「なぜこんな挑戦を?」4

 変わり果てたダイニングに足を踏み入れた和志は呆然と立ち尽くした。両親の姿は無い。共働きの二人が外出済みなのはいつものことだったが、別の明らかな異変が彼の目の前に現れていた。
 ――なんで、こんなに埃が。
 ダイニングと、隣のリビングまでが一面埃まみれになっていた。二人が外出してからこうなったのだろう、朝食にかけられたラップの上にも年季の入った埃が積もっている。
 掃除しなきゃ、なんてふいに考えてしまう自分を引っぺがして捨てた。そんなこと言っている場合じゃない。これはどう見ても異常事態だ。眠ると異世界に行ってしまう人間がそんなこと言っても、と和志も思ったが、今回は自分の問題ではなく世界の問題だった。
異世界――」
 こちらもやはり埃まみれだった台所で、和志の目を引くものがあった。味噌汁。いつものように、母が帰宅してから洗われる予定の食器がシンクに積み上げられている。その中で父親のお椀にうっすらと残された味噌汁に、綿埃が一つ浮かんでいた。
「僕が消した埃だ……」
 否、消したのではない。おそらく転送させたのだ。
 あちらの世界からこちらの世界へ?
 だとすればさっきの評価はひっくり返る。これまでの魔法と比べると規模がかなり大きい。本に何か変化があったのだろうか、あるいは自分の側に何かが。昨日のことを思い出していた。心当たりがないわけではない。一度、あちらの世界の二人に相談した方が良さそうだと和志は思った。
 両親が不審に思わないよう埃を片付け、手早く着替えを済ませて家を出た。埃っぽい部屋で食事をしようという気にもなれず、おかげでまだ時間が早かった。一限が始まる前に図書室へ行けば、放課後はチャイムと同時に帰ってくることが出来るだろう。すぐにあちらに行ければいち早く疑問は解決するし、それに。
 ――彼女にも、会わなくて済む。
 

 
 立花文は――やはり図書室にはいなかった。また、と言って良いのか、今回は朝だから当たり前と捉えれば良いのか和志には分からない。安心した、そのはずなのだが、なぜか微妙な心境が彼の中で渦巻いていた。
 朝の図書室は新鮮だった。いつもは西日がさしている。気のせいかもしれないが本の匂いも少し違うような気がした。グラウンドの方を窓から見下ろすと、野球部だろうか、朝練に精を出す生徒たちがランニングを終えたところだった。
「早くここから逃げた方が良いですよ」
「――っ!」
 心臓が止まりそうになりながら和志が振り返ると、そこには昨日と同じような不定形の人影が立っていた。昨日の一と声は同じだと冷や汗を感じながら理解する。相変わらず文字通り掴みどころのない風貌だが、うっすらと一の雰囲気のようなものが漂っている。
「早くここから逃げてください」
「逃げるって、どこに? 何で?」
 正直言って、今すぐにでも和志は逃げ出したくてしょうがなかった。得体の知れない、突然現われてはふいに消えるようなやつと、のんびり過ごしたいわけがない。ではなぜ、どこになぜ逃げるのか、などと聞いたのか。実際のところその問いは焦りと、一に似た存在の不安そうな表情がさせたものだった。
「とにかくこの部屋から逃げて! 図書室の外から、異様な高エネルギー反応が近づいてるんです。こちらからでは外の様子はまだモニター出来ないけど、和志君が接触するのは多分、危険です」
 わけが分からなかった。ただ和志にも理解出来たのは、どうやら一の方も、彼女が話していることの全てを把握してはいないということ。それから、鬼気迫る声は演技ではなさそうだということ。汗がこめかみの辺りを落ちていった。なぜ僕なんだ。異世界と関係はあるのか。捕まったら僕は何をされる?
「じゃあ一緒に逃げてよ。異世界のことも知ってるんでしょ。逃げ切れたら全部、洗いざらい話してほしい」
「それは……出来ないです、ごめんなさい」
「どうして!?」
「これは、そちらの世界の言葉で言えばホログラムのようなものなんです。今のところ、図書室の全体が投影範囲の限界なので、一緒に外へは出られません」
「そんな……」
「それに、和志君が異世界と呼ぶ世界については何もお答え出来ません。機密事項、としか今は言いようがないです」
 その言葉を聞いて和志の考えは固まった。やはり一のことは安易に信用しない方が良さそうだ。彼女の言う通りここからは逃げる、しかしそれは今朝から続く異常事態への安全策でしかないのだ。アンフェアな情報操作をする人間なんて、信用出来るはずもない。
 すると一はそんな和志の心を読み取ったかのように、悲しそうな顔をして言った。
「ごめんなさい。とにかく今は、和志君の身を安全な場所に――」
 
「残念。逃げるにはもう遅い」
 入ってきた扉の方から、聞いたことのない声、これまで聞いたどの声よりもズシリと重く低い声が聞こえてきた。窓際で話していた二人は同時に振り返って、同時に異なった表情を浮かべる。一の顔はひどく青ざめていた。一方和志の方はというと、再び疑問の波が彼の頭を駆け巡っているように見えた。
「立花さん……」
 立花文。和志の通う高校で、唯一真面目に仕事をこなす図書委員。和志にとっては、まともに話したことさえないのに、好意を漂わせて近づいてくる謎の存在。
 しかし彼女の謎は、今まさに和志の目の前で更新されつつあった。さっきの声は廊下に響いていない、つまりあの声の主は彼女に他ならないということ。そして和志と一を見据えるその目には、どう見ても生気が宿っていない。
「こちらの人間を操っていたのですか……迂闊でした」
「あぁ、お前たちはいつもそうだ。迂闊にすぐ行動して、すぐに後悔する」
 やはり聞き間違えてはいなかった。人外の声は立花文の口から発せられている。部屋の温度が二、三度下がった気がした。彼女――いや、立花文の風体をしたその男と同じ部屋にいるのは危険だと和志は直感した。
 脇腹の辺りに感触があり目線だけ下げると、一が男からは見えない位置で服を軽く引っ張っていた。わたしが気を引くから逃げろ。そう伝えようとしていることはすぐに分かった。しかし化け物じみたものを目の前にした恐怖のせいか、全く足が動かなかった。
「でも迂闊なのはそちらも同じなんじゃないですか? わたしたちが現れる前に和志君は確保しておくべきでしたね」
「お前たちの存在など恐るるに足らん。要はタイミングだ」
 まぁ、想定していたより少しそのタイミングは早かったわけだが、と男は付け加えた。男はもう興味は無くなったという様子で一から目線を外すと、今度は和志を空虚な瞳で捉えた。
「一緒に来てもらう」
「……立花さんは大丈夫なのか? それとも、最初から立花さんはお前だったのか?」
「世界を越えてしまう謎と、どちらが知りたい?」
「なっ……!」
「あいつらは教えてくれなかっただろう。わたしなら答えられる。全て元に戻すことも、わたしなら」
 こいつもか。こいつも自分が知らない世界のことをいとも簡単に口にしてみせる。「わたしなら答えられる」という言葉に対する動揺と共に、何も知らないちっぽけな自分を見せつけられたようで、和志は苛立ちも隠せなかった。
 視界の隅で、一が首を横に振っているのが見えた。和志にもそれは分かっていた。この男に関わったらきっと恐ろしいことが世界と自分に起こる。
 だからこれからどうしていくべきか、その判断は別に難しくなかった。ここに来た時と何も変わらない。至ってシンプルな答えだ。ただ問題は、今この瞬間に自分はどうすれば良いのか、そこを片付けなければそもそも次に進めない。
「……一旦休戦、っていうのはアリか? 向こうの世界に頼りたい人がいる」
「アリならこんな極限状態など最初からつくらない。タイミングが重要だと言っただろう」
 だろうな、と和志はうなだれる素振りを見せた。無論落ち込んでなどいない。そんなことは元からおりこみ済みだった。本当の目的は周囲の様子をじっくり観察すること。反対側の扉、窓、天井。選択肢が次々に消去されていく中で、和志の脳裏を様々な情報や感情が通り過ぎて行った。
「さて、そろそろおしゃべりにも飽きた。後は力ずくでも何でも良いから止めてみろ。まぁ、出来ればの話だが」
 一が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
 ……やってみるしかない、か。
「――っ!」
 男の注意がまた一瞬、一に向けられたことを確認した和志は、駆け出して近くの棚から本を一冊素早く取り出した。一は驚いた様子だったが男は微動だにしないし表情も変わらない。これも想定内なのか。男にしっかり視点を合わせたまま和志は汗を拭った。
「なるほど考えたな……とでも言うと思ったか? やめておけ。適当に読んでも向こうへは行けない。それくらいはお前でも分かるはずだ」
「急に饒舌になったな。と、いうことは、捕まえたいのは身体ではなく精神の方ということ」
「……驚いた。馬鹿ではないらしい」
「あっさり認めるんだな」
「だから言っただろう、わたしはあいつらとは違う。隠し事はしないし嘘もつかない」
 どうやら賭けは成功したらしい。和志の口角に笑みが浮かんだ。
 もう一息だ。
「まぁ当たらずとも遠からずと言ったところだ。しかしどうする。繰り返しになるが、適当にそれを読んでも向こうへは――」
「それはどうかな」
「なに?」
 次の瞬間、本を開いた和志はものすごい勢いでページをめくり始めた。男は目を細める。こいつは何を考えている? 持っている本が薄いことは確かだ。だがこの切迫した状況で読み終えてしまえるような代物ではない。やはり馬鹿だったか。それとも気が触れたか。
「――っ!? 和志君、ダメです! 今あちらの世界に行くのは危険すぎますっ!」
 一が必死の形相で和志に向かって叫んだ。男は動かないまま、しかし初めて眉間に皺を寄せる。想定外の事が起きようとしているのか? それは困る。わたしの計画は完璧でなければならない。
「和志君!」
「何も本は小説ばかりじゃあない」
 最後のページに手を掛けた和志は顔を上げた。勝った、とでも言いたげな顔だった。
「今度はお前が後悔しろ、クソったれ!」
 最後のページを読み終え本を閉じた和志は、ふらふらとおぼつかない足取りでその場に倒れこんだ。男と一の視線の先で和志は、既に寝息を立てていた。
 
「……認めよう。これは想定外だ」
 男は和志に歩み寄り、彼の顔を覗きこんで「ふん」と一睨みした。足元には開いた絵本。最後のページで狼が木に水をやっていた。
 男はくるりと方向を変えると、入ってきた扉の方に進んでいく。
「待ってください。なぜ身体を確保しておかないんですか? それなら彼が戻ってきた時、捕える手間が省けるのに」
「見ろ。もう始業時間だ。この女の身体を使って連れ出せば人目に付いて面倒なことになる。それに」
 男は――立花文の身体を操る男は頭を掻いて続ける。
「それに、完璧だったはずのシナリオ修正に問題が生じた。今日は不愉快だ」
 こちらはどうでも良い。今の状態であちらに行かれたのがマズいのだ。独り言を呟く頃には、彼は既にその世界から姿を消していた。