キャピタル・C・インカゲイン その10

 足が痛む。B‐Aが、否、楓が足に違和感を感じたのは、彼の意識を制圧してすぐのこと。左足がぎしぎしと軋む。一歩足を進めると、かちゃかちゃと人の足音ではない音がする。最初は特に思うところがなかったが、嫌でも気づいた。
 義足か。
 義足部と断端部の境目は温湿度と圧の変化により違和感を覚えることもあるのだと、楓はかつて、何かの本で読んだことがあった。ジャンルはファンタジーだったが、それが途端に現実味を帯びてきた。いや、むしろ本の内容より、今の状況の方がよほどリアリティーに欠けている。他人の身体を乗っ取りました、なんて。しかもそれがこんなオッサンでどこかワケアリな男。冗談じゃないわ。楓は心底そう思う。それは当然のごとく、自分の体に施してきたダイエットやお肌ケアが台無しになったからというわけではない。もともと、ダイエットはただ友人に付き合っていただけで楓としては自分は痩せる必要はないと思っていたし、肌のケアだってどうでもいい。外見なんて他者に与える最も愚かな判断基準のうちの一つだ。それに、楓は通り魔に殺されたのだ。そして矢羽樹の意識の片隅に存在するだけだった。弟を見守っていけるのであれば、それでも構わないとすら思っていたところだ。そこに来てこの仕打ちである。


「……ふ、ふふっ、死にたいわ」
 周囲には誰もいなくなった。すべて自分が消した。復讐は終えた。いや、復讐など、最初からどうでもよかったのかもしれない。ただ目の前で弟が死を遂げたことが許せなかっただけなのかもしれない。自分の感情を持て余して、挙句の果てが、この様だ。弟を殺した男として生きながらえるなど、最悪以外の何でもない。弟を殺害したこの男の手が、顔が、細胞の一つ一つが、細胞ですらない義足すらも、憎らしい。早く他の身体に寄生するか、消滅してしまいたかった。
 鈍い足の軋みについでやってくるのは、頭に響く鋭利な音。それは過去からの音声なのだろう。B-Aと呼ばれた男の人生が、まるで映像を早送りしている時のように、キュルキュルと滑稽な音を立てて駆け巡っていく。
最初、楓は樹の能力が応用されたのかとも思ったが、おそらく違うのだろう。樹は既に死んだ。そして楓はB-Aの身体というものを乗っ取った。身体には、もちろんそこには脳も含まれるだろうし、身体が覚えているという言葉にあるように、記憶が詰まっているのだ。記憶の共有が行われるのも当然なのかもしれない。むしろ、楓がB-Aへと押し入り彼を意識の片隅どころか二度と身体を操作することの敵わない遙か遠くまで追いやったのだから、記憶の剥奪とでも呼ぶべきか。



「私が貴方の足になるわ」
 凛と言い放つ声がB-Aの、B-Aの記憶を剥奪した楓の耳に届いた。
 記憶の中で、おそらくB-Aは小洒落たカフェにいる。白を基調としたテーブルや椅子がある程度の間隔を空けて並んでいる。人の騒ぐ声が耳の内を撫でていった。空に目を向ければ鮮やかな青がのしかかる。だが、B-Aにはそれらすべては気にならなかった。それくらいには、目の前の一人の女性に意識を集中させていた。
 これは回想。だから楓はあくまで主観的にしか、状況を把握することができない。
 目の前には一人の女性。垂れ下がった長く美しい、この比喩を古臭いと承知で使うのであれば、まるで鴉の濡羽色の髪をした女性がいる。彼女は何かを呟きながら、その髪を鬱陶しがるように耳にかけた。
「私が貴方の足になる」
 その言葉は、綺麗事だ。B-Aは漠然とそう想い、楓は照然とそれを感じている。
 綺麗事だろう。お前には足を失う、身体の、今までその存在が当然だった機能を失う苦しみを味わったことなどないのだから。この痛みを、苦しみを、悲しみを、決して知りはしないのだから。
 無情にもB-Aはそれを口にした。内心で呟くだけでは何の意義も持たなかった恨み言に、相手を傷つけんとする意思を与えたのだった。
 空気の読めない男ね。ここは感動するシーンでしょう?
 楓は他人事のように考えた。実際、他人ごとに過ぎなかったので。
「貴方ならそう言うと思っていたわ。でも、それでも、構わない」
 女性は気丈にも食い下がった。しかし瞳は悲しみの色に満ちていた。
「私がそうしたいの。貴方は高潔。貴方は純粋。だからこそ、そんな貴方の支えになりたい。自己満足でも構わないわ。陳腐なフレーズになるけれど、貴方のためなら何でもできる。それが好きということよ。これが私の生き方よ」


 ここで、もう少しばかりB-Aの記憶が遡った。これは楓が意図的に行った行為ではない。精神が肉体に完全に癒着するために必要なプロセスなのかもしれなかった。あるいは、B-Aが意識を乗っ取った楓に対して、最後の抵抗を働いていたのかもしれない。


 次に現れたB-Aは、ひどく幼い顔立ちをしていた。まだ無邪気な、ただの子供だ。子供は墓の前に立っていた。そして、供えられた花をじっと見つめていた。花はまるで供えた人を代弁するかのように、花びらをB-Aへと向けていた。
 B-Aの母は国家機関で働いていた。もっと簡潔に記すのであれば、世の人々のために働く警察官だったのだ。B-Aにはたった一人の母しかおらず、母が殉職してから、独りになった。子供には詳しい事情など伝えられるはずもなく、また、伝わったとしても、理解不能だっただろう。やがてB-Aは叔父、叔母と呼ばれる関係の人に引き取られた。彼らは母の遺産が目当てだったようだが、その目的は叶えられなかった。だからこそ、彼らは孤独な少年にやつ当たりをすることを覚えた。叔父と叔母に、他人にB-Aが引き取られてから、彼が優しい眼差しや好意的な言葉というものに巡り合う機会は激減した。彼らの他人に対する仕打ちは冷たかった。まるでこの薄皮をナイフで切り裂かんとするばかりだった。彼らに触れようとする度に、言葉で、振る舞いで、少年は傷つけられ、その心は屈折しかけた。様々な例をここに引用することができるだろうが、あえて一つだけにとどめておく。彼らは幼気な少年に母の墓参りに行くことすらも許可しなかった。交通費を考えてのことだった。
「内緒で行きましょうか。お小遣いのあまりもあるし、場所なら、私、知ってるから。お父さんとお母さんが話しているのを聞いたのよ」
 他者とそりが合わず、ただ茫然と立ち尽くすか接触を拒否するしかなかった少年に声をかけたのは、叔父と叔母の娘で、彼の同居人だった。叔父と叔母は他人を数値や履歴書でしか判断できない愚かな人達だったが、娼婦が神でも生んだのか、その娘はいたって善良だった。B-Aが叔父と叔母に墓参りを禁止され、くしゃくしゃに顔を歪め膝を抱え込んでいたところに、彼女が手を差し伸べた。


 母の墓は海の近くにあった。潮風が心地よく吹いてくる場所にあった。
「素敵な場所ね」
 叔父と叔母の娘は、B-Aにとっては姉のようであったその少女は、そう言って目を細めた。
「こんな場所で永遠に眠れるということは、きっと天国にいるということよ」
 少年は彼女の言う意味がよく分からず、ただ何も言わずに頷いた。
 少年が彼女を母の墓前に案内すると、彼女は眼を閉じて手を合わせた。この人は他者のために祈るのか。そんな事実に、少年は驚きを隠せなかった。
「お姉ちゃん」
 少年はあることに気づいて、姉の服の裾を引っ張った。
「あら、お花が供えてあるのね」
 少年が初めて、一度きり母を参った時も、その花はここにあった。
「きっと、貴方のお母さんが助けた人からね。有名な警察官だったから、親戚の間でも誇らしげに話されていたわ。感謝から花を供えてくれる人がたくさんいるって。こうして何年も花を供えるなんて、きっとすごくお母さんのことが好きだったのよ。お母さんは、素敵な警察官だったのよ」
 その言葉は、少年が成長期を経て青年の手前になっても、まだ意識の片隅に存在していた。そして、進路を決める時に警官と記入したのは、母と姉がいたからだった。


 しかし、ここでもまた、青年の人生に順風満帆の言葉が現れることはなかった。


 彼は望み通り刑事となった。テロ対策課という場所に勤務している。そこには、彼の姉のような女性もいた。数年を経て、彼らは姉弟でもあると同時に同僚と呼べる間柄にもなった。
 青年の活躍は目覚ましかった。理不尽な犯行をすぐさま嗅ぎ付け、ほとんどを未遂で終わらせた。何が彼をそうさせるのかは分からなかった。適職というほかなかった。母が持っていたものを彼ももっていたのかもしれなかった。何故それほどまでに手柄を立てられるのかと先輩に質問された際に、彼はなんとなくと答えるだけだった。
 有り余るほどの才能は羨望を通り越して嫉妬の的となる。青年もその例に漏れなかった。先輩からは生意気だ、可愛げがないと罵られ、同期や後輩には煙たがられるか蔑まれるかのどちらかだった。そんなぎくしゃくとした職場で、彼の姉だけは、何も言わなかった。ただ、青年が仕事を終えると、今日もお疲れ様と囁いてくれた。そのことが奴らの関心を買い、下卑た噂を立てられることもあったが、青年も女性もさして気にしたりはしなかった。


 ある日、彼は上司に呼び出された。深夜で、彼は夜勤の最中だった。上司が言うには、テロの犯行予告が出たという。近頃、政治犯として捕まった男がいるが、その男の率いていたある組織が、男の釈放を要求に空港爆破を命じてきたと、要約するとそういうことだった。
 お前はいい鼻を持ってるからな、せいぜいその鼻を生かしてこい。上司はそう言った。青年はすぐさま悟った。それは危険だと。奴らは本気で仕掛けてくるだろう。検閲に人員を割くよりは近隣の人々を避難させた方が被害が少なくなる可能性が高い。その場で上司にそう告げたのだが、彼の返事は芳しいものではなかった。トップの命令だからしかたないと、彼は言った。
 そうして、青年は検閲に当たることとなった。道路を走る車を引きとめては、積荷を確認する。その単調な作業を繰り返した。胸の奥で警鐘が鳴り響いているのを感じながらも、彼はそれを止める術を持たなかった。
 どれほどの時間が立ったころだろう。一緒に検査をしている同僚が何かを叫ぶ声で青年は我に返った。
 止まれ、止まれと、同僚は叫んでいる。目の前には一台の大型トラック。検閲の指示を聞かない。ただ空港に向かって走っている。それが指し示すのはたった一つの事実しかない。
 自爆テロだ。
 咄嗟に彼は身を伏せた。だが少しばかり遅かった。彼は飛んできた何か大きく鋭い破片が、自らの足に突き刺さる光景を、劈く悲鳴ととてつもない痛みの中、見守ることしかできなかった。


「まあ、その、不幸中の幸いだ」
 青年の上司は無情にもそう言い放った。
 青年は足以外、軽い切り傷と打撲で済んだ。判断が早かった故だと医者が語っていた。彼の同僚は木端微塵になったとも聞いた。同僚は自身が結婚を控えていたのだったか、妹の結婚式が間近に迫っていたのだったか、悲劇的な死を遂げていた。
「足を義足にするとしても、リハビリには時間がかかるだろう」
 まあ、少し長い休暇だと思ってくれ。上司はそう言って青年の肩を叩いた。それは暗に退職しろという命令だった。建前上、青年の退職は辞職という扱いだった。
 彼は耐えた。四肢の切断、義足の装着、リハビリ、そして失職。様々な痛みに耐えなければならなかった。痛みに耐えぬかねばならないと思うあまり、絶望や苦痛は憤怒や憎悪の炎を燃やす。彼は国家を自身の中で裁きにかけようとした。避難を拒否した上司の上司も、彼に退職を言い渡した上司も、嫉妬を憐憫へと見事に変えて見せた同僚や後輩にも、疑問を感じていた。理不尽だとしか思えなかった。
 病院の中に閉じこもり、しばらくリハビリを続けた。やがて少し歩けるようになった頃、彼の姉が見舞いに訪れた。最後に会った時よりも随分と髪が伸びていた。そしてしばらく会えなかったことを詫び、担当医の許可を取って彼を街のカフェへと連れ出した。彼女はそこで言った。私が貴方の足になるわ、と。


「君は警察に居続けるのか」
 彼女が足になるとそう宣言してからしばらく後、男は、B-Aはそう問うた。彼女は突然の質問に驚いたのか少し目を丸くして、「ええ」と答えた。
 自分がこんな目にあっても、彼女は何の疑問を感じないのか? 俺はもう戻りたくとも、どれほど才能があってもあの職業に就くことはできないというのに、彼女はそこを居場所にするのか?
 青年の中にはある感情が渦巻いていた。それは彼が同僚に抱かれていた感情とも少し似ていたが、それよりも質の悪いものだった。
「犬のおまわりさんの仕事、何か知ってる?」
 今度は彼女が質問し、彼を戸惑わせる番だった。
「迷子の猫を案内することだろ」
 彼女の意図が分からず、彼は特に何かを考えるということもなく答えた。
「ええ、そうよ。市民を助けることが、守りたい人を守ることが、警察のお仕事。だから今度はちゃんと、私が貴方を守るわね」
 彼女は白く小さい机を乗り越え、彼の頭を抱きかかえんと腕を回した。彼のすべてを包み込もうとした。気づけば、彼は涙を流していた。


 しばらくの間は平和だった。青年も女性もとうに叔父と叔母から自立し一人暮らしを始めていたのだが、それが二人暮らしに変わった。青年は慣れない家事をこなし、女性は働いた。女性の仕事は夜勤もあり、不規則で多忙を極めたが、都合が合えば必ず二人で一緒に夕食をとった。この時が、青年にとって一番幸福な時だったのかもしれない。


 ある日、女性が今厄介な仕事に関わっているということを打ち明けた。どのように厄介なのかと問えば、身に危険が迫る可能性が高いということだった。
 しばらくは家にいた方がいいと青年は言った。彼女は別に平気だと言い張った。もうすぐまとまった休みが取れる。二人でどこか旅行にでも行きたいと、そう話していた矢先だった。
「大丈夫よ。偽造車を先に行かせる手筈は整っているし、私たちは当初の予定と違うルートをたどれば大丈夫。それに、私たちの乗る車も防弾性のお堅いものよ」
 そこまで譲歩するというのであればと、彼は旅行を承知した。ただ、いつかと同じ警鐘が再び鳴り出していた。しかし彼はそれを気のせいだと過った。長年の勘とでも言うべきものが、現場を離れたせいで鈍っていた。


 旅行当日、彼は足に鈍い痛みを感じた。
「義足の調子がおかしいみたいなんだ」
 彼女は戸惑った。もう出発の準備は整っている。偽造車も先に行かせ、こちらが遅れれば計画は大幅に狂う。偽造がいつ敵に気づかれてしまうか分からない。
「分かった。じゃあ私が運転して先に行ってるわね。貴方は交通機関を利用して後から来ればいいわ」
 彼は反対した。しかし彼女はどこか頑固でこうと決めたら譲らないところがあり、聞かなかった。
 当時の判断を、幾度悔やんだかも分からない。ただ、あの時こうしていればと考えるほど、無意味なことはなかった。
 彼が彼女の死を知って駆け付けた頃には、現場は悲惨なものだった。爆弾を使って道路を吹き飛ばした。死傷者は彼女を除いたとしても何人もいる。そんな深刻な事件だった。
 危ないから入らないでくださいとかつての同僚が怒号を飛ばす中で、彼は見てしまった。彼女の腕と首は奇妙な方向に曲がり、頭の下には血だまりがある。そして足は、自分と同じ、いや、自分以上にひどく、身体から切り離され、遙か向こうへと飛ばされていた。
 この日、彼女は死んだ。ある意味では、母と同じように英雄となった。何故なら、彼女は青年のこともあって、普段からテロに反対していたからだそうだ。彼女は目立つ場でテロ組織を叩き、いくつかの功績もはじき出していた。そして、いつしかテロ組織に狙われるようになったのだという。彼女はテロ反対の世論に拍車をかけることとなっていた。


 皮肉にも、彼女の喪失は青年にある気持ちを自覚させた。青年は彼女のことが好きだった。確かに彼女のことを愛していた。B-Aは自身を否定し、彼女と彼女に向けられた自分の感情だけは、肯定した。好きだったはずなのだ。自分には足は無く、彼女には足がある。自分は警察には居られなかったが、彼女は仕事を続けた。そのような羨望、喪失感、邪悪な感情に苛まれさえしなければ、彼ははっきりと気持ちを伝えることもできたのかもしれない。そして、彼は罪悪感にも苛まれることとなった。自分がテロの犠牲にならなければ、彼女が狙われることもなかったのに、と。
 ともかく、B-Aは自分の一部を失うという痛みを、至極短い人生において、何度も何度も味わったのだった。


 この時点で、彼はテロ行為を憎んでいた、議論するということを知らず、一方的な攻撃だけで恨みしか残さない野蛮な行為だと思っていた。彼がその考えを変えたのは、彼女の死からしばらく経過した頃だった。
 彼は警察の取り調べを受けることになった。ルートの偽造を行ったのだが、それがどこから漏れたのか分からないのだと言う。ルートを知っていたのは、彼女と青年、それから偽造車に乗った彼女の同僚と、数名の警察官。この中に裏切り者がいる。特に怪しいのが、当日になって同乗を拒否した青年だった。
 取り調べは手を変え品を変え、長時間に渡り行われた。お前がやったんだろう、どうして最愛の人を殺すことができたのか、そう怒鳴りつけられると、精神が疲弊し、本当に自分が彼女を殺したかのように思えた。実際、青年は自分が彼女を殺したのだと思うようになった。自分が警察官にならなかったら、そして足を失ったりしなかったら、彼女は死ぬことはなかった。青年は二度も足を失うことはなかった。
 そして、しばらくして、情報漏洩の原因が明らかになった。裏切り者は青年ではなく、国家だ。国家がテロ批判を煽ろうと彼女を殺した。彼女の仲間が彼女を殺す計画を立てていた。
 彼は国家の腐敗というものをここにおいてようやく痛感した。国家機関だけではない、国家をも、建て替えねば世界は変わらない。様々な情報を集め、伝手を辿り、行き着いた先が千年帝国の建国。
自分と志を同じくする仲間に、F-Gと呼ばれる女がいた。本名は知らない。知ろうとも思わなかった。ただ、食えない性格が姉と似ていた。そして、彼女が自分に好意を抱いていることも、なんとなしには理解していた。理解はしたが、気がつかないふりをした。受け入れていれば、もう一度、姉と暮らした時のような幸福を手に入れられたのかもしれない。けれど、手に入れたはずの幸福を失うのは、二度とごめんだった。そんな自分を見る度に、F-Gは憂いた眼差しを向け、「幸福から逃げるというのは、よくないわ。かの有名なギリシアの哲学者もそう言ったでしょ?」とおちょくってくるのだった。
ともかく、これがB-A誕生の顛末だ。毒を以て毒を制す。この言葉が彼にはぴったりだ。



 そこで記憶の再生は途切れた。頭の回転が限界を訴えていた。人一人をのぞき見する際にはこれほどまでに疲れるのか。楓はこれを数人分やってのけた樹に深く感服した。
「本当に、馬鹿な男ね」
 そして、B-Aのことは軽蔑するほかなかった。
「なんとでも言え。それが僕の生き方だったのだから」
 ふと、頭の中でそんな言葉が響いたような気がした。けれど楓は気のせいだと思うことにした。
「ほんと、馬鹿だわ」
 楓からしてみれば、この男が何を理由にして剣を取ったかは問題とするところじゃない。手にした剣で弟を傷つけ殺したことが、何よりも一番許せないのだ。同情の余地もない。
「誰だって、胸に怒りを抱えているのよ」
 そこには大小も善悪もないのだろう。
「それにしても、コイツ……」
 三度目に自分の体を切断した樹を殺して、少しは気が晴れたのかしら。
 楓はおもむろにそう呟いたが、その場で反応する人など誰もいない。
 ただの独り言だった。
 記憶の鑑賞を終えた楓は、鈍色の空を見つめた。そして再び歩き出す。目的地を定めることもないままに。自らを葬る場所を定めるために。あるいは、この戦いの決着を見届けるために。



 男がこちらへ近づいてきた。そして士に手を差し伸べた。その手は自分とともにこの状況を打ち破る突破口を探してほしいと、そう語っていた。
 手が差し伸べられると同時に、周囲の視線が瞬時に士へと向けられた。その視線はどこか黴臭いような重々しさを持っていた。そのことが士にはひどく不愉快だった。
「一緒に来てくれないか? なんとかしてここを出たいんだ」
「……ここを出て、どうするんですか?」
 男の質問に対する士の答えは、ひどく歪だった。士は出られるということを前提で話を進めている。ここを出たとして地獄であることに変化はないと暗に示唆している。だって、馬鹿どもが跋扈する世界自体に変化はない。
「……どうするもこうするも、君は学生だろ? 戻りたい日常があるんじゃないのか?」
 戻りたい日常。そんな漠然としたことを言われても、士はそれが何のことか理解できなかった。それ以上に、周囲が彼の言葉に共感を示すことが理解不能だった。戻りたい日常。そんなものが彼らにはあるのか。彼らはそれほどに立派な所有者であったのか。
「別に、戻りたい日常なんてありません」
 士ははっきりとそう口にした。男は目を見開いた。士の回答が予想とは違っていたからだ。そんな男の表情はひどく不愉快だ。すべてが自分の予測通りに進行すると考えているその傲慢さが不愉快だ。
「でも、家族は、友達はどうする? それに、そうだ、君くらいの年頃だったら恋人や、あるいは好きな人がいるだろう。彼らに会いたいと思わないか? このまま離れ離れなんて、嫌だろう?」
 士に好きな人など、いない。気にかかるというのであれば、恋愛感情とは全く逆ベクトルで、級友の樹や花梨、それに馬鹿どもがいるだけだ。
「友達と楽しく過ごした休み時間に戻りたいとか、思うだろう? このまま誰にも助けてもらえず死ぬなんて、悲しいだろう?」
 男の声は士を説得しようと次第に切羽詰ったものとなっていった。しかし士はそれに気づきはしなかった。ただ、どうしてこの男はこうも自分にこだわるのだろうと、少々、いや、かなり疎ましく感じていた。そして、男が死という単語を口に出した時、眉をつり上げ、しかし目は伏せた近くの女の顔を不思議だと思い観察していた。
「分かりません。今までに感じたことないから。楽しいとか、悲しいとか、そういうの」
 士のその言葉を聞いて、男は哀れむように彼を見た。
「何でしょうか」
「あ、ああ……、いや、その、君は……」
 どうしてこの男はこれほどに口ごもっているのだろうか。どうしてこの男は自分と目を合わせようとしないのか。この男だけじゃない。この場にいる大人全員が、士を疎むような目で見ている。
「……君は、何か、辛い経験をしてきたんだろうね。その、苛められたとか、酷い目にあわされた、とか……。とにかく、君が学校を、社会を、世界を愛していないということはよく分かったよ。きっと、憎んでいることだろうね。……ただ、私たちだけでもいい。ここにいる私たちは君の味方だ。だからどうか、協力してほしい」
 最後の方になると、彼は矢継ぎ早にそう言った。士は目を蛍光灯に向けていた。どうしてこの男は愛だの世界だのとよく分からない言葉しか発さないのだろう。理解不能だった。理解不能だからこそ、士はその申し出を拒絶した。
 苛められたことは、確かにあったかもしれない。酷いめにあされたこともあったかもしれない。思い出せる限りでは、中学生の頃に上履きが隠されたり、掃除ロッカーの中に閉じ込められたりしたことくらいだろうか。だが、それをさして酷いことだと士は思わない。この程度のこと、毎日いたるところで行われている。
士はただ、主犯の人間を見下していた。彼らの心には余裕がない。悦楽もない。他人と自分を秤にかけることでしか幸福を見いだせない。馬鹿なのだろうと士は思っている。事実、一度、上履きがないと夏はひんやりとした床が直接に感じられて気持ちいいのだが、冬場はなにぶん寒くて困る、自分は末端冷え症なのだと、担任の教師に話したことがある。確か、世間話の流れだった。夕方、日直の日誌を一人で書いていた士に、教師が話しかけたのだ。日直とは本来二人一組で回ってくる当番なのだが、もう一人は授業が終わるとゲーセンに行くと言って帰っていった。後の仕事は頼むと言われた。
 士の上履きの話を聞くと、教師の顔は色味を失った。そうして平身低頭に「あいつらはああいう奴なんだ。許してやれないか。大事にしないでくれ」と懇願し、何度も謝った。
「ああいう奴、とはどういう奴のことですか」
 自分の周りには指示語を多用したり主語を抜かしたり抽象概念ばかりを難解で意味をなさない言葉で語ったりする大人が多い。もう少し幼い子供にも分かるよう話してくれないかと、士は常々考えていた。
「えっと、その、なんだ。思慮が足りないというか、なんというか……」
「馬鹿、ということですか? あるいは阿呆。愚鈍でもいいですよね」
 士の言葉を受けて教師はぐうっと唸った。士は無言の肯定と思ってみた。
 この世の中、馬鹿ばかりだ。士はそう思うことにした。そう考えると、日常が灰色になっていった。普通に勉強し、普通の高校に入った。そして今や、生き延びるという本能に従い普通に生きている。
 普通という虚無感は、士に常に纏わりついているものだ。


「どうだろう、私たちと一緒に来てくれないか」
 脱出したい、と切羽詰った男の声が士を回想から引き戻す。男はまだ士に向かって手を差し出している。その姿は級友の花梨という女子生徒を彷彿とさせた。
「すみません。丁重にお断りさせて頂きます」
 士はそう言って頭を下げた。どうしようもならない状況の中での悪あがきはひどく億劫だ。
 男は何故かという眼差しを向けていた。士の理由はただ一つ、めんどくさいからである。どうせここならば能力者にも見つからないだろう。ふと、士は男にも通じそうな理由を一つ、でっちあげた。ここでそれを言うのは場違いな気もするが、こうでも言わなければ目の前の男は納得しまい。
「あなた達他人を信用するのは、まだ、怖いので」
 すると男はもう一度ガラの悪い青年へと足を進めた。士は悪いことをしたかなと、表面上、反省をした。


 自分が社会的には不適合な性格をしていることを、士は理解していた。卑屈、歪曲、根暗、事務的。そのようなマイナスイメージが付き纏う言葉の中に自分は埋没してしまう。性格を変えた方が生きやすいだろうとは思う。けれど、自分がそこまで他人に合せる必要なない。むしろそちらの方がめんどくさい。よって、士は逃亡の道を選んだ。
 この性格がいつから形成されたのか、士には知る術もない。ただ、人間というのは生まれる前、母の胎内で息づいている間、根本的なところが作られていくのではないかと思う。理論的に説明すれば、遺伝子とか、そういうレベルの問題だろう。もっとも、士の年齢ではまだ専門的な知識は乏しいために、漠然と考えていただけなのだが。
 さて、形成期はさておき、いつ自覚したのかについては、ちゃんと、おぼろげながらも記憶がある。
 士は一度だけ、大規模なテロ事件に遭遇していた。当時の自分はまだ幼かったため、記憶は曖昧だ。ただはっきりと覚えていることがいくつかある。
怒号と悲鳴、
歓喜と恐怖、
赤と灰、
泣き叫ぶ男の子、
足が吹き飛び、腕が変な方向へと捻じ曲がった女性の肢体。
 士がなぜその現場に遭遇したのかは覚えていない。家族との休日のお出かけだったのだろうか。ただ士に関する事実としては、奇跡的に、まるで風のベールにでも包まれたかのように、自分の周囲にいた人物は無事だったということだけである。
 士はおそらくショックを受けていた、と自分では思っている。初めて見る生死の現場だ。しかし、泣き叫ぶことはしなかった。すべてが他人事のように思え、すべてが無意味なことのように思えたからだ。この爆弾を仕掛けた人物も、吹き飛ばされた人々も、そして、それらを何とも思えない自分も。
 士の母も呆然としていた。やがて、テロという事実を受け入れた途端、悲鳴を上げた。しかしさすが母とでもいうべきか、気丈だった。取り乱しはしたものの、すぐに自分のなすべきことを見出し、混乱の中、士に近寄って「見ないで」と彼の目を優しくふさいだ。
 彼は何も見ることができなかった。ただ視覚以外の感覚はいたって正常に働いていた。
 目の前で泣きわめく男の子の声がする。鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、「お父さん、お母さん」と叫んでいる。やがて彼は両親を見つけた。見つけて悲鳴を上げた。両親は弱り切った声で、最後の力を振り絞って、愛しい息子に声をかけた。「樹」と。男の子はさらに泣き叫んだ。
 次に聞こえたのは、足音のようなもの。ような、と付けたのは、当時の士にはそれを足音だと判断するほどの知識はなかったからだ。がちゃん、がちゃん、と、鉄の塊が歩いているような音。少し成長した今ならば、それは義足と呼ばれるものだと判断できただろう。義足の人物は走っていた。女性の名前を叫びながら。次いで、「入らないでください」という声がした。「たいへん危険です。これ以上近づいてはいけませ――」その声は途中で途切れた。義足の人が突き飛ばしたのかもしれない。男は走って、やがて何かを見つけたのか、叫んだ。咆哮という言葉の意味が、初めて士の頭に刻まれた。
 そんな惨劇の音声も、士にはただの雑音だった。
 彼はただ、その時自分の目を覆っていた母の手が熱かったということ、自分の頭に何かぬるい液体がぽたぽたと垂れてきたということ、それが母の涙だと気づくまでに少しの時間を要したということ、そして、最後に。
 最後に、自分と母は全く違うタイプの人間なのだということ。
 全く異なっているからこそ、理解は容易ではないということ。
 そこだけに意識が向いていた。


「オレが行くよ」
 男は士を諦めた後、もう一人のガラの悪い男に、もう一度交渉に行った。あれほど渋っていた若者はあっさりと行くと言った。不思議だった。若者は立ち上がりながらちらりと士に目を向けた。その表情はかつて士の上履きを隠した主犯に似ていたが、彼がこのような場所にいるはずがなかった。
若者に便乗して、中年の女性も名乗りを上げた。力仕事はできないけれど、小柄な自分なら通れる道があるかもしれない、そうやって外に助けを呼びに行けるかもしれないということだった。
 こうして、動ける人々はいなくなった。士と一緒に残されたのは、絶望の淵にいる、陰鬱とした空気を纏う人々。時おり、怪我の苦痛からうめき声を上げる人も見られた。
 外に、出たいな。
 士はその雰囲気を嫌った。
 能力を使ってもいいだろうか。能力を使ったとして、自分が能力者だと知られたとして、脱出した後、自分とこの人達が再び会う可能性は極めて低いだろう。
 なにせ、無関係な人間同士なのだから。
 そう考えると躊躇いが吹っ切れた。彼は地下に風を起こした。



 外に出て、まず、ここがどこか分からなかった。今がいつなのかも分からなかった。確認できるのは瓦礫の山だけだった。激しい戦闘が行われた形跡だろうか。こんなよく分からない状況にあるなら、いっそのこと地下の方がマシだったかもしれない。けれど、あの汚れた空気はもう二度と吸いたくない。
「あら、人、発見」
 不意に声が聞こえた。女性にしては太く低い声で、喋り方に少し違和感があった。
 彼女、いや、彼だろうか。とりあえず、よく分からないその人は、士とは少し離れた場所にいて、士を見つけるや否や走り寄ってきた。
 がちゃん、がちゃん。
 その人物は歩く度に、奇妙な足音を立てた。義足かと判断するのに時間は要らなかった。ただ、よくできた義足だなと思い、似たような音をどこかで聞いたことがあると感じた。
「こいつ、仙台に行きたがってたみたいだし」
 そう言って、彼は、――士は近くに来たその人物を見て外見的に男だと判断したにすぎないのだけれど――自分の胸に手を当てた。その行為が意味するところは士には分からない。
「それに、私もなんとなく、本当になんとなくだけれど、仙台に行きたかったのよ」
 ここまで来るのにすっごい時間がかかったの。もう汗びっしょりよ、気持ち悪い。男は聞かれてもいないのに捲し立てた。どこか話し相手を探していたかのようにも思えた。
 何か言った方がいいのだろうか。このままではただの変人の独り言だし。しかし、士には何も言葉が浮かばない。
「あの」
「何?」
「なんでそんな喋り方なんですか?」
 挙句には、些細な疑問しか飛び出さなかった。
「うーん、癖、でしょうね。ああ、確かにこんな外見じゃ違和感しかないわね。でも口調は人の勝手だし、それに今、オネエ系とか流行ってるし……って、一部ではテレビが映らないのだったかしら。まあ、とにかく、何の問題もないのだからいいでしょう」
 そう言われれば、返す言葉も見つからなかった。
「……あなたは、能力者?」
 士が尋ねる。
「半分はイエス、もう半分はノー。どのみち、安心していいわ。私はあなたと戦う気なんて少しもないの」
「あなたに、戦う理由はないんですか?」
「かつて私をあやしてくれた母のため、赤ん坊に乳をやる妻のため、永遠に炎を灯す清き乙女らのため、恥ずべき悪漢セクストゥスから皆を守る以上の死に様があるだろうか。これでは駄目かしら」
 彼はしれっとありもしないことを答えて見せた。そして士も何食わぬ顔でそれに答える。
「いいと思いますよ。剣を取る理由として、正義のためは大義名が立つ」
「嘘よ、嘘。本当はね、大切な人が殺されたの。それで、今は大切な人を殺した悪役を殺す場所を探してるの」
 大切な人を殺した悪人というのは、もちろん、現在楓が寄生しているこの身体に過ぎない。彼女はB-Aの目の前でなす術もなくもがき苦しんで死ぬB-Aを見るのも悪くないなと思った、そのためには、楓も苦しむことになってしまうのだけれど。
「あなたは? あなたも能力者でしょう?」
「理由なんてありませんよ。ただ、戦いたくないので逃げてます」
「変わってるのね」
「あなたこそ」
「……まあいいわ」
 しばらくの間だけれど、お互い仲良くなりましょう。楓は士にそう言った。
「私、あなたが気に入ったのよ。シニカルなところが、少し樹に似てるから」
「……樹?」
「私の弟。殺されてしまった、大切な人」



(担当:飯田)
かなり遅くなってしまって申し訳ありませんでした。テスト前のギリギリ投稿です。
とりあえずは伏線を回収しようとしたのですが意味不明なことになっていると思います。好きに書きすぎましたね。
あと私、地理にはかなり疎いです。仙台までの所要時間とか分かりません。他にも矛盾点が多々見られると思います。
数か月考えて3日でぐわっと書いてしまったので粗だらけです。矛盾点などあったら随時指摘、修正していただいて構いません。
長々しい言い訳すみませんでした。
次は白霧さんだったと思います。頑張ってください。続き楽しみにしています。