何も無かったらかかないでね! その6

『林達弘が辞退した』
そのニュースは学校を激震させるほどの威力はなかったけれど、そのことによって生じた事態は十分に生徒たちに衝撃を与えた。特に、常に一組が絶対、という状況に慣れた上級生にとっては、非・一組の生徒の生徒会入りは大事件だった。


夏目有紗は、結果的に信任投票となった選挙の結果の貼りだしを一瞥すると、すぐさま踵を返した。「よかったね」も「おめでとう」も、祝いの言葉は何一つ聞きたくなかった。

雪帆が手を回したに決まっている。

これは、有紗の確信だった。冷静に考えれば、入学したばかりの一女生徒にそんな大それたことが可能な訳はないのだが、直感的にそう思ったのだ。あのやたらと態度の大きい不遜な少女———瀬々重弥が関わっているのならば、十分にあり得る話だと思えた。重弥は他者を雑草のように踏みつけ目もくれないくせに、雪帆に対してだけは、気色の悪いほど心酔しているようだったから。


それにしても、こんな手の込んだ真似をするなんて、雪帆の望みというのは一体何なのだろう。自分を書記にした意図は何なのか。考えても、有紗には分からない。有紗の知っていた、恥じらうように笑いながら『先生になりたいの』と囁いた少女は、もういない。今の雪帆は、他者を睥睨する眼差しを持つ、権力志向の野心家だ。

「まったく。先生って、政治家のセンセイだったわけ…?」

忌々しげに吐き捨てながら、有紗は足音高く廊下を歩く。
変わってしまった雪帆のことを考えながら、有紗はいつまでたっても変われない自分を思い、苛立ちから唇をかみしめた。


有紗はいつも、どうしても他者によってしか、己の道を決めることができない。

これまで、自分が望み、自分の為に行動してきたことがあっただろうか。いつだって自分は、他者を基準にしないと自分という存在をはかることが出来ない。そんな他者に依存的な価値基準で動いているから、今度だって生徒会書記を務めることになってしまったのだ。いや、この言い方はおかしいか。なろうと思って立候補したのだし、勝とうと思って全力を尽くした、はずなのだから。
でも、本当に自分は勝つことを考えていたのだろうか。勝てる見込みがないと思っていたから可能だった行動だったのではないだろうか。


なんで、私は———

強くかみしめた唇から、血の味がした。口に広がる鉄の匂いは、様々な記憶をよびおこす。


ああ。
元はと言えば、そもそも、この学校に入ったのだって———

雪帆の元へと荒々しく廊下を突き進みながら、有紗は志望校を変更したときのことを思い出していた。


有紗は、幼稚園に入ったばかりのころから絵を習っていた。
それなりに才能はあったようで、県のコンクールでの入選などは当たり前だった。問題は、その先に進めないこと。全国のコンクールでは、なかなか結果が出せなかった。けれども有紗は信じていたのだ。子供ながらの無邪気さで、将来は画家になる、なれる、と。
———中学3年の、あの夏までは。


有紗の通っていた絵画教室は、車で三十分ほどはかかる街の喧騒とは程遠い場所にあった。その道ではなかなか名の通った女性画家が半分趣味で、慈善事業のようにしてやっていた教室で、わざわざ電車を乗り継いで通ってくる人もいた。そこで、有紗は先生のお気に入りだった。少なくとも、周りと有紗はそう思っていた。
コンクール入選の常連だった有紗は両親の自慢で、有紗に才能があるようだったら、将来は美大に入れてやろうかと思っているのだが…と先生に相談していたくらいだった。そして、先生はそれに満面の笑みで賛成していた。


その教室には、有紗と同学年の雪奈という少女がいた。従妹とよく似た名前を持つ少女は、有紗の親友でライバル———好敵手だった。
コンクールではいつもどちらが上位に入賞するかを競っていた。
画家になる夢を語り合っていた。
いつかプロになったら、二人で共同作品をつくりたいと、話し、そうしたら作品の価値が二倍じゃなくて二乗になったりして、とふざけて笑っていた。
真剣に絵の道を志す仲間だと、同志だと思っていた。
———耳障りな蝉が鳴きわめいていた、忌々しいあの夏の日までは。


「雪奈さん。どうしても、絵はおやめになるの?」

その日はたまたま、いつもよりもだいぶ早く教室に着いた。先生とお喋りでもしようかと思いながら教室の入り口にたどり着いたとき、薄く開いた扉から先生の悲しげな声が聞こえてきた。
雪奈の名に思わず立ち止まった有紗は、続いた内容に息をのんだ。

「はい。そろそろ勉強に専念しなさい、と父が煩いので。それに、やっと全国で入選して、もう思い残すこともありませんから」

投げやりでも諦めでもなく、さばさばと明るい声で、雪奈が話すのが聞こえる。その内容は、有紗を打ちのめした。雪奈は何の未練もなく絵をやめる気でいること。そして、雪奈が全国のコンクールで入選したということ。

「本当にあの自画像は素晴らしかったわ。入選では惜しいくらい…。有紗さんのご両親は娘を美大に入れてもいいと思っているそうよ。本当なら、あなたはこの教室の誰よりも才能のある人なのに、あなたのご両親は絵に反対なさるなんて、うまくいかないものね」

世の無情を嘆く先生のため息。

「先生・・・またそんなことを仰って。うちは医院で、一人娘の私が継がなきゃいけませんから、仕方ないんですよ。別に私も無理しているわけじゃありませんし、やっぱり家のことや将来を考えたら、いつまでも好きなことばっかりやって遊んでいるわけにはいきませんから。絵はどこでもかけますし、これからも続けていきます。絵の夢は有紗ちゃんに託しますよ」

いっそ先生を窘めるような、雪奈の苦笑まじりの声。
雪奈と先生が、こんなに仲がいいだなんて知らなかった。しかし、その疎外感よりも、有紗を傷つけたのは、雪奈が絵を遊びだと言い切ったことだった。思いがけない裏切りに、噛みしめた唇から鉄の味が広がる。

「本当に、あなたはいっつも…。芸術はその人をそのまま表す鏡なのよ。前から言っているでしょう?あなたの絵には深みがあるわ。中身があるということ、それが才能なの。うまいだけじゃダメ、人を感動させることは出来ない…」

言い募る先生をさえぎって、雪奈は笑う。

「先生の買い被りですよ、私は自分の能力の限界はわきまえています。
私はあの自画像にすべてを注ぎましたから、今回の入選が私の最高です。あれで入選どまりだったんですから、私はここまでですよ。プロになって絵で食べていけるとは思えません」
「まったく、客観的なのか謙虚なのか。本当にもったいない・・・。いつでも遊びにいらっしゃいね。月謝なんていいから、たまには絵をかきにいらっしゃい」
「ありがとうございます」

雪奈が出てくる気配を感じ、とっさに有紗はその場を逃げ出した。頭の中はフル回転で空回りしていた。自分が今、何を考えているのか、何を考えればいいのか、分からなかった。その日は、そのまま教室をさぼった。


次の教室のとき、雪奈から正式に教室をやめることを聞いた。彼女の志望校が変わっていないことも。そのとき、有紗は、公立だが芸術に理解がある地元の進学校の美術科を志望していた。絵を、続けるために。

「私は普通科になるけど、同じ高校だし、これからも仲良くしてね」

のうのうとそう笑った雪奈を、有紗はその時初めて憎いと思った。自分よりも才能が有りながら、あっさりと可能性を捨て去る雪奈が、絵を捨ててもなんとも思わず、まだ手の中にいくつもの希望と可能性を有している雪奈が、憎かった。

「ありがとう」

教室の窓から外に見える景色を一瞥した後、有紗は笑顔でそう返した。心中は、真冬の吹雪よりも冷たく荒れ狂っていたが。

その一週間後。有紗は、両親に進路を変えることを宣言した。

雪奈に負けたくなかった。雪奈の上を行くために、有紗はわざわざ今の学校を目指したのだ。雪奈の上を行く進学校で、雪奈よりも上の大学を目指すために———。



放課後。
前日までに提出だった課題が終わらず、居残りを命じられた僕は、ため息をついた。美術部に入る気はなかったのだが、選択科目では美術を選択した。字が汚く音痴な僕にとって、習字や音楽などはただの拷問だった。
ただ、それにしても。

「なんで、課題が自画像…」

自画像には、嫌な思い出がある。いや、むしろ嫌な思い出しかない。自分が高校で美術部に入りたくない原因であり、夏目有紗が苦手になった原因であり、また、自分が嫌いになった原因でもある、思い出。

あれは、夏休みが終わったばかりの日。皆、授業はだらだらとしていても放課後にはイキイキとしていた頃。夏休み明けにある文化祭の発表に向けて、展示物づくりや出し物の練習に余念がなかった時期のこと。美術部だった僕は、その時も自画像をかいていた。

あのうだるような暑さの日。何を思ったか、ふらりと美術室にやって来た夏目さんは、友人らしい美術部の少女となにやら雑談していた。僕は、珍しいな、とは思いながらも、先生と仲間相手に、絵の相談をしていた。
あの時、僕は、ふと隣に座っていた夏目さんに話を振った。確か、部外者の夏目さんにも意見を聞いてみようと思ったのだ。内容は、今となっては思いだせない。きっと、鎖末で些細な事だったのだろう。しかし、僕の発言は夏目さんの気に触ったらしい。いや、逆鱗に触れたのか。

「バカ」

呆れや軽蔑だけではない、様々な感情が込められたような声だった。僕を睨みつけ見下ろしながら、むしろ、彼女自身が傷ついているような。
突然立ち上がった彼女は、僕に一言侮蔑の言葉を投げつけて、呼び止める友人の声も無視して美術室を出て行った。困惑とざわめきを残して。

その日の放課後、下校しようとした僕は、下駄箱の手前で立ち止まった。
「バカなんじゃないの?あいつ、須藤健吾」
聞こえてきた押し殺された声は明らかに夏目さんのもので、しかも抑えきれない激情を感じさせた。明白な苛立ちと敵意に、僕は意味もなく慄いた。前後の会話は覚えていないけれど、続いた言葉だけは、当時僕を切りつけた傷と共に、記憶に深く刻みつけられた。
「あの男、何様?絵は、かく人間の鏡よ。あんな空っぽな絵をかくくらいなら、かかない方がマシよ」

空っぽ。
その言葉は、僕に衝撃を与えた。そしてその時初めて、僕は自分という存在に疑念をもった。
僕という存在。
考えれば考えるほど、自分はくだらない、つまらない、価値のない人間に思えてきた。それまでは自明のことであった『僕』というものに、僕は混乱し、恐怖を抱いた。


夏目さんに、僕は、僕の絵は、どんな風に見えたのだろう。


僕は、絵が描けなくなった。
そして、その夏。自分のことが嫌いになった。


藤村雪帆は、自らの権力の象徴となる生徒会室の会長椅子に座り、窓の外を眺めていた。すっかり散ってしまった桜を眺めながら、雪帆は三年ほど前、中学に入学したばかりで有紗と文通していた時のことを思い出していた。

便りのないのは良い知らせ、とはいうが、特に何も変わったことがなくても、雪帆はしょっちゅう大好きな従妹に手紙を出していた。そのほとんどが泣き言だったが、有紗は一々に丁寧な返事を書いて親身に励ましてくれた。頼れる姉のような存在に、雪帆はすっかり心を許していた。

いつだっただろう。
有紗のその優しさが、ある種の優越感からくるのだと気付いたのは。
雪帆が泣きごとを言えば言う程、有紗のプライドは満足し、優しい返事が返って来る。雪帆が少しでも自慢じみたことを書けば、どこか歪んだ過剰の賛美が返って来た。
なぜ、言葉を言葉通り、賛美を有紗の優しさだと受け取れないのだろう。丁寧な文字で埋められた文面から、『そんなに立派にやっているのなら、もう私なんかいなくても平気よね』…そんな裏を読んでしまう自分に嫌気がさした時期もあった。そうして、徐々に手紙のやり取りが減っていった。

そんな昔のことを思い返し、物思いにふけっていたら、廊下を誰かがやって来る足音がした。
(この足音は…)
がらり、と開いた扉に向かい、足を組み直した雪帆は艶然と微笑んで見せた。

「いらっしゃい、私の王国へ」