リカラス その五

 まったく同じものを見ても、人によってその見え方が違う、ということはある。例えば錯視。一つの絵を見ても、あるものはそれを老人と呼び、あるものは少女と呼ぶ。錯視は色の認識を変えることも可能だ。周囲の配色や影を利用することによって、同じはずの色を違うものに見せる。
 しかし、錯視とは、そうなるように緻密に計算されて成り立つものだ。薄汚い街の片隅でお目にかかれるものではない。
 ならば、錯視以外でものの見え方が変わることはないのだろうか。それもまた存在する。すなわち、幻覚。脳の異常により、本来そこにはないものが見えてしまうという、ある種の異常状態。
 まさか、俺は狂っているのか? にわかに湧き上がってきた不安に、俺はかぶりを振る。「門脇」は本当にいたし、西田だって殺されている。現実逃避だ。
 俺は再び、リカラスの入ったカバンをはさむ形で口論する男女に視線を向ける。二人は、俺にはどうやっても真っ白にしか見えないリカラスをただの野良猫っぽいとすることでは一致、しかしどう処置をするかについてで言い争っていた。男のほうは、リカラスを捨てて俺を捕まえようと提案、女のほうは、とりあえず門脇に連絡して指示を仰ごうと主張している。
 はたしてどっちのほうが、俺にとっていいだろうか? 男は俺を捕まえようとしている。捕まえたとしてその後どうなるかは、想像に難くない。だが、狙ってくるのが当面はあの二人だけならまだ何とかなるかもしれない。女が言うように門脇に連絡をされたら、はたして何人に追われることになるか。
 どうする? 俺は自問する。これ以上関わりあいにならないで済むならそれが一番なのだが、どうやらそれは無理そうである。今のうちに襲い掛かって不意打ちで二人をやっつけるか、このまま彼らの様子を窺うか、とにかくこの場から逃げ出すか。あまり時間があるとはいえない。あの二人が今後どうするかを決める前に考えないと。
 しかし、俺がいかなる決断を下すことも、二人がいかなる結論に達することもなかった。見えたのは、路地の奥、彼らの向こう側からやってくる人影。手を後ろで組み、堂々と歩いてくる。背は俺よりかなり小さいが、男か女かもわからない。何しろそいつは、フルフェイスのヘルメットで顔を隠していたのだから。
その存在に、二人組も気づいた。
「誰だてめえ」
 頭の悪そうな声で、男のほうが恫喝する。ヘルメットが手元を隠しているのが見えないのか。至近距離から威圧的に見下す男の頭に、ヘルメットは伸縮警棒を振り下ろした。鈍い音に男がうずくまる。だがヘルメットの攻撃は止まない。後頭部。重大な後遺症を引き起こす恐れがあるとして、あらゆる格闘技で攻撃が禁止されている箇所に、ヘルメットはためらいなく警棒を打ち込んだ。
 ヘルメットは逃げようとする女にも一撃入れて昏倒させると、地面に置かれたカバンを乱雑に持ち上げる。中でリカラスが抗議するように鳴き声をあげたが、当然のようにそれを無視し、スタスタと俺のほうに近づいてくる。目線は見えないが、それは間違いなく俺のほうを向いていた。
 明らかに、やばい。二人組の見るからにど素人なのとは次元を異にする、手馴れた動作。逃げないと。そう頭ではわかっているのだが、脚が動かなかった。恥も外聞も捨てて叫ぼうとしたが、まともに声がでない。ちくしょう。
 どうしようもできない俺に、ヘルメットはすぐ傍まで近づく。そして、俺にカバンを差し出した。
「ふぇっ」
 拍子抜けして変な音がでた。そんな俺に、ヘルメットが一言。
「入らないほうがいい。屋外といっても空気が滞ればガスは溜まるからね」
 なんだか親切な言葉を口にして、そいつはヘルメットを脱ぐ。その下にあったのは、年齢不詳の童顔。BMW日本海に行っているはずのそいつは、伸縮警棒を懐にしまい、人の悪い笑みを浮かべると、俺の脇を過ぎて商店街の人波にまぎれる。
 なんだかよくわからない。とりあえずチバのあとを追うと、およそ十秒後にさっきまでいたところで悲鳴が上がった。
エシュロンを知ってるかい?」
 人ごみの間をするすると抜けて行くチバにようやく追いつき、最初の質問を投げた俺に対する回答がこれだ。考えることは一秒未満で放棄した。
「知らん。俺はなんでここにおまえがいるのかって聞いたんだ」
「カズトのせいだよ。あのとき君が素直に乗ってくれれば、そのまま山脈の向こうまで逃避行できたってのに。カズトは部屋に駆け込むし、面倒なやつにナンパされるしで、大変だったんだから」
 ナンパという浮ついた単語に一瞬腹が立ったが、すぐにそれが言葉通りの意味ではないと考え直す。どっかのやばいやつである門脇が、あのときあのまま俺を放置していたはずがない。昨日門脇が帰った直後から、すでに見張られていたのだろう。
「でもミホが、日本海に向かう途中に通信してきたぞ」
ペンタゴンのシステムに高校生が侵入したのは、何年前のことだったっけ」
 またしても妙な問いかけ。だけど今回は、俺が何か言うより早く言葉を続けた。
「カズトの携帯はたぶん傍受されてる。携帯は電波を飛ばしてるから、本体に盗聴器をつけることすらなく通信を盗み聞きすることができるんだ」
 チバの言葉の意味を理解するまでに、少しかかった。
「つまり……あの連絡は連中に聞かせるためのブラフ……?」
「そーゆーこと」
「ミホもぐるかよ」
「ノリノリだったよ」
 ノリノリかよ。
「後ろのほうで門脇がどうとか言ってたのも、わざとだったってわけか」
「うん。それを傍受してる人間が聞いたら、面白いことになるんじゃないかなって思って。まあ、ちょっとした遊び心だよ」
 チバはそう言って邪悪な笑みを浮かべる。俺の心配を返せ。
「で、いい加減カズトを混乱させとくのも悪い気がしたから、こうして出てきたってわけ。なんかピンチそうだったし。秘密の話をするなら、直接会うのが一番だからね」
 チバの言葉を聞いて、俺はハッとする。周囲に視線を巡らす。だけど人が多くては尾行なんてわかるわけがない。なんたって俺は素人なのだから。ファーストフード店で門脇は、俺を見張っているみたいなことを言っていた。だけどあの店の中に、さっきの二人はいなかったはずだ。つまり、今もまだ見張られているのではないか。
「心配しなくても、ひと月はまともに歩けないから大丈夫」
 別の意味で不安になった。
「チバ……おまえいったい、なにものなんだ?」
 それは、チバが俺の目の前に現れてきたときから、ずっと疑問に思っていたことだ。こいつはいったい、なにものなのか。
なんでも屋、かな」
 それがチバの答え。はたしてなんでもとは、どの程度なんでもなのだろうか。
「ってことは、今おまえが俺の目の前にいるのも、誰かの依頼ってことか……」
「あ、言っとくけど、最初にカズトと知り合ったのは仕事と関係ないからね。つまりは偶然さ」
 逆に言えば、今は何らかの仕事に関係している、ということだ。
「どんな仕事だよ。誰の依頼だ?」
 思い浮かんだのは、西田だ。あいつが俺を守るためにチバに依頼した。あの殺された元同級生以外に、俺を助けようとする人間なんて思いつかない。もちろんミロクは別としてだが、チバが俺を日本海に誘ったのは俺がミロクに助力を求める前である。
「依頼内容については話せない。そういう契約だからね。だけどこれは教えておいてあげる。今回の仕事の報酬、ゼロが七つつくよ」
 それは、到底西田には用意できないであろう金額だ。少なくともまっとうな方法では。だとしたら、依頼主は別にいるということだろうか? しかし、思い当たる節がまったくない。首を振った。ギブアップ。間違いなく、そいつは俺ではなくリカラスの関係者。俺の知らない人物の可能性が高い。だとしたら考えるだけ無駄である。それよりも、今はチバから可能な限りの情報を引き出すべきだろう。俺は再び、チバの顔を見た。
「だったらさ、リカラスについては何かわかることないの?」
 俺は肩に掛けたカバンの中に視線を落とした。事件の発端となった白猫は、今はまたすやすやと眠っている。
「それのこと?」
 カバンに視線を向けるチバに、俺は頷いた。
「まあ、少しくらいなら話してもいいかな」
 チバの言葉に、俺は安堵する。それもまったくの秘密とか言われたら、結局俺は何もわからないままということになってしまう。いろいろときな臭いことになっているどころかすでに人も死んでいるこの状況で、何の情報もないのは不安以上に危険だ。
 人の多い通りを抜けると、チバはすぐにタバコをくわえた。紫煙を一度吐き出してから、言葉を紡ぐ。
「ヘロインが何からできているか知ってるかい?」
 だがチバの口からもたらされたのは、そんな質問。よくわからずにいぶかしむが、ここはチバのペースに従うべきだ、と判断する。
「アヘンだっけ」
 戦争の名前だ。
「うん。つまりケシの果実だよ。植物には、幻覚作用のあるものがある。ベラドンナやチョウセンアサガオに含まれるアトロピンとかね。同じように、それの吐く息には人に幻覚を見せる作用があるらしい。普段の息にはそんな特性はないみたいだけど、強いストレスを感じると呼気が変質するようだ。一種の自衛能力かな」
「そんな話、聞いたことないぞ……」
「そりゃあ、公にはされていないからね。だけど例の宗教団体は、この特異体質を利用して信徒を集めていたみたい。予言っていうのも、あるいは関係してるのかも。まあ普通に考えたらただの嘘っぱちだろうけど」
 嘘っぱち。確かにそれもありえない話じゃない。だがすでに神獣と祀り上げられ、多くの信仰を集めている以上、宗教団体にとってのリカラスの重要性はかわらない。たとえ特殊な能力がなくても、リカラスはすでに信仰対象なのだ。
 俺がそんなことを考えている間も、チバはさらに話を続ける。
「どうやら連中は、そのことを知っていて、利用しようとしているみたい」
「連中?」
「門脇たち」
 チバの口から出された言葉に、俺は息を呑む。予想できない答えではなかった。むしろもっともありえそうな名前だ。だが、チバが俺を追っているあの謎の男の正体を知っている、という事実に、俺は驚いてしまった。
「やつらは、それを使って金儲けをしようとしている」
「金儲け? リカラスを利用してまた別の宗教でも始めようってことか?」
 俺が聞くと、チバは首を振った。横に。
「言ったでしょ? それの吐く息には幻覚作用があるって。人に幻覚を見せるような成分だ。脳に何の影響も与えないはずがないだろうけど、それは未知の物質。当然規制もなにもされていない」
「麻薬?」
 ふと浮かんだ単語を口にすると、チバは小さく頷いた。
「危険ドラッグと言ったほうがいいかもね。まあ、似たようなもんだけど。しかも、それが世に出回ったとしても、すぐには規制もできない。何しろ既製品の成分をちょろっと変えたのとはわけが違う。完全に新しいルーツのクスリだ。存在を認知しても、成分を調べて有害性を検証してってなると、結構な時間がかかるだろうね。儲けは十分に出ると思うよ。まあ本当にクスリとして利用できるかどうかは、実際に調べてみないとわからないだろうけど」
 チバの言葉に、俺は再び息を呑む。チバの話が本当で、もしリカラスから新しい薬物ができたら、それで動く金はチバのギャラの十倍を優に超えるだろう。人が一生をかけても稼げないほどの金額。誰かの人生を狂わせるにも十分だ。
 路地を曲がる。そのときのことを、俺はきっと、一生忘れない。何を考えているのかもわからないチバの顔が、一瞬で蒼白になった瞬間。あからさまな変化に、俺まですぐに動揺した。
「停めてた車がない」
 どうしたんだ、と聞く前に、チバが事情を口にした。車というのは、今朝家の前で見たスカイブルーのBMWだろう。ミホの父親の高級車。そう、車にはミホがいた!
 気づいた瞬間、チバの携帯が音を立てる。何を言っているのかもわからない洋楽。英語は苦手だ。
「ミホの携帯からだ」
 タバコの火を消しながら、チバが告げた。ていうか、番号知っているんだ、などと場違いなことを考えている間に、チバは電話に出る。どうやらスピーカーもオンにしたらしく、俺の耳にも慌てた声が聞こえた。
「助けて! 追われてるの! 今車で逃げてる!」
 それだけを告げられ即行で切られる通話。俺は思わず、チバと顔を見合わせた。
「場所も何も言ってねえ」
「まあ、今のところは無事とわかっただけでよしとしようか」
 あきれる俺と、とりあえずフォローするチバ。再びタバコをつけたチバがミホに電話をかけるが、出ない。
「それにしても、ミホのやつ、車なんて乗れたんだな」
「アクセルとブレーキがどっちかわかれば、一応運転はできるでしょ。オートマだったし」
「だとしたら技術もへったくれもないよな……早くしないと捕まっちまうぞ」
 まぬけな会話は、ほかにできることがないからだ。助けてと言われても、場所のヒントも何もないでは探しようがない。途方に暮れている、ということを実感したくないためにくだらない会話で間をもたせる。
 だけどそれは俺の話。ミホに通じないとわかったはずなのに、チバはまだ携帯を操作している。耳に当てているところを見ると、どうやら誰かに電話しているようだ。俺の知らないチバの人脈だろう。手持ち無沙汰。と、こんどはそんな役立たずの携帯が着信を知らせてきた。流行のポップス。相手は、ミロクだった。