blue-ryu-comic blue-spring-jojo その12(2)

 しばらくの間、皆呆気に取られたような目で、東条と神埼の二人を交互に見つめていた。当然と言えば当然の反応だろう。人格を複数持っている人物なんて、その存在は知っていても、実際に接することなどまずない。三重人格者ともなれば、余計にだ。
 私もまた信じられない思いで、椅子に力なく座っている実の父の顔を凝視した。私が昔彼――いや、神崎から聞いた話では、彼の中に共生しているのは神埼と神崎の二人だけだったはずだ。彼が三つもの人格を持っていたなんて、まったくの初耳だった。
 東条は皆の動揺と狼狽が落ち着くのを待っているかのように、黙って佇んでいたが、十数秒ほどが経過したところで、再びゆっくりと口を開いた。
「……そろそろ話を続けさせてもらいますね」
 皆ははっとしたように、改めて彼の顔に視線を固定する。東条は軽く咳払いをしてから、話を再開した。
「パントリーの中で、神埼さんは私がもとから知っていた人格の一つに戻りました。私は青波邸での事件について知るために、戻ってきた彼と話を進めていきました。混乱する彼を宥めながら、とりあえず彼の第三の人格については言及しないままで。結果私は、青波邸での事件や現在の状況などをかなり詳しく把握して、そこから推理を組み立てることもできました。そして同時に、神埼さんの多重人格について、いくつかのことがわかったのです。まず、もともとあった二つの人格は、最近になって出てきたらしい三つ目の人格の存在に気づいていないこと。これは第三の人格が体を支配しているときは、残りの二つの人格は眠っている状態であり、なおかつ第三の人格は他の人格に記憶を引き継がせていないことによるものです。しかし、三つの人格は無意識のうちで、互いの記憶を感じ取ることがあるようなのです。神埼さんの書いた、あの原稿を思い出してください。第三の人格が私から聞いた浪岡邸での事件を、そうとは知らずに他の二つの人格が小説という形で執筆した、それがあの原稿だったのです。そして、ここからが重要なところなのですが――」
 東条は言って、椅子に座る神埼を見下ろした。今の神埼は、髪を掻き乱すのをやめ、両手を脇にだらんと垂らし、そしてぼうっとした瞳で虚空を見つめていた。普通の人なら憐憫すら感じそうなその様子に、しかし東条は冷たいほどに平静な表情で視線を注いでいた。
「神埼さんは、私と話していたそのときすでに、精神に破綻をきたし始めていました。記憶が飛んだり、面識があるはずの私のことを自身の小説の中のキャラクターとしかみなしていなかったり、そこから現実世界と小説の話が混じり合った認識や理解をしていたり。一つの体に三つもの人格を内包していることに、それらの人格の土台となっている精神の基礎部分が耐えきれなくなってきていたのです。それでも青波邸での事件の話は、一応筋が通っているものだったので、私はそれを信用することができたのですが。もしあと一押し何かがあれば、完全にその精神は崩壊してしまうだろうというほどに、彼はぎりぎりの状態だったのです」
「……では」
 淀みなく流れ続けていた東条の弁を、重い口調の青波翁の声がようやく遮った。
「もしかして、君はその一押しをしてしまったのかね。うっかり何かを言うかするかして、神埼さんの精神を壊してしまった。その結果がこれなのかね」
 何もない空間を見つめ続けている神埼を指し示す。東条は、それでもごくかすかなものだったが、これまでで一番深い笑みを浮かべた。そして、あっさりと言った。
「ええ、私がその一押しをしました。しかし、それはうっかりではありません。――わざとなのですよ」
 翁の表情が、一瞬で硬直した。何を言われたのかとっさに呑み込めないかのように、東条の顔を見開いた目で凝視する。私を含めた、他の人々も同様だ。そうしたいくつもの視線に向けて、東条はやはり微笑んだ。しかし眼鏡の奥のその瞳は、まったく笑っていなかった。
 わずかに硬直が解けたらしい翁が、喘ぐように息をついだ。
「どういう、ことだ。それは……!」
「どうもこうも、言葉の通りです。私は故意に神埼さんの精神を破綻させました。簡単でしたよ。小説と現実の境がわからなくなっている神埼さんの話に合わせ、ますますその境界をぼやけさせるような言動をし、青波の者たちをパントリーに呼ばせたあとに、あなたの体には三つ目の人格が育っていると明言したのです。もとから三つの人格の混在に悲鳴を上げていた彼の精神は、真実を突きつけられ、それで完全に崩れ去りました」
 淡々と紡がれる東条の言葉。そこには後悔など微塵も感じられない。青波翁がくぐもった声で再び問いかける。
「では……では、なぜ君はそんな真似をしたんだ。神埼さんをわざと狂わせた理由は、何なんだ?」
 そのとき。不意に、東条の目が鋭く光った。冷たくも苛烈な光が、眼鏡の奥の両の瞳を駆け抜ける。はっと息を呑む翁の前で、東条は凄みのある笑みを浮かべた。
「……理由ですか。そうですね、一言で言ってしまえば、私怨です」
 しえん、と、私は口の中で小さく呟いた。呟きながら、視線を東条から離すことができない。いつも静かで泰然としている彼が、これほどの激情を見せることなど初めてだった。その目の奥に、言葉の裏に、暗い影のような怒りがゆらめいているのがはっきりと感じ取れる。
「私は神埼さんのことを、個人的にずっと恨んでいました。何とか復讐できるものならしてやりたいと、ずっとその機会を待っていた。そして今日、一生一度のその機会がやってきたのです。まあ、たとえ私が何もしなかったとしても、遅かれ早かれ彼の精神は、過重な負担に耐えきれず崩壊していたでしょう。それでも、私は私自身の手で制裁を加えたかった。だから彼を狂わせた。――それだけのことですよ」
 ためらいなく放たれた東条の言葉と、そこに込められた冷たい怒りに、皆は完全に声を失った。先ほど神埼の三重人格のことを聞いたときよりも、ずっと重苦しい、凍り付くような沈黙がパントリーを支配する。私はただ、茫然と立ち竦み、東条の顔を見つめていた。見つめるより他なかった。
 そのまま、どれぐらいの時間が流れただろう。やがて東条は、つとその目を伏せた。長々と、ため息を吐き出す。そして、視線を上げた。その顔からはもう、先ほどまでの怒りは消え失せ、普段の静けさが戻っていた。
「……すみませんでした。いきなりこのような話をしてしまって。もうこの話題は切り上げましょう。皆さんさえよろしければ、そろそろ本題に入りたいと思います」
「……本、題?」
 ぎこちない口調で聞き返したのは、青波幸生だ。東条は頷く。
「そう、本題です。――私が皆さんをここに集めたそもそもの理由は、双草荘で起きた殺人事件の真相を解き明かすことだったはずですよ」
 それまで思考の遙か遠くまで飛んでいっていた話題が急に戻ってきて、皆がはっとしたように身じろぎをした。私も、そういえばこれは推理ショーだったということに気づき、同時にざっと血の気が引いていくのを感じた。喉の奥に大きな石の塊が生じたような錯覚に囚われる。東条は、ここで私を犯人と名指す気だ。もう、逃げられない。逃げることなどできないのだ。
「では、そろそろ明らかにしましょうか。浪岡邸で私が発見した靴跡の持ち主、双草荘の両屋敷で起きた事件の犯人を。……浪岡邸で眼鏡山氏を絞殺し、青波邸にその死体を運んで頭を割り、そのあと青波邸で神埼朱実さんを絞め殺して吊し上げ、さらには浪岡邸で女給の喉笛を切り裂いて殺害した犯人。それは――」
 東条の視線が、皆の顔の上を順々に滑っていく。人々は息を詰めながら、その目の動きが止まるのを待っていた。私はなすすべもなく、汗まみれの手のひらを握りしめながら、頭の内側に響く鼓動の音を聞いているしかなかった。どくどくと、うるさいぐらいに脈打つ心臓の音を。
 東条の瞳が、ついに私を捉える。見逃してくれないだろうか。ほんの一瞬、一縷にも満たない希望が、私の心をかすめて過ぎる。だが、東条の瞳は動かなかった。冷静に、冷酷に、私を見据えたまま、彼は言った。
「……あなたですよね。明日香さん」


 東条の声が私を示した途端、私に向けられた人々の瞳が驚愕に、次いで疑いと嫌悪の色に染まっていくのを、私は痺れた思考の片隅で感じていた。手足の先がみるみる冷たくなっていき、体全体が細かく震え始める。
 終わった。終わってしまった。五年前のように逃げてやるとの決意は、この名探偵の前にあっさりと砕かれてしまったのだ。絶望が気力を蝕み、何を弁明する気にもなれない。私は東条を見つめたまま、ただぼうっと突っ立っていた。
 そんな私を一瞥して、浪岡粉太郎がごほんと咳払いした。
「えー……東条君。本当にこの女が犯人なのだね? 少々、その犯行について説明してもらえると助かるのだが」
 東条は、彼の言葉に静かに頷いた。
「いいでしょう。……と言っても、犯行そのものには説明するほどの目立ったトリックはありません。まず、浪岡邸での眼鏡山氏の殺害は、死体の首の圧迫痕から見て、彼のネクタイで首を絞めたようでした。そのあと死体を青波邸まで運んでいって、頭を灰皿で割った。そのあとの神埼朱実さんも首を絞めて殺し、縄で天井に吊し上げた。それから浪岡邸で女給が喉を切り裂かれたことですが、この殺害と朱実さん殺害双方の犯行推定時間がほぼ重なっていることから、朱実さんの殺害を目撃した女給を浪岡邸まで追っていって口封じをした、と考えるのが妥当でしょう。……そうですね? 明日香さん」
 東条の視線が私をまっすぐに射抜く。私はそれを受け止められず、うつむいて目を逸らした。その仕草が肯定の証だと、自分でもわかった。
「青波邸で明日香さんが支離滅裂な推理を披露したのは、自身の探偵能力に対する不信によって、殺人の疑いを相殺させようという意図からでしょう。そして青波家の面々に嘘を吹き込み、神埼さんを監禁させたのは、浪岡邸の事件を綴った神埼さんの原稿を見たからですね? 方法はわからないが、神埼さんが浪岡邸の事件の詳細を知っている、これはあなたにとって非常に不気味なものだったのでしょう。だからとりあえず閉じこめておくことで、正体不明の脅威を遠ざけておこうとした」
 もはや何も答えられない。黙ったままうつむいている私を睨みながら、青波幸生が口を開く。
「じゃあ、なんでこの女は人殺しをしたんだよ? 女給は口封じのためとして、神埼朱実さんには何の因縁もないだろうし、ましてや眼鏡山氏なんて上司だったんだろ? 仕事上の不満でもあったのか?」
 その問いに、東条は淡々と答えていく。
「眼鏡山氏殺害の動機は、明日香さんが青波弓子さんの異父妹だったことを考えれば説明がつくでしょう。明日香さんは弓子さんを大層慕っていたと、聞いたことがあります。眼鏡山氏が殺害される前、私は彼が彼の意図でバルコニーの罠で弓子さんを殺したと思っていて、そのことを彼に問いつめました。明日香さんは恐らく、眼鏡山氏の部屋の外でそれを聞いてしまったのでしょう。そして、大好きだった姉を身勝手な理由から亡き者にした眼鏡山氏を、衝動的に殺してしまった。……実は神埼朱実さんを殺害したのも、同じ理由によるものなのです」
 東条がそう言ったときだった。浪岡家の者たちが、はっとしたようにかすかに身じろぎした。私がうつむいて下方に落としていた視線を、そっと彼らの方に向けてみると、浪岡父子と車山氏が、わずかに表情を硬くしているように見えた。彼らの中にいる横崎夫妻は、その空気の変化の意味がわからないようで、不思議そうな面持ちで彼らをちらちらと見やっている。
 青波翁も浪岡家側に怪訝そうな視線を送ったが、発した質問は東条に対するものだった。
「東条さん、それはどういう意味なんだね? 別に朱実さんは、弓子の死には何の関わりもなかっただろう?」
 その問いに、東条はゆっくりと首を振った。
「いいえ。朱実さんは弓子さんの死に大きく関与しています。それどころか、朱実さんこそが、弓子さんを殺した張本人です。明日香さんは、眼鏡山氏の手帳の中の、このことに関する記述を読み、朱実さん殺害に至ったのでしょう」
 その言葉に、朱実をよく知る青波家の面々が驚愕に息を呑んだ。
「そんな――そんなことは、ないでしょう。あの物静かな彼女が、そんな……。大体、弓子さんが死んだのは、眼鏡山氏が浪岡粉太郎氏を殺そうと罠を仕掛けたバルコニーの柵に、体重をかけてしまったからなのでしょう?」
 輿山氏が、狼狽しきった声で言う。東条はほんのわずかに目を伏せた。
「それは確かに、その通りです。しかし、そうさせたのは朱実さんなのです。弓子さんは浪岡家に嫁ぐ前、ある理由からよく神埼弘さんに会っていました。それを夫の浮気と思った朱実さんは、弓子さんへの嫉妬を募らせ、ある日浪岡邸に押しかけて、弓子さんに詰め寄り、罵りました。弓子さんはそのとき精神的に弱っていて、掴みかからんばかりの朱実さんに抵抗もできず、逃げるように三階へ駆け上がりました。朱実さんは彼女を追いかけ、追いつめ、眼鏡山氏の罠があると知っていたバルコニーの方に、彼女を突き飛ばしたのです。これが、九年前に朱実さんが犯した殺人です」
 すらすらと紡がれる東条の言葉に、私はかすかに眉をひそめた。こんなに詳細な内容、あの眼鏡山の手帳には書かれていなかった。なぜ東条はこれほど詳しいことまで知っているのか。眼鏡山とは別に、彼自身も弓子の死について調べていた? しかしそれなら、昨日眼鏡山に推理を突きつけた時点では、東条はすでに事件の真相を知っていた可能性が高いはずで、それなのに「あなたが弓子さんを殺した」と眼鏡山を問いつめたのは、辻褄が合わないのだが……。
「そして浪岡邸での女給殺害については、先ほど述べたとおり。以上が、今回双草荘の両屋敷で起こった事件の真相のすべてです。――明日香さん、何か異論は?」
 不意に、東条がまっすぐな視線を私に向けてきた。私は息を詰まらせ、声もなくそれを受け止める。彼のその眼差しは、底知れないほど深く、私のすべてを見透かしているかのようだった。
私は項垂れ、ゆっくりと首を振った。それが、彼の完璧すぎる推理に対する、私の精一杯の反応だった。
 これで、終わった……何もかもが、終わったんだ……。ぽっかりと穴の空いたような胸の中に、虚ろな気怠さだけがひたひたと満ちていくのを、私はぼんやりと感じていた。
 そのとき、不意にははっという笑い声が聞こえてきた。私がそちらに目を向けると、浪岡辰夫が侮蔑のこもった瞳で私を見据え、嘲るような笑みを浮かべていた。
「はっ、何だよ。結局この馬鹿女が、お姉ちゃんの仇だっていきがって、考えなしに暴れ回っただけじゃないか。ま、俺としちゃ、この顔の傷を負わせた憎い奴が、こうして無様に犯行を暴かれて、警察にしょっぴかれるってことで、せいせいした気分だけどな」
 あまりと言えばあまりな言い草に、私は一瞬腹の底が燃え上がるような感覚を覚えたが、すぐにそれは鎮まっていった。確かに、辰夫の言う通りなのだ。結局私は、行き当たりばったりで殺人を犯し、こうして皆の前で何もかも明かされた挙げ句に、これから到着する警察に身柄を拘束されるのだろうから……。
 浪岡粉太郎が、やれやれといった様子で肩を竦めてみせる。
「まったく、辰夫の言う通りですな。まあ、死んでしまった人には悪いが、ひとまずこれで犯人がわかって、一件落着というところか」
「そうですね。とりあえず、その犯人はどこかに閉じこめておいて、私たちは部屋に戻って休んでもいいでしょうか。あまり寝ていないためか、少し疲れましたよ」
 粉太郎に続いて、車山氏も。和やかに笑おうとした彼らに向かって、東条は静かな声で言った。
「いいえ。まだ、休んでもらうわけにはいきません。私の推理はまだ残っているのですから。……わかりますよね?」
 何かを含んだようなその言葉に、浪岡父子と車山氏の顔が、半笑いのまま固まった。私と青波家の者たち、それに横崎夫妻は、戸惑った表情で、彼らと東条を交互に見る。
「どういうことだね? まだ何か、この事件について話していないことがあったかね?」
 困惑した様子の青波翁が、とりあえず東条に尋ねる。私も東条に視線を据えた。まだ話されていないことが何かあっただろうか。殺人の方法も動機もすべて明らかにされた今、語られるべきことはこれ以上残っていないような気がするのだが……。
 東条は翁の問いに、小さく首を振った。
「いえ、この事件、つまり今回双草荘の二つの屋敷で起こされた連続殺人事件の全容は、今まで述べた通りです。――私がまだ話さなければならないのは、九年前の弓子さんの死の真相についてですよ」
 さらりと言われた東条の言葉は、しかしますます私を混乱させるばかりだった。九年前の弓子の死。その真相は、先ほど彼も言った通り、夫を寝取られたと思った神埼朱実が嫉妬に狂い、弓子を罠のあるバルコニーに突き飛ばしたというものだったはずだ。今の東条の言い方はまるで――まるで、それ以外にも、さらに隠された真実があるかのようだった。
 ちらりと、私は浪岡父子と車山氏の方を見てみる。彼らは石膏像か何かのように、のっぺりと血の気のない顔をしていた。ただ、東条を見つめる目だけが奇妙にぎょろついて見えた。
「弓子さんの死、それに裏で関わっていたのは、実は神埼朱実さんだけではありません。だからこそ私は先ほど、朱実さんのことは『弓子さんを殺した張本人』と述べたのです。『犯人』ではなく。最後に弓子さんを殺したのは朱実さんですが、その手助けをした『犯人』たちが他にもいるのです。私は世間に事故として片づけられたこの事件を、長い間探ってきました。その結果、様々な真実が判明したのです。弓子さんを殺害した犯人たち、それは――」
「やめろ!」
 突然、浪岡粉太郎が叫んだ。青波家の者や横崎夫妻が、思わず飛び上がるほどの大声だった。粉太郎は拳を震わせながら、真っ青な顔で、それでも凄まじい眼光で、東条を睨みつけていた。
「やめろ、わけのわからない話は今すぐやめろ! 今回の事件の推理は終わったんだ、もういいだろう! それとも、君は浪岡家を失墜させるためにここに来たのか!」
 わけのわからないのは粉太郎の方だった。激しい剣幕でわめく彼を、私も青波家の者たちも呆気に取られて見つめているしかなかった。
 一方の東条は、粉太郎の射殺すかのような視線も平然と受け止めている。彼はあくまで静かな声で言った。
「あなたのその質問に答えるなら、ええ、そうです――私がここに来た目的の一つは、浪岡家を失墜させることです」
「っ、な……っ!」
 一瞬息を呑んだ粉太郎は、顔を赤くして東条に掴みかかりかけた。しかし次の瞬間には、再び息を呑んで伸ばしかけた手を引っ込めていた。
 東条が、粉太郎を睨んでいた。その瞳の中にあったのは、常の静けさではなく、先ほど神埼の話をしたときと同じ、冷たく鮮烈な怒りだった。鋭い、どこまでも鋭いその目の光に、粉太郎は完全に気圧されていた。
 東条は粉太郎に眼差しを据えたまま、低い声で言葉を継いだ。
「私のすることに、あなたがどうこう言える立場ですか。そもそも罪を犯したのは、あなたがたの方ですよ。私が何を言おうとも、それを止める権利などあなたがたにはないはずです」
 それから東条は、かすかに表情を和らげた。
「それに、たとえ私を止めてももう手遅れですよ。私はこの屋敷に来る前、九年前のことを便箋に綴り、その便箋を入れた封筒を、信用のおける知り合いの探偵に渡しておきました。そしてそれを、昨日の夜に警察に持って行くようにと頼みました。私は今回の連続殺人が起きる前から、昨日の夜にでも眼鏡山氏とともに推理ショーを行い、その際私が独自に調べた九年前のすべてを、皆さんに語るつもりでいましたからね。それこそ先ほど辰夫さんが言ったように、あなたがたを『無様に犯行を暴かれて、警察にしょっぴかれる』状況にするために。今はもう、警察はあなたがたの犯したことを知っているはずですよ。あとはここに来て、あなたがたを逮捕するだけですね」
 同情の欠片もなく言い切った東条の前で、粉太郎がその場にへたり込んだ。一度怒りで赤くなっていた顔は、その前よりもさらに青ざめ、まるで死人のような有様だった。彼は口を半開きにしたまま、信じられないという様子で東条を見上げていた。少し離れたところにいる辰夫と車山も、座りこんでこそいなかったが、粉太郎に負けず劣らず、青すぎるほど青い顔をしていて、やはり茫然とした様子で東条を見つめている。また、青波家の者や横崎夫妻も、目の前の事態の内容が呑み込めないようで、言葉を失って突っ立っていた。
 パントリーの中に広がりかけた沈黙を、しかし破った声があった。その声の主は――私だった。
「ねえ、東条君……これは、どういうことなの?」
 抑えようとしても、声は震えた。それでも、どうしても聞かずにはいられなかった。
「東条君の言ってることって、まるで……まるで、この浪岡家の人たちが、弓姉ちゃんを殺した犯人みたいに聞こえるんだけど」
 東条はすっと私に視線を向けてきた。その瞳にはもう怒りの色はなかったが、ほんのかすかに暗い翳りがあるように思われた。そして彼は頷いた。
「ええ、そうです。彼らが九年前、朱実さんとともに弓子さんを殺した犯人ですよ」
 呼吸が一瞬、止まる。心臓に、引き攣れたような痛みが走った。
「どういうこと、どういうことなの、それは……!?」
「一から、説明しましょう。まず、弓子さんが、浪岡家にとってどのような存在であったのか。……実は彼女は、青波武生氏と頼子さんの間にできた娘ではありませんでした」
 私は驚きに息を呑んだ。そんなはずないという思いが胸を突く。あれだけ私生児である私を厳重に世間から隠した彼らが、彼らの本当の娘ではない子供を大切に養育し、あまつさえ浪岡家に嫁がせたなんて、そんなことあり得ない。
 青波翁の方に、目を向ける。彼はぽかんとした表情で東条を見ていた。目の前の青年が何を言い出したのか、とっさにわからないかのようだった。束の間言葉もなく東条の顔を見つめていたが、やがてその顔にさっと血を上らせた。
「なっ、いきなり何を言い出すんだね、君は! 弓子は私と頼子の子だ! 君は弓子を、一体どこの馬の骨の娘だと言うんだ!」
 怒り心頭の翁に、答える東条はあくまで冷静だった。
「そう、あなたも、そして頼子さん自身も、信じ切っていたのです。弓子さんが自分たちの娘であると。しかし、現実は違ったのです。……あなたは頼子さんが、何人か不倫相手を持っていたことを知っていますか」
 皆の手前、一瞬言葉に詰まった翁だったが、口元を引き締めて小さく首肯した。東条も軽く頷いてみせ、再び問うた。
「では……そのうちの一人が、浪岡粉太郎氏だったことは?」
「…………っ!」
 青波翁が、これ以上ないほどに目を見開いた。音を立てて息を吸い込むや、ばっと粉太郎の方へ顔を向ける。
 床に座りこんだままだった粉太郎が、ようやく立ち上がりながら、青波翁を見た。暗い瞳で翁の視線を受け止めるその顔には、驚きも怒りもなかった。ただ諦めたような虚ろさだけがあった。それが、東条の話が真実であると物語っていた。
 東条が、今度は粉太郎に目を据えて、淡々とした声音で言う。
「あなたと関係を持った頼子さんは、あなたの子をお腹に宿してしまった。しかし頼子さん自身は、その子を青波武生氏の子供だと思い込んでしまった。それぞれと交わった時期や排卵周期を考えて、そう判断してしまったのでしょう。しかしあなたは、ひそかにずっと心配していた。もしかしたら、頼子さんが産む子は自分の子ではないかと。……あなたが初めて弓子さんを見たのは彼女が二歳のときだったそうですが、一目であなたは彼女が自分の娘だと確信したそうですね。弓子さんは、あなた自身には似ていなかったが、あなたの母親に目元がそっくりだったと聞きました。弓子さんは隔世遺伝という形で、父方の祖母の特徴を受け継いでしまったのです」
 粉太郎は何も言わない。辰夫や車山氏も、沈んだ表情で口をつぐんでいる。青波翁は、呆然として彼らを見つめていた。
 私もまた呆然としていたが、それは今の東条の話そのもののせいではなかった。――話の先が、見えてしまったからだ。ほとんど確信に近い予感が、胸の中で黒々と形を成している。吐き気のするようなおぞましさに顔を歪めながら、私は声を絞り出した。
「東条君……」
 先ほどより、さらに震えた呼びかけだった。視線を向けてくる東条に、私は言った。
「だから……浪岡家の人たちは、弓姉ちゃんを殺したんだね……。もし、浪岡家当主が青波家当主の妻と不倫関係にあって、さらに子供まで作ってしまった事実が世間にばれたりしたら、浪岡家は破滅してしまう……。だから、弓姉ちゃんと婚約を結んで浪岡邸に引っ張り込み、娘という不倫の証拠そのものを消す機会を窺ってたんだ……!」
 血を吐くような私の言葉に、東条は一度目を閉じた。少しの間のあと、彼は目を開け、そして頷いた。
「ええ――そうです。粉太郎氏は、息子の辰夫さんや車山氏、信用のおける使用人たちにも事情を説明し、いくつか殺害計画も立ててから、弓子さんを浪岡邸に迎え入れました。さすがに嫁いできてすぐに弓子さんが死亡したりしたら、青波家側が不審に思うと考え、何ヶ月間かは特に手出しをしなかったようですね。ただ、弓子さんが外部と接触しないように、月に数回青波家に電話をかけさせる他は、外出を禁じ、手紙や電話も許さず、二十四時間、使用人たちによる監視の目を絶やさなかったそうです。そのがんじがらめの生活のせいで、弓子さんは精神的に弱っていきました。食事もほとんど口にしなくなり、眠りも浅くなり、太陽の光を浴びることすら怖くなっていったそうです。……恐らく彼女は、そのうち自分が殺されることもわかっていたのでしょう。彼女が転落死したあとには、遺書のようなものも見つかったと聞きました」
「……君は」
 掠れた声で、浪岡粉太郎が言った。
「なぜ、そこまで知っているんだ。一体誰が、そんな情報を君に……?」
「そんなことをあなたに話す必要などありませんね」
 東条は粉太郎の方も見ないまま、ぴしゃりと言い放つ。私を見据えたまま、話を続けた。
「そうして弓子さんが浪岡家に嫁いで、七ヶ月ほどが経ったとき。浪岡家の者たちは、そろそろ動いてもいい時期だと考え、弓子さんを殺す計画を巡らせ始めました。――そこに突然やってきたのが、神埼朱実さんです。彼女は浪岡邸に上がり込み、夫の浮気相手だと思っていた弓子さんを一方的になじり、屋敷内を逃げ出した彼女を追いかけました。浪岡家の者たちも最初は止めようとしたそうなのですが、朱実さんに、三階バルコニーに罠があること、そこから突き落とせば事故に見せかけられることなどを教えられ、ともに弓子さんを殺害することにしたのです。弓子さんをバルコニーに追いつめていき、最後は朱実さんが突き飛ばして転落死させたのです」
 東条は一度そこで言葉を切り、それからそっと付け加えた。
「だから……もしかしたら、今回の連続殺人事件の隠された犯人は、朱実さんや、浪岡家の者たちだったのかもしれませんね。彼らが企てた九年前の弓子さんの死が、あなたを今回の犯行へと駆り立てたのですから」
 そうして、東条は口を閉じた。深い双眸で、静かに私を眺める。
 私は呆然として、彼を見つめ返す。いや、違う。顔と瞳は確かに東条の方に向いていたが、その視線は彼を通り越し、遙か過去を見つめていた。ずっと昔の、しかしくっきりと鮮やかな弓子の面影が、記憶の底から次々に飛び出してくる。
 九歳年上の弓姉ちゃん。母の目を盗み、穴の底に下りてきては、心配そうに私を見つめたあの表情。母に憤慨しながら、穴の底を片づけてくれた姿。たくさんのお菓子や絵本を広げながら、目を輝かせる私に向けて、優しく笑ってくれたこと。
 婚約が決まってからの、薄雲に覆われたように元気を感じられなくなった顔。私や神崎と外出したとき、海を見る瞳に浮かんでいた思い詰めたような光。
 そして――穴の底に頭から落下してきた、最期の姿。血と脳の欠片を飛び散らせながら、ぐしゃりと頭を潰していった、あまりにも無惨な死に様が、頭の中を駆け抜ける。
 弓姉ちゃん。あの、何の罪もない、明るく優しかった人を――浪岡家の者たちは、とてつもなく身勝手な理由で、あんなに惨たらしく殺したんだ……。そう思った瞬間、不意に、目もくらむほどの白熱した怒りが、全身を貫き、爆発した。
「――――!」
 私は声にならない叫びを上げながら、噴き上がる感情のままに、浪岡粉太郎に向かって駆け出した。
 はっとして身じろぎをした粉太郎に手を伸ばした瞬間、後ろから誰かに肩を掴まれた。
「明日香さん!」
 東条の声が耳元で弾け、体がぐん、と後ろに引き戻される。次の瞬間には、私は床に仰向けに倒され、東条に体を押さえ込まれていた。
 彼の体は華奢だったが、小柄な私の体を押さえ込むのは造作もないことだった。それでも私はひたすらに暴れ続けた。自分でももはやなぜ暴れているのかわからぬまま、涙の粒を散らしながら、気の狂った暴れ牛のように東条の体の下でもがき続けた。
 何度も何度も、かれた声で姉の名を叫びながら。


(担当・白霧)
今回も長くなりました。しかもまだ終わらない……。でもまあ次で終わらせます&次はもう少し短くなるはず。