『コンプレックス』 すばる

 東雲和花さまへ
このような手紙を突然受け取り、大変困惑しておられるかもしれません。しかし僕には、どうしても伝えたいことがあるのです。残念ながら、このような時の、気の利いた言葉は知りません。ですので、単刀直入にいいます。あなたのことが好きです。できることなら、お付き合いしたいと思っています。僕は、あなたと直接お話ししたことはありませんし、あなたと釣り合うかどうかも、自身がありません。しかし、生徒会の任命式でステージに立つ姿を見た瞬間から、あなたのことが気になってどうしようもないのです。勝手なこととは思いますが、今日、放課後に茜山公園でお待ちしております。大変図々しく思っておりますが、もし可能でしたら、来ていただけないでしょうか。
一年六組 化野茂樹

 東雲は手紙を手に持ち、茜山公園の噴水広場まで来ていた。手紙には、茜山公園としか書かれていなかった。しかし、一口に茜山公園と言っても、その面積は決して狭くはない。周囲一キロを超えるだろう敷地。随所に樹が植えられているため、見通しもいいとは言えず、子供が迷子になりでもしたら、探し出すのにかなり骨を折る。まして彼女は化野たる男の顔も知らない。信じがたい不注意だ。とはいえ、なにも手掛かりがないわけではない。その一、相手は高校生ぐらいの背格好である。公園によくいるのは、小さな子供、その保護者、暇を持て余した老人たち。こんななにもないところに、わざわざこようなんていう物好きな高校生はそうそういるもんじゃない。別に駅への近道でもなんでもないんだし。その二、相手は制服を着ているはず。こんな手紙を出したのだ。放課後すぐ公園に来たことは容易に想像できる。着替えている暇などないだろう。そして、その三、この公園内において、待ち合わせの場所は大概、噴水広場と決まっている。少なくとも東雲はそう思っている。昔姉妹でこの公園で遊んだ時も、はぐれたらここに集合、と決めていた。三つ歳の離れた妹は、それでも迷子になったけど。
そういうわけで、彼女はいま、噴水広場に植えられた木陰に寄り掛かる、眼鏡をかけた男子生徒の方を見ていた。さかんに右の手を気にしている。てっきり時計を見ているのかと思ったけれど、そうじゃないことは、そもそも腕時計なんてしていないことから明らかである。

「化野くんですか?」
 声をかけると、驚いたように振り返る。同時に、右手を後ろに隠したような気がした。気のせいかもしれない。
「ごめんなさい。こんなところまで呼び出して。」
 第一声が謝罪とは、さては結構、胆小さいな。後輩だからかもしれないけど。ということは、もしかしたらその辺の灌木の陰にでも、出歯亀男子のひとりや二人隠れてるかもしれない。東雲は目だけであたりを見回した。少なくともすぐに見つかるようなところにはいない。それで改めて、今度は呼び出した男子のことを観察する。悪くない。すらりとしていて長身、目鼻立ちも整っている。イケメンといって差し障りない。別に面食いなつもりはないけれど、やっぱり、隣にいるならかっこいいほうがいい。
「東雲和花さん。あなたのことが、ずっと好きでした。付き合ってください。」
 何回も練習したのだろう。びくつきながらも、その言葉は化野の口から滑らかに流れ出た。
少し迷ってから、東雲は、口を開く。
「私で、よければ。」


 県立柳沢高等学校は、いたって普通な、地方の進学校である。一学年八クラス、三百二十人ほどの生徒が在籍し、うち九十九パーセント以上が大学受験をする。よって、部活動や委員会などの生徒活動は二年生が中心であり、もちろん生徒会も、その例に漏れることはない。会長、副会長、会計と二年生が続き、書記、庶務には一年生が入る。ちなみに全員が信任投票、無論当選したからと言って、胴上げなんてまねはしない。たぶんそれをしたいのは、何とかやってくれる人を見つけ出した前任者および教師たちだろう。もちろん実際にやりはしないだろうが。
しかし、そんな感じの生徒会でも生徒たちの代表ではあり、結構忙しい。特に文化祭の時期は多忙を極め、連日のように会合がある。というわけで東雲も、その時二年二組の教室にはいなかった。漸う文化祭の準備が始まったその日のことである。これが、一つの問題を生んだ。なにをすべきかわからない。生徒会副会長として、彼女はクラスでもリーダー的存在だった。文化祭のクラス発表も仕切っていた。その当人がいない。というわけで、彼女が抜けた後作業の速度は目に見えて遅くなり、それでも皆、表情に焦りの色はなかった。なぜならまだ二週間もあるからだ。中には準備とまるで関係のないことを始めるものもいた。本条理子もそのうちの一人である。彼女は今、大道具を切り抜いた後の段ボールに鋏を入れている。厚い段ボールを花形に切り抜くという、無意味なくせに困難な作業に全神経を集中させ、うまくできないと顔を歪めている。誰も咎めようとはしない。ほどなくして五時のチャイムが鳴り、バラバラと片付けが始まった。すでに外は夕暮れ、窓からは、すでに帰り始めた生徒たちの、校庭を横切る影が見える。校門のあたりには、友達を待つ生徒の姿もある。その人待ちの集いに、一人の男子生徒が加わった。一人で、なにをするでもなく、それでいてそわそわと忙しない。しかし、彼の待ち人はなかなか現れず、加わったりいなくなったりしながらも徐々に減っていっている集団の中で、いつまでも居残っている。まだ来ないかと、校舎の方に首を伸ばしてみる。意味もなく携帯を開いてみる。だけど当人は現れない。無理もない。そもそも遅くなるから先に帰ってと言われていたのだ。それでも待っているのは彼の勝手、化野としても、もとより待つことは覚悟していた。しかし、予想だにしなかったのは、彼の中で待っていれば本当に来るのだろうか、もう帰ってしまったんじゃないか、という疑念が渦を巻き始めたことだ。
友人にそそのかされ、死ぬ思いで告白して、イエスをもらったのはつい三日前のこと。ところが、文化祭が迫り、てんてこ舞いの彼女とはあれ以来会えていない。連絡先も交換したけど、邪魔しちゃ悪いとメールも控えた。それでも勇気を振り絞って今朝だした初めてのメール、一緒に帰ろうと送ったところ、あっさり断られた。もちろん、文化祭準備で忙しいのはわかっている。委員だから、化野やほかの生徒よりも一段と忙しいのも当然だ。事実、彼と同じクラスの文化祭実行委員も、クラスを途中で抜け出し、結局帰ってこなかった。さっきから過ぎ去っていく人の列に目をやっているが、たぶん見ていないと思う。つまり、東雲がいまだあらわれていないのも、何ら不思議ではないはずなのだ。おそらく今もどこかの教室で、生徒会と実行委員が議論を交わしていることだろう。だけどもやもやとする。満たされない感じ、伸ばした手がその先の何かにわずか届かない感じがまとわりつく。返事をもらった時の有頂天だった気持ちが少しずつさめるに従い、そんな感じが大きくなっていく。会いたい。会って話がしたい。内容はなんだっていい。UFO談議だっていい。見たことないけど。一緒に帰りたい。手を握ってみたい。柔らかそうな手。さらさらとした髪に触れてみたい。


 東雲がその姿に気付いたのは、会議の最中だった。何気なくふと窓の外を見やり、校門のところに誰かが立っているのが目に入った。それが誰なのか、残念ながら顔は見えない。視力には自信があった。右目1.0、左目1.2。これまで眼鏡ともコンタクトとも無縁の人生を送ってきた。だけど逆光のせいで、人影はシルエットしかわからない。なのに彼女は、何となく直感した。ありえない話じゃない。もちろん、勝手に帰るわけにはいかない。確かめるすべもない。だけど時間が経つにつれ、直感は確信に変わった。当然、会議を抜け出すわけにはいかない。まだしばらくはかかるだろう。コンタクトを取るすべもないまま、気持ちだけがハラハラと先走る。何も自分が悪いわけでもないのに、待たせてしまっているという罪悪感が募る。だけどできることはただ一つ、会議が滞りなく終わるのを祈るのみだ。やけに遅くなった針の進みを気にしながら、解放されたのは予定の時間を二分も過ぎた後だった。急ぎ玄関に向かう。昇降口から、彼と目があった気がした。たぶん偶然じゃない。息せき走り寄る。同時に化野は、地面に置かれた鞄を持ち上げる。ごめんね、と東雲は目を伏せ、勝手に待ってただけだからと言って化野は傍らを歩きだす。


 学校から駅までは、歩けば十分と掛からない。化野の住んでいるニュータウンと東雲の帰る磯山町は方向も逆である。すでに時刻は六時過ぎ、寄り道をしているような時間でもない。化野は迷った。なにを話せばいいのだろう。十分しかないのだ。そのリミットも、刻々と迫ってくる。だけど気の利いた言葉なんて思いつかないし、口の中も乾く。どんな話をしたらいい。友達と話すみたいに気安くか。それとも、やっぱり先輩なんだし、あんまりばかなことは言わないほうがいいかもしれない。でも普段友達と、どんなこと話してたっけ。中身がないからか思い出せん。部活と先輩と話すみたいにか。だけど部活、夏休みでやめちゃったんだよな。
「ねえ、化野くんのクラスは、文化祭なにやるの?」
 助かった。先に話題振ってもらえた。そうだよな。この時期だったら話題はとりあえず文化祭関連だよな。なんで気づかなかったんだろ。
「喫茶店です。普通に。」
 何言ってんだよ。普通に、とか。こんなんじゃ会話も続かないだろ。もうちょっと何とか広げてだな、って言ったって、普通に喫茶店なんだし、何か特別な趣向があるわけでもないし、ベタだし、普通だし、広がらないし。ああ、もう。だったら何か、こっちから文化祭関連で話を振るしかない。化野は口を開いた。だがしかし、発せられたらしい言葉は電車のブレーキ音にかき消される。
「やばっ、電車来ちゃった。ごめん、先行くね。」
 東雲は駆け出す。引き留めるわけにもいかず、一人残された化野が更なる自己嫌悪に沈んだのは言うべくもない。


「どうしたの? 浮かない顔して。もしかして、つまらなかった?」
 広い窓から茜色の陽光が差し込む。上目づかいにのぞきこんでくる東雲の顔も赤みがかっている。
「いえ、そんなわけないじゃないですか。もちろん。ただちょっと、もしクラスのやつに見つかったらとか思っちゃって、すみません。」
 化野はややうつむき、頭を掻く。
「大丈夫だって。ここ学校から離れてるし。」
 そんなことは化野もわかっている。ただ、この場でそんな顔をするのはやはりいただけない。顔を上げる。すると東雲は、まっすぐに化野を見つめていた。目を逸らす。至近距離で見つめられると、どぎまぎしてしまう。逸らした視線を隠すため、とっさに時計を見る。五時五十分。ここから家までは一時間ほどある。そろそろ……
「帰ろっか。」
 まるで心の中をトレースしたように、東雲がつぶやく。ふと見ると、彼女もまた壁掛け時計を見ていた。
 会計を済ませ、駅に向かって歩く。ホームで彼女と別れた後、化野は黙したまま、意味もなく握っている吊り革を見ていた。電車を降り、改札を抜け、家路を歩く。駅前の賑やかさを過ぎれば、すぐにうすら寂しい街路となった。街路灯と、窓明かりと、月光とが仄かに闇を拭う。時間を確認しようと、化野は右手を持ち上げた。同時に、否応なしにそれは目に入ってきた。隠そうとして身に着けるようになった腕時計のせいで意識してしまったのだから、皮肉である。火傷の痕。ついたのは小学校一年生の冬。夜寝ていると、悪夢にうならせて目が覚めた。どんな夢かは覚えてないが、たぶん火炙りにでもされていたんじゃないだろうか。起きたら現実も、火の海だった。出火原因は他の入居者の不始末だったが、アパートは全焼した。幸いにして家族ともども命に別状はなく、後遺症も残らなかったが、傷は残った。右の肩から手首にかけて、火傷の痕が。以来意識して長袖を着るようにしているが、たぶん、そこまで気にしてはいなかっただろう。気にしないようにしてきた。ところがこの前、待ち合わせの公園で、急にそのことが不安になった。傷のことを知られたくないと思い、少しでも隠せないかと腕時計を巻いた。そんな気にすることないじゃないとは母の談だが、化野自身も、東雲の体のどこかに傷があったらたぶん少し引く。少し引いて、直後同情するのだ。それが、この傷を見た人のいつもの反応で、彼女にそんなことをされたくはなかった。別に気にしないと友達はみんな言うが、火事だの傷だのという言葉に気を使っているのは思い過ごしじゃないだろう。傷があるより、ないほうがいい。


 文化祭が、間近に迫ってきた。なにしろあと二十時間もない。どの教室からも生徒たちの声と作業の音が聞こえ、ペンキ洗い用の屋外の水道には、常に誰かの姿がある。机や椅子の取っ払われた教室には立体的な造形物が立っている。しかし、あと二十時間しかないというのに、完成の目途が立ったところは皆無だ。生徒たちの甘い見積もりは悉く破綻し、誰もが時間に追われている。そんな喧噪のなか、生徒会は、翌日に控えた文化祭の最終確認のための集会を開いていた。ところが、二年二組は相も変わらず、例の問題を抱えていた。中心である東雲が不在という問題である。もちろん、いくらかの手は打たれた。細かい衣装の設計などについても個々人がそれぞれに把握して、各々にやるべきことを理解する。おかげで彼女がいなくなった途端に作業速度がはるかに下がるということはなくなったが、いまだ東雲に頼ろうとするきらいがあるのはあまり改善されていない。もともとクラスの中心的存在であり、教師からも信頼されていた彼女が全体を仕切っていたのは、今回だけではないのだ。球技大会や体育祭のチーム決めでも彼女はクラスを回した。そして今、少々問題が発生した。予想外にガムテープが切れたのだ。すでに予算はぎりぎりであり、しかしそれなしではやれないという窮地である。そういうわけで、本条は彼女を探して走っていた。いや、走ってはいない。廊下は走っちゃいけないので、走りじゃなくて競歩だ。だいたい廊下にもセットや生徒が散乱して、とても走れやしない。それでも急ぎ足で進み、会議室を目指す。そうして、いよいよ到着、と思った瞬間、会議室のドアが開き、前からも後ろからも生徒が流れ出てきた。そして、生徒たちの中に見慣れた後姿を認め、急いで追いかける。
「おーい。和花ちゃーん! 緊急事態! 緊急事態! ヘルプミー!」
 大声で、そうしないとたぶん聞こえないから、本条は少女を呼び止め、わずかして彼女は振り返った。あからさまにいやな顔をして。

 その顔を見て、本条は気づく。人違いだ。和花ではなく、双子の円花である。今でも、身近でまじまじ見ないとわからない。でも。
「なんで円花ちゃんが会議室から出てきたの? 生徒会じゃないよね?」
 一言で、円花の眉間のしわが、増えたと思う。
「私、実行委員だから。」
 短く答えて、彼女は背を向けてさっさと行ってしまう。なにあれ、感じ悪い。舌を小さく、ベッと出した本条のすぐ後ろで、東雲和花は教室に向かって急いでいた。


 もともと不機嫌だった円花は、一層不機嫌そうな顔をして教室に戻る。クラス中てんてこ舞いで、誰も彼女の帰ってきたことに気が付かない様子。まあ、それも仕方がない。教室の内装は、まだ半分もできていない。衣裳も途中やりだ。円花もいそいそと、針縫いの作業に戻った。でも、そういう細かい作業をやっていると、どうしても他ごとを考えてしまう。あの子。和花の友達。確か名前は本条さん。和花はいつも、彼女のことをすごい子だって言っていた。スポーツが得意で、とても活発で明るい子。自分もああいう風になりたいだなんてことを、漏らしてたような気もする。あんな子の、どこがいいのかしら? 人の名前を間違うなんて、最低じゃない。
普段だったら、彼女もそこまでいやには思わなかっただろう。これまでだって、人違いなんてどれほどあったか。少しむっとすることもあったけれど、わからないんだ、こんなにちがうのになぁ、と面白がったりしたこともあった。だけど、双子であることを煩わしく思ったことも、一度や二度ではない。遺伝子も一緒な双子だからと言って、好みや性格まで同じだとは限らない。実際、二人とも積極的なところは同じだけど、姉の円花は白黒はっきりさせたく、時に意固地になってしまうタイプ。妹和花は柔和で、妥協和解しようとすることが多い。言い方を変えれば、押しが弱い。円花は辛い物好きで、辛さ十倍のカレーをぺろりと平らげてしまうが、和花はお寿司もさび抜きしか食べられない。ほかにも、円花は赤色が好きで和花は薄水色が好きとか、円花は英語が得意で和花は日本史が得意だとか、違いを挙げたらきりがない。だけど、周りはそうとはとらえない。双子なのだから一緒なのだと、親ですら思っている。だから、いつもおそろいの服を買おうとする。学校では常にセットで考えられ、常に比べられ、また同一視された。もちろん彼女らそれぞれの友達は二人を別人物として受け止めているが、それはほんの一握りの例外である。そういうことがフラストレーションとなることだってある。まして本条は和花の友人。円花とも、面識はある。それなのに和花と間違えられたことに、イラッときたのだ。それには、和花が生徒会役員なのとも関係しているだろう。二年生になり、和花が生徒会に入ってから、間違えられることが確実に二倍は増えたと思う。そんなことでいちいち怒っていられないけれど、ちょっとずつ溜まっていて、ちょうど別の理由で不機嫌だったことからさっき爆発したのだ。そして現在、彼女はなおも不機嫌を続けている。しかも、精神的不安定を抱えている状態では、細かなミスが多くなる。糸が絡まる。針を指にさす。彼女は、イライラしているせいでミスをして、余計にイライラするという負のスパイラルに陥っていた。


 高校にとって最も大きな行事の一つ、文化祭の日が来た。クライマックスと呼んだ方がいいかもしれない。多くの生徒は、早朝から登校し、最後の仕上げに励んでいた。それこそ、ぎりぎりまで作業を続けているクラスもある。化野の所属する一年六組も、そんなクラスの一つで、化野も時間を気にしながら黒いビニールに怪物の絵を張り付けていた。暗闇にするんだから、こんなのが見えるのかと心配だが、絵のおどろおどろしさは秀逸である。時間は、ぎりぎりだ。あと三十分長くあれば、もっとよくなると思う。だけど他方、早く始まってくれないかとも思う。文化祭が始まったら、東雲と一緒にまわる約束をしていた。彼女に会うこと自体が、一週間ぶりになる。なので、時間よ止まれと思いながら、時計よ進めと念じる矛盾した気持ちで、忙しなく手足を動かす。はたして、時計は決まった速さでしか動かないわけで、完璧とは言えないながらなんとか体裁を整えた仕上がりとともに、チャイムが学校中に響いた。
 二年二組の劇は午後からで、化野のシフトも二日目にしか組まれていない。午前いっぱいは、二人は一緒にいる予定だ。二人は、一年六組の教室に来ていた。化野はいやだったのだけれど、結局最後には、首を縦に振ってしまった。これで、クラスの連中にばれることは確定。部活の先輩だと言い訳することも考えたが、通用するわけがない。それでも、化野は少しだけ期待していた。自分で言うのもなんだが、このお化け屋敷はかなり怖いと思う。東雲が、キャーなんていって引っ付いてくることを。もちろん内容を知っている化野が怖がる理由はないわけで、頼りになる男、を演じられるかもしれない。
そんなことを妄想していたら、手に、柔らかい感触を覚える。手を握られたという事実を、一秒遅れで認識する。顔が、上気するのを感じた。東雲は、何も言わない。化野も、何を言えばいいのかわからない。お化け屋敷で、本当によかったと思う。暗くなかったら、恥ずかしくっていたたまれなかっただろう。ぎゅっと握られているわけではなかった。添えられている感じ。化野も、握り返すことなんてできず、されるままにしていた。出口の直前になって、東雲は手をほどく。恥ずかしげに、一瞬だけ化野に微笑んだ。不意打ちを食らい、化野はまたもや顔の火照りを感じる。右の掌は、まだ熱を帯びている。何か気の利いたことを言えればよかったのだろうが、それどころではなく、開いた口は何の言葉も紡ぐことなく閉じられてしまった。
 波乱が起こったのは、昼食の直後だった。食事を終えたのは午後一時。これからどここいこっかと、東雲が聞く。化野は疑問に思った。劇は二時からのはず。そろそろ、準備のためにクラスに行くべきではないのだろうか。
「ねえ、いまさらだけどさあ、私の名前、フルネームで言ってみて。」
 東雲は答えの代わりにそんなことを言った。何の事だか、まったくわからない化野は、それでも素直に、東雲和花だと答える。
「残念、はずれ。私の名前は、東雲円花。和花は双子の妹よ。たぶん和花とは、会ったこともないんじゃないかな。化野くん、間違って私の下駄箱に手紙を入れたんだもん。それぐらい確認しなよ。まあ、そのこと黙ったままの私もどうかと思うし、そのことについては謝っておくわ。ごめんなさい。」
 東雲がオーバーに頭を下げる。化野は、一体何なのかまるで理解ができなかったが、東雲がつぶさに説明する。すなわち、東雲円花と東雲和花は双子だということ。化野が誤って、ラブレターを和花ではなく円花の下駄箱に入れたこと。円花はそれを和花宛てとわかっていながら、しかし和花と偽って自分が待ち合わせの場所に行ったこと。わかればわかるほど、化野はますます混乱した。なんというか、つまり、無茶苦茶だ。下駄箱を間違えた化野もドジだし、それを知っていながら自分が受け取った円花だってとんでもない。
「それで、どうするの? 今度こそ和花に告白する?」
 とんでもないことを言うな、と思った。だけど、目前の問題がそこに帰着するのだと、化野も理解した。つまり、彼女は選べと言っているのだ。このまま自分と付き合うのか、それとも、自分を振って今度こそ東雲和花にアタックするのか。
「もちろん私は、化野くんとお付き合いを続けたいと思ってるわ。」
 さらに、ダメ出しの一言。彼女は知っているのだ。化野が、ただ東雲を遠目に見ただけであり、その人となりについては何ら知らない。見た目先行で好意を抱き、そして手紙を出した。彼女は言っているのだ。見た目だけだったら、どっちでも同じようなものだと。だったら、東雲和花でなく東雲円花でも、問題はないのではないかと。化野は、こんなとんでもないことをする彼女を、双子の妹を出し抜く姉を怖いと思った。たぶん、東雲和花なら、こんなことはしないと思う。ていうか、そう思いたい。妹の方は、優しくて、姉想いの、天使のような少女であると信じている。だけど、それとこれとは話が別なのだと、東雲は語っている。東雲和花の性格が本当はどうなのかはわからない。結局のところ、よく知りもしないくせにラブレターなんて書いた化野にも非がある。でも今は、そうではない。それ以前に、化野の思いが彼女に通じる保証はない。それこそ、彼女の言わんとしているところ。高嶺の花を目指すより、手の届くところにある自分を取れと。
東雲が、腕を取る。二人の顔は、ほんの十センチほどの距離しかない。上目づかいで見つめる。ゆっくりと、顔を近づける。東雲は何も言わない。しかし化野には、彼女が何をしようとしているのか、わかった。いやならすぐに突き放せ。オーケーならこのまま受け止めろと。保留などという逃げの選択は、赦さないということだ。


 昨日あんなことがあったのに、東雲は何事もなかったかのごとく、化野に笑顔をむける。まあ午後からもずっと一緒にいたわけで、だから普通と言えば普通なのかもしれないが。でも、あんなことがあった後だと、気まずかったりする。それを感じているのは、化野だけか。だが昨日に比べて、東雲の積極的なアプローチはない。さすがにやりすぎだったと、彼女も思ったのかもしれない。
化野のシフトは午後からなので、午前中いっぱいは一緒にいることになる。ちなみに、東雲円花の方のシフトも二日目の午後から。店番に必要な人数が少ないとかで、一時間かそこら店頭に立つだけらしい。どっちにしろ、一緒にいるのは午前中いっぱいだ。その間、いくつかのクラスを見て回った。ここでも、昨日に比べると、あるいは先週の日曜日と比べても、化野が主導していた。反動、だろうか。次にどこに行くか、化野が決め、それに東雲がしたがうという構図がすぐに出来上がる。いくらかのクラスを回るうち、すぐに時計が回り、針はそろって頂点を指す。化野は東雲と別れて、自らのクラスに向かった。こののちどうするべきか、いまだ決めかねていた。


 東雲が一年六組の教室に現れたのは、空も赤く染まり、終わりの雰囲気が教室を、あるいは学校全体を包みだしたころだった。すでに客足は絶え、おいおい後片付けの始まった頃合い。こっそりと様子を窺うように、廊下に現れた東雲の姿を、化野は見つけた。片づけのごたごたにまぎれて教室を抜け出す。どうしたのかと問う化野に、東雲は、自分たちのクラスはもう片付けは終わったのだという。しばらく談笑した後、化野は教室内に戻るが、彼女がまだ廊下に居続けているのが、横目に何度かちらついた。片づけが終わるまで、待っていてくれるつもりだろう。悪いと思った化野は、しかし追い返すのも気が引け、ならせめて早く終わらそうとますますてきぱきと手足を動かす。その甲斐があったかどうかはわからないけれど、ほどなくして教室はおどろおどろしいお化け屋敷から、祭りの残骸を経て、だだっ広い空間に戻る。あとは机と椅子を運び入れるだけだ。ところがそこで、誰かが叫んだ。ばかな誰かが。
「ヨッシャー! 終わったー! 胴上げだー!」
 誰が叫んだかはわからない。呼び込みで消耗したガラガラ声は、半分ぐらいはやけっぱちだった。しかし、祭り独特の雰囲気が、祭りの終わりの焦燥感が、一投を波紋に変える。数人が一人の生徒を捕まえ、宙に投げ飛ばすと、何十人とそれに群がる。てんやわんやの半暴動は次々に転移し、どさくさに紛れて逃げ出そうとした化野も、あえなく捕まり、放り投げられる。

 ところが、そんなぐちゃぐちゃした中で、トラブルの起きないほうがおかしくて、そんなとき化野は、なぜかいつもはずれくじを引くと思う。つまり、落ちた。バランスを崩し、硬い教室の床に。かろうじて頭は無事だったが、背中を打ち、内臓にまで鈍痛が響く。痛みに顔を顰めつつ、それでも何とか、上体を起こす。狂気じみたばか騒ぎは、事故によって一気にしらけ、何人かの生徒が化野の方を心配そうに見つめ、詫びを言う。その中で、化野は、気づく。右袖が、捲れている。慌てて隠すが、遅かった。東雲の顔が見えた。どさくさに紛れてもぐりこんだのだろう。その顔が、わずかにひきつる。東雲はすぐに取り繕ったが、その顔を、化野は確かに見てしまった。そして、思った。ああ、彼女も結局、そうなんだな、と。


 小さいころから、比べられてきた。同一視されつつも、あらゆることで。だけど勉強ではずっと拮抗していた。毎回合計点や個々の教科を比べては一喜一憂していたけれど、結局のところ、同じような点数というのが一番しっくりくる。運動でも同じ。可もなく不可もなく、という評価がどちらにもしっくりくる。運動は好きじゃなかったから、これにはそれほどまで固執しなかったと思う。双子なんだから上も下もないなんて口癖のように言っておきながら、ずっと、心の中には姉としての威厳があった。だからあらゆることに関して、妹の和花より半歩でも前を歩いていたかった。身体測定で身長が三ミリ高かったことには、惜しいとか言いつつ大喜びした。和花が生徒会の副会長になったときには、頑張ってと和花に声援を送り、自分は立候補していないんだから別にどうってことないと自分を慰め、それでも内心穏やかではなかった。部活の先輩に頼まれたというのが理由としって、なんで私じゃなくて和花なんだと憤り、そもそも部活が違うから当たり前かと思いつつ、それでもしっくりこなかった。私の方が妹だったら、と思う。そうしたらこんな醜い感情を抱かなくて済む。和花だったら私みたいには考えなかったかもしれない。そうでなくても、少なくとも私がこういうふうはならなかったはず。だけどどっちが先に生まれたかは、生まれた瞬間に決まってしまって、どうしようもない。双子の姉として生まれた、その因果を変えることは、できない。今回のことも、それが原因。嫉妬しているのだ。和花に。彼が和花のものだからじゃない。姉の私より先に彼氏を作ったからだ。その上。今朝のことを思い出す。
「和花、今日は学校行ける?」
 母が、和花に問いかける。まだ、普段に比べて顔に冴えがない、と思う。和花は朝が弱いから、なんとも言えないけれど。それでも和花はうなずく。文化祭を二日とも休むのは、どうしても嫌なのだろう。昨日も随分ともめた。リビングで胃の中身を盛大にぶちまけたので、さすがにどうしようもなかったが。母が、今度は円花の方に向く。
「円花、和花のことお願いね。」
 母の言葉に円花は小さくうんとだけ答え、鞄を引っ提げて玄関に向かった。そのあとを和花が追ってくる。
「お姉ちゃん。昨日はごめんね。」
「ううん、別に。私もちょっと楽しかったし。」
 そうとだけ答える。本当は何があったかなど、絶対に言わない。そもそも、和花が悪いのだ。自分がいけないからと、あろうことか双子の姉に、彼女の代役を頼むなんて。もともと気に入っていなかったのだから、そんなことをされて、水を差さずにいられるはずがない。もちろん、反省はしている。さすがにやりすぎたと。だけどそれは、和花のことを思ったことではなく、まったく逆の意味でである。さすがにやりすぎた。キスの直前まで迫ったり、部屋に行ってもいいなんて聞いたり、ぶっちゃけ、和花がそんなことをする場面をまるで想像できない。たぶん手もつなげないんじゃないかな。そこから、ばれやしないかと後になってひやひやしたけれど、付き合ってまだ日が浅いのと、和花の彼氏の愚鈍さのおかげで何とかなったようだ。さてこれからどうなるのかと、こみ上げてくる笑いを殺しつつ、東雲円花は、片づけを続けている。