何も無かったらかかないでね! その5

 ガラリと乱暴な音を立て、後方の扉が突然開け放たれた。教室内にいた生徒たちは何事かと一斉に顔を上げる。
「あの、開票作業中に一般の生徒は——」
 一番ドアの近くにいた女生徒が腰を浮かせたが、その口から「入室禁止」の単語が紡がれる前に固まってしまった。それまで黙々と電卓を叩いていた修一は、どうしたのだろうとようやく周りに倣って視線を向け、すぐさま彼女が口を閉ざした理由を察した。
 制止を無視し、まるで当たり前のように入室してくる少女、瀬々重祢。生徒会長候補である藤村雪帆の推薦人である彼女のことは、修一の記憶に新しい。確か入学式のあと、特進クラスのお披露目とやらの折にも見かけた気もするが、あいにく早々に寝入ってしまったため内容はほとんど覚えていない。それでもその高慢な態度から、漠然と嫌なイメージだけは残っていた。
 あの女一体何の用だ、と顔をしかめた修一は、重祢の背後にいる人物に気づきますます眉を寄せる。書記候補の片割れ、林達弘が不服そうな顔つきで突っ立っていた。重祢は道を空けるように一歩横に踏み出すと、せわしなく林を促す。
「開票はもう、必要ないから。……ほら林、何か言うことがあるんじゃない?」
「うるせー、なんで重祢が偉そうに——」
「さっさとしろ!」
 重祢の罵声が続く言葉を強制終了させる。その剣幕に一瞬だけ怯んだ林は、そのことを恥じ入るかのように俯き、やがてぼそぼそとした真意が感じられない声で立候補の辞退を告げた。
 唐突な申し出に、室内は選管メンバーの戸惑いで支配された。ざわざわと行き場のない囁きが、あちこちの委員の口から漏れる。と、今度は教室前方の扉が開いた。
「皆、ご苦労さん。体育館の方は片づい——ん?」
 入ってきたのは銀縁の眼鏡をかけた男子生徒だ。スリッパの色から察するに三年生らしい。制服の詰襟をしっかりと着こなし、ホックまできっちり締めている。彼はその場の不穏な空気とその中心にいる人物に気づき、ピクリと眉を動かした。だがすぐに何気ない表情を作ると、そのままゆっくりと近づいてくる。
「一年の林くんと瀬々さん、かな? 先ほどは立会演説会お疲れさま」
「水野先輩!」
「委員長……」
 不意の登場に、二人と対峙していた委員たちが場所を譲るように身を引く。水野と呼ばれた生徒はつかつかと訪問者に歩み寄った。
「ところで、これは何の騒ぎだ? この時間は、選挙管理委員以外は立ち入り禁止ということは承知の上だろうに」
「先輩、それが——」
 最初に重祢に応対した生徒が状況を説明する。厳しい表情をして話に耳を傾けていた水野は、ふう、と聞こえよがしな溜息をついて二人に向き直った。
「用件は分かった。立候補の辞退そのものは可能だ。しかし、これはあまりにも無責任な話ではないかな? あれだけ真剣に投票を訴えていた君が、どうして急にそのようなことを言い出したんだい?」
「そ、それは……」
 理由など答えられるはずがなかった。これは、雪帆の意を受けた重祢が強要したこと。ただ命じられるまま動くしかなかった林に、それらしい言い訳などできるわけがない。まして、長い口論の末に渋々辞退を了承させられた彼には。
「……気が変わっただけですよ。夏目さんの演説を聞いて、彼女の方が書記に相応しいんじゃないかと思ったんです。勝ち目はないって」
「そうかな? 前例のない非・特進クラスからの立候補。それだけでも夏目さんは不利だ。まして、演説会での君の振る舞いは、決して引けを取るものではなかったと思うよ」
 林は苦々しそうに、ちらりと重祢を見た。鬱憤を溜め込んだ憎々しげな視線を相殺するように、重祢は林を睨みつける。重苦しい沈黙が辺りに漂い始め、どうにかそれを払拭しようと、重祢が再び口を開こうとする。
「別に構わないでしょう」
 そのとき、涼やかな第三者の声が響いた。林の背後、夕日の差し込む廊下にすらりと佇み、セーラー服の裾をなびかせた人影。
「だって、非・一組の夏目さんが生徒会入りを果たすことは、先輩にとっても喜ばしいことなんですから」
 胸の前で組んでいた両腕をほどき、しっかりとした足取りで入室してくるのは、先ほど壇上で完璧な演説をして見せた少女。
「そうでしょう? 選挙管理委員長の、三年八組水野雅臣さん。……それとも、『元』一組の、と言った方が良かったかしら?」
 挑戦的な眼差しを向ける雪帆に一瞬だけ目を瞠った水野は、しかしながらその驚愕を押し殺すように表情を緩めた。そして、小さく肩をすくめる。
 突如として現れた藤村雪帆の姿に、修一は息を呑んだ。彼女と小学校の同級生だった健吾とは違い、修一に直接の面識はない。しかし、親友の様子が入学式以来、どうもおかしいということには気づいていた。その原因の一端を担っているのが彼女だということは、しばらく経ってからようやく察したのだけれど。
 こちらを凝視する修一には当然ながら目を向けることなく、雪帆は水野の正面へ進んだ。彼女の歩みに合わせ、胸元の白いスカーフが揺れる。
「藤村さん、聞いて下さいよ。この人がやけにしつこくて……」
「水野先輩。意味のないことをあれこれ詮索するのはよしませんか? どうせ、やる気のない人材に生徒会書記を任せることはできないでしょう?」
 重祢の言葉を受け、雪帆は妖艶な笑みを水野に向けた。
「会長の立場からしても、そのような人に大任を命じる気にはなりませんし」
「……信任投票とはいえ、藤村さん。君は選挙結果が公示されていない現時点ではまだ、ただの会長候補だ。口を慎むといい」
 それに、と水野は続ける。
「生徒会長はあくまで全校生徒の代表であり、絶対的権力を持った女王様じゃない。そのことをきちんと理解しておくように」
 汚らわしいものを吐き捨てるような調子で言い置き、水野は雪帆たちに背を向けた。それを合図に、雪帆は重祢と林を伴って教室を出て行った。ひっそりと勝ち誇った表情を覗かせて。
 水野はそれから、何事もなかったような顔をして委員に指示を出し始めた。修一も作業に戻ろうとし、手元の投票用紙を見やって「そういえば林は辞退したんだっけ」と思い至る。よく考えたら、もう仕事はなくなってしまったのだ。かといって、わざわざ他の用事を探すのも面倒である。
「……なあ、さっき藤村さんが言ってた、『元』一組ってどういうこと?」
 手持ち無沙汰に過ごすのを嫌い、修一は隣の席の男子生徒をつついてみた。無論、教室の隅で大きな紙を広げている水野の存在を憚りつつ。
「さあ……そういえば何なんだろうな」
「委員長は、入学当初は特進クラスのエリートだったんだよ」
 口を挟んだのは水野と同じ、三年の生徒だ。少しばかり面白がるようにこっそりと水野の方を見やり、それから修一たちにだけ聞こえるように声を潜める。
「何でか知らないけど、二年に上がったら特進落ちしちゃったんだよなあ。成績は全く問題なかったらしいのに」
「へえ……」
 修一は目を丸くしたが、それ以上深く追及することはなかった。所詮ただの興味本位だ。
 それから散らばった投票用紙をビニール袋に詰め、きちんとまとめる。やっと帰宅できると鞄を持ち上げたところで、後ろから声をかけられた。
「待ってくれ」
 少し低めの水野の声に、びくりと振り返る。先ほど噂話をしていたという気まずさから、どことなく目線を逸らしてしまう。
「ど、どうしました?」
「田所くん……だったかな? 君は確か、夏目さんと同じ一年二組だったよね?」
 その前口上に、ますます修一は居心地が悪くなった。よりによって、何故「夏目有紗と同じ」という注釈がつくのだろうか。彼女は中学からの同級生だが、そのことをこの水野が知るはずない。
「ちょっと長くなるかも知れないが、頼みたいことがあるんだ」


 腕時計を確認し、溜息をつく。この動作を今日だけで何回反復したことだろう。下校時刻をとうに過ぎた昇降口には、修一を待つ僕以外の人影は皆無だ。夕暮れ時特有の長い影が一人分、下駄箱と平行に伸びている。
 しかし、開票作業ってのはこんなにも時間がかかるものとは知らなかった。こんなことなら修一の勧めに従って先に帰っておけば良かった。……なんてことを思うのももう幾度目だろうか。
 いっそメモでも残して、僕一人でさっさと退散してしまおうかと考え始めた矢先、スリッパの音が近づいてきていることに気づいた。廊下に顔を出すと、軽く手を挙げて自己主張する影があった。間違いない、修一だ。
「仕事、お疲れ」
「ああ。——悪いな、待っただろ?」
 僅かに眉尻を下げる修一に、苦笑することで応じる。下駄箱からスニーカーを取り出そうとかがんだ修一は、ふとそこで動きを止めた。
「……なあ健吾。お前さ、ふじ——」
「え?」
 ぼそぼそとした聞き取りづらい声に思わず聞き返したが、修一は途中で言葉を切ったままかぶりを振る。
「……いや、何でもない」
「はあ……」
 どうも様子が変だ。一瞬、「藤村」という単語が飛び出してくるのかと緊張したが、まさか修一が僕と藤村さんの関係を知っているはずがない。いや、関係といってもただ、小学校で同じクラスだっただけだけど。
 何を言うつもりだったのか、詳しく聞いてみたい気はする。でももし話題が藤村さんのことだったらと考えると、ボロを出しそうな自分が怖くて、僕はその先の台詞を紡ぐ気にはなれなかった。


(担当:苗之季雨)




お言葉に甘えてゆっくりのびのび好き放題に書きました、が結果はご覧の有様です。健吾くんの置いてけぼり感が半端ねえ。
次の走者は古夢先輩です。思いっきりバトンを放り投げてパスした気分ですが、続きがどうなるか楽しみにしてます。
…ところで地の文(三人称)での登場人物の呼び名ってファーストネームに統一すべきですか。