リカラス その6


 俺には信じるものがない。
 蜂の巣城は存在しない。


 だから、俺はミロクからかかってきた電話を迷うことなく切った。これ以上誰かと会話する気になれなかった。
 もう。
 醒めた。
 俺はリカラスの入ったカバンを今度は奪われないよう、しっかりと肩にかけて、その場から離れることにした。チバに背を向けて歩き出す。後ろでチバが頓狂な声をあげた。見えないが、どうやら電話相手に謝りながら、俺の方へかけてくる。
「おい、どこに行く気だよ?」
「腹減った」
「理由になってねぇよ!」
 チバは俺の方を強引に引っ張り、正面を向かせる。ちっこい身体にすっごいパワー。俺は、電池のキャッチフレーズみたい、と考えながらチバを見た。
「いまからミホを助ける。そのためにはリカラスという交換条件が必要だ。お前は動くな」
「知らん。だから、そういうの、もう面倒なんだよ」
「こんな重大な時に我儘言うなよ」
「我儘はどっちだよ、クソチビ」俺はチバを見下しながら口にした。「今更でてきて、べらべら説明してさ……その割には肝心なことが不明ってなんだよ……お前の正体もミホの正体も門脇の正体も分からねぇんだよ。なんも証拠のないことペラペラ語って、馬鹿じゃねぇの?」
「いいから従え!」
「俺をなんだと思ってやがるんだ! 朝全部、事情を告げれば良かったじゃねぇか! 通信が傍受されようが教えればいいじゃねぇか! そして、その前日にで、もリカラスを預かった日にでも言えばいいんだ! 不愉快なんだよ! 誰もが上から目線でぐだぐだ説明しまくりやがって! 俺はお前らの都合に流されるだけじゃねぇんだよ」
「だから、こっちにだって事情が……分かった、実はな、」
「あぁ、そういうのいいから。飽きた」
 俺はそう告げると街に向かって走り出した。後ろからチバが追ってくるが、足の長さには差があり、彼にもミホという都合があるようだ。すぐに諦めたのか、もう足音が聞こえてくることはなかった。
 あーぁ、腹減った。
 
 ・・・
 
 唐突だが、「蜂の巣城」を知っているだろうか?
 なんだか、もう燃え尽きたと思っていた中二病を呼び覚ましてくれる響きだが、これは確かに実在した。
 場所は筑後の小国町。築城は1957年。敵の猛攻にも負けず、第一、第二、第三と次々と城を建てていったが、1970年に完全に落城した。13年間も闘い続けたってわけだ。闘いの目玉は、津江川水中乱闘! 現代の川中島の闘いだって全国中が騒いだらしい。ぜひ戦争跡に行ってみたいだって? それは無理だ。もう湖の底だからね。その湖は、闘いを称えて「蜂の巣湖」なんて呼ばれている。
 もうオチは分かっただろう? 蜂の巣城とは、ダム建設に対して、水没下にある町の住民が作った反対運動の拠点なのだ。彼らは工事を徹底的に邪魔しようと、見張り小屋だの泊まり込み小屋を作ったのだ。
「いったい、なんで13年間も闘ったんですか? 1953年の筑後川の氾濫によって、下流部の人間は147人も死んでいる」
 それはまだ大学に通っていた頃の講義であった。蜂の巣城紛争の経緯を教授が説明し終えると、最前列の奴が口にした。俺は最後列でぼんやりと聞いていただが、なぜだか印象に残っていた。
「いろいろ理由は考えられますが……彼らの主要産業が林業だったからだと私は考えます」
林業だからなんです?」
林業は個人じゃできません。町全体で山を管理する。そのため結束が強かった。そして、なにより江戸時代から山と生きていましたからね。農地解放でも山は没収されることなく、彼らが受け継いだ。彼らの町民に対する結束と、山に対する敬意を建設局の人間は理解できなかったに違いない」
 俺はその説明を聞きながらも、「下流部の人間が危険に晒されているのに、バカじゃねぇの?」と思う一方で、「きっと俺には理解できないんだろうな」という諦念とも尊敬とも分からない感想を持っていた。
 自分を信じるもののために闘う。
 まるで宗教みたいだ。
 そして、俺にはないものだ。
 きっと俺はアイツらを理解できることはない。
 
 ・・・
 
 というわけで、俺はレンタルサイクルで自転車を借りると河原に行った。実は逃げる時には自転車ほど適しているものはない。ママチャリだって本気で漕げば時速30キロは超えるし、細い路地裏も行けるし、かつげるから階段も下れる。車で追われたら? そんなの簡単。車の向きと逆に走る。不審者とでくわした時は覚えておくといいよ。必死に漕いでも追いつかれるだけだ。
 そして、俺は河原でスローイングをした。
 サッカーのあれだ。
 俺の背筋をフルパワーで活かして、頭の後ろにやった腕をぶんと振る。宙に浮かんだ奴は、
 
 にゃーん
  
 と声をあげて芝生に落ちていった。
 
 ほら、やっぱりペット連れて飲食店ってどうかと思うわけよ。
 ばいばいちー。

 ・・・

 俺はそこで再び自転車を漕ぎ進めて、街に戻り、たまたま見かけた蕎麦チェーン店に入ることにした。なんだか無性に腹が減ったのである。かといって今後のことも考えて贅沢も出来ないとき、牛丼屋か蕎麦屋の二択しかない。
 俺が注文するのはコロッケそば。これが一番うまい。
 もう四時ごろということもあって、店にはほとんど人がいなかった。
 そこで俺は今後をどうするのかを考える。でてくる答えはとりあえず実家に戻るか、警察に行くかだ。事情の説明が面倒だし信じてもらえるか分からないから、避けていたが、もっと面倒な事態なのだから仕方がない。
 一体どう親や警察に説明したものか、リカラスを手放したのは軽率だったかと思案していると、俺の隣に誰かが座った、こんな空いている店内で、俺に座るとは何者だと嫌な予感がして、顔を向けるとそこには見慣れた男がいた。
 ミロクである。
「なんだ……お前かよ。驚かせやがって」
「なんで場所が分かったかは聞かないだね……」
「どうせ『見張っていたー』『発信機がぁ』『知らせが入ったぁ』とか言うんだろ? くだらねぇ。蕎麦くらいゆっくり食わせろ」
 俺はミロクがどういう立ち位置でいるのかは知らない。もしかしたら普通のホストなのかもしれない。が、怪しげなミホを俺らの仲間に引き入れたのはミロクである以上、疑うのは自然だろう。
 ミロクが持ってきたお盆には店舗限定メニューのカレーかつ丼が載っている。センス悪っ。
「お前はミホを助けにいかなくてもいいのか? なんかチバが忙しそうだぞ」
「うーん。まぁ、ボクはボクで……」
「あー、やっぱいいわ。黙って」
 きっと語ってもらえば、こいつはこいつで偉そうに言葉を述べるだろう。自分がいかなる立場にいて、俺をいかに扱いたいのか、飲みこみの悪い生徒に教える教師のように、説明を並べて、さぁどうだと言わんばかりに提示するだろう。
 けれど、どんなに言葉を並べても信用なんてできやしないのだ。
 隠し事をし、へらへらと笑い、俺が掌の上で踊るのかを解説する人間を誰が信じられる?
 信じる者が信者がならば、それは宗教なのだ。
「ボクはね、ホストをやると同時に裏社会の……」
 俺が遮ったのが耳に入らなかったのか、ミロクは語りだす。時折どんぶりに匙を入れながらしゃべり続ける。
「カズトやチバたちの監視? とでも言えばいいのな? ボクは門脇とチバとも違う第三の……」
 うわぁまた新しい設定がでてきやがった。もうついていけねぇ。
 俺は汁の浸水によって崩れてきたコロッケをサルベージしながら、ミロクの話を聞き流す。
「実はな、リカラスは危険な存在なんだ……コンペイトウ爆弾って言う……」
 あぁはいはい、また俺の知らない事象や現象をドヤ顔解説するのね。どうぞどうぞ。
 俺はコロッケの油が良い具合に混じった汁を飲み干して、席を立った。ごちそうさま。箸を置いて、お盆を返却口に持っていく。
「チバも門脇も重大な事実を隠していてね……それはなんと現代日本社会の裏に潜む新興宗教はね」
 ミロクは隣に誰もいないカウンター席で心地よさそうに話を続けていた。俺はそんなアイツを「可哀想に」と呟き、そして、同時に「でも。やっぱり死ね」とだけ吐き出して蕎麦屋から出た。
 おそらくミロクは俺を見ていない。
 
 ・・・
 
 ふたたび自転車を漕いで俺は街を滑るように移動していく。進めば進むほど、すれ違った人間の数は増えていく。ガソリンスタンドの店員、派手なTシャツ来た外国人、スカートの短い女子高生、子供と手を繋いで親子、信号待ちする老夫婦、大量の缶を集めて移動するホームレス、乗用車やトラックなんかは百を超えたところで数えるのをやめた。
 歴史上類を見ないほど人口集積地において、誰もが無関係に暮らしていく。
 友人と生きながらも、俺はアイツらの裏の顔なんか知らないし、誕生日さえ聞いたことがない。中学時代がどんなだったかなんて話のタネにも上りやしない。
 町民が結束して蜂の巣城なんか作らない。
 みんな各々宗教を崇拝しながら生きて死ぬ。
 
 喉が渇いたからコンビニに戻ると、留守電が数十件もあった。
 
 ミホから。
「助けて、カズト! 黒烏の連中が追い込まれて、そうとうヤバイ手段をとってきた! お願い、ミロクの言うことを信用しないで。あいつは裏切り者よ!」
 お前が何者かも知らんのに、信用できるか。
 
 門脇から。
「随分と無駄なことをしているようだね、カズトくん。あまり暴力は好きじゃないんだ。キミは余計なことをするべきじゃない」
 お前はストーカーか、俺のファンか。うるさい。
 
 チバから。
「ちょっとまずいことになった。門脇たちは本気だ。すぐに例の自販機前に来い。いいか? リカラスは麻薬なんだ。お前に扱えるもんじゃない」
 あの猫ならさっき河原に捨ててきた。
 
 ミロクから。
「そもそも日本は麻薬に対する認識がいまだ甘いんだ。国を揺るがす大事件や、麻薬の愛好家率もさほど多くはない。チバ達はそれにつけ込んで若者間に大量のジャンキーを創り出す。俺はそれを防ぐ」
 うわぁ……また新しい設定出している。
 
 それぞれが好きなことを自由に信じて語る混沌な状況だ。
 ではでは、皆様。俺が尋ねたいことは一つなのです。ご清聴あれ。
 
 で、それが俺の人生とどう関係あるわけ?
 
 ・・・
 
 すべてが無関係だ。
 俺は街を移動しながら、そんなことを考えていた。自転車で走っている限りはとりとめもないことばかりに専念していればよく、リカラスだとか麻薬だとか横に置くことができた。
 いつから俺はこんな人間になったのだろう?
 何も信じず、全てが無関係になったのはいつだ?
 
 
 これは偶然だ。自問自答を繰り返しながら、俺は自転車を漕くと、
「……」
 俺の通っていた大学に辿り着いた。