暗闇の世界  すばる

 閉店時間の過ぎた九十九百貨店は、照明が落とされ、闇の中にあった。そんな九十九百貨店の中でも、この場所はひときわ暗い。窓のないこの場所には、月明かりすら届かず、世界は暗闇に包まれていた。漆黒の中に動くものの気配はなく、静寂が時を満たす。
 彼は闇の中でただ一人、じっと耐えていた。
 長い間誰にも買われなかった商品は、残り神となり、自我が生まれる。それが、残り神の始まりだ。誰かに買われるということは、残り神にとっては死を意味しているが、しかし多くの残り神はそれを望んでいる。もう誰にも買われなくていいからみんなと楽しく過ごしたいと考えるものもあるが、たいていの残り神は、どうやったら自分は買われるかと考え、議論したりしている。
 だけど、おそらくは誰もが知っていながら、あえて誰も口にしようとはしていないもうひとつの死の形がある。気づいているのに気づかないふりをしている。
 残り神の、誰かに買われるのとは対極にある、もうひとつの死。すなわち、廃棄処分。
 廃棄されるまでの時間は、商品によって異なる。長いものなら何年も、何十年も店に並び続けるものもあるが、早いものは本当に早い。そして彼は、残り神になった瞬間から、廃棄されることを運命づけられていた。ここは地下一階、食料品売り場。商品によっては一日未満で処分されてしまうこのフロアで、彼は孤独に存在していた。
 そもそも、彼自体生まれるはずではなかったのだ。とうの昔に廃棄される予定だったのが、何らかの手違いで一つだけ残されたのである。そのまま新しい商品にまぎれて存在する彼は、しかし他のものよりも圧倒的に賞味期限が短いので誰かに買われるはずがない。それが彼という存在であり、商品としての意味など、自我の生まれた瞬間から存在しない。
 彼の日常を言葉で表すのは簡単だ。何もない。一言で済む。地下フロアに彼以外の残り神が存在するのかはわからず、探しにいこうにも彼の上には大量の缶詰が重なっているためまったく動くことができない。いるかどうかわからないのなら、いないのと同じだ。
 昼はまだましだ。いろいろな客が来るし、見ていてあきないはずがないが何とか自分をごまかして無理やり退屈をしのぐ。だけど夜になると、孤独と退屈という鎖が彼をがんじがらめにし、何もないままに永遠とも思える長い夜を耐え忍ばなければならない。まるで何もない牢屋に幽閉されたかのような気分である。警備員は一時間ごとに見回りに来るし、年配のほうの警備員は商品をじっくりと眺めたりすることもあるが、だからなんだというのだ。結局何も起こらない。ただただ退屈な予定調和が繰り返されているだけである。
 残り神の間はテレパシーで会話することができるので物理的な距離はあまり関係ない場合もあるが、存在すら誰にも知られていない彼に話しかけようとするものなどいるはずがない。
 彼は暗闇に生きながら、階上で繰り広げられているであろう喧騒に思いをはせる。きっと多くの残り神が、思い思いに時を過ごしているに違いない。すでに売れ残りであるほかの残り神たちも、分類すれば負け組なのかもしれないが、それでも彼とは別世界の住人だ。その場所は、彼からしたらあまりにも遠く、眩しい。
 しかしあるとき、静寂の世界に変化が起きた。若い警備員が歩いていった後に、いくつかの残り神が、まるで尾行するようについてきたのである。
 それは彼が初めて見る残り神の姿だった。おかしなとりあわせの五の残り神たちは、見た目にもとても仲がよさそうだ。
 彼はその残り神たちに声をかけようとし、しかし途中で、思いとどまる。彼らは明らかに警備員に見つからないようにしている。見つかったらいろいろとまずいことになるだろうから当たり前だが、もし彼がここで声をかけたりしたら、警備員に見つかってしまうかもしれない。残り神同士の会話を人間が聞くことはできないが、突然誰かに声をかけられれば向こうは驚いて何らかの音を発してしまう可能性がある。それでもし警備員に見つかってしまったら、とても大変なことになってしまう。
 そんなことを考えているうちに警備員は階段を上っていき、残り神たちも何やらやり取りをした後姿を消した。
 それを見送り、彼はため息を吐く。まただめだった。これは大きなチャンスだったと思ったのに。彼は、自分のふがいなさに自己嫌悪に陥る。そう、たとえこのフロアに他の残り神がいなくても、彼がまったく動けなくとも、彼には他の残り神とコミュニケーションをとることができる。テレパシーなら、たとえ相手が見えなくても意思疎通を測ることができるのだ。彼の存在を知るものがいないのだから彼に話しかけようとするものはまったくいないが、彼のほうから誰かに話しかけることだってできるのである。それをしないのは、ひとえに彼に勇気がないから。自分の存在にまったく自信の持てない彼は、かなりの臆病者だった。闇の中、孤独に耐えながら、彼は何度もそれを試みようとし、しかしいまだかなわずにいる。何度も実行しようとしながら、最後の一歩が踏み出せない。
 恐いのだ。拒絶されるのが。他の残り神にもそれぞれにグループがあり、彼は余所者だ。そして何より、彼は異端である。本来なら存在しないはずの残り神。おそらくは皆が、誰もいないと思っているであろう地下一階にいて、しかもすでに売られていてはいけない存在だ。あらゆる意味で、他の残り神とは違っている。そんな異端である彼を、他の残り神が受け入れてくれるとは限らない。
 しばらくすると、また先ほどの残り神たちが姿を現した。今度は、警備員を尾行しているわけではなさそうだ。遠目なのでよくわからないが、階段の前で何かをしているらしい。
 今度こそはと思う。今なら警備員に見つかる心配はない。彼らも堂々と動いているし、声をかけても大丈夫なはずだ。
 だけど。
 果たして彼らは、それを受け入れてくれるだろうか。
 そもそも、彼らは何らかの目的があって行動しているのだ。それが何なのかはわからないが、そのために危険を犯して警備員にまで接近したりしている。おそらく、お互いに強い信頼関係を持っているに違いない。そこに、何も知らず、まったく面識もないものが堂々と割り込んでいって、快く思われるはずがないだろう。結束が強いということは、それだけで排他的要素を含んでいる。
 やっぱりやめよう。そう思った。彼らは、彼にとってあまりに眩しすぎる。ほどなくして残り神たちは姿を消し、暗闇の中、彼はまたひとり取り残される。
 彼は気づかない。いや、気づかないようにしている。
 彼はすでに、心の底から誰かに話しかけようなどとは考えていない。それでいて臆病者と自分を責めるのは、今日こそはと張り切るふりをしつつ、結局できないのは勇気がないからだと言い訳するためだ。彼はすでに変わることをあきらめ、それでいて、そのことから目を逸らし続けている。そのほうが楽だから。何かを変えようとするには、大きなエネルギーが要る。だから、たとえその場所に不満があろうとも、その場に留まり続けてしまう。
 結局のところ、彼はすべてをあきらめてしまっていた。孤独になれ、退屈になれ、もうこのままでいいと心のどこかで満足し、変わるきっかけを手放していた。
 彼は一人、取り残される。すでにそこが、彼の居場所だ。
 暗闇の中、彼はただただ自愛の涙を流して夜を忍ぶ。