キャピタルCインカゲイン その3

 姉がいなくなった日から、樹は叔父夫婦と一言も会話を交わしていなかった。彼をこの家族へ繋ぎ止めていた唯一の楔が外れてしまっただけでなく、この夫婦にとっても、所謂希望の光という奴が消え失せてしまっていた。
 彼は時折、たとえば居間にいる二人を残して自室に戻ろうという時などに、この夫婦が小声で話しているのを耳に挟むことがあった。何について話しているのか、それは分からなかった。夜半に用事があって叔父叔母の寝室前を横切る時、すすり泣く声が聞こえてくることもあった。彼はそれに気づく度に、心ならず卑しく、しかも愉快な気持になっていた。
 在日米軍が到頭動き出したという報道を、彼は衛星放送で知った。地上波が映らなくなって以来、彼は衛星放送やラジオ、新聞を通じて情報を収集していた。冷静に考えてみれば、米国のこの決断は遅過ぎるくらいであった。常会中に議事堂が崩壊したにも拘らず、今まで米軍は無為に時間が経つのを眺めていたばかりなのだ。しかし、彼はこの報道を余り楽観的に受け取る事ができなかった、というのも既存の軍隊でどうにかなる問題ではないように思われたし、こうした動きは却って挑発する結果に繋がるのではないかと邪推したからである。この不安は実際的中した。その翌日、丁度樹が図書館で水附に会った日に、国際テロ組織を名乗る人々が国内の有名な通信社や報道機関に向けて一斉にテープを送りつけた。従って、同じ日の夜にはそれが無編集のまま衛星を通じて報じられることとなった。薄暗い部屋の中央で、一人の中年アラブ人が革張りの椅子に座って喋っている。言葉は全て日本語に吹きかえられていて、それによれば自衛隊と米軍とに係らず、彼らの活動を妨害するような活動は一切許されない。今後、彼らに抵抗しようとする者はその意志を有するだけで罰せられるに値すると看做す。先ずはその見せしめとして成田国際空港を攻撃する予定だと、その男は宣告していた。意地が悪いなと、樹は率直にそう感じた。テロ組織云々というのは虚言に過ぎず、身勝手な目立ちたがり屋が放縦に暴れようとしているだけなのだ。どう考えても、ムスリムが今回の件に関係しているとは思えない。又、やり口からして幼稚だった。しかし心の中ではそう独り言を並べつつも、彼自身亢奮しきっていたのも確かだった。おそらくは自分と同じような境遇の、似通った能力を持った人間が、ハリウッド張りの演劇に参加している。中には見るからに小物臭い矮躯の男もいるだろうし、正義感を滾らせる端正な顔つきの主人公や、それに恋する痩せぎすの女がいて、アラブ人の振りをしているのは当然噛ませ犬に過ぎないが、今回の事件をきっかけにして、主人公連中が陰惨な謀略へと立ち向かう。或いは、余りにも呆気なく死ぬのだ。あの封筒を開けて、その内容を初めて読み終わった時と同じ亢奮が、再び彼の中で頭をもたげていた。その夜、彼は一睡もとることができず、叔父夫婦が寝室へ引っ込んだ後も居間に残って報道番組を見続けていた。深夜二時を少し越えた頃、例のアラブ人はエジプトのニュース・キャスターで、映像は流用されたものである。即ち本人はテロと無関係であることが判明したと、速報で伝えられた。
 連続する事件は全て、彼らが対テロについて無防備であることを証明している。樹の心はあらぬ方向へと先走っていった。第三次世界大戦だ、突撃だ、今までの愛されるべき全ての日々よサヨウナラ! そして、彼は姉の嫋やかな容姿を思い出し、その優しさを懐かしんでは目に涙を浮かべ、記憶の糸がその偽善心に触れると、得も言われぬ不安に襲われるのであった。
 ところで、偽善の何が悪いというのか。樹君、お前は姉の偽善を知って、恐れ戦いているね。だがその気持もまた、純粋な羞悪に基づくのではなく、また別の偽善心によるものではないのか。昨日の夕暮れ時、お前は水附とかいう何ら罪のない同級生を同じ理由で貶めたね。その時の言葉を真似るでないが、お前は正しく馬鹿だ。如何なる信念や思想が、お前の内奥に潜んでいるというのか。自分の姉やクラスメイトを嘲る権利を、どうしてお前だけは有しているなぞと思い上がるのか。子供っぽい偽悪によるものか、だがそれは、言い方を変えただけの偽善に違いないではないか。――彼の中でこんな自問自答が立ち現れては消えて行った。違う、と彼は心底で呟く。違う、俺は不当な扱いを被り、不遇の路を厭々歩まされてきた。だから俺には憤る権利があるんだ。とはいえ、それは独り善がりに理想を抱き、身勝手に失望しただけではないのか。お前は姉からも軽蔑されてしかるべき人間だ。何も学ぼうとしない。何も守ろうとしない。すぐに他人を小馬鹿にする。だからこそ、今こうして烈しい罪悪感を抱いているのだ。いや、俺は全く後悔なんてしていない、俺は正しいはずだ、疚しさなんて微塵もない。そこで彼は、居間の扉を叩くようにして開けると、口許を片手で押さえながら廊下に飛び出て、奥に据えられたトイレへと駆け込む。真っ白な便器に向かって喉に溜まっていた反吐を全て吐き出すと、そのまま汚物が浮かぶ水面をじっと見つめていた。ここ数日間は夜になる度に、彼はこのようにして嘔吐を繰り返していた。その日も既に三度は同じように便器に向かっていて、もう胃液しか出なかった。口の中が切れていた。溜まった唾を吐きだすと、僅かながら血が混じる。それにしたところで大した量ではなかったが、真っ白な便器に浮かぶ滑らんとした赤は、気分をうんざりさせるのに十分だった。
 結局、彼は寝ずに朝を迎えた。朝刊も来たのと同時に受け取った。中身はやはり昨夜の声明文に関することで大半が埋められていた。少しでも多くの情報を得ようと躍起になって新聞を貪り読んだが、衛星放送に比べると目新しい情報はまるで得られなかった。しかし放送されている報道番組にしたところで、格別踏み入ったことを行っているのでもない。唯一、空港とその周辺の道路が閉鎖されたという速報だけが、彼にとって有益であると思われた。公共交通機関も一部停止させられるらしい。このままいけば学校や企業も休みになるところが出てきそうだぞと彼が考えていると、睡眠から覚めた叔父夫婦が居間に降りてきた。叔父にせよ叔母にせよ、世間の煩悶からは全く解脱してしまったようなもので、この特報にもまるで興味を示さなかった。きっと道路が混雑し、渋滞も多く起こるに違いない。そうなれば叔父も会社へ向かうのに苦労するはずだ。しかし樹はそう思ったものの、口にはしなかった。やがて彼は居た堪れなくなって、簡単に朝食を済ますとすぐ学校に出かけた。
 遂に休校とはならなかったが、自治体の判断によって昼には下校することが決まった。彼のクラスではこれを聞いても喜ぶ者は誰一人としていなかった。というのも、以前から行方不明扱いになっていたクラスの三人も今回のテロ事件に巻き込まれていた可能性があると、担任の教師が述べたからである。それは飽く迄教師の一推測ではあったが、あながち間違っているとも言えない。しかも事情を知らない人からしてみれば、この考えは至極正当のように思われた。そして、生徒の大半が同様に考えた。堪え切れなくなった女子の一人が泣き出して、更に何人かがそれに続くと、教室は葬式会場のような雰囲気に包まれた。彼は冷めた気持でその様子を眺めていたが、自らのそうしたシニシズムに気付くと、忽ち疚しさがとって変わった。その調子は授業が始まってからも続いた。
 三時限目の終りを告げる鐘が鳴ると、地理の教師と入れ替わりに担任が慌てた様子で入ってきた。顔が火照ったように赤くなっている。教師は学級委員の女子を呼び出すと、彼女にプリントの配布を一任した。下校前というのに教室は静寂としていて、ちょっとした話し声さえ大きく響いた。教諭が席の合間を縫って歩いてくるのを、樹は茫然とした心持で眺めていたが、それが眼前まで来て急に立ち止まると流石に緊張した。後で職員室まで来てくれと、彼はそれだけ言ってまた教壇の方に戻っていく。何かあったんじゃないかと隣席の男が心配そうに囁いてきたが、樹は無視した。胸の辺りが変にさざめくのを、彼ははっきりと感じていた。
 下校前の連絡は呆気なく終わった。班を組んで帰される、ということもなかった。連絡を回すかも知れないという理由で、春期に登録した連絡先を変更したい者は今にも届け出るようにとの指示があったが、該当する生徒はいなかった。交通規制などの都合により帰宅できない生徒は放課後第一総合教室に集合してください。そんな通知もされたが、樹はこれにも当てはまらなかった。程無くして連絡内容が尽き、挨拶も終わると、教室内は俄かに騒がしくなった。樹は言われた通りに職員室へ向かった。
 担任よりも先に着いたものの、呼ばれた理由は全く分からず、それは周囲の他の教師に訊ねてみても同じだった。大型の液晶テレビがつけっ放しになっていて、丁度成田空港の様子が空から映し出されていた。一体何を問われるのだろうかと、彼は不安な心持で考えた。まさか件の手紙や、自分の能力について問われるのではないと思っていたが、ふと水附に思い至ると、それも分からなくなる。あの厚顔な平和主義者のことだ、同級生を売り渡さないとも限らない。否、何時までも隠す方が滑稽と言うべきもので、彼女が立場上鳩派であるのはどうも疑いようのない事実であるのだから、様々な手段をもって彼を牽制するのこそ賢明と評されるべきだ。それに、と彼は考えた。一体誰がましな人間で、誰がそうでないかなんて分かりはしない。誰が自分と同じ立場にいるのかさえ判別つかない。それまで彼は、水附以外にはクラスメイトに敵も仲間もいはしないと考えていたが、それは単なる妄信でしかないと気づいた。あのぞろぞろと歩く教師連中にさえ何らかの裏があっても、驚くべきことではないのだ。あの手紙の内容も、全て真実が書いてあるとは限らない。彼は自分の早過ぎた行動を後悔した。彼はもっと冷静に、状況を弁えながら動くべきだった。
 そんなことばかりを考えていた為、遅れてやってきた教師に姉のことを訊ねられると、却って勘繰った。教師は先に、行方不明になった生徒について語った後で、その生徒達からしてそうだが、彼の姉の事件についてもまるで警察が機能していないようだと告げた。彼はそれも当然だと思った。日本全体で大きな事件が続いている中にあっては、若者の行方不明事件でさえ規模が小さ過ぎたし、そうでないにしろ事が奇怪に尽きた。姉について警察から調べを受けた時も彼はまともに受け答えをしなかったし、それにも係らず警官はこの不幸な少年を不憫に感じて、却って優しく接した。おそらくは叔父の方も、目の前の事実を有りの儘には語らかっただろうし、語ったとしても錯乱しているが故の告白だと思われたはずだ。教師は穏やかな調子で彼に語りかけた後、きっと姉は無事に違いないはずだから、気を落とさずに過ごして欲しいと言った。しかもその直後に、赤の他人がこんなことを言っても仕方がないよな、と教師は付け加えた。この男も所詮安い小説に毒されてるんだなと、樹はぼんやりとした頭で思った。教師の話は凡そ退屈で、無益だった。同情するにせよ、これは事実を全く誤解した上でそれをするのだから性質が悪い。彼にはそう思えた。
「ところで、水附とは仲が良いのか」話が終わって帰ろうとすると、教師にそう呼び止められた。彼は咄嗟に首を横に振った。頭の中で多くの出来事が飛び交い、やはり二人で一緒にいるところを誰かに見られてしまったのだろうかと、不安に思った。しかしそうではなかった。
「彼女、廊下のところで待ってるぞ。早く行ってやれ。今日は呼び出して悪かったな」朗らかな笑顔を浮かべながらそう告げた。樹が急ぎ足で職員室を出ると、確かに彼女が立っていた。彼女はすぐに彼の方へ駆け寄ってきた。
「なぜ、いる」乱暴に言い放ったが、彼女はぐいぐいと彼の袖を引っ張るばかりで答えなかった。何度訊ねても同じだった。仕方がないので、彼は脚を小刻みに動かしながらそれに着いていった。
「今朝の新聞は読んだよね」靴を履きかえ校外に出てから漸く、彼女はそう言った。彼は素直に頷いた。
「それが何だ」
「何だ、ということはないでしょう。空港が襲われるの。当然、止めなくちゃ」
「あんなのは悪戯だ」
「本当にそう思っているの」
 そう言われると、心の底を見透かされたような感じがした。単なる愉快犯である可能性もあるにはあったが、何せ能力さえ身につけていれば遊び半分で人を殺せてしまうのだ。だが彼女の意見には乗り気になれなかった。一晩徹夜したせいで疲れが溜まっていたし、昨日から余りにたくさんの事柄について頭を巡らせていたせいか、軽い立ち眩みのようなものさえ感じていた。何しろ相手がどんな人物か殆ど情報がなかったし、仮に相手の居所を探し出して実際に対抗するにしても、この同級生とは一緒にやりたくなかった。彼は駄々をこねて彼女を煙に巻こうとした。
「そりゃあ、最初は本物かもしれないなとは思ったよ。だがやり方が稚拙だし、わざわざ警戒を促すなんて馬鹿げているじゃないか。あれは偽物だよ」
「でも、今までだって幼稚なことに変わりはなかった。無関係の人間が便乗するつもりなら、こんな危険な手続きは踏まないだろうし、それなら金銭を要求すると思う。でも違った。普通の人が米軍や自衛隊に対し口出しするとは思えないし、本当に能力を持っている人間なら、多少の警備は問題じゃないと思ったとしても、不思議じゃないよ」
「それもそうだな」口ではそう答えつつも、彼は詭弁でもいいから反論を企てようと頭を働かせた。
「だが悪いな、俺はニュースさえ余り見ていないんだ。あのアラブ人が何を企んでるのかも知らない位だ」そう言うと、彼女は不満気に頬を赤らめた。
「さっきも言ったでしょう、空港を襲うつもりなの」
「どの空港か知らない」
「成田だよ」
「羽田かもしれないじゃないか」
「成田だって。はっきりとそう、言っていたよ」
「今日じゃないかもしれない」
「今日だって言ってた」
「交通網が規制されてる。行きようがない」
「それは犯人も同じでしょ」
「今日は曇りだ。晴れの日にやった方が、気分も良いだろう」
「君はふざけてるつもりなの」
 到頭彼女は怒りだした。当然のことではあった。しかし、彼からしてみればこのまま激昂して自分のことなぞ放っておいてくれる方が都合良かったので、特に宥めようとはしなかった。彼女は声を荒らげた。
「昨日は私が悪かった。君の気持が分かったようなふりをして、偽善者ぶっていた。それは認める。けれど、これは別の問題なの。君は別の能力者と戦いたがっている。その為には先ず、相手を探さないといけない。そうでしょう。私は争いなんてしたくない、でも誰かが殺されるのを黙って見過ごすのも厭だ。だから、敵を見つけ出さなきゃならない。そこは同じなんだよ。何も、無理矢理に君を駆り立てたいわけじゃない。だけど、少なくとも途中までの利害は一致しているはずよ」
 実際には無理矢理にでも付き合せるつもりの癖に。そう内心で愚痴を零したが、次第に彼女の言い分も尤もであるような気がしてきた。また、現実に相手を殺さねばならないような場面にまで彼女を追い込めば、その平和主義的な仮面を剥ぎ取る手段として全く適当だとも感じられた。何も自分からそれをやる必要はなく、後ろから手助けする振りをしながら、敵の眼前に誘い込めばいいのだ。彼自身趣味の悪いやり方には違いないと思ったが、この女子を陥れようというその計画は、想像するだけで爽やかな気持にさせた。
「俺は腹が減った。あんたは?」彼が自身の腹を擦りながらそう言うと、予期せぬ質問に彼女はたじろいでいた。次にどんな行動をとるべきか食事をしながら考えればいいと、そう思いついたのだった。
「わ、私も……」彼女は少し俯いていた。ならば先に昼食をとろうと提案すると、彼女は小さく頷いた。
 二人は学校近くのモス・バーガーに入った。花梨の意見だった。ファーストフード店だと他の知合いがいるのではないかと彼は不安になったが、杞憂だった。昼時なのもあって店内には客も多くいたが、混雑という程ではない。彼らと同じ制服を着た高校生が数人で集団を組んでいたが、他学年の生徒らしく面識はなかった。列に並んでカウンターまで辿り着くと、彼女はチーズバーガーを頼んだ。彼は真先に目に飛び込んできた、季節限定と銘打たれたバーガーを一つ注文し、揚げた鶏肉とホットコーヒーを追加した。二人は窓側の席に座った。
 花梨が大きな口を開けてバーガーに食らいつくのを見ると、彼の中で不思議な気持が湧きたった。姉との場合を除けば、同じ年頃の異性と二人きりで食事をするのはこれが初めてだった。特に話題もなく、かといって超能力云々の話をするのも気が退けたので、昨日彼女が歌っていた替え歌について訊ねることにした。彼女は顔を赤らめると、あれは即興のもので特別な意味はないのだと、早口で言い訳した。それからぽつり、ぽつりと脈絡のない会話が始まった。
 彼女は中学校の頃から図書委員を務めていたらしい。大変なのは長期休暇前の書架整理だけで、他には特に忙しい仕事もない。三四週間に一度当番が回ってくるだけで、それにしたところで貸し出しや返却の手続きを行うだけという簡単なものらしかった。そうした手続きが行われるのは、人の多くなる昼休みと、最後の授業が終わってからしばらく経った午後四時前後だけで、それから閉館時刻となる午後五時過ぎまでは本当に暇なのだという。訪れてくる生徒も自主学習に黙々と励んでいたり、塾へ行くまでの余った時間を寝て過ごしていたりで、大抵静穏としている。その中で他の図書委員とお喋りをしたり、お勧めの小説について教え合ったりするのが好きなのだと、彼女は語った。夕暮方の感傷的な空気を味わう為だけに度々そこを訪れていたが、もしかしたら図書委員達からは奇特な目で見られていたのかも知れないなと、彼はふと思った。或いは、気付かなかっただけでこの水附という女子も前々から自分の行動を眺めていたのかも知れない。そう考えるとどこか寄辺のない気持になった。
 彼は空腹が満たされたのと、程良い眠気とで、姉と別れて以来久々に安穏とした気分に浸っていた。彼特有の険しい感情も、今は遠くへ逃げ隠れてしまっている。花梨は独りで携帯電話を触っていた。今の状態のままでは空港まで無事に辿り着くことさえ危うかったし、どうにかして抜け道を見つける必要があった。彼女はそれを探しているのだ。会話はすっかり途切れていた。店内は雑音に溢れているとはいえ、それらはどこか別世界の物音のように彼には響いた。つい先程、彼女を困らそうという安易な思惑で今日は曇天だなぞと言っていたが、実際には雲が疎らで陽光が惜しげなく降り注いでいる。彼らが向かい合っている上にも窓越しに光が差し込み、木でできた机の表面に触れると仄かに暖かかった。超能力だの、テロリズムだの、そういった煩雑な事柄は全て忘れ去ってしまって、そのまま安らかな夢の世界へと落ちていければいい。彼はそんなことを願ったりもした。数秒間瞼を閉じただけで、それは実現できそうだった。事実、彼は朦朧として何度か眠ってしまいそうになるのを繰り返し堪えていた。その時世界は全く平和で、電話をかければすぐに姉にも繋がるし、勉学の不安さえなく、公園では子供たちが舞い上がっている。時折、隣の席に座った会社員風の男や、店内の奥で立ったまま客を待ち続ける店員なんかが入り混じって、一個の巨人を形成すると、彼の知らない言語を話し、彼には理解できぬ理想を説いていた。非現実と現実との境を浮き沈みしながら、このまま今日という一日が終わってくれれば良いのだがと、僅かに残された理性でぼんやりと思った。従って彼女が黄色い叫び声をあげた時も、目は覚めていたにも関わらず、彼にはどこか他人事のようにしか感じられなかった。
「どうかしたのか」両目を見開きながら携帯電話を操作する彼女を前にして、彼は今更ながらに訊ねた。
「私達、のんびりし過ぎちゃった」
「よく分からないな」彼がそう呟くと、携帯の画面を目の前に突き出してきた。管制塔らしき建物から、青空に向かって黒煙が昇っていた。
「これがどうかしたのか」彼は半ば夢見心地のまま、残り半ばは冗談のつもりでそう言った。馬鹿、と彼女が小さく呟くのを聞きながら、到頭夢の中に落っこちた。
 二人で店外に出ると、手持無沙汰になった。固より乗り気じゃなかった樹は事件を知っても特に何も思わず、寧ろ軽傷者が数人出た以外には一人の死人さえいなかったというニュースの方に、心を惹かれていた。今回ばかりは警察による監視体制や、待機していた救急隊員の対応が実を結ぶ結果となっていた(これは後になって公開された事実であるが、実は自衛隊も陰で準備していたらしい。しかしテロリストを刺戟しないようにとの配慮があって、表立った動きはとらなかったという)。それでも管制塔が破壊されたのに違いないのだから、物的な被害は相当なものである。何せ大勢が見ている目の前で、あの巨大な被造物が突如爆破されてしまったのだ。事情を知らない人からしてみれば、これ程不可解極まりないことはない。とはいえ樹らも実際に現場で見ていたわけではないから、如何なる能力が用いられたのかは分からなかった。
 歩いている中に、駅の前まで来た。二人は携帯電話の番号とメールアドレスを交換して、互いに別れを告げた。しかし二人とも自宅の方角が同じで、路線も共通していたので、途中の駅まで共に帰ることになった。もう別れるつもりだった手前もあって樹は何となく居心地が悪かったが、花梨の方はまだ伝えたいことや話したいことが多くあるらしく、寧ろ嬉々としていた。彼女は今回の事件について徹底的に調べるつもりだと断言した。先程の映像がオンライン上に公開されているだろうし、多少は事情を見据えている自分らがそれを細かく観察すれば、きっと何かしらの手がかりが得られるはずだ、と彼女は言った。樹には彼女の言うことがどうも信用できず、不安だった。何より彼女の行動の根拠となるものが見つからなかった。だからこそ、その挙止挙動が単なる思い付きによる深い意図のないものにも、或いは彼を欺くための巧妙な演技にも思えてくるのだった。自分と同じ手紙を彼女も受け取っているのは確かだろう。しかし文面までもが一字一句同じという保証はない。また、彼女は何を知っているのだろうか。彼よりも遥かに多くの情報を有しているにも係らず、それを隠しているのか。こう疑い始めると猜疑心はとめどなく膨れ上がっていった。しかし彼女を詰問してそれを明らかにするだけの体力も今の彼にはなかった。
 午後の三時を少し過ぎた頃、自宅に着いた。家には他に誰もいなかった。彼は何もする気が起こらなかった。自室に引きこもると、すぐに着替えを済まして昼寝した。
 目が覚めた時には既に日が落ちていた。居間へ向かうと、丁度夕食の支度がされていた。テレビが点けっ放しになっていて、ヒトラー総統が白黒に大きく映しだされている。画面の隅に書かれた文字によれば、テロ組織による新しい映像が再び送られてきたらしい。ドイツ語で演説する壇上の姿を背景に、日本語の字幕が次々と表示される。目覚めたばかりの朦々とした眼でそれを見ていたが、途中から内容に変化が現れると、彼も注意し始めた。それまでが国内外の政府や軍部を挑発するような内容だったのに対し、何時の間にか一般の市民に語りかけるような論調に変わっていた。より正確に言えば、その文面は樹らのような能力者に向けて語りかけているように思われた。我が同胞よ、千年帝国の市民権を手に入れた、君ら幸せな人々よ。そう呼びかけるのを見て、この予想は確信に変わった。テロリストが身内に向かってこんな方法で語りかけるなんて考えられなった。歪な言い方ではあったが、それが例の手紙のことを示唆しているのは自明であった。一切の眠気を脱ぎ捨てて、画面上の字幕を食い入るように見つめながら、彼はそれを読み上げた。
「腐臭の漂う掃き溜めに、君らは何時まで留まり続けるつもりなのか。何故、自分の見てくれや遺伝子を理由に、或いは才能や境遇など思いつく限りの言い訳をしてまで、自身が醜い羽虫にしかなれないことを証明しようとするのか。特別の権利を手にしていながら、疚しさが故にそれを押し隠すつもりなのか。断言しよう、君らは蠅にしかなれないのではない。――そうなることを自ら望んでいるのだ」



 その日、稲玉士は死んだ。法律上は行方不明とされていたが、このような時代にあっては死んだのと同義だった。地面に付けられた焦げ跡の近くに、数人の死体に加えて彼の生徒手帳が落ちていた。なぜ彼だけが連れ去られたのか、或いは持ち去られたのか。誰にも理解できなかった。こう怪事件が何度も続くと、メディアの方もどれに注目すれば良いのか判別がつかないだろう。いずれの記事においてもテロリズムを中心に据えているのは違いないが、その中で一つだけ、割に三面記事にからめて報じているスポーツ新聞があった。それによれば、最近頻発している行方不明事件や焼死体の件などは全てこのテロ組織に巻き込まれたのだという。更には芸能関係者や大手企業の幹部までもが裏からこの犯罪者集団を援助しているとの告発もあったが、これは流石に眉唾物だった。このような低俗な新聞でしか得たい情報も得られないのかと思うと、士は些か惨めな気持にもなった。それでも当分の間は待望の解放感に包まれて陽気な気分を保てそうだったし、ちょっとした煩悶はすぐ気にならなくなっていた。
 何しろ死以上に人間を解放するものはない。画一的でしかも退屈な生活と縁を切れる。詰まらない行きずりから人付き合いに悩まされることもない。何より東京の馬鹿共に別れを告げられる。彼が死を決意したのは、成田が攻撃された翌日、テロ組織が用意したとされる映像を学校で見させられた時だった。唯一積極的に取り組むことのできた化学の授業が取り消され、代りに一時間もの間、その映像について教師側の論を聴かされるはめになった。職員室に徹夜して作ったというプリントの束が配られ、今後臨時休校になる可能性があると発表された。事件に関して生徒の取るべき行動を指導しようというのが、その授業の大体の目的だった。だが学校の主張になど全く興味が湧かなかった。彼はそれまで新聞の見出ししか読んでいなかったから、自称テロリストらが婉曲的であるにしろ、超能力者や手紙のことについて触れていたのが意外に感じられた。ともすれば、今まで以上に露骨な争いが始まるかもしれない。しかし彼としては、可能な限り高みの見物を決め込むつもりだった。互いに潰し合った挙句、疲れ切ったところで漁夫の利を狙えばいい。それまでは文字通り、暇を持て余すばかりだ。それなのにこのままでは、東京に留まっているだけで火の粉の振りかかる心配がある。又、いずれにせよ自由に動こうとすれば家族や学校の知合いとの付合いが足を引っ張るに違いなかった。彼は最も単純な方法を選び取ることにした。以前の馬鹿を見つけ出して、その事績に自分の生徒手帳を添えてやったのだ。
 万事が調子良く行ったが、それでも東京を出るまでの間は緊張が解れなかった。仙台へ向かう電車に乗り、売店で買ったチョコ菓子を頬張りながら次第に街の遠くなるのを見て、初めて安堵の息を吐くことができた。行先に関して特別のあてはなかったが、以前から貯めてあったバイトの給料のおかげで、しばらくは金に困ることもなさそうだった。それが尽きたところで、彼の能力を使えば小銭を盗むことぐらいわけもなかった。死後の記念すべき第一日目を、彼は仙台駅近くのカプセルホテルに宿泊して過ごした。狭い個室で横になりながら、構内で手に入れた様々なパンフレットを広げる。翌日からの観光生活を想像し、やはり松島は一度訪れるべきだろうかと思いを馳せながら、彼は新しい生活の到来に心を躍らせていた。


(担当:黒木三蔵)



 一ヶ月もの間放っておいて申し訳ございません。樹と花梨の関係についてはできる限り前回までの形を引き継いだつもりですが、意図に適えているか不安です。未だに全員の能力が判然としないのも問題でしょうか。
 兎角これで四分の一は終えました。このまま続けば、全体で結構な文章量になりそうです。次は御伽さんでしたね。よろしくお願いします。