キャピタル・C・インカゲイン その11(1)

 樹、という名前が、士の頭に一瞬引っかかった。かすかに眉を寄せてその引っかかりをたぐった士は、はっと目を見開いた。士の級友の矢羽樹、能力者であるらしいというその一点のためだけに士が気にかけている彼と、同じ名だったからだ。
 だがそんなもの、ただの偶然かもしれない。とりあえず、士は男に続きを促した。
「殺されてしまったというのは? 能力者にですか?」
「そう。……というか、今私が体を乗っ取ってるこの男にね。樹も能力者だったんだけど、前の戦闘でこいつの恨みを買って、それで今回殺されちゃったのよ」
 樹も能力者、という部分に、士はぴくりと反応した。
「あなたたちの名字って、矢羽ですか?」
 士が問うと、男は驚いた表情になった。
「そうよ、どうしてわかったの? あっ、もしかして、樹の知り合いだったり?」
「はい。同じ学校の、同じクラスでした」
 頷きながら士が言うと、男はほうっとため息をついた。
「そう……こんな偶然もあるものなのね。ねえ、樹って、学校ではどんなふうだった? 私も樹の中にいたとき、樹の目や耳を通して、樹の見たこと、聞いたことなんかは、感じることができたんだけど。花梨って女の子以外には、あんまり友達もいなかったみたいなんだけど、それって前からだったのかしら? それとも私が死んだせいで、人が変わっちゃっただけとか」
 樹の中にいた、という意味がわからなかったし、花梨という言葉もまた頭に引っかかったが、士はそれらには言及することなく、軽く首を振った。
「わかりません。俺も、クラスの中のことなんて興味なかったし。矢羽樹についても、能力者らしいから気になってただけだったので」
 そう言うと、男は少し黙っていたあと、また「そう」と呟いた。伏せたその瞳の色が、わずかに翳った気がした。
「……多分、樹のことだし、友達なんていなかったんだとは思うわ。でも、それでも気になるのよね。あの子は、小さい頃からずっとつらい思いをしてきたから。家でも父さんのせいで気が休まることなんてなかったと思うし、せめて学校でぐらい、誰か話せる人がいてくれればって、前から思ってたんだけど……」
 最後の方は、ほとんど独り言のようだった。うつむきがちに、ぼんやりと宙を見つめる男を、士もまた何も言わずに見つめる。しばらくそうしてから、男は一つ首を振り、顔を上げて士に視線を戻した。
「ごめんなさいね、変な話して。気にしないでちょうだい。さっきも言ったけど、仲良くしましょう。まずは、ここを離れない? 行くアテなんてないけど、ここよりはいいところあるかもしれないし」
 微笑みかけてくる男に対し、しかし士は、首を振った。
「ここを離れるのは別にいいですけど。でも、仲良くするっていうのは、遠慮しておきます」
 その言葉に、男は驚いた顔をした。
「どうして?」
「行くアテがないなら、一人で行動しようと二人で行動しようと一緒でしょう。それに、はっきり言ってあなたを信用していいかどうかわからないし」
「信用できない?」
「怪しさ満点ですから」
 怒るかと思ったが、男は意外にも、苦笑に似たものをその顔に浮かべた。
「まあ、そうかもね。こんな格好でこんな言葉遣いだし。さっきから好き勝手にしゃべってばっかだし。信用しろって方が無理かもね。じゃあ、いいわ、別れましょう。私はあっちに行くから、あなたも好きなところに行くといいわ」
 そう言って、最後にじゃあね、と手を振ってから、男は自分が指差した方角へと歩いていった。がちゃん、がちゃんという義足の音が、次第に遠くなっていく。
 その背が瓦礫の向こうに消えていくのを見送ってから、士はぐるりと辺りを見回した。自分にだって、行くアテはない。これだけ街が崩壊していては、泊まっていたネットカフェだって無事ではないだろう。だが、とりあえずここからは離れたかった。こんなに瓦礫が山を成し、その内から暗い死の気配が感じられるような場所など、さっさとあとにしたかった。
 士はもう一度男の消えていった方角を一瞥してから、それとは反対の方向へと足を向け、歩き出した。


 花梨はそっと、瓦礫の隙間から外へと這いだした。両手をついて慎重に体を起こすと、ずきん、と右のふくらはぎが痛んだ。瓦礫の破片で脚を切ってしまったのだ。だが、これだけの怪我で済んだのは、むしろ幸運以外の何物でもないだろう。人狼に弾き飛ばされ、自らの力でビルの柱を砕いたとき、その衝撃で集中力が途切れ、拒絶の能力を解いてしまっていたのだ。だから、まったく無防備な生身の体の上にビルが倒れ込んできたわけで、そのときに下敷きになって死んでいてもまったく不思議はなかった。だが、ビルの瓦礫は上手い具合にその隙間に花梨を収めるように降ってきて、結果花梨は生き延びることができた。
 あの東京タワーのときと同じように、他の仲間の死を目の当たりにしながら。
 花梨はゆっくりと立ち上がり、視線を上げて目の前の光景を見つめた。それはまさしく地獄絵図だった。半壊したビル、うずたかく積もった大小の瓦礫の山、あちこちに裂け目のできた大地。そしてそれらの中に横たわる、物言わぬ屍たち。死んだあとも、あのビルの上にいた能力者に操られて人狼に向かっていったせいで、ほとんどのものは大きく損傷している。頭と右腕を失った死体、腹に空いた大きな穴から内臓が飛び出ている死体。誰かの腕や脚もあちこちに転がっている。そこここに広がる血溜まりの赤い色が、目に刺さって痛かった。
 あまりの出来事に、痺れてしまったようになっている頭で、花梨はその惨状に視線を巡らせる。と、転がる死体の一つに目が留まった。目を凝らし、それが誰であるか気づいた花梨の口から、ひっと、引き攣った悲鳴が漏れる。喉をえぐられ、下半身が潰れたその死体の顔は、槻景早耶佳のものだった。血飛沫の飛んだその顔自体はあまり損傷がなかったが、だからこそ、そこに刻まれていた苦痛と恐怖の表情は、花梨の胸に突き刺さった。
 痺れていた頭が急速に思考を取り戻し、それと同時に、腹の底からこれ以上ないほどの吐き気と悪寒が突き上がってきた。花梨はうっと呻き、跪くと、その場に激しく嘔吐した。吐きながら、こらえようもなく涙が溢れる。どうしようもないほどの感情の波が、胸の内側で荒れ狂う。
(早耶佳……っ!)
 どうして、こんなことになってしまったのだ。久し振りに会えたのに。CCIに対抗するという、固い意志と高い志を抱えた彼女は、強く輝いて見えたのに。彼女も彼女の仲間も、こんなに無惨に死んでしまった。一体、どうして。
 CCIのせいだ、あの人狼のせいだと思おうとする一方、別の声が心に囁いてくる。お前のせいだ、と。お前が戦わず、ただ惨劇を見ていたせいで、早耶佳たちは死んでしまった。偽善者でいようとしながらそれにもなりきれていない、お前の身勝手さのせいだ、と。
 花梨はぎゅっと目をつぶり、その声を心から閉め出そうとした。やめて。確かに私は戦わなかった、でも、私がなんかが戦ったって、あの人狼に勝てるはずがなかったのだ。そう思い込もうとする花梨の心に、それでも声は執拗に爪を立てる。
 ――たとえ勝てなくても、何かが変わったかもしれないではないか。お前が攻撃をしている間に、誰か一人だけでも、あの場から逃げ出せたかもしれない。自分の命と引き換えに、お前がその一人を殺したのだ。何もかも、お前のせいだ。
 やめて、と、花梨が身を震わせたそのとき、前の方から、瓦礫を踏みしめる音が聞こえた。はっとした花梨が顔を上げると、瓦礫の山の間から、二人の人間がこちらに歩いてくるのが見えた。
 意識をそちらへ向けると、ふっとあの声は聞こえなくなった。花梨は一度、喘ぐように大きく呼吸した。それでも声が聞こえないのを確かめてから、口元を拭い、立ち上がった。たくさん吐いたせいか、喉がひりひりと痛い。右足の傷をかばいながら前に向かって歩き出すと、二人の人間は足を早め、こちらに駆け寄ってきた。レジスタンスのメンバーたちだった。
「ルナ! 無事だったのね、よかった!」
 そう声をかけてきたのは、確かアンというコードネームの、同い年ぐらいの少女だった。その横にいる青年は、超速移動の能力者ギルだ。花梨は彼女に向かって頷きながら、二人の顔を交互に見た。
「あなたたちも、無事でよかった。……あの人狼みたいなのは、どこに行ったのかな?」
 その問いに、アンは少しだけ眉根を寄せてみせた。
「それが、よくわからないの。ギルが、私たちをここから離れた場所に避難させてくれたんだけど、今こうして戻って来てみたら、どこにもあいつは見当たらなくて。あなたも、知らないのね?」
 花梨は小さく頷いた。一呼吸おいてから、もう一つ気になっていることを尋ねる。
「他には、誰が残ってるかわかる? ここから逃げていった人、もっといたよね?」
 その途端、ふっとアンとギルの顔が曇った。その反応に、花梨の胸がざわめく。どうしたのだろう。確かに何人か、この戦闘の場から逃げ出せた人がいたはずだった。早耶佳の撤退の号令を聞いて、いち早く退いた人がいたと思うし、ギルが超速移動で何人かを連れて行ったのも、瓦礫の隙間から見えた。それなのに、この反応は何だろう。
「それがね、ルナ」
 暗い目をしながら、アンが再び口を開いた。
「確かに、ここから逃げたメンバーは、もう何人かいたわ。でも、その逃げた場所でみんな死んじゃったの。シルフィが飛ばしたフレンとか、CCIの中にいるメンバーとかを除けば、レジスタンスの中で残ってるのはもう私たちだけよ」
 その言葉に、花梨は大きく息を呑んだ。信じられない気持で二人を見つめる。
「そんな……なんで? あの人狼から受けた傷のせい? 逃げ出せた人も、みんながみんな、それで死んじゃったって言うの?」
「ニックさ」
 苦い口調で、ギルが言った。
「俺もあいつも新入りだったからよく知らないけど、あいつはもともと精神的に弱い奴みたいだったんだ。それでも殺害の能力を買われてレジスタンスに入ったわけだけど、今回はその能力があだになった。俺がみんなを避難させてきた場所にニックも運び、一度またこっちに来て生き残ってそうな者がいないのを確認してから戻ったら、奴が暴れてた。これだけの惨状を目の当たりにして、頭がおかしくなったんだな。みんなの間を走り回って、次々と殺していた」
 そう語るギルの顔は、ひどく憔悴して見えた。そのときのことを思い出したのか、唇を噛んでうつむいてしまった彼に代わって、アンが小さな声であとを継いだ。
「だから、私がニックを殺したの。……殺せたときには、もう私とギルしか残っていなかった」
 アンも口を閉じると、重い沈黙が広がった。花梨は何も言えず、呆然と目の前の二人を見つめるしかなかった。そんな……そんなことって……。
 うつむいて地面を見ているままだったギルの拳が、不意に震えた。彼は何度も唾を呑み込みながら、必死で何かをこらえているようだったが、やがて顔を歪めると、呻くように声を吐き出した。
「ちくしょう……!」
 その声も、抑えきれない震えを孕んでいた。
「ちくしょう……。結局俺たちのしてきたことって、何だったんだよ……。親種を探し出して、CCIにプロジェクトをやめさせるって意気込んでたのに。あの化け物一匹にこんなふうに滅茶苦茶にやられて、仲間割れまで起こして、こんな少しの人数だけが生き残って。俺たちが今までやってきたことは、何もかも無駄だったっていうのかよ……!」
 悲痛に震えるその声が掠れて消えていくと、先ほどよりさらに重い、重い沈黙が、三人を押し包んだ。アンも目を伏せ、手を握り締めて、地面を見つめている。辺りを覆う濃厚な絶望が、息をするたびに喉に絡みつくようで、上手く呼吸ができない。花梨はただ、浅い息を繰り返しながら、その場に立ち尽くしているしかなかった。
 そのとき。不意に、横の方から、誰かが叫ぶような声が聞こえてきた。
「おーい! 助けてくれ!」
 花梨たちは、ぱっとその方向に目を向けた。男性が一人、瓦礫の隙間を走ってくる。
「あんたたち、怪我してないよな? してないんだったらこっちに来て、手伝ってくれ。瓦礫の下に人が埋まってるんだ。消防も街自体がこんなじゃいつ来るかわからないし、とにかく無事な者で早く助けてやりたいんだ。来てくれるか?」
 花梨たちの近くまでやってきた男性は、切羽詰まった口調で訴えた。花梨は目をしばたたかせる。目の前で、おびただしい数の人が人狼に殺されていったのを見たので、何だかこの辺りの人はすべて死んでしまったような気がしていたのだが、そういえば確かに、まだ生き残っている一般人が瓦礫の下にいてもおかしくなかった。
「行きます」
 アンが、きっぱりとした口調で男性に言った。男性は頷くと、背を向けて、先導するように自分が来た方に歩いていく。
「行きましょう」
 アンが、花梨とギルを促す。花梨は彼女の顔を見つめた。その頬には血の気がなかったが、瞳には揺れない光があった。
「死んでしまったみんなを甦らせることはできないけど、まだ生きている人を助けることぐらい、私たちにもできるはずよ」


「ねえ、エリック、わかっているんでしょうね。その階は……」
 エリックの指が地下三階を押すのを見て、クラリスは思わず声を上げた。エリックはちらりとだけ視線を向けてきてから答える。
「もちろん、わかっている。先ほど君が見せてくれたじゃないか」
 そして、クラリスからは視線を外してしまう。クラリスはその後ろ姿を見ながら、ため息を一つ吐きだした。
 食事と会話を終えたあと、さっさと食堂をあとにしたエリックを追い、クラリスは矢継ぎ早に問いかけた。これからどうするつもりなのか。本部のかなりの部分が破壊され、プロジェクトにも支障が出てくるのではないのかと。しばらくエリックは、その声を背で受けるばかりだったのだが、不意に立ち止まり、言ったのだ。「私の目的も知ったのだから、君にはそろそろ案内しておこう」と。どこに、と問いかけるよりも前に、彼は再び歩き出していて、クラリスは舌打ちしたい気分を押し込めながらついてきた。そして彼はこのエレベーターに乗り込み、地下三階のボタンを押したのである。
 クラリスは眉をひそめながら、腕を組んだ。CCIの本部は地下にある。地上の方には小規模なビルが建っていて、役所などには経営不振の小さな会社が入っていると認知されているはずだが、それはカモフラージュにすぎない。ビルの一階では、CCIの下っ端連中が机に向かい、勤務をしているように見せかけているが、その奥には地下に下りられるエレベーターや階段がある。それを下りていった先にある、この三階建ての地下施設こそが、CCI本部なのである。ここで多くのCCIのメンバーが活動し、プロジェクトに向けて仕事を行っていたのだ。今までは。
 それなのに、先ほど暴走したバレンタインが、その本部を破壊してしまった。一番下の地下三階、その中でも隠された地下通路の先の一室に閉じこめてあったのだが、拘束を解いた彼は、水平方向に向かって閃光を発射し、本部の地下三階のほとんどを破壊したのだ。そのときクラリスは彼の背中側にいたため、その直撃を受けることはなかったが、衝撃で壁や天井が崩れてきたときには死の危険を感じた。通路の方へと進んだバレンタインが、上方向へ閃光を発射し、空いた穴から外に出るのが見えたので、慌ててそのあとを追って外へと脱出したのである。
 バレンタインの暴走の様子、そして死の瞬間を見届けてからこの本部に戻ってきたが、やはり被害は相当なものであったようだ。当然のごとく死傷者は出ているし、衝撃で地下一階や二階にも、崩れたり、ひびが入ったりした部分があるらしい。そして今、エリックは、最も損壊の大きい地下三階へと行こうとしている。
 チン、という音とともに、扉が開く。一応エレベーターの辺りは比較的損壊は少ないはずだが、それでも扉が開く際にはかすかにきしむような音がした。エリックに続いてエレベーターを下りたクラリスは、辺りの様子を見回し、ふっと息を吐いた。やはり、本当に滅茶苦茶だ。生き残ったわずかな非常照明だけの薄明かりの中、それでも崩れた壁や天井が一面に積もり、壁のあちこちに亀裂が走っているのがはっきりと見て取れる。息を吸い込むと、細かい塵の混じったざらついた空気が喉に入ってきて、クラリスは思わず咳き込んでしまった。
「……これは、ひどいな」
 エリックが、ぽつりと呟くように言った。それから、クラリスの方に顔を向ける。
「そういえば、通路の穴から、走ってきた地下鉄が落ちてきた、と言っていたな。それはどうしたんだ?」
「地下鉄の車両自体は放ってあるわ。どうしようもないし。乗っていた乗客の方は始末した。最初は乗客の中に稲玉士もいたから、戦闘になるとまずいと思って様子を見ていたんだけど、彼だけ外に脱出しちゃったから、あとの者たちはみんな殺したわ。この施設の存在をばらされたくないしね」
 クラリスの言葉に、エリックは小さく頷いた。それから、くるりと方向を変える。
「ついてきてくれ」
 それだけ言って、彼は再び歩き出した。クラリスは黙ってあとに従う。エリックは、比較的被害の少ない場所を選んで廊下を進んでいっているようだった。だが、こんな大半が瓦礫と化した階に、一体何の用があるというのか。クラリスが不審な思いで足を進めていくと、やがて廊下の突き当たりに行き着いた。エリックはそこにあった扉のノブに手をかけ、扉を開けて、中へ入っていく。
 クラリスがそのあとに続いて部屋に入ると、エリックはその隅の壁に片手を這わせ、何やら探っている様子だった。何をしているのかと、クラリスが眉根を寄せたとき、彼の手元から、かたん、とかすかな音がした。
 その途端、その手の上の壁が、くるりと引っくり返った。クラリスははっと目を瞠る。裏返ったその壁には、暗証番号や指紋認証、声紋認証など、様々なロックの機械が備え付けられていた。この部屋にこんなものがあるなんて、まったく知らなかった。驚いているクラリスの前で、エリックは次々とそのロックを解除していく。
 ピピッという軽い電子音が、すべてのロックが解除されたことを告げる。それと同時に、まるで扉が開くかのように、機会の横の壁が向こう側へと開いていった。ちょうど人が通れるくらいの穴が、そこに現れる。
 呆然とするクラリスを一瞥してから、エリックは穴に入っていく。はっとしたクラリスは、慌ててそのあとを追った。
 穴の向こうは短い通路になっていて、その先には小型のエレベーターがあった。何のためらいもなく乗り込んでいくエリックに、クラリスも続く。扉が閉まると、エレベーターはさらに下へと降り始めた。
「……この下に、何があるの?」
 我慢できずにクラリスが尋ねると、エリックは短く返してきた。
「すぐわかるさ」
 彼がそう言ったとき、エレベーターが止まった。二人が下りると、人に反応して、自動的に照明がついた。明るくなったその場所を見て、クラリスは驚きの声を上げた。
 そこにはまったく別の地下施設が広がっていたからだ。左右と前方に広々とした廊下が延び、その両側にいくつも扉がある。ぱっと見ただけでも、相当な広さを持つ施設だということは容易に推察できた。
「……こんなところがあるなんて、知らなかったわ」
 興奮を抑えきれずにクラリスが言うと、エリックも微笑を返してきた。
私の秘密の場所だからな。まあ、もう他の者にも公開するつもりだが」
 言ってから、エリックはまた歩き出す。クラリスがついていくと、彼は前を見たまま話始めた。
「さっきのもの以外にもエレベーターはあったんだが、あの地下三階の崩れ具合では、使えるのはあれだけだろうな。まあ、仕方ない。上の本部の、崩れた部分の代わりとなるスペースぐらいはあるから、他のメンバーたちにも公開して、こちらの方も使わせるようにしよう」
「ここは、こういう本部での非常事態に備えて用意しておいたの?」
「それもある。……だが、それだけじゃない」
 答えながら、エリックはそこで足を止めた。目の前には一つの扉。やはり様々なロックが施されている。手早くそれらのロックを解くと、エリックは扉を開け、中に入っていった。
 彼のあとに続いたクラリスは、壁際に立ち並ぶいくつもの書架と、そこにほとんど隙間なく収められた膨大な量の本や資料に目を奪われた。そのタイトルを読みとり、はっと息を呑む。
「これは……」
 食い入るようにして、それらを見つめる。ニューヨークでCCIプロジェクトが行われた際の企画書や報告書、人々の志向性に関するデータに、異世界の存在を主張する論文など、今回のプロジェクトに関連しそうなあらゆる文献資料が、そこに収められていたのである。
 エリックが静かな口調で言った。
「ここは、私の秘密の研究所だ。私はここで、長年調べて続けていたんだ。このプロジェクトを成功させるために、何が必要か。何をしなければならないのか。……二つの世界の融合の結果、何が起こると予想されるのか」
 クラリスは書架から目を離し、エリックを見た。彼はまっすぐ自分を見つめていた。その表情は、今まで見たどれとも違うような気がした。静かだが固い決意に満ちたその顔の中で、瞳が何か底知れないものを含んで光っているように見えた。
「心配しなくていい、クラリス
 厳かな声で、彼は言った。
「このプロジェクトは、必ず成功させる」


 夕暮れに赤く染まった道に、がちゃんがちゃんと義足の音が響く。B−Aは――B−Aの中の楓は、一度足を止めると、深々と息をついた。随分歩いたような気がする。いや、もしかしたら距離としてはそこまで移動していないかもしれないが、瓦礫の山や地面の裂け目のある道は歩きにくいし、義足と断端部の境目の違和感が、少しずつ鈍い痛みに変わってきていたのだ。さすがに今日一日で酷使しすぎたのだろうか。
 楓は断端部の辺りを軽く撫でてから、ぐるりと辺りを見回してみる。壊れた街の風景の中に、探す人の姿はない。顔をしかめながら、茜色の広がる空を仰いだ。
 樹のクラスメートだという能力者の少年と別れたあと、楓は最初、この破壊された場所を離れるつもりだったのだが、途中で気が変わった。樹が飛ばされる前に行動をともにしていたはずの少女、水附花梨を探してみようと思いついたのだ。楓が宿る前の樹のことを知る人に、一度話を聞いてみたいと思った。もしかしたら彼女もあの人狼に殺されてしまったかもしれないが、とにかく行ってみようとUターンしてきた。だが、樹を通して見た、人狼レジスタンスが戦っていたはずの場所に行ってみると、そこにはむごたらしい有様の死体が転がっているだけで、生きている人は見出せなかった。それでも逃げただけかもしれないと思い、探してみているのだが、やはりどこにも見つからない。
 本当にもう死んじゃったのかな、と、半分諦めたような気持ちで再び辺りに視線を巡らせた楓は、ふと瞬きした。前方の道端に停めてある車から、一人の女性が降りてくるのが見えたのだ。外の空気でも吸いに出てきたのか、どこに行くというわけでもなく、疲れたように目の辺りを押さえながら車に寄りかかっている。
 見覚えのある女性だった。自分自身の目で見たわけではないが。
 楓はどうしようか少し迷ったが、ふっと息を吐きだすと、女性に向かって歩いていった。
 がちゃん、がちゃんという義足の音に、女性はぱっと振り返った。こちらを向いたその顔は、やはり間違いなかった。B−Aの記憶の中で見た、F−Gという女性だった。
 F−Gは、楓の操るB−Aの姿を認めるや、大きく目を見開いた。
「B−A……!?」
 だが、楓がそれに反応するより前に、彼女は何かに気づいたような顔をし、その目つきを厳しいものにした。
「いえ、違うはずね。あなたは矢羽楓よね? B−Aの体を乗っ取って、操っているんでしょ?」
 的確なその台詞に、楓は少し驚いた。
「そうよ、どうして知っているの? F−Gさん」
 そう言うと、F−Gの方も驚いた顔をした。
「そっちこそ、どうして私のコードネームを?」
「この体を乗っ取ったときに、こいつの記憶を見たから」
 答えると、F−Gはわずかに顔をしかめた。
「……私の場合は、憑いていた女が言っていただけ。でも、とりあえずそんなことはどうでもいいわね」
 ぴしゃりと言ってから、F−Gはじっと顔を見つめてきた。
「……ねえ、その体には、あなたの意識だけなの? B−Aはもういないの?」
「いることはいるんじゃないかしら、多分。ただ、私がずっとずっと奥の方まで押し込んだから、もう彼が自由に出てくることはかなわない。私が許さない限りね」
「そしてあなたは許す気などないわけね?」
「もちろん。この男は私の弟を殺したんですもの」
 強い口調でそう言うと、F−Gは不意に、何かはっとしたような顔をした。訝しげに見つめる楓の前で、彼女がしばらくそのままの表情でいたが、やがてわずかに目を細め、「ああ」と軽く吐息をついた。少しうつむいて、片手で髪を掻き上げる。
「そう……そうよね。弟、か……」
 そう呟いた声は、先ほどの鋭さはまったくなく、どこか寂しげでさえあった。眉を寄せる楓に、F−Gは顔を上げると、かすかに微笑んでみせた。
「ねえ、さっきB−Aの記憶を見たっていったじゃない? もしかして、昔のB−Aの記憶も見た?」
「ええ。子どもの頃や、警察として働いていた頃の記憶も見たわ。この人のお姉さんの記憶も」
 F−Gの変化の意味がわからず、眉を寄せたまま楓が頷くと、F−Gは軽く首を傾げた。
「じゃあ、あなた、思わなかった? B−Aの境遇って、矢羽樹にそっくりじゃないかと」
 楓は黙ったまま、また首肯する。それは記憶を見たときから感じていたことだった。両親を亡くし、叔父叔母に引き取られ、彼らから冷たい仕打ちを受けて。従姉であり、姉と呼んでいた女性が、たった一つの支えだった。本当にどうしようもないぐらい、樹に似ている。
「B−Aは多分、矢羽樹に自分を重ねていたのよ。最愛の姉を救えなかった自分、姉を犠牲にする形で、のうのうと生きながらえた自分に。だからこそ、矢羽樹のこともあんなに憎んでいた。もちろん左腕のこともあるんだけど、昔の自分を憎んでいたからこそ、それを思い起こさせる矢羽樹も憎まずにはいられなかったのよ」
 F−Gの視線は、今は楓を外れて、どこか遠くを見ているようだった。残照の仄かな赤色に浮かぶその顔を見ながら、楓はしばらく黙っていたが、やがてまた口を開いた。
「それでも、こいつが樹を殺したことに変わりはないわ。そんなことで、私はこいつを許すつもりなんてない」
 その言葉に、F−Gはゆっくりと頷いた。
「わかっているわ。確かに、あなたの気持ちもよくわかるしね」
 それからまた少し、沈黙が続いた。ぼんやりと宙を見つめているようだったF−Gは、気持ちを切り替えるように頭を振った。楓の方に、再び視線を据える。
「あなたは、これからどうするつもりなの? どこへ行くの?」
 問われて、楓はうーんと唸る。
「どうしよう、かしら……」
 辺りはすでに薄暗くなってきている。見上げると、気の早い冬の夜が、空の大部分を薄青く覆っていた。遠くの空に、一つ二つ星が瞬き始めている。
「人を探してたんだけど、見つからないし。諦めるとしても、特に行くアテはないんだけどね……」
 楓がため息混じりに言うと、F−Gは、何かを考えるように顎に手をあてた。
「……この辺り、車をちょっと走らせていたけど、何箇所か避難所みたいなところがあったわ。そういうところは、探したの?」
「避難所? そっか、そういうところに避難している可能性もあるわね。行ってみようかしら。どの辺りにあったの?」
 尋ねると、薄闇の中、F−Gは軽く笑ったようだった。脇の、自分の車をぽんぽんと叩く。
「よかったら乗っていく? 適当に、いくつか回ってあげてもいいわよ」
 予想外の提案だった。楓は一瞬言葉に詰まった。
「……いいの? あなたにとって、私は敵なんじゃないの?」
「敵だと認識していたら、こんなにのんびり話していないわ。まあ、味方と思っているわけでもないけど」
 言いながら、F−Gは運転席の側のドアを開けた。楓は少しためらったものの、今さら心配するものなんて何もないと、腹を決めて助手席の方に回り、ドアを開けて中に乗り込んだ。
「でも、どうして? 私を連れていったって、あなたには何も得はないのに」
 シートベルトをしながら、楓は尋ねる。F−Gはハンドルの横に鍵を差し込みながら、そうね、と呟いた。
「あなたがどこかへ行ってしまう前に、少しでもB−Aの体のそばにいたかったのかもね」
 その答えに、楓は思わず彼女を見つめた。F−Gはこちらに顔を向けることもなく鍵を回す。エンジンがかかり、低い音とともに車が振動し始める。
「そういえば」
 発車させようとするF−Gに、何気ない調子を装って声をかける。
「このB−Aって奴も、あなたのこと気になっていたみたいよ。あなたのこと、姉に似てるって思ってたみたいで」
 突然、車が発進した。F−Gが大きくアクセルを踏み込んでしまったようだった。慌てて彼女はブレーキを踏み、今度はキキィッと耳触りな音を立てて急停止する。大きく前後に揺すられて、楓は文句を言おうと横を見たが、こちらを見つめるF−Gの一心な瞳を見て言葉を呑みこんだ。
「……それ、本当?」
 真剣な口調で、彼女は尋ねる。なんとなく気圧されたような感じで、楓はええ、と頷いた。
「記憶を見たとき、こいつ、そんなふうに思っていたみたいだった」
 F−Gはしばらく、何も言わずに楓を凝視していたが、やがて視線を緩め、そう、と呟くように声を落とした。それから軽く頭を振ると、改めてハンドルを握り直した。
「じゃあ、とりあえず近いところから、避難所を回って行きましょう」


 救助作業は、日が暮れるまで続いた。一般人の前で能力を使うわけにもいかなかったので、花梨とアンは他の女性たちに混じり、被害の少なかった近くの小学校の体育館で怪我人の手当てを行った。ギルや他の男たちが連れてくる怪我人には、目も当てられないようなひどい傷を負った人も多かったけれど、レジスタンスの者たちのあれだけの惨状を目にしてしまったためか、そうしたものに臆する気持ちは麻痺してしまったかのように起こらなかった。花梨はただひたすらに、傷口を洗い、包帯を巻き、骨折箇所を固定し続けた。
 体育館の高窓から差し込む日の光が暗くなってくると、途中からやってきていた救急隊員が、あなたたちはそろそろ休んでくださいと声をかけてきた。その辺りで、現場の作業にあたっていた男たちもぞろぞろと体育館に入ってきた。暗くなったからあとは任せるよう消防隊員に言われたと、疲れた顔のギルが花梨とアンのそばにやってきた。
 辺りの電柱が倒れてしまったために電気が通ってこず、完全に日が暮れ落ちると、明かりは数本だけある懐中電灯のみになった。近所の人が差し入れてくれた小さなおにぎりを食べたあとは、皆黙り込んだまま床に座っていた。救急隊員の人に休むように言われたが、冬の夜の体育館はひどく冷え込んで、とても眠ることなんてできなかったのだ。
 花梨もまた、アンの隣で膝を抱えるようにして座っていた。時折上がる怪我人の呻きや救急隊員の声をぼんやりと聞いていたが、やがてそっと膝を抱えていた手をほどき、立ち上がった。
「ルナ?」
 声をかけてくるアンに、花梨は強張った顔で、笑みを作ってみせる。
「ちょっと、外の空気吸ってくる」
「こんな寒いのに?」
「うん。……ちょっとだけだから」
 それだけ言いおいてから、花梨はなるべく音を立てないように体育館の扉を開き、その隙間から外に滑り出た。その途端、凍りついた空気が針のような鋭さで体中に刺さり、思わずきゃっと小さな声を漏らしてしまう。花梨はそれでも戻ることはせず、扉をそっと閉めてから、歩き出していった。校庭を囲うように植えてある桜の木の中の一本の下まで来る。見上げると、空を切り裂くように伸びている枝の間から、冬の星が凍てついた光を放っていたが、花梨の目はそれを捉えていなかった。
 皆の手当てをして、動き回っている間はよかった。だが、手を休めて座っていると、またあの声が聞こえるようになっていたのだ。
 ――こんなふうに手当てをして、お前はまだ偽善者でいるつもりか。だが、目の前で横たわっているこの人たちも、お前のせいでこんな目に合わされたのだ。お前が戦わなかったから。お前が臆病だったから。こんなことをしても、何の罪滅ぼしにもならないのだ。何もかもお前のせいだ、お前の……。
 花梨は強く目をつぶり、必死にその声を打ち消そうとした。息を吸い込むと、凍った夜気が肺に流れ込み、強張るように痛んだ。
 自分一人が何をやったってこんなことは防げなかったと、冷静に事実を考えられる部分はあったし、声の言うことがだんだんとエスカレートしていることもまた感じ取っていたけれど、それでもこれだけ執拗に責められれば、もともと弱っていた精神は疲弊しきってしまう。気が変になりそうだった。
 ――お前のせいだ、お前のせいだ、お前の……!
 花梨がぎゅっと手を握り締めた、そのときだった。
「――水附花梨、か?」
 不意に、後ろの方から声がした。はっと、花梨は振り返る。一つの人影が、自分に向かって歩いてきていた。闇に慣れた目に、かすかな星明かりに浮かぶその顔が映り、花梨は驚いて声を上げた。
「稲玉、君……?」
 クラスメートの、稲玉士だった。死んだと思っていたのにテレビに映っていた彼、早耶佳が多分能力者であるらしいと気にしていた彼だった。目を見開く花梨の前で、士は立ち止まった。その顔はほとんど無表情だったが、なんとなく彼も驚いているらしい気配だけはわかった。
 士は花梨を見たまま、何も言わない。何を言えばいいか、彼自身も迷っているのかもしれない。沈黙が気まずくて、とりあえず花梨の方から口を開いた。
「……驚いた、稲玉君がこんなところにいるなんて。あっ、でもそうか、稲玉君仙台にいたはずだから、別に不思議なことじゃないか」
 花梨の言葉に、士は不快そうに顔をしかめた。
「仙台にいたはずって? そんな噂流れてたのか。上手いこと、死んだと思わせられたと思ってたのに」
「うーん、噂っていうんじゃないんだけど。学校のみんなは死んだと思ってたよ。ただ、私の学校関係じゃない友達から、あなたに会ったっていうのを聞いたから」
「学校関係じゃない奴が、俺のことを知っているのか?」
「うん。あっ、稲玉君、能力者なんだよね? その子、CCIに対抗するレジスタンスのリーダーだったんだけど、あなたに仙台で会って、あなたが能力者だって気づいたらしいんだよね。それであなたのこと気にしてたみたい」
 そう説明すると、士は、ふぅん、とだけ返してきた。再び間が空いてしまい、花梨は何を言おうか言葉を探したが、何かを口にする前に、今度は士の方が口を開いてきた。
「水附はどうして、こんなところに来ているんだ?」
 その問いに、花梨は一瞬詰まる。それから、考えながら言った。
「うーん……。どうしてって言われると長くなるんだけど。その、私も能力者なんだけど、ちょっと理由があって、レジスタンスのメンバーとか、あと、クラスの矢羽樹君とかと一緒にこっちに来てたんだ。それで、街がこんなになったから、この体育館で怪我人を手当てしていたの」
 具体的なことは何も説明できていないなあと花梨は思ったが、士はその内容よりも、出てきた名前に反応した。
「矢羽樹?」
「うん。彼も能力者なの。ちょっと今、どこ行っちゃったかわかんなくなってるんだけどね。電話も出なくて……」
 続けようとした花梨を、しかし士は、思いがけない言葉で遮った。
「なんだ、あいつ、死んだんじゃなかったっけ?」
 一瞬、彼の言った意味がわからなかった。花梨はぽかんと士を見つめる。だが、花梨が何かを言うより先に、背後で声が上がった。
「どういうことなの、それは!」
 びくっとして、花梨は後ろを振り返った。花梨の後ろの桜の木の陰から、二つの人影が現れる。アンとギルだった。
「二人とも、どうして……?」
 驚いて、花梨は尋ねる。アンが、視線は士に据えたまま、花梨の横に立ち、低い声で答えた。
「あなたがなかなか戻ってこないから、どうしたのかと思って見にきたのよ。そしたらこの人と何か話してるみたいだったから、少し様子を窺っていたんだけど。でも、矢羽樹が、フレンが死んだって、それは本当なの?」
 台詞の後半は士に向けられていた。士は、やや迷惑そうな表情をしながら、つっけんどんな口調で言った。
「本当かどうかは知らないな。変な男がそう言っていただけだから、もしかしたらガセかもしれないけど」
「変な男?」
 ギルが胡乱気な顔つきで呟いた、そのときだった。
 校門の前に、車が止まる音が聞こえた。はっとして、皆がそちらに視線を向ける。暗くてよくわからないが、車から誰かが降りてきたようだった。避難者を受け入れるために開放された門から、人が入ってくる。どうやら二人のようだった。その人たちが近づいてくるうち、覚えのある、がちゃん、がちゃんという音が聞こえてきて、花梨は息を呑んだ。
「ああ、あれだよ。あの義足の男」
 横で、士が無造作な口調で言う。B−Aと名乗っていたテロリストの男と、もう一人、知らない女性が、花梨たちの方へとまっすぐに歩いてくる。
 アンが、すっと手を上げた。掲げた手の中に光が走り、瞬く間に凝縮したそれは、白く輝く弓となった。アンが左手でそれを構え、右手で弦を引くと、その間にさらに光の矢が出現した。
「止まりなさい!」
 矢をB−Aたちの方に向けながら、アンが鋭く命じる。かなりそばまで近づいてきていた二人は、その声で足を止めた。女性がちらりとB−Aの方を見やると、彼は困ったような表情で軽く両手を上げてみせた。
「警戒しないでちょうだい。私は、別に戦いにきたわけじゃないのよ」
 飛び出した女言葉に、アンは意表をつかれたように身じろぎをした。花梨も、思わずまじまじとB−Aを見つめてしまう。彼はこんな言葉遣いではなかったはずだが。
 アンはしかし、すぐに気持ちを立て直したようで、再び鋭い声を発した。
「戦いに来たわけじゃないなら、何なの? テロリストがこんなところに来る目的なんて、ろくなものじゃないでしょう?」
 問われたB−Aは、手を上げたまま肩を竦めてみせる。
「だって、私はテロリストじゃないもの。もともとこの体の持ち主だったテロの男の意識は、もうずっと奥の方に行っちゃってるわ。今しゃべってる私は、矢羽樹の姉、矢羽楓よ」
 まったく予期せぬ台詞に、アンは今度こそ言葉を失ったようだった。花梨とギルも、呆気に取られてB−Aを見つめる。彼はそんな自分たちを見つめたまま、淡々と語り始めた。自分の能力のこと、樹に殺されてからずっとその中に宿っていたこと、樹が死んだのを内側から見ていたこと、自分がB−Aの体を乗っ取ったこと。突拍子もない話ではあったが、樹の中から見ていたというレジスタンスに関する内容には、本来B−Aが知るはずのないことも含まれていたため、B−Aが樹の姉のふりをしているというわけでもなさそうだった。そのうちにアンの手からは弓矢が消え、B−Aも上げていたその手を下ろしていた。話の間、B−Aと一緒に来ていた女性は、腕を組んだままB−Aの話を聞いているだけだったし、士も、立ち去ることなく、ただ黙ってそこに立っていた。
 仙台に来て、士に会って別れたことまで話したあと、B−Aは、彼の中の楓は、真剣な眼差しで花梨を見つめた。
「それで、樹のことを知ってる人に、ちょっと聞いてみたいと思ったのよね。樹、クラスではどうだったの? 友達がいなくて一人だったのは、前からだったの?」
「……前から、です」
 間を置いてから、呟くように花梨は答えた。
「彼、人づきあいとか苦手だったみたいで。お昼食べるのも一人だったし、クラスでグループ作るときなんかもいつもあぶれてましたし。……本人はそれほどつらそうな様子ではなかったんですけど」
 付け加えるように言ったが、楓は「そう」と気落ちしたような声を落とした。そのまましばらく黙っていたが、やがて彼女は目を閉じて、深く息を吐き出した。
「予想はしてたけど、やっぱりそうだったのね。まあ、友達だけがすべてじゃないでしょうけれど、それでも、話ができる相手ぐらいいるとよかったって思っちゃうのよね。樹には、もっと幸せに生きていてほしかったから……」
 生きていてほしかった。過去形のその言葉に、花梨はびくりと体を震わせた。手をきゅっと握り締める。
「……本当に死んじゃったんですよね、樹君」
「ええ」
 寂しげな楓の声。花梨は顔を歪め、声を喉の奥から押し出した。
「私のせいだ……」
 それを聞いて、皆が一斉に驚いた顔をした。
「何言ってるんだよ。どうしてルナのせいになるんだよ」
 わけがわからないというような口調のギルに、花梨は泣きそうな顔で言い募った。
「でも、私があのとき何かしていれば、樹君はテロリストの中に飛ばされなかったかもしれないじゃない。人狼に攻撃していれば、シルフィも死ななくて、それで樹君はちゃんとレジスタンスの拠点に到着して……」
 アンが、厳しい顔つきで首を振った。
「それはいくらなんでも思い詰めすぎよ。それを言うなら、私だってあのとき何もできなかった」
「でもっ!」
 再び、花梨の中には声が聞こえるようになっていた。何もかもお前のせいだと、苛烈に執拗に、責め立てる声。頭の中にわんわん響くその声を聞いていると、本当にすべてが自分のせいのように思えてくる。
 ――お前のせいだ、お前のせいだ、お前のせいだ……!
 そのとき、それまでずっと黙っていた、楓と一緒に来た女性が、花梨を見てふと眉を寄せた。彼女は花梨の前に歩いてくると、かがみこんで、じっと瞳を覗きこんできた。花梨が戸惑いながら見返すと、女性は何か合点がいったかのような顔で、一つ頷いた。
「ちょっと、待ってて」
「え?」
 聞き返す花梨に、しかし女性は答えず、体を起こしてから、目を閉じた。
 そのとき、女性の雰囲気が変わった。どのようにとは具体的に言えないけれど――確かに体はそこにあるのに、何だか、彼女が急にそこからいなくなってしまったように思えたのだ。まるで、魂が体から抜け出てしまったかのように。
 ふわりと、首の後ろ辺りに、かすかに何かが触れるような気配があった。そして次の瞬間、ふっと、肩の辺りが軽くなったのがわかった。慢性的な肩凝りのような奇妙な重さが、それまでずっと肩に巣食っていたのだと、初めて花梨は気がついた。
 ぽかんとする花梨の前で、女性の瞼がぴくりと動く。ゆっくりと目を開けた彼女は、困惑の表情で自分を見つめる花梨に、かすかに微笑んだ。
「あなたに、死霊が取り憑いていたのよ。今、私があなたに憑いて追い払ったから、もう心配ないと思うけど」
「死霊?」
 ギルが、疑うような声を上げた。
「そんなものが、ルナに取り憑いてたって言うのか? そんな非現実的なものが存在するとでも?」
「能力やら種やらなんてものがこれだけ出てきているっていうのに、今さら非現実的なんてないでしょう」
 さらりと返され、ギルは顔をしかめたが、それもそうだと思ったのか反論はしなかった。女性は続ける。
「死霊っていうのは確かにいるわ。それが人に取り憑くこともあり得る。生きた人に取り憑いてその人に呼びかけることもあれば、死体に取り憑いて、その体を動かすようになることだってあるのよ。今回はこの子に取り憑いた死霊が、この子を過剰に責め立てて、精神崩壊でも起こそうとしていたみたいね。誰かは知らないけど」
「……私は、わかるような気がします」
 花梨は力のない声で、ゆっくりと言った。日向紗香。今朝の夢、あれは恐らく取り憑いていた彼女が見せたものだったのだろう。自分が花梨を恨んでいると、暗に告げるために。そういえば、今の今まで気づきもしなかったけれど、頭の中に聞こえていた声は、確かに紗香のものによく似ていたのだ。花梨がうつむいたとき、アンがふと思い当たったように声を上げた。
「そういえば、あなたは何者なの?」
 花梨は再び顔を上げて、目の前の女性を見た。そういえば確かに、この女性については楓も何も言及していなかった。
 アンの問いに、楓はさらりとした口調で答えた。
「テロリストよ。このB−Aの仲間のね」
 それを聞いた瞬間、アンとギルのまとう雰囲気が一気に固いものになった。花梨も同様だ。顔を強張らせて警戒の視線を向けてくる三人に対し、女性は苦笑を浮かべた。
「大丈夫よ、私は何もしないわ。しようと思ったって、私の能力は攻撃能力じゃないから、あなたたちには勝てないわよ」
「一応、信用していいと思うわよ。これまで接してきた感じ、多分そんなに悪党ってわけじゃない気がするし」
 楓が気楽そうな声を上げる。それを聞いて、アンとギルは、どうしたものかというようにちらりと目を見合わせたが、花梨は少し迷ったあと、すっと緊張を解いた。楓をここまで連れてきてくれたり、花梨に取り憑いていた紗香を追い払ったりしてくれたことを考えると、確かに単なる悪人ではないような気がしたからだ。
 黙り込んだ皆の間を、ひゅうっという鋭い音を立てて、冷たい風が吹き抜けた。思わずといった様子で楓が身を竦める。
「……気がついたら、すっかり体が冷えちゃってる。そろそろ中に入らない?」
 体育館の方を見やりながら楓が言うと、とりあえずテロリストの女性はおいておく形で、ギルが胡乱気な視線を楓に送った。
「中に入るって、あんたもあそこに入るつもりか?」
「ええ。とりあえず今日は休みたいし、学校での樹のこと、もうちょっとこの子に聞いてみたいしね」
 花梨に目をやりながら、楓が言う。それから彼女は、テロリストの女性に向き合った。
「それじゃ、ここでお別れね。乗せてきてくれてありがと」
「……あなたは、この子に話を聞いて、それからどうするつもりなの?」
 女性の問いに、楓は笑った。明るいはずなのに、どこか凄みを帯びた笑みだった。
「どこか適当な死に場所を見つけて、死ぬつもり。もう私の体はとっくに死んでるんだから、生きることに未練なんてないし、樹を殺したこの男を殺したいっていうのもあるしね」
 その答えに、女性は楓を見つめたまま、何も言わなかった。
 声もなくそのやり取りを見ていた花梨だったが、やがて、ずっと黙り込んだままだった士の方に顔を向けた。それを受けて、彼もちらりと視線を向けてくる。
「稲玉君は? 一緒に体育館に来る?」
「遠慮する」
 即答が返ってきた。その顔にはどこか鬱陶しげな表情が浮かんでいた。
「近くに、一応崩れずに持ちこたえてたカプセルホテルがあって、俺はそこに宿を取ってるんだ。腹が減ってコンビニでもやってないかと出歩いてたときに、水附がこんなところにいるのを見つけたから、ちょっとここに来てみただけだ。そのあとも、能力者たちの話なんて今まで聞いたことなかったから、興味深くて立ち聞きしてたけど、別にあんたたちと一緒にいたいわけなんかじゃない」
 その言い草に花梨はわずかに眉をひそめたが、とりあえずもう一つ質問した。
「じゃあ、これからどこに行くつもりなの?」
「さあな。あんまり決めてないが……ここも危なくなってきたみたいだし、もっと北上するかな」
 面倒そうに答える士。しかし、そこで楓が首を傾げた。
「あ、でも確か、北へ向かう道は潰されたらしいわよ?」
「え?」
 テロリストの女性を除く全員が、驚いて彼女を見た。彼女は頷きながら続ける。
「電車や新幹線の線路とか、主要な道路とかが、一気に爆破されたんだって。車のラジオで言っていたわ。札幌とかの空港も破壊されて、一般道の小さなものぐらいでしか、北上する方法はなくなったわ。あなたは車もないし、北へ行くのは無理じゃない?」
「でも、どうして――それって、テロリストの仕業?」
 どちらに尋ねればいいのかよくわからず、花梨は楓と女性を交互に見ながら尋ねた。女性の方が、それに首を振る。
「テロリストじゃないわ。CCIのようよ。憑いていた女がそう話していた」
「CCI? なんでCCIがそんなことを?」
「恐らく、道路が爆破された地点より北に、能力者がいなくなったんじゃないかしら。他の能力者に殺されたのと、“狐狩り”で首都圏に引きずり出されてきたので。それで、首都圏の方の能力者がなるべく地方に逃げないようにしているのよ」
 あまりの内容に、花梨たちは呆然としたが、士は不満そうな声を上げた。
「何だよ、それ。じゃあ、また南の方に戻るしかないってことか」
「そうね。もっとも、どこに逃げてもいずれはCCIによって戦線に引きずり出されることになるでしょうけれど」
 涼しい顔で言う女性に、士は顔をしかめた。だが、何も言わず、そのまま体の向きを変えると、校門の方に向かって歩き出す。
「あ、稲玉君……」
 とっさに花梨は声をかけたが、彼は振り向くことも、足を止めることもなかった。小さくなっていくその後ろ姿を見ながら、ギルが軽く鼻を鳴らした。
「あいつって、早耶佳が気にしてた能力者だろ? 変わった奴だな」
 花梨はそれにどう反応したらよいかわからず、曖昧に頷いた。アンが、両手をこすり合わせながら体育館の方を見た。
「とりあえず、戻りましょう。本当に体が冷たくなっちゃった。……とりあえず、この人はここで放っておいても、害はなさそうだし」
 言いながら、テロリストの女性を一瞥する。そのまま踵を返し、体育館に向かうアンに、ギルと楓が続く。花梨も、ためらったあと、女性にちょっと頭を下げてから、彼らのあとを追っていった。
 女性は、F−Gは、花梨が離れていくのをじっと見つめてから、くるりと身をかえし、校門に向かって小走りで駆け出した。


 校門から外に出て、何歩か歩いたとき、不意に後ろから呼び止められた。
「ねえ、あなた、稲玉士、よね?」
 振り向いた士は、さっきのテロリストの女性が校門のところに立っているのを見た。
「そうですけど。なんで俺の下の名前知ってるんですか」
 先ほどの会話の中では、花梨は名字でしか呼んでいなかったはずだ。名前まで知っているのは妙だった。怪訝な声で尋ねる士に、女性は近づいてきた。
「テロリストの、穏健派の上層部が、あなたのこと気にしているみたいだったから。だから私もあなたのこと気になっていたんだけど、でも、見た感じ、特に変わったところはないわね」
 目の前まで来た女性は、じろじろと士の顔を覗き込んだ。
「あなた、変わった能力を持っていたりする?」
「さあ。そもそも変わっていない能力って何ですか」
 士は顔を離しながら、ぶっきらぼうに答える。それもそうね、と薄く笑う女性を、鬱陶しい気持ちで見た。
「俺に変わったところが見つからないなら、もう行っていいですか」
「……ええ……そうね。私では、よくわからないものね」
 女性が言い終わる前に、士は彼女に背を向けていた。明日からはどこへ行こうか、とりあえず東京に戻るしかないだろうか、などとぼんやり考えながら、街灯のついていない真っ暗な道を再び歩き出す。


 夜の闇の中に遠くなっていく士の後ろ姿を、F−Gはじっと見つめていた。角を曲がり、その姿が完全に見えなくなったところで、深く息を吸い、手をぎゅっと握り締める。
 また一つ、希望が断たれた。もうB−Aがいない今、もともとそれを成す意味はほとんどなくなってしまったけれど、それでも、諦めることはできなかった。これ以外に、自分に歩むべき道は残されていないのだから。唇を噛みしめたF−Gは、すっと体を翻し、自分の車の方に歩いていった。


(担当:白霧)


二ヶ月以上もかかってしまってすみません。でも実はこれは1パート(?)です。ここまで書いておけば黒木さんにあんまり迷惑かからないだろう!と思うところまでの構想を練ったところ、ものすごく長くなりそうなので分けました。
一応2、3パートまで考えてあります……が、あまりに長くなりそうだったら、2で切ることも考えるかも。
とりあえず、黒木さんにはもう少し先を待ってもらいたいです。すみません。なるべく早く続きを上げるように頑張ります。