願い。何度でも謝るから。お願いよ、樹」
 

 姉は叫んだ。死人が声を出すとしたら、このような声なのだろうか。もしくは、これは死にゆく人の呻き声なのだろうか。樹には分からなかった。ただ、目の前にあるこれは自分の姉ではない。それだけが事実だった。樹の目に、かつての姉は理知的な女性として映っていた。彼は姉を前にすると、自分が聖女の御像の前に跪く流浪の旅人のように思えた。姉は叔父のような愚か者でも、自分のようなろくでなしでもない。間違った常識を理性で捻じ伏せていく。彼女はそんな魅力を持った人だった。 
 

 しかし、目の前のこれは既に人間ではない。理性を失った獣。いや、獣でも死期を悟り、死に場所を探しにすぅっと消えていくのだから、獣よりも質が悪い。
 

 姉は、運命を背負い、清らかに逝くことなど、できはしなかったのだ。


「助けて。ごめんなさい。助けて。ごめんなさい。助けて。ごめんなさい」
 

 樹は目の前のものと距離を取りながら必死に考える。いや、必死に考えながらも、自分が何を考えているのか理解できていない。混乱している。
 

 もし姉があの手紙を貰っていたとしたら?
 姉が能力の持ち主だったとしたら?
 あるいは、これがあの少年の能の副作用だとしたら?
 

 ありとあらゆる可能性が浮かんでは消え、また浮かんでくる。泡沫だ。


「……屍人を操るなんて、メルヘン極まりない能力だよ」
 

 独り言と一緒に自嘲までもが零れる。いずれにせよ、目の前のこれは飲み込んでしまわなければならない。でないとこちらが殺される。これは世界が望んだことだ。
 


 樹が人を飲み込むと、いつも流れ込んでくる風景がある。それはどうやら人の生きてきた黒い軌跡のようなもので、暴食やら強欲やら嫉妬やら怠惰やら傲慢やら色欲やら憤怒やらに塗れた見たくもないもの延々と見せられた。個人の心の闇というのか、はたまた心の傷というのか。ともかく、人を飲み込む度、人を殺したという恐ろしさと他人の罪が自分の中に蓄積されていく。そして、自分がより黒くなっていくような錯覚に囚われる。
 

 今まで飲み込んできた奴らは正直、自分にとっては何でもない奴らばかりだった。だからこそ、飲み込んでも頭痛や吐き気、不眠に襲われる程度で、堪えることができた。誰も皆似たりよったりな人生で、まあ人生なんてこんなもんだよ、と達観しているだけで済んだ。目を少し細めて静観しているだけ、それだけで済んだ。
 

 しかし、近しい人はダメだ。特に、姉は。
 

 姉の生き方なんか知りたくない。姉の本音も知りたくない。知ったとしても何にもならない。自分が姉のように変わることはできない。ただ、劣等感と喪失感の狭間を生きるだけ。


「……樹」
 

 しかし、目の前に横たわる彼女は樹を呼び続ける。その弱々しい声を聞く度、樹の心は揺れ動く。
 

 飲み込んでしまおうか。この女性を、今、ここで。
 

 姉を飲み込めば、姉が自分のものになる。そんな気がした。姉の生きてきた跡を、自分が引き継げる。そんなはずないのに、そうとしか思えなかった。
 

 樹は姉を好いていたし、姉になりたいとも思っていた。


「……樹」
 

 姉ではなくなった姉が自分を呼ぶ。
 

 履歴書なんて関係ないわ。樹は樹よ。
 

 そう言い切った、澄んだ声色とはまったく違う。姉のものではない声が、姉の言葉を告げている。


「姉さん」
 

 樹は闇を取り出した。
 

 これで、彼女になれる。馬鹿を馬鹿とも思わない彼女。自分の救いとなってくれた彼女。頭のいい彼女。美しき人。
 

 姉を飲み込んだ樹の表情は、笑顔だった。自分の表情を醜悪だと認めながらも、樹は笑みを崩せない。
 

 また、一つ、体の中に黒が溜まった。
 

 そして、その黒は、想像しうる限りの最悪の夢を見せるのだ。


 姉を飲み込む。


 熟れた果実のような、どろりとしたあの甘美な香りを感じた。懐かしさを感じた。
 

 姉と過ごした日々を思い出す。樹は姉と一緒によく果物を食べた。姉の好物は真っ赤に熟れた林檎だ。叔父は姉にしか美味しいものを与えなかった。姉はそれを不公平だとして樹にも分け与えた。


「美味しいね、樹」
 

 そう言って微笑んだ姉が眩しくてしかたがなかった。
 

 赤い。甘い。美味しい。赤くて、甘くて、美味しかったあの果実の味がする。
 

 姉は消えた。樹に消された。ごめんなさいという姉の最後の言葉が、樹の中に響いていた。




 重い。頭が重い。きっと、いつもの頭痛だ。駄目だな。しっかりしなきゃ。今日は私に弟ができるんだもの。不幸なことがあって、心の闇を抱えているってお父さんは言ってた。だから、私が優しくしてあげなさいって。
 シナリオは決まっている。私の弟となるその子は、すぐさま私に懐くわけではないだろう。環境ががらりと変わるのだ。そのストレスに堪えられるとは思えない。最初はすごく反抗するだろう。でも、私はずっと笑顔を向け続けるのだ。その子が反抗する気を失くすまで。時間が解決してくれるまで。笑顔は素敵な魔法。ずっと笑いかけてれば、私とその子は姉弟になれる。完璧なシナリオだ。そして、完璧なシナリオというものは、いつも、私にとっての強迫観念となり、頭痛の種になる。



 弟の名前は樹といった。冷めた目をした男の子だ。彼と目が合う度にどきりとする。冷めた目をした人は苦手だ。心の底を見透かされてしまう恐怖を感じてしまうから。


 
 樹は新しい環境になかなか慣れない。父はそんな樹に対して苛ついている。やめてほしい。苛つく父を見ているとこっちまで気分が優れなくなる。だから私は父に言った。もう少し見守ってあげられないの? 樹だって今は辛くて必死なんだよ。分かってあげようよ。私の言葉を聞いた父は喜び、お前はいい子だと頭をなでてきた。やめてほしい。頭痛がする。


 
 樹が私のことを姉さんと呼んだ。私が朝食の準備をしていた時だ。嬉しいことのはずなのに、なかなか離れていかない睡魔と、鮮やかな卵焼きの黄色のせいであまり記憶にない。私を姉と認めたとき、樹はどんな顔をしていたんだっけ。笑ってはいなかったと思う。いつものように冷めた眼差しだったのかもしれない。姉さん。いつもの冷めた目と、少しかすれた、少年と青年を行き来するような独特の声で呼んだ気がする。記憶が曖昧だ。私はこれほどに、思い出を蔑ろにする人間だったのだろうか。少しショックだ。


 
 父は嫌なことがあると樹に当たる。樹が気に入らないのだと私に愚痴る。この人は何を言っているんだろう。気に入らないのなら放っておけばいいのに。父は私と樹を比べている。私は樹と比べて頭がいい。私は樹と比べて明るい。私は樹と比べていい子だ。やめてほしい。嫌になる。父が私をいい子だと褒める度に、私は優越感という泥沼に落ちていく。私はいい子になんかなりたくない。なれはしない。樹は私に冷めた目を向け、姉さんと呼ぶ。


 
 今日、担任に職員室へ呼ばれた。またかと思った。行ったら案の定、「学級委員をやってくれ」だ。毎度のことながら、この人は他に言うことがないのだろうか。「誰も立候補者がいない」と、担任は現代の若者の無気力状態を嘆いた。「お前ならぴったりだ」と、私を褒めもした。私は生徒をお前呼ばわりする教師が嫌いだ。でも、こんな時でさえ、返答というものは、完璧なシナリオというのは決まっているのだ。


「分かりました。私でよければ」
 

 担任は嬉しそうに笑っていた。私も彼に笑顔を向けた。完璧は改竄の余地を作らない。嗚呼、また、頭痛の種が増えてしまった。


 
 今日は友達の悠里が家に来た。テストが近いので、勉強会をすることになったのだ。私の部屋へ行く途中に、樹とすれ違った。悠里は樹に元気に挨拶をした。樹は軽く会釈をしただけだった。悠里は樹のことを「カワイイけど、ブアイソな子だね」と評価した。「姉弟でもあんまり似てないね」とも言っていた。私は複雑な気持ちになった。


 
 手紙が来た。差出人は「CCI」。外国の人だと思ったら、封筒の中身はとても丁寧な日本語で書かれていた。怖いくらいに真っ白な紙に、無機質な、個性の見えない字が綴られている。誰かが、私にぴったりの力をくれるらしい。私の心の中を映し出す、私だけの力をくれるらしい。
 そんな力、いらない。自分の心の中なんて、見たくもない。


 
 受験が迫っている。頭が痛い。親はK大を薦めてきた。正直、私は好きな場所へ行き、好きなことができればそれでいい。笑うための顔の筋肉がかろうじて生きていれば、それでいい。私がK大生になったら、頭痛から解放され、笑顔で生きられるのだろうか。樹は私の受験状況を聞いて、「姉さんはすごいな。頭がいい」と淡々として言った。私は「人間は履歴書じゃないのよ」と返しておいた。人間は履歴書じゃない。それは正論。ただ、どうしても、他者は他者を目に見えるもので縛りたくなるのだ。


 
 姉さん、と樹の声が扉の向こうから聞こえた。少し遅れて、ドアをノックする音も聞こえる。今日の樹の声は、いつもとは違う空気の振動を伴っている。遠慮しているのだ。私が受験生だから。私は「いいよー入ってー」と間延びした声で返事をした。樹にできるだけ気を遣わせないように。相手に気を遣わせるほど、自分の余裕の無さを気取られてはならない。
 

 私の部屋に入ってきた樹は、手に青色の参考書を抱えていた。


「ここ、分からないんだけど」


「ああ、応用だよね。ここは私も苦手でさ」
 

 そう言うと、樹は少しだけ顔を綻ばせた。安心した、というべきか。私はこの問題が苦手だけれど、解答を書き込む手を止めたりはしない。


「で、この定理を遣えば、ほら、できた」


「そっか。そんな発想、持ってなかった」
 

 その後は少し他愛無い話をして、樹は出ていった。少しだけいつもの偏頭痛が和らいだ気がして、私は機嫌が良かった。


 

 なかなか寝付けない夜が続く。隣の部屋がうるさい。父のがなり立てる声がする。樹に罵声をぶつけているのだ。今日も樹は帰りが遅かった。友達と遊んでいるのか、夜の街を彷徨っているだけなのか、私は知らない。ただ、樹の性格上、危険なことに首を突っ込むこともないだろうし、その生活態度が成績などの学校生活に響いているわけでもない。けれど、父は樹に怒鳴っている。父は樹の粗探しをしているだけ。自分の苛立ちを樹にぶつけて解消したいだけなのだ。
 

 騒音でどうしても寝付けないので、私は耳にイヤホンを当てた。お気に入りのピアノ曲を流すと、父の声が消えた。普段は樹のことを庇うくせに、私は樹と向き合うことを避けたのだ。自分がひどく嫌な人間に思えてならなかった。


 

 その日、樹は夜の十一時頃に帰ってきた。学生としてはかなり遅い帰宅だ。父は樹の夕食を作らなかった。樹は夕食を外で済ませてきたという風には見えなかった。樹はお腹を空かせているように見えるけれど、そんな様子を微塵も出さないようにと頑張っている。父に隙を見せたくないのだろう。私は樹をこっそりと自分の部屋に招き、今日の調理実習で作ったパウンドケーキを渡した。樹は私に「ありがとう」と言った。
 

 パウンドケーキの甘い匂いが、私の中に広がった。空っぽの心が満たされていく。


 

 悠里と喧嘩をした。ううん、あれは喧嘩じゃない。彼女が私を一方的に傷つけて終わった。「馬鹿みたいだ」と、彼女は言った。


「アンタにとって私は自己満足の為の道具でしか無かったんだよね。馬鹿な私に勉強を教えてくれるいい子なクラス委員。そんな自分の姿が大好きなんだよね。優越感が持てるから。私は、そんなアンタが――」
 

 悠里があんなに饒舌になるところを、私は初めて見た。彼女には私の全てを否定された気がする。


「気にすることないよ。ただの嫉妬だから。あの子ね、好きな子がいたんだけど、その子が――」
 

 京子が慰めにもならない慰めを言ってくれた。
 

 頭が痛い。もう嫌だ。


 

 放課後、体育館裏の桜の木の下で待ってます。さっき、耳元でそう囁かれた。同じ学級委員の男子から。のこのこと呼び出しに応じて、そこでされたのは、告白。本来なら、とても喜ばしいことだ。私が他人に受け入れられて、好意を向けられている。しかし、私は何とも思わなかった。


「君は、私のどこが好きなの?」
 

 ふと口をついて出た言葉は、字面だけならとても乙女チックだった。しかし、口調はその真逆で、私が男子を責めているみたいだった。彼は私の口調に戸惑ったのか、どぎまぎしながら、それでも真摯に答える。


「いい子だと思ったから。とても頑張り屋で、僕が隣で支えたいと思ったから」


「私は、貴男が思うような女性じゃない」
 

 空気がぴしゃりと震える。拒絶の声だと、自分でも自覚していた、それでも、言わずにはいられなかった。私はいい子じゃない。頑張り屋でもないし、誰かに隣で支えてもらわなければならないほどか弱くもない。彼は、誰を見ているのだろう。彼が好きになったのは、誰なのだろう。私は、誰なのだろう。
 

 どうして私は他人からの好意を素直に受け取れないのだろう。
 

 頭が痛い。
 

 私は彼から逃げ出すように走った。しばらく走った後、あまりの頭の重さに、その場で蹲ってしまった。


 

 夢を見た。私が黒に包まれる夢だった。その黒は樹から滲み出ていた。黒に包まれると、私はその空気に陶酔した。樹は私を冷たい目で見ている。私は樹を無機物のように感じてしまう。


「姉さん」
 

 樹が私を姉さんと呼ぶ。


「姉さんはさ、僕を『トクベツ』な目で見ているよね」
 

 私は何も喋らない。


「僕のことを、『トクベツ可哀想だ』って思ってるよね。叔父にかけあって、僕に優しくして、でもそれは僕のことを考えていたわけじゃない。僕のことを考えていたのなら、僕のプライドが傷つくことくらい、すぐに分かるはずだよ。姉さんは、とんだ英雄狂だ」
 

 やめて。それ以上何も言わないで。


「可哀想な子を上から見下す姉さんの姿は、とても美しいね。でも、僕はそんな姉さんが、大嫌いだ」
 

 やめて。樹はただ、私に笑顔を向けて「ありがとう」と言ってくれればいいの。
 

 私に笑顔をくれる。樹の役割はそれだけだ。


 

 夢から覚めた私は、ひどく汗をかいていた。何故だか涙が頬を伝っていた。嗚咽が止まらない。


「姉さん、どうしたの? 大丈夫?」
 

 ドアの向こうから樹が声をかけてくれる。私はよほどうなされていたのだろうか。


「学校で何かあったの? 僕でよければ話くらい聴くから」


「……別に、なんでもない」


「何もなくなんかないだろ。明らかに様子がおかしい。僕はいつもの元気な姉さんが好きだよ。不器用な僕を助けてくれて感謝してるし、尊敬もしてる。だから、姉さんが辛い時は力になりたいと思ってる」
 

 ベッドから起き上がって、樹の声がする方向を見ようとする。けれど、私の視線は机の上で止まってしまった。
 

 手紙がある。いつか私に届いたあの手紙が、いつの間にか机の上に出ている。


『あなたにぴったりの力』
『あなたの心の中を映し出した力』


「……ねえ、樹」


「姉さん?」


「私らしさって、なんだろうね」


「……? 姉さんは姉さんだよ。明るくて、優しくて、僕の自慢の姉だよ」
 

 違う。本当の私は、心の底にいる私は、悠里に対しての、樹に対しての優越感で満たされた、顔のない塊だ。
 

 私の前から悠里がいなくなった今、樹だけが、私の顔を支えている。





「嫌だッ」
 

 樹は咄嗟に叫んでいた。
 

 嫌だも何も、自分から望んで見た景色であるというのに。その景色が、苦痛の涙で歪んでいく。嫌だ。見たくない。自分が望んでいたのは、こんな姉じゃない。息が荒くなっていく。熱に浮かされたときのように、体が気だるく、熱い。その場から体が動かせなくなる。
 

 隣で叔父が何かを問いかけているその声を、樹は聞いた。しかし、問いかけの内容までは聞けなかった。叔父の隣にいる人は、救急隊員だろうか。


「……姉は、消えました」
 

 樹はそう呟き、口を噤んだ。
 

 樹の目の前で、樹の目の前から、姉は、消えた。


 


 この状況を、何と言おう。裏切りだろうか。違う。ほんの少し年上な姉に、過大な期待を寄せすぎただけ。ほんの少しの愛情に、樹は全てを期待していたのかもしれない。そして、その事実は樹にとってはたいそう惨めなものだった。
 

 数日後、樹は学校の図書室へと足を運んだ。姉が消え、数人から軽く事情を訊かれ、樹は日常へと復帰した。姉のことは新聞の片隅にしか載らなかった。今はとんでもない事件が数えきれないほど起こっている。一人の消失に構っていられるほど、世間様も暇じゃない。


「…………」


 本から顔をあげ、樹は小さく溜息を吐いた。窓から差し込む夕日が眩しい。埃がきらきらと舞っている。こんなとき、図書室がどうしようもなく好きだと思う。本の甘い匂いが人間を現実から隔離する。最高の気晴らしになる。特に、夕暮れの人影のない図書館では。
 

 下校を知らせるトロイメライがスピーカーから流れてくる。この旋律をとても寂しいものだなんて言う人は多いが、樹はこの寂しさが好きだった。一人で歩く夕方の住宅街が好きだった。つまり、樹はそういう人間だった。そういう人間だからこそ、姉の本性に対して何の感慨も抱いていない、そう思い込もうとしていた。しかし、気晴らしもこれで終わってしまう。どうしたって、自分の内に宿る記憶が駆け巡ってきてしまう。今日ばかりは、トロイメライも嫌いになってしまいそうだった。


「そーしーてー、だーれーもいなーくなーるとしょしーつにあしおーとー」
 

 恐らく、図書室を施錠しに来た図書委員だろう。誰もいないのだと思って、トロイメライに奇妙な歌詞をつけて歌っている。


「変な歌詞……」
 

 そうだ、これが日常だと、樹は痛感した。


「そーうさー、それがー、あーいーじょーうー」
 

 図書委員は歌があまり得意ではないらしく、ところどころで音を外している。


「……あ」


「…………」
 

 図書委員は、樹の姿を見るなり、歌を口ずさむことを止め、立ち尽くしていた。今日の施錠当番は、樹のクラスの図書委員だった。


トロイメライに内臓を抉るような歌詞を付けるのは止めてほしいんだけど。水附花梨さん」


「あ、あの、えっと……、はい、すみません」
 

 花梨は、歌声を聞かれてしまったことが恥かしかったのか、それとも、樹にどう対応すればよいのか分からなかったのか、静かに目をふせた。


「大丈夫だよ。いきなり超能力バトルをふっかけたりはしないから」
 

 そう告げただけで、花梨は安心を覚え、顔を綻ばせた。


「そうだよね。ここ、図書室だもんね」
 

 この場所を覆う静謐な空気を壊したくはない。二人とも、その点では意見が一致していた。


「……私は、もう、できれば戦いたくないの」
 

 一時休戦。そんな言葉では花梨は満足できなかった。偽善だとか、教科書の論理に過ぎないとか、そんな罵倒をされると理解してはいても、それでも、永久の平和が欲しい。ここは戦いの場ではない。だからこそ、今の樹ならば自分の話に耳を傾けてくれるかもしれない。そんな淡い期待を、淡い期待ほど叶うことがないと知ってはいながらも、花梨は口に出していた。


「私、聞いたの。樹くんのお姉さんが、その……」


「死んだよ」
 

 樹は花梨が口ごもった内容を即座に言い当てた。


「君の言うとおりだ。死んだと言っても、正式には行方不明。彼女もあの手紙に巻き込まれたんだ」


「……辛かったよね」
 

 だったら、樹も、自分の気持ちを分かってくれるのではないか。分かったうえで、この戦いで流れる血潮を最小限に留める努力をしてくれるのではないか。そう考えて、花梨は言葉を続けようとした。


「勝手に分かったような口をきかれるのは迷惑だ」
 

 しかし、樹は花梨の思っていたような反応を示さなかった。


「姉がいなくなったことは、それほど気にしてはいない」
 

 それに、姉は自分の能力で死んだのだと、樹は呟いた。


「ただ、俺の中にあった世界の、たった一つが消えたに過ぎないんだよ」
 

 そして、そのような消失は誰にだって、いつだって起こりうる、ただの日常だ。父や母のおかげで、樹はその現象に慣れきっていた。幸福の拒絶と不幸の享受には、耐性がついていた。


「もとより、俺がずっと考えているのは、姉の死に様じゃない。能力者のことだよ」
 

 樹は、拳を握りしめて言った。


「落とし前はきっちりつけさせてもらう」
 

 机の端には、樹が先ほど読みふけっていた本が山のように積まれていた。花梨はそのタイトルをちらりと見て、樹に問う。


「復讐劇でも繰り広げる気?」
 

 そこにある作品は、古代ローマからルネサンス、それと現代の大衆文学まで、さまざまな時代を彩っている。しかし、テーマはただ一つ。復讐悲劇。


「だとしたら、随分と子供っぽいよ」
 

 花梨にしては珍しく、他人を責めるような口調だった。テレビ画面の向こうのヒーローや、本の中のお姫様に同調していいのは、小学生までだ。少なくとも、花梨はそう考えている。読書にしても、彼女は共感を求めているのではなく、ただ別世界を求めている。陶酔ではなく、発見を欲している。


「復讐なんて、そんな自己満足は何の肥やしにもならない。それに、復讐悲劇ってさ、最後は狂喜に陥って暴力で終わるんだよ。復讐者を含めた登場人物の多くが死んでしまうところに、カタストロフがあるらしい」
 

 樹は本の山から一冊を抜き出した。


「ここに書いてあったんだ」
 

 そう言って、本の頁を一枚一枚、丁寧にはらりと捲っていく。
 

 樹は復讐なんて感情に走った行為はしたくなかった。それもまた、惨めなことだから。しかし、なんとかして姉の記憶を取り除きたかった。考え事をするフリをしていた。単に、サボっていただけだった。




「……そうやって、考え込むのは止めようよ」
 

 トロイメライの放送が終わってかなりの時間が流れた。その間、花梨は沈黙を守っていたし、樹は自分が読んだ本を片付けていた。時計の針が時を刻む音だけが響く空間で沈黙を破ったのは、花梨の方だった。


「お姉さんがいなくなって悲しいなら悲しめばいい。戦いたくなければ戦わなければいい。私ならそうするし、そうしてる。でも、ダメなの。私だけじゃ、こんな戦いは終わらない。警視庁崩壊って何? 国会議事堂崩壊って何? 死者も行方不明者もたくさん出てる。こんなの絶対おかしいよ」
 

 そして、花梨の言葉はこう続くはずだった。「だから、私と樹くんで力を合わせて戦いを終わらせよう。できる限り、小さい形で。今より多くの涙が流されないためにも」
 

 しかし、樹は花梨の言葉を遮った。「だから、何?」という、相手を挑発しているようにしか聞こえない声で。


「俺はもう、偽物の言葉に騙されるのはうんざりしてるんだ」
 

 樹は拳を握りしめる。花梨の言葉には、教科書の論理を手に取った時の嫌な感触があった。英文法を知らないから何だというのだ。因数分解を知らないから何だというのだ。思わず、馬鹿馬鹿しいという単語が溢れだす。そうだ。花梨は、どうしようもないくらい姉に似ている。完璧を求めて罪悪感を募らせる姉と、偽善者面をして樹におどおどと接する花梨。


「花梨さん。あんたはさ、何を考えてんの?」
 

 樹の突然の問いに、花梨は目を丸くし、きょとんとしている。樹は思わず吹き出してしまいそうだった。可笑しくて、あまりにも可笑しくて、片腹が引き攣ってしまいそうだ。彼女の表情が苛立たしく、憎らしく、彼女と姉を重ねている自分が、何にも増して腹立たしい。彼女の顔を、ぐしゃりと潰してしまいたい。この感情はなんと呼べばいいのだろう。


「私は、単純に……」


「他人を傷つけたくない? 他人を傷つけるくらいなら自分が傷つく方がマシな平和主義者?」
 

 乾いた樹の嘲笑が、窓の外に広がる真っ赤な空に溶けていく。


「この偽善者」
 

 樹がそっと告げたこの言葉が、一瞬だけ、花梨の顔を引き攣らせた。花梨の顔から笑いが消えた。


「何度でも言ってやる。あんたはとんだ偽善者だ」
 

 いつの間にか、樹は花梨の胸ぐらを掴んで、怒鳴っていた。倫理よりも、理性よりも、憤怒が勝る。こんな自分は、叔父のようで、気持ち悪い。


「他人はあんたに傷つけられるほど、あんたの慈愛が必要なほどに弱くはないんだよ」
 

 そうだ。俺は弱くない。あんな女に傷つけられるほどに弱くなんかない。


「他人が死ぬよりは自分が死んだ方がマシなんだろ? だったら今から、あんた独りでどこかに消えれば? そうすることで助かる能力者だっているかもしれない」


「……違う、私は、そんなつもりじゃ」
 

 花梨は納得できないという表情で樹の前で立ち尽くしている。


「俺はいつか、俺の能力であんたを殺したいと思っている」
 

 樹はそう言って、自身を闇色に包み込んだ。


「俺の能力は、あんたの偽善者面を剥がすのに向いてるんだ」
 

 花梨は少しずつ後ろに下がっていく。ここから逃げるつもりだ。樹はそれでも構わなかった。これから彼女を喰える機会はいくらでもあるだろう。
 

 樹はまるで子供のようだった。欲しい者があると駄々をこねる子供。思い通りにならないと泣き喚く子供。誰か優しい人に叱られるのを待っている子供だ。


「……馬鹿みたいだな」
 

 樹の声は、花梨が扉を開ける音に掻き消された。ろくでなしならろくでなしらしく、悲しむのは疲れるだけだと割り切って、感情を封じ込めてしまえば楽なのに、馬鹿みたいだ。
 

 樹の呟きが聞こえたのか、それとも偶然なのか、花梨は図書室を出ていく間際に、一度だけ振り返った。やがて、彼女は足音を響かせることなく静かに出ていく。
 


 図書室には、一人だけが残った。





(担当:飯田)
ごめんなさい。書くのにかなり時間かかってるわ無駄に長い話だわ伏線放置だわ登場人物が一人出番がないわ時系列が自分でもよく分からないわ一部の人にしか分からないネタが入ってるわファンタジー色がほぼ皆無だわ文章力も皆無だわと盛りだくさんの謝罪をここに捧げます。本当にごめんなさいでした。


一応自分なりには頑張りましたが、一人称など間違いは多々あると思います。まず投稿の方法に間違いがないか不安な現在です。これ投稿できてますかー?


できる限りは修正していきますのでどうぞご指摘ください。メンタルが豆腐なので優しくしてくださると嬉しいです。


次の方はたしか黒木さんだったと思います。私の変な展開のフォローと面白い話を期待しちゃいます。よろしくお願いします。