ななそじあまりむつ その7

 
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 虚空蔵菩薩
 ミヨやスケイチの生きる時代には既に成立していた十三仏信仰の主尊であり、智慧と福徳をつかさどる仏様として広く知られる。姿形としては、蓮華座に座し、五智宝冠を頂き、右手に智慧の宝剣、左手に福徳の如意宝珠を持っている。知識や記憶に関連する利益をもたらす菩薩として信仰されているが、智慧を求める者だけでなく、多くの人々からの愛を求める者、歌界の権威を求める者、王位を求める者、資財を求める者、眷属を求める者、名声を求める者は、虚空蔵菩薩真言を唱え名前を念じれば叶えられるという。一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えた者は、あらゆる経典を理解して忘れることがなくなるとも言われており、この物語が語られている現在でも、虚空蔵菩薩を本尊とする京都のとある寺では、十三歳になった子供が記憶力の増進を求めて参拝する習慣がある。
 虚空蔵とは、梵名であるアーカーシャ・ガルバを漢訳したもので、『虚空の母胎』を意味する。一般的に、虚空とは何もない空間や大空のことであるが、仏教用語としては『すべてのものが存在する場所』を指す。つまり、虚空蔵菩薩とは、虚空のように限りなく、尽きることのない智慧と福徳を持つ菩薩という意味である。また、虚空蔵菩薩は鰻の雲に乗って天から舞い降りてきたという伝承があり、鰻は虚空蔵菩薩の使者であるとも言われている。
 虚空蔵。
 虚空の蔵。
 空っぽの蔵。
 ――と、意味深に並べてみたものの、白装束の男の正体は虚空蔵菩薩である、ということではない。白装束の男の正体は鰻である、ということでもない。神と呼ばれる男の正体が菩薩やその使者であるというのは少々ちぐはぐな印象であるし、男には『空っぽの蔵、すなわち虚空蔵』などという頓智めいた手がかりを森の中に置く理由がない。
 そもそも、あの古びた小さな蔵は初めから空っぽだったわけではない。災いという、形のないものが男によって閉じ込められていた。スケイチが蔵の扉を開けたために解き放たれてしまったのだ。そして、村に災いが訪れた。田や畑は虫に襲われ、すべて荒れ果ててしまった。
 したがって、蔵の中に何もないのはただの結果に過ぎず、虚空蔵という言葉は男の正体を示唆する鍵にはなりえない。
 しかしそれでも、この物語の今後の展開に対する何らかの暗示にはなっていたのかもしれない。それはミヨやスケイチにとっては知る由もないことなのだが――
 
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 四方八方を囲む透明な壁が消えて自由の身となったミヨは、小川に沿いつつも流れには逆らい、山を駆け登っていた。小川の源流点を目指しているのでもなければ、山頂を目指しているのでもない。今まで閉じ込められていた山のふもとのあの空間から、そして自身を贄として白装束の男に捧げたあの村から、一刻も早く遠ざかることが目的だった。ある程度登ったところでぐるりと回り込み、山の向こう側へと逃げるという算段だ。
 走りながら、ずっと行李のことを考えていた。行李の中には、旅芸人時代に師匠から受け継いだ年代ものの仕事道具や、大海や雪山での思い出の品が入っていた。どれも大切なものだったが、自身の命には代えられない。おそらく村に残されているのであろうが、諦めるより他になかった。
 もちろん、行李には旅の必需品も入っていた。壊れかけた旅枕に財布、薬や矢立てなどだ。これらが失われたことも痛い。女手形は肌身離さず持っているので手元にあるが、透明な壁というこれ以上ないほどに堅牢な関所を経験したミヨには、ただの紙切れにしか感じられなかった。
 そういえば、とミヨは思い出す。たしか、行李には浅草紙も少し入っていたはずだ、と。込め玉は切らしていたんだったかとも思ったが、すぐに頭から振り払う。いつまでも名残惜しんでいる余裕などない。
 浅草紙とは、古紙やぼろ布を材料とした質の低い再生紙のことである。当時は生理用品としても用いられており、お馬と呼ばれる月経帯に当てて使用されていた。込め玉も生理用品の一種で、絹織物を裂いてこより状にした詰め物だ。
 ななそじあまりむつの謎かけが出題された日から数えて、二十八日目。前回の日付を考えると、とうに月のものが来ているはずの頃合いであったが、度重なる危機的状況による継続的な緊迫状態の所為か、ミヨの周期は遅れていた。これはミヨ自身にとってある意味ではありがたいことだった。もしも月のものが訪れていたならば、白装束の男に生理用品を乞わねばならなかったのかもしれないのだから。
 所持品の遺失に、体調の異変。
 それでも走らなければならない。
 かといって、このまま白装束の男から逃げ切れるかも分からない。
 川の下流にて脱出を試み、あともう一歩のところで足をとられた記憶がふと脳裏を過ぎる――そのとき、袖に細い木の枝が引っかかり、ミヨの脚が止まった。軽く払えばすぐに外れるかと思いきや、布地が棘にでも絡んでしまったのか、枝はなかなか離れない。焦ったミヨは、むやみやたらに腕を振り回す。道中で拾った毬栗が袂から滑り落ちる。布の裂ける音がした。
 自由になった腕を確認すると、音のとおり、派手に袖が裂けており、腋の下あたりから不恰好にぶら下がっていた。ただでさえ走るときに袂が鬱陶しかったというのに、これではますます煩わしく感じることだろう。
 少し考えてから、ミヨは破れた袖の部分を引きちぎった。
 続いて、反対側の袖も。こちらは破れ目がないぶん苦労したが、先ほどの枝の棘を利用することでなんとか引き裂くことができた。
 それから、その場にしゃがみこむ。
「まだ」ミヨは自分自身に言い聞かせるように呟いた。「まだ、生きている。わたしは、まだ、生きている――」
 あらわになった二の腕に触れる空気が、熱を冷ます。
 しゃがんだ姿勢で手元を動かしているうちに、ミヨの心は落ち着いていった。拾い集めて毬を取り除いた栗の実をいくつか帯に忍ばせて、ゆっくりと立ち上がったときには、既に呼吸も整っていた。
 辺りの自然がずいぶんと様変わりしていることにミヨはようやく気づいた。否、普通のものになっている、と形容すべきか。草木の生い茂る密度に差はあるが、村を訪れるまでの路で見てきた風景によく似ている。場違いなものが一切生えていないのだ。
 山のふもと、屋敷の周りの森には、東西南北あらゆる地方の植物があった。やはり透明な壁の内側でのみ、超常の力がはたらいていたということなのだろう。
 ミヨは川沿いから外れ、山の斜面から垂直に伸びようとする樹木に手をかけた。どのくらい登ったのかを確認しようと身を乗り出す。だいぶ高いところまで登ってきたらしく、遥か下方、ふもとの森の奥に湖が見えた。透明な壁の、東の行き止まりのそばにあった湖だ。遠くから眺めると、鏡のような水面が一層美しく感じられた。
 湖を挟んで反対側の向こう、完全に山から離れたところに、ミヨが訪れた村らしき集落があった。なんだか少し様子がおかしいようにも思われたが、こうも遠くからでは具体的な状況がよく分からない。
 視線を下方に戻し、ふもとの森の辺りを観察してみると、透明な壁の内側だったと思われるところの自然も、ここらと同じものに戻っているようだった。すくなくとも、ある境界から植物の生態が変わっている、というふうには見えない。
 ミヨは考える。
 あの自然の摂理に反した奇妙な森は、謎かけに答えようとするわたしたちを惑わすためのものだったのだろうか。
 そうだとしたら、今、あの森で生きている植物や動物、鉱物の中に、謎かけを解く鍵があるというのだろうか。
 どうして今は、元通りの森に戻っているのだろうか。
 まだ七十六日目になっていないのに。
「……いや、考えなくていい」
 そう言って、ミヨは無理やりに思考を閉ざした。
 ななそじあまりむつの謎かけについて、考える必要はもはやない。透明な壁はなくなったのだから。今は白装束の男から逃げ切ろうとしているのだから。だいたい、あれほどたくさんの答えを挙げてもすべて外れだったというのに、これ以上何を挙げろというのか。考えるだけ時間の無駄だ。
 何の変哲もないふもとの森を眺めるミヨには、これまでの出来事の何もかも夢か幻であるかのように思えたが、川の流れる先の先では、木々の隙間から蔵が覗いていた。中に何もない、古いちっぽけな蔵。それは、白装束の男とのやりとりが確かにあったことを示す、一つの証明であった。
 一方で、蔵と湖の位置関係から当然そこにあるはずとばかり思っていた場所に、男の屋敷は見えない。見当外れの場所を探しているとも思えないし、仮にそうだとしても、あの大きな屋敷ならばここからすぐに目につくだろう。
 透明な壁と同様、屋敷も消え失せたのだろうか。
 それも考えなくていいことだと切り捨て、ミヨは再び走り出した。今度は山を回りこむように横方向に移動する。着物の袖がなくなったおかげで、幾分か走りやすくなっていた。
 余計なことは考えない。
 今は逃げることだけに、生き延びることだけに集中する。
 そう、努めて無心になろうとするミヨであった。行李のことも、自身の体調や見た目のことも、ふもとの森の変貌も、ななそじあまりむつの謎かけも、みな忘れようとした。何よりも、ふもとに置き去りにしたスケイチのことを忘れようとした。
 考えまいと思えば思うほど、頭から離れないのは何故だろう。そのような疑問が芽生えはじめたのは、しばらくのあいだミヨが走り続け、山の裏側――かつて屋敷があった側を正面とするならば――へと差し掛かったときだった。その疑問に対しても、今は考えるべきではないとミヨは判断しただろう――判断するだけの猶予があったなら。しかし、猶予は与えられなかった。ちょうどそのときミヨは、何かに引っかかったかのような、引きちぎったかのような感触を覚えた。木の枝とはまったく異なる、おぼろげな感触だった。そして次の瞬間、ミヨは凄まじい勢いで吊り上げられた。
 
  *      *
 
「罪を償いなさい」
 感情のこもっていない声が洞窟の壁に反響し、それがかえってスケイチには厳かに聞こえた。声の主である白装束の男は、スケイチの顔をじっと見つめている。先刻までの落ち込んだような表情は失われており、まるで能面のようだ。壁に並ぶ篝火が、男の肌を照らしていた。
 あの蔵の中には災いがとどまっていた。
 スケイチが蔵を開いてしまい、その結果、村に災いが訪れてしまった。
 村じゅうの田畑がひどく荒れてしまったのは、スケイチの行為が原因だった。
 だから、その罪を償え――そう神さまはおっしゃっているのだと、スケイチは理解した。理解し、素直に受け止めた。蔵についてろくに忠告もしなかった男や、蔵を調べるよう指示したミヨを責めるなんて考えは、これっぽっちも浮かばなかった。この洞窟で暮らしている間、ずっと自分は騙されていたのか、と後方に控える巫女に問い質すことも思いつかなかった。
 これも巫女たちの教育の賜物だろうか。
 自分が罰されようとしている今もなお、スケイチは神さまを崇拝していた。
「おれは、何をすれば良いのでしょうか。どうすれば、罪を償うことができるのでしょうか」
 スケイチは白装束の男におそるおそる尋ねる。おおかた予想はついているが、それでも問わずにはいられなかった。
「スケイチ」声とともに巫女がスケイチの目の前に現れ、両肩を掴んだ。「何も不安に思うことはない。考えようによっては、これは名誉なんだよ。ただ、お前が」
「あなたは出て行きなさい」男は巫女の科白を遮る。
「ですが神さま、罪を償うなんて言い方では、この子があまりに不憫ではないでしょうか……」
「あなたは出て行きなさい」
「せめてこの子には、自分が選ばれた子なのだと、神さまの従者として立派に役目を果たしたのだと、そう信じてもらいたくて……」
「あなたは出て行きなさい」
「…………申し訳ございません」
 そう言うと、巫女はスケイチの肩から両手を外し、スケイチの後方――洞窟の入り口の方向へと去っていった。
 すれ違う一瞬、巫女とスケイチの視線が合った。巫女は憂いを帯びた瞳をしていた。だが、残されたスケイチには、どうしてそのような目で自分を見るのかも、巫女が男に訴えかけていた言葉の意味もよく分からなかった。白装束の男の様子を窺っても、男は何も言わず、ひたすらスケイチを見つめるのみであった。
 巫女の足音が聞こえなくなったころ、男の口が開いた。
「災いは、この村を訪れます。それは小さな災いのときも、大きな災いのときもあります。あまりに大きな災いが訪れたとき、村は滅びます。
 私は網を張り、村に訪れる災いを捕らえ、一箇所にとどめます。そして少しずつ、村が耐えられるだけの大きさの災いを、時間を空けて送り出していきます。そのようにして、私は村の釣り合いを保ちます。
 あなたたちは私に贄を捧げます。私は彼らに釣り合いを約束します。それは私たちにとって十二年に一度の大切な習慣の環です。釣り合いが失われた今、環もまた失われました。悲しいことです。
 私たちは、環を創り直さなくてはなりません。村じゅうに広がっている災いを、もう一度捕らえ、とどめなくてはなりません。網が必要です。これまでになく巨大で、目が細かく、災いを確かに捕らえる網が。網を張るには、素となるものが足りません。やむなく壁や屋敷などを取り払い、足りないぶんを補おうとしましたが、それでもあと少し足りません」
 白装束の男は淡々と語る。
 そこまで聞くと、スケイチにも自分がどのように罪を償うのか想像がついた。
「罪を償いなさい」
 男は座禅を組んだまま、スケイチに向かって右手を差し伸べるように出す。
 はじめ、手のひらの上には何もなかった。篝火の明かりが、刻まれた皺の陰影を際立たせているだけだ。ところが、微動だにしない手のひらの中心から、小さな白い蟲のようなものが一匹、また一匹と湧いて出てきた。中心からだけではない。五指の先からも白い蟲は湧き、手のひらを這いずり回り、何匹かがこぼれ落ちていく。蟲は何十匹、何百匹と増え、やがて大群となった。塊となってうねうねと動く白い群れはあたかもひとつの意思を持っているようであり、いつの間にか男の右腕は肘から先がなくなっていた。
 それは白い蜘蛛の一団だった。
 なんと、神さまの正体は蜘蛛だったのか――そう、スケイチは驚いた。今しがたあった『網を張る』という発言が頭の中を支配する。そういえば、あの蔵の中には蜘蛛の巣が張ってあった。
 罪を犯したときのことを回想しつつも、しかしスケイチはにわかに納得することができなかった。スケイチが蔵の中には何もなかったと結論付けたのは――蜘蛛の巣やその他の虫を見逃したのは、それらが既に答えたものだったからだ。既に答えて、外れだったものだからだ。蜘蛛なんてありふれた生き物、スケイチが謎かけに参加する前からとっくにミヨが答えている。
 では、ただ『あなたさまは蜘蛛の化身ですね』と単純に答えたことが間違いだったのだろうか。卯の化身ではなく白兎の化身と言い換えて答え直したように、白いことを強調する必要があったということだろうか。
 だが、白蜘蛛という名の蜘蛛はいない。少なくともスケイチは聞いたことがないし、本草書にも書かれていなかった。もちろん、白色の蜘蛛自体はこの世に存在するし、白い姿で産まれることのある蜘蛛や白い部分のある蜘蛛の種名をいくつか挙げた覚えもある。蜘蛛だけでなく、そういう特徴を持つとされる動物や植物、鉱物は網羅したはずなのだが……。
 そこまで考えて、スケイチはある答えに思い至った。
 ――新種だ。
 神さまの正体は、まだ本草書にも記されていない、新種の蜘蛛だったのだ。
 その答えは、白装束の男の正体を知らなかったのはスケイチやミヨだけに限らないことをも示唆するものであった。男に仕えていた巫女たちも、もしかしたら男自身でさえも、正体を知らなかった可能性がある。誰も正体を知らなかったから、スケイチには『神さまは神さまですよ』としか教えられなかったのではないか。白装束の男も自らの正体を知りたかったから、ななそじあまりむつの謎かけが行われたのではないか。読み書きなどの勉強をさせられたのも、知識を蓄えさせられたことも、男の正体を突き止めるためだったのではないか。
 だったら、とスケイチは心の底から思う。
 だったら――そんなもの、分かるわけがないじゃないか。
 そうだ。ななそじあまりむつの謎かけの答えを当てさせるつもりなんて、はじめから神さまにはなかったんだ。だって神さま自身も正しい答えが分かっていなかったんだから。誰か蜘蛛に詳しい人が新種を発見して、本草書が新しく書き直されてでもいないかぎり、神さまの正体なんて知りようがなかった。はじめから詰んでいたんだ。とっくの昔に終わっていたんだ。
 神さまには、おれを補佐にする気なんてなかった。ミヨさんが言っていたのはそういうことだったんだ。神さまはおれのことなんてどうでもよかったから、おれをミヨさんと一緒くたの扱いにしたんだ――いや。
 いや、やっぱり神さまはそこまで意地悪ではないのかもしれない。ほんのちょっぴりくらいは――ななそじあまりむつの謎かけへの途中参加を認めてくれるくらいには、おれを補佐にするつもりがあったのかもしれない。
 でも、もうそれどころじゃないんだ。
 謎かけなんて解いている場合じゃない。七十六日目になるまで、なんて悠長なことは言っていられない。
 結局のところ、おれは神さまに食べられる運命だったんだ――
 ――と、ここにきてもスケイチはただ諦観するばかりで、自らの言う運命に抗おうとする意志など欠片も抱かない。それも仕方がないことで、産まれたときから神さまの従者として――贄として育てられたスケイチには、よりどころとなるものが他になかった。一度は贄の座を降ろされ、戻ろうとした挙句、贄という立場が自分の信じていたものとは違うことを悟った現状では、この運命にしがみつくしかなかった。神さまに食べられるのが自分のような何もない人間で良かったとさえ思っていた。
「けっしてそのようなことをするつもりはありませんでしたが、おれのせいで村が大変なことになったのは事実で……、だから、神さまから罰を受けるのは当然のことだと思います」
 スケイチは言う。
 視線の先にいる白装束の男は、右肩からわき腹辺りまでが大きく抉れている。着物もずたずたに破れ、ほつれた糸が白い蜘蛛となる。蜘蛛はさらに増殖し、蠢きつづけている。十数匹が合体して、二回りほど膨らんだ蜘蛛になっているものもいる。大小さまざまな蜘蛛の群れは一段と大きくなっており、スケイチには、蜘蛛の群れの方が男の欠けた部分よりも嵩があるように見えた。それも神の御業なのだろう。
「おれが神さまに食べられて、それで罪は償われるのですね」
 ぴたり、と群れの動きが止まった。
 白装束の男は答える。
「いいえ」
 言い終わるが早いか、男の後ろ髪が一房、目にも止まらぬ速さで伸びていく。地面に触れることなく洞窟内を進み――その先端は入り口の方向へと消えた。蜘蛛の群れも追随する。それぞれの個体の形は崩れ、次々と後ろ髪に溶け込んでいく。
「食べられるのはあなたとあの娘です。あの娘も先ごろ、蔵を開けました」
 
  *      *
 
 それからミヨが洞窟へと連れられるまでに、さして時間はかからなかった。丸三日ぶりに、ミヨとスケイチと白装束の男が一堂に会したというわけだ。
 これまでの時系列を整理すると、以下のようになる。
 ななそじあまりむつの謎かけが始まってから二十五日目。ミヨは川の下流にある壁を潜り抜けて脱出を試みたが、何かに引きずり戻されて失敗する。一方スケイチは、蔵の扉を開いて中を調べるが、謎かけの手がかりを何も見つけることができない。また、このとき、蔵の中の災いが解き放たれ、そのすべてが村を襲うこととなる。この日の夜から、白装束の男が屋敷に帰ってこなくなる。
 二十六日目および二十七日目。ミヨとスケイチは屋敷で白装束の男の帰りを待つが、男は帰ってこない。村の惨状を知り、災いをもう一度捕らえるための網を作るなど、洞窟にて何らかの対策を講じていたと思われる。
 二十八日目。屋敷の食糧が尽きる。ミヨとスケイチは手分けをして食べ物を探す。スケイチは、屋敷に現れた巫女によって白装束の男のいる洞窟へと連れられ、蔵を開けた罪を償うよう男に宣告される。ミヨは蔵の扉を開け、自分でも蔵の中を調査するが、やはり何も見つからない。蔵から出たミヨは、透明の壁がなくなっていることに気づき、山の向こうへと逃げ出そうとする。ミヨが山の裏側へと差し掛かったとき、洞窟では男が、スケイチだけでなくミヨもまた蔵を開けた罪びとであることを明らかにする。そして男はミヨを捕え、洞窟へと連行する。ちょうどスケイチが男に「おれが神さまに食べられて、それで罪は償われるのですね」と質問したとき、ミヨの逃亡が発覚したかたちとなる。
 田畑や家々のある集落だけでなく、蔵のあった森や、集落から見える側までの山が、村人たちが自らの郷と認識している範囲であり、白装束の男が釣り合いを約束した領域であった。その境界には、外から来る災いを捕縛するための網が常日頃から張られていた。または、蔵から飛び出してしまった災いを回収するために新たな網が張られようとしていた。網に伝わる大気の流れの変化やミヨ自身の網への干渉によって、ミヨの逃亡は男に知られることとなった――村の状況や洞窟でのスケイチと男の会話を仔細まで把握していれば、そのような経緯を推察できただろう。しかしそれは、災いのことを知らなかったミヨには到底辿りつけない境地であった。加えて、男に捕らわれた当時のミヨは、とてもものを考えられるような状態ではなかった。
 当時のミヨは――宙吊りになっていた。
 逆さに吊り上げられていた。というか、まるで魚のように見事に釣り上げられていた。ミヨの左の足首を何かが――白装束の男の後ろ髪だが、当時のミヨには分からなかった――捕らえており、村の方角へとミヨを引っ張っているのだ。
「きっ、きゃあぁぁぁあああぁぁ!」
 思わずミヨは悲鳴をあげる。山彦が返ってきた。
 ミヨは必死で首を動かして、吊り上げているものの正体を探ろうとした。足首の方から白い縄のようなものがぴんと伸びていた。青空が背景になっているので奇妙に細長いすじ雲のようにも見えるが、ミヨが即座に連想したのは白装束の男だった。白い縄は緩やかな山のかたちをしていて、あるところまでは高度が上昇し、そこからは遠くにいくほど次第に下がっているようだが、その先がどこへ至っているのかはミヨには見えない。
 それ以上探るのを諦めて首を重力に任せると、眼下に信じられない光景が広がっていた。木々があんなにも小さく見えるなんて、とミヨは凍りつく。当初の勢いを落としつつあるものの、足首を捕らえている白い縄は猛烈な速度でミヨを引っ張っており、ミヨはもはや山頂と同じくらいの高さにあった。絶景だが、景色を楽しむ余裕などどこにもない。肉体が速さに耐えられない。風が痛い。頭に血がのぼる。息ができない。
 とうとう意識が途絶えようとしたそのとき、視界の端に光るものが映った。
 遥か下に見えたそれは――湖だ。
 ミヨは反射的に動いていた。失敗したら死ぬ、とさえ考えなかった。旅芸人をしていたころに身につけたしなやかさで上体を曲げ、左の足首に手を伸ばす。くるぶし辺りにあった毬の針を抜き取る。膝下から足首にかけて巻かれていた布がはらりとほどけ、脚が抜ける。
 斜めの線を描きながら、落ちていくミヨ。
 その身体は、湖のど真ん中に大きな水飛沫を上げた。
 良かった。まだ、生きている――水底に沈みながらもミヨは安堵した。湖の深さに感謝し、自らの先見性を静かに褒め称えた。
 川に潜って透明の壁を通り抜けようとしたときのように何かが足首を捕らえた場合に備え、ミヨは両脚に布を巻いていた。それは寒い地方を旅するときに用いた藁はばきや布製の脛当てを真似たものだった。山の中で引きちぎった着物の袖を脚に当て、栗の毬の針で留めた簡素な作りだ。足首全体をがっしりと掴まれていたらどうしようもなかったが、実際にはくるぶしから反対のくるぶし辺りまでを掴まれていて、脛の側から布をほどくことが可能だったため、脱出することができた。
 ミヨはすぐに水面に浮かび上がらないよう手足で水を掻きながら、これからどうするかを考え始めた。ひとまずは助かったが、透明の壁に囲まれていた空間に戻ってきてしまった。まさかここまで暴力的に引き戻されるとは、さすがのミヨも想定していなかった。
 白い縄の先が村のほうへと伸びていたことから、白装束の男は私を村のどこかへ連れて行こうとしていたのだ、おそらく男自身もその場所にいるのだろう、とミヨは推測していた。白い縄の襲来はまだ終わっていないのだ。
 山中で白い縄に足首を捕らえられたのは、あのときの何かに引っかかったかのような、引きちぎったかのような感触から、あらかじめ何らかの罠が張られていたのだと考えられる。待ち伏せされていたようなものだ。翻って現在は湖の中なので、そのような罠は仕掛けられていないと思われる。川の中の抜け穴ならともかく、湖に罠を仕掛ける理由がないからだ。
 続いてミヨは、湖の中まで白い縄が追ってくる可能性について検討する――たとえ水中であろうと、白装束の男はあの白い縄を自在に遠隔操作できるのかもしれない。だが、待ち伏せ型の罠を張っているということは、待ち伏せしなければ捕らえることができないことの証左ではないか。縄に目鼻や耳がついているわけでもなし、男はこちらの動きを常には把握できていないのだ。少なくとも、一度白い縄を逃れた者を湖の中まで追尾することはできないはず。ならば、注意しなければならないのは水中から上がるときだ。どのようにして上陸するか。また、その後はどう行動するべきか……。
 息を止めながら、ああでもないこうでもないと考えるミヨ――その目前に、白い影が現れた。
 それは水を吸って膨らんだ白い縄で。
 先端には見覚えのある目玉がひとつできており、かっとミヨを睨んでいた。
 ――というわけで、今度は白い縄にぐるぐる巻きにされたミヨは洞窟まで連行され、現在に至る。地面に這い蹲って憔悴しているミヨは、横で立ち尽くしているスケイチの顔も、正面で座禅を組んでいる男の顔も見上げることができなかった。後ろ髪も右肩も元の姿に治っている男は、スケイチに語ったものと同じ話を改めてミヨに語った。
 男の長い語りはこう締めくくられた。
「私はあなたたちを食べて、素を取り込み、網を作ります。罪を償いなさい」
 男の宣告をぼんやりと聞きながら、運が悪かったのだな、とミヨは思った。たまたま立ち寄った村で騙され、贄として神に差し出され、神には無理難題を押しつけられ、最期には食べられてしまう。ここまで不運な者もそうはいないだろう。根無し草の旅人である以上いつどこで野垂れ死になってもおかしくないと覚悟はしていたが、このような悲惨な結末を迎えることになるとは予想だにしておらず、神さま仏さまに文句の一つでも言いたくなり、神さまなら目の前にいることに気づくミヨだった。
 死ぬと思うと、自然と今までの旅路が蘇る。
 旅芸人の一座に加わろうとしたとき。海を渡ったとき。雪山を踏破したとき。今までの旅で、幾度となく苦境は訪れた。その中には災いと言ってもいいくらいのものもあった。だが、それらをすべて乗り越え、自分は今日まで生き延びてきたのだ。自分の実力だけで乗り越えられたとは言わない。仲間がいたときには彼らの助けもあったし、幸運が味方したときもあった。今回は、運勢の向きが及ばなかっただけだ。
 今回は運が悪かった。
 ついに運が尽きてしまった。
 そう思って諦めるしかない、とミヨは目を閉じた。
 
  *      *
 
「神さま!」叫んだのはスケイチだった。「どうか、ミヨさんは食べないでください……、食べるのはおれだけにしてください……」
 スケイチの叫び声に驚いて閉じたばかりの両目を開いたミヨは、続く科白を聞いて耳を疑った。一瞬、何を言っているのか意味が分からなかった。意味が分かってからも、スケイチの意図は理解できないままだ。
「ど……どうして」
「何故、あなたはそう願うのですか」
 ミヨと男の問いかけが重なる。
「本来、神さまに捧げる贄は一人です。十二年ごとに一人の人間を捧げることと引き換えに、神さまは釣り合いを約束なさっていました。今年だけ二人の贄を捧げるのでは、釣り合いが取れておらず、道理に合いません。
 また、神さまはこのようにもおっしゃっていました。壁や屋敷を取り払って足りないぶんを補おうとしたが、それでもあと少し足りない――と。一旦はおれだけを洞窟に連れてきたということは、子ども一人を食べれば網の素となるものを十分に補えるということですよね。二人ぶんは必要ないということですよね。でしたら、ミヨさんは食べないでください……」
 男がどう考えているかは別だが、たしかに理屈の上ではそうなってもおかしくない。蔵の中の災いが外に出てしまったという事故はあったためにななそじあまりむつの謎かけをやっている場合ではなくなったが、やろうとしていることはこれまでと本質的に変わらない、習慣の環のはずなのだ。罪を償うというのも、所詮は謎かけの残り日数を省略するための単なる理由付けに過ぎない、とミヨは感じていた。
 しかし、贄が一人で十分と言うのならば、スケイチは自分を見逃せと主張すればいいだろう。ミヨが食べられるのを拒む理由にはならない。
「何故、あなたはそう願うのですか」
 男も同じ文言でスケイチに問い返す。
「それに、先に蔵を開けて、災いを外に逃がしてしまったのはおれです。ミヨさんが蔵を開けたときには、はじめから中は空っぽだった。だから、ミヨさんは悪くないんです。罪を犯したのはおれだけなんです。お願いですから、ミヨさんに罰を与えないでください……」
 それは、男の話を聞いてミヨ自身も思ったことであった。男は蔵を開けたことを取り沙汰しているが、問題は災いを外に出してしまったことだろう、と。ただ、この神さまにそんな言い訳をしてもどうせ無駄だろう、とも考えていた。
 だが、何故スケイチはミヨの言い訳を代弁するのか。自分が不利になるだけなのだから、黙っていればいいのに。
「何故、あなたはそう願うのですか」
 またも男は繰り返す。ミヨが食べられるべきでない理由ではなく、ミヨが食べられてはならないとスケイチが考えている理由を問い質しているかのようだった。それはミヨも同感だった。
 何故お前は、私を食べないでと願うのか。
 どうして、こんなにも私をかばってくれるのか。
 お前を騙した、この私を。
「それに、それに、ミヨさんには、おれと違って……」いつのまにかスケイチは涙目になっていた。「ミヨさんには、生きる目的があるんです! 生きなきゃいけない理由があるんです! ミヨさんは言っていました、探している物がこの先の町にあると聞いたから、行って確かめるつもりだって。大切なものがそこにあるかもしれないって。ミヨさんは、この村を出て、次の町に行かないといけないんです。ですから、どうか神さま、どうか……」
 その訴えを聞いて、ミヨは愕然とした。
 宴席で話した内容をスケイチが覚えてくれていたから、ではない。
 それが、ミヨが適当に言った出任せだったからだ。
 すべてが嘘だったわけではない。村の先にある町に行こうと考えていたのは本当のことだ。ただし、そこで手に入れようとしていたのは、スケイチの言ったような大層な代物ではなかった。少なくともミヨはそのように考えていなかった。
 ミヨが町で手に入れようとしていたのは、ただの込め玉だった。
 生理用品の一種。絹織物を裂いてこより状にした詰め物。
 スケイチの質問に正直に答えるのが憚られたので、宴席ではつい大仰な言い方をしてしまった。ただ、それだけのことだったのだ。それだけのことを、スケイチは旅の目的――ミヨの生きる目的として受け止め、スケイチ自身を犠牲にしてまで達成すべきことだと考えた。
「そうか……、出会ったときから私はスケイチを騙していて、なのにスケイチは……」
 ミヨは悟った。
 私は、運が悪かったのではない。
 罰が当たったのだ。
「どうかお願いします、どうかミヨさんだけは……」
「いいでしょう」ミヨの心情など露知らず、白装束の男はスケイチの申し出を了承した。「二人とも食べたほうが平等だと思ったのですが。そこまで言うのならば、私はあなたのみを食べましょう」
 こうしてミヨは、自らが与り知らぬうちにまたも苦境を乗り越え、無事に生き延びることが決まってしまうのであった。
 もちろん、ミヨ自身の実力によるものではない。幸運のおかげでもない。ならば何のおかげか。ミヨは気づいていたが、それをそのまま受け入れることなどできるはずがなかった。
 こんなの良くない。間違っている。
 でも、どうすれば。
 考えろ。
 ほら、白装束の男が、スケイチに向かって右手を伸ばしている――
「待ってください、神さま」苦し紛れに、ミヨは男を呼び止めた。
「何ですか」
「あなたさまは、蜘蛛の糸の化身ですね」
 
  *      *
 
 考えまいと思えば思うほど、頭から離れない――ななそじあまりむつの謎かけを放棄して逃げているあいだも、白い縄に捕らえられて連行されているときでさえ、ミヨは頭の片隅で白装束の男の正体について考え続けていた。
 思いつく限りの動物、植物、鉱物を答えた。特に、全体的に白かったり、一部分が白かったりするものは本草書を網羅したはずだ。しかし、すべて外れだった。こうなれば、白装束の男の正体は、動物でもなく、植物でもなく、鉱物でもない何かとしか考えられない。
 だが、そう考えてしまうと男の正体の候補は無数に存在することになる。白いものに絞ったところでさして変わらない。空気や感情など、色が存在しないものや概念なども候補になりえる。
 積み上げられた候補の山から、どう絞るべきか。
 手がかりの一つとなったのは、白装束の男から逃げているときに何度か連想した、川での出来事であった。川を潜って透明な壁を潜り抜けようとしたときの出来事からミヨは、もしかして男の正体は、動物や植物や鉱物でなくとも、生き物に由来した、あるいは関連した何らかなのではないか――と思うようになった。何故ならミヨは、男が生き物や自然を大事に思っているような気がしてならなかったからだ。
 ミヨたちを閉じ込めるのなら、透明の壁に抜け穴はあるべきではない。水の中に透明な壁を作ることが男にできないとも思えない。川の中に壁がなかったのは、川の流れを塞き止めないようにするためではないのか。下流の生き物たちを気遣ってのことではないか。そうミヨは考えた。
 壁の内側に多種多様な動植物を産み出していたのも、謎かけを撹乱させるというのが狙いではなく、自然を大事に思う気持ちの表れだったのかもしれない。屋敷や透明の壁と同時に消えたことから、おそらくはあれらも網と同じ素から作られていたのだろう。元からの自然を除けば、あの空間で本当に実物が存在していたのは、食物や衣類、本草書などのミヨたちが男に頼んだもの、あとはあの蔵だけだったのではないか。
 その中で、ミヨたちが来る前から森にあり、生き物に由来した白いものというと、蔵の中にあった蜘蛛の巣が筆頭に挙がるだろう。
 蜘蛛は謎かけの初期のうちに回答済みだった。白を含む種類も個別に回答していた。そのことはスケイチも知っていた。だから蜘蛛の巣など目に入らず、蔵の中には何もなかったと言っていたのだろう。ミヨも、スケイチと同じく見逃していた。
 しかし、男の言う網という言葉や、男の見た目の変化からは、どうしても蜘蛛を連想せざるを得ない。そこでスケイチは、男の正体は新種の蜘蛛であるという答えに思い至った。対してミヨの答えが蜘蛛の糸となったのは、『男の正体は生き物ではなく、生き物に由来する何がしか』という考えが念頭にあったせいもあるが、決め手になったのはミヨを襲った白い縄だった。
 白い縄は、水を吸って膨らんでいるように見えた。これは蜘蛛の糸の性質と同じものであることをミヨは知っていた。また、湖で見た白い縄の先端には人間の目玉ができていた。それは白装束の男の目玉のようにミヨには見えた。つまりその目玉は、男が白い縄を操っているのではなく、男自身が白い縄であることを示していた――
 ――と、そのような思考の積み重ねから、ミヨは男の正体を蜘蛛の糸と断じたのだった。
 しかし、これも言ってしまえば論理の成り立っていないただの当てずっぽう、追い詰められた挙句に飛び出したやぶれかぶれの回答に過ぎず、ミヨには正解の自信などまるっきりなかったので、
「はい。当たりです」
 という男の返答を聞いたときには、身体じゅうの力が抜け、その場に倒れこんでしまいそうになった。
「え……、どういうことですか?」
 涙のあとを頬に残して、怪訝な顔をしているスケイチ。疑問は宙にぽんと投げられたようで、ミヨと白装束の男のどちらに問うているのか判別がつかない。スケイチ自身も分かっていないようだった。
「この娘が私の正体を正しく言い当てたということです」
 白装束の男が簡潔に答えた。
「だって、えっ、新種の蜘蛛じゃなかったんですか?」
「違います」
「えっえっえっ、じゃっ、じゃあどうしてさっき蜘蛛なんかになったの、ほらぞわわわわって!」
 驚きのあまり、信仰する神さまにタメ口をきくスケイチであった。
「あのかたちが、ものを食べるのに一番慣れたかたちだったからです。私はかつて、蜘蛛でしたので」
「かつて、蜘蛛だった……?」
 白装束の男の突拍子もない告白に、ミヨも首を傾げた。
「あなたは聡い」男はミヨを真正面から見据える。「そう、あの方によく似ている――」
 男が何を言っているのかよく分からないが、ひとまずは窮地から脱したようだ、とミヨは考えた。勢いで白装束の男の正体を言い当てたものの、ななそじあまりむつの謎かけはまだ有効だったのか、有効ならば男の正体を看破したミヨの処遇はどうなるのか、それよりもスケイチを生かすことはできるのか、など不明なことばかりだ。どれも白装束の男の匙加減ひとつで決まるようにも思われた。
「……さしつかえなければ、その『あの方』について、そしてあなたさまの過去について、どうかわたくしどもめに教えていただけないでしょうか」
 男が気分を害しないようにと、ミヨはへりくだって男の話を促した。ひどく体力を消耗していたので、快復するまでの時間稼ぎという意味合いもあった。
「いいでしょう。あの方によく似た、あなたの聡明さに免じて」
 そう言って、男は昔話を語り始める。
 当然のことながら、それは神話だった。
「さきほども言いましたが、私は、もとは蜘蛛の神でした。とても昔のことです。あなたたちが産まれるよりも前のことです。あなたたちの母が産まれるよりも前のことです。あなたたちの母の母、母の母の母、そのまた母の母……、ずっと昔から、蜘蛛の神として網を張り、災いをとどめ、この村の――この土地の釣り合いを保っていました。それは今とほとんど変わりません。
 あるとき私は、どこか遠くからやって来たあの方と出会い、お互いに惹かれるようになりました。そう、あの方は蜘蛛でした。私とは違って、あの方は神ではありませんでしたが、多少なりとも不思議な力を持っているようでした。あの方は人の文字が読めました。また、あの方は、糸で文字を書き表すこともできました。そのころの私は文字が読めず、また読む必要もなかったため、完全に正しく読み書きできていたかは分かりませんでしたが」
 このような文字でした、と男は背後の壁に貼られたお札を指した。そこには奇妙な文字が――稲妻のように小刻みに折れ曲がった線で構成された文字が書かれていた。
 その文字を目で追いながら、ミヨは旅芸人として全国を回っていたころに聞いた、どこぞの見世物小屋には人語を解す生き物がいるという噂を思い出していた。一緒に旅をしていた仲間から聞いたのか、それとも客から聞いたのかは覚えていない。生き物の種類も、犬だったか馬だったか、それこそ蜘蛛のような虫だったか、まったく記憶にない。なんとか思い出してみようと試みる。
 しかし、続いての男の科白に、ミヨの思考は中断を余儀なくされた。
「私はあの方と睦ぎ合い、そして私はあの方に食べられました」
「ええっ!」
 男の話を真剣に聞いていたスケイチが声をあげる。
「そうか、共食い……」
 一方、ミヨはいくらか冷静に受け止めることができたようだった。
「食べられた私は、気づいたらあの方の吐き出した糸になっていました。蜘蛛の糸と化してなお、神としての力は失われていませんでした。私はあの方がそれまでに食べたものと一つになっていました。それだけではなく、私はそれらの持つ記憶や知識を読み取って、自らを使って現に表すことができるようになっていました。ちょうど、あの方が文字を読み取ったり書き表したりできたように。それと同時に、私も文字の読み書きができるようになっていました。
 とはいえ、糸となってしまった以上、あとは朽ち果てるのを待つしかないと最初は思いました。しかし、自身の記憶から元の蜘蛛の姿を産み出すことで、私はものを食べることができました。養分は新たな糸、すなわち私の身体となり、知識は新たな身体のかたちを私に与えました。
 この土地の釣り合いを保つためには、贄にはできる限り知識を蓄えてもらった方が良い、と私は考えました。たくさんの身体のかたちを取り込んだ方が、多くの種類の災いに備えられるからです。また、ときには土地の外からも知識を得ることが重要だとも考え、巫女たちにはそのように取り計らってもらいました。もっとも、土地の外から来た人が文字を読めることは期待していませんでしたが」
 ――あなたも字が読めるのですか。
 本草書をねだったときに男が言っていたことをミヨは連想した。あれは、スケイチやこれまでに贄として村から出された者たちと比較しての発言だったようだ。
 でも、もしかしたら。
 あのとき白装束の男は、自分と『あの方』とを重ね合わせてもいたのかもしれない。そうミヨは直感した。
「あの方は、神さまを食べてから……、その後、どうなったのですか」
 スケイチがおずおずと尋ねる。
「分かりません」男は一瞬、悲しそうな表情をした。「しばらくは共に暮らしていましたが、子供たちが産まれる前にどこかへ行ってしまいました。私が他のかたちを表せることに気づいたのはそれより後のことでしたから、いくら聡明なあの方でも、私が糸になってすぐそばにいつづけていたことが分かっていなかったのかもしれません。私を食べることによりいくらかの神性を得たとも思われますが、あの方はもともとは普通の蜘蛛でしたし、神性のほとんどは今も私の中に残っているので、もう生きてはいないと思います。悲しいことです」
 共に暮らしていたと聞いて、ミヨは今まで自分が生活していた屋敷を思い返す。
 屋敷の広さを思い返す。
 スケイチを入れて三名でも広さを持て余していたあの屋敷は、いつか『あの方』とその子供たちが戻ってくることを祈って作られたのかもしれない――と。
「しかし、それも昔の話です。私が新しい相手を見つけても、あの方は嫉妬したりはしないでしょう。私はあの方のように聡い嫁がほしかった。そしてあなたは、ななそじあまりむつの謎かけを見事解き明かした」
「……ああ、やはり、そうなるのですね」
 ミヨは我に返った。取り壊された屋敷に思いを馳せている場合ではない。謎かけが終わっても、まだ事態はちっとも収拾していないのだ。
 
 あなたは私が何であるのか知らないと言う。
 では、私の正体を――私が何の化身であるかを当ててみなさい。
 当てられないまま七十六日目になったならば、あなたを取って食おう。
 七十五日以内に正しく言い当てたならば、あなたを嫁にとってやろう。
 謎かけのあいだ、私はあなたをここから逃がしはしないだろう。
 しかし、その他の望みであれば、おおむね快く叶えてあげよう。
 
 今にしてみれば、あそこまで執拗に脱出を妨害されたことが、謎かけが未だ有効であったことを示していたのかもしれない、とミヨは思う。『謎かけのあいだ、私はあなたをここから逃がしはしないだろう』というわけだ。
 何はともあれ、期限の半分も過ぎないうちに白装束の男の正体を見破ったため、『七十五日以内に正しく言い当てたならば、あなたを嫁にとってやろう』が適用されるということになる。この場で娶られるのを拒まない限りは、おそらくミヨの命は安泰だろう。問題はスケイチだ。
 最後の『しかし、その他の望みであれば、おおむね快く叶えてあげよう』というのを理由に、スケイチの命を助けるよう男にお願いするのはどうだろうかと考え、『謎かけのあいだ』のかかる範囲が苦しいな、と感じるミヨ。嫁という立場を利用すれば一回くらいは無理を通すこともできるかもしれないが、スケイチがすんなり首を縦に振るだろうか。何にしたって、村を救うためにはミヨとスケイチのどちらか一人は食べられる必要があるのだし……いや、先ほどの話だと――
「あの……、それで、おれはいつ食べられればいいのでしょう。食べられるんですよね? だったらなるべく早く、できればミヨさんが神さまに嫁ぐ前に食べてもらったほうが……、ミヨさんも先に町に行っておきたいでしょうし……」
 ミヨは何かに気づきかけるのとほぼ同時に、スケイチが本題に戻す。この期に及んで、ミヨの存在しない目的の心配までするスケイチだった。
 ところが、男の返答は二人にとって予想外のものだった。
「いいえ。あなたが食べられる必要はありません」男は今までとは正反対のことを言い放った。「あの方によく似た聡明さに免じて、あなたたちの罰は帳消しにしましょう」
「え――いや、でも、それでは村が……!」
「問題ありません。どちらにせよ総量は変わりません。網の素は補われ、災いを捕らえつくすのに十分足ります」
 男は立ち上がり、足音もたてずにミヨの目前にまで近づく。
 にっこり、と両目を細めて笑っている。
「私があなたを食うのではなく、あなたが私の嫁になる」
 つまり、あなたが私を食うのです――そう、白装束の男は言った。
 
 
 
 
 
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