blue-ryu-comic blue-spring-jojo その10

「……朱実、どうしてここに?」
 神崎は困惑しつつも、妻の元へ駆け寄る。疲れ切っているようで、神崎に支えられて立つのがやっとの状態であった。
「…………」
 俯いたまま、なかなか話そうとしない。神崎が掴んでいる服は濡れており、身体は生きた心地がしないほど冷たい。
 暫くして、彼女が顔を上げた。
「…あなたの方こそ、どこに行っていたんです? もう出発の時間なのに、荷物もまとめていないだなんて……。屋敷中を探したんですよ」
「しゅ、出発?」
「そうですよ、もう夜が明けるじゃないですか。早く戻ってやらないといけない仕事があるんでしょう?」
 神崎は小窓を振り返った。雨音は続いているが、心なしか四時の鐘を聞いた時よりも明るくなっている。もうすぐ嵐が通り過ぎるのだ。つまり、この忌々しい屋敷から離れられる。――でも、締め切りは? 約束の八十枚も書けていないし、まだ完成すらしていない。久々の原稿依頼だし、今更断るわけにもいかない……。神埼の脳裏に書きかけの小説のことが浮かんだ。
「……でも、まだ殺人事件の犯人が見つかっていないじゃないか。そもそも、……無事だったのか?」
 神崎が思い出したように尋ねると、彼女は神崎の顔を見つめた。
「何を言っているんですか、弘さん。私は何も変わりありませんよ。ただ、探し回って疲れただけ。それに、犯人は東条さんから聞いてるんでしょ?」
 神崎を見つめる顔に黒い影が差した。かと思うと、その輪郭がぼやけていく。なにが…何が起きているんだ? ここにいるのは、朱実のはず……? 東条? そんな男は存在しない。きっと朱実は勘違いしているに違いない。でも、何故書きかけの小説の登場人物を知っているんだ? 内容はまだ誰にも話していないはずなのだが……。神崎が動揺している間にも、彼女の顔は闇に包まれる夕暮れのようにぼやけていく。否、顔だけではない。このパントリーの壁もランプも、そして神崎自身の手も、境目を失いつつあった。
 神崎は握っていた腕をさらに強く握りしめる。彼女は顔をしかめ、腕を放そうとする。
「痛い。…放して、ください」
「――朱、実か?」
 神崎の尋ねる声は掠れていたが、相手は気にかける様子はない。神崎の目を見据え、口を開いた。
「…ええ、私は横崎朱美。あなたの妻ですよ」
「横崎、朱美……」
 いつの間にか、周りは元に戻っていた。ランプは何事もなかったかのように部屋の片隅を照らし、柱時計は振り子を規則正しく動かしている。灰色の壁も神崎の手も輪郭を持ち、揺らぐことはない。
 だが、この状況は? 神崎は自らに問い掛けた。目の前にいるのは、誰なのだろうか? 横崎朱美? 私の妻? ――じゃあ、私は?
「弘さん、聞いてるの? 顔色が悪いですよ」
 朱美が顔を覗き込む。神崎は思わず顔を背けた。
「…ああ、何でもない」
 色々と訊きたいことはあるのだが、朱実と瓜二つの心配そうな顔を見ると、神崎は何も言えなくなってしまった。
「そうですか? 無理はしないでくださいよ。……ところで、犯人は聞いていないんですか? さっき東条さんと話していたんでしょ? ねえ、東条さん?」
 朱美は神崎の肩越しに声を掛ける。そこには、床に散らばっている原稿を拾っている青年がいた。彼は手を止め、振り返る。
「はい。あなた方ご夫妻以外の、今この屋敷に残っている人すべてが連続殺人事件の犯人だと申し上げたはずですが……。横崎さん、どうかしましたか?」
 東条助手は無表情で答える。その手には漫画の原稿が握られていて。
「え、そんなはずは……」
 目をこすり再び顔を上げると、そこには先ほど推理を披露した男がこちらを見ていた。

***
「確かに、あなたの推測した方法通りでしたね」
 浪岡翁は原稿を手にしたまま、東条助手へと向き直る。東条は椅子に掛けている粉太郎から原稿を受け取り、横崎を見据える。横崎の目には、驚愕と安堵と困惑が浮かんでいた。
「これで、横崎さんが犯人だということは明らかになりました。何より、この原稿が動かぬ証拠です。……ところで、伝えたいことがあるとおっしゃっていましたが」
「あ、そういえば思い出したことが……」
 口を開いた途端、横崎は渋面を作り、額に手をやる。皆の疑いの眼差しが横崎に集まる。
「どうかしました?」
「いえ。……少し眩暈がしただけです。天気が悪いからでしょうか」
 辰夫の問い掛けに横埼は苦笑を浮かべた。横崎とは普段から親しい辰夫の顔にも、懐疑の色が窺える。だが横埼はそれを気にかける気配はない。重々しい空気の中、東条助手の物静かな声が再び響く。
「――思い出したことを、教えていただけますか?」
「…ええ、思い出したことでしたね。それは……」

***
神埼は椅子に座り、原稿を読んでいた。第七章「告白」。この屋敷に来て早々に殺された眼鏡山探偵の名を借り、主人公の漫画家が一見支離滅裂な遺書を書く場面。その後、彼は監禁されている部屋に人を集め、原稿を渡す……。――これは、何なのだろうか? まさしく今、自分が置かれている状況ではないか…。神埼はこのパントリーが描かれた原稿を見つめた。漫画はそこで終わっている。
「横崎さん。どうです、何か思いだしましたか?」
 神埼が読み終わるのを見計らって、東条助手が声を掛ける。自分は横崎じゃない。喉元まで出掛かった言葉を飲み込み、神埼は首を振った。
「…いいえ。何を言おうとしたのか忘れてしまいました。たぶん、そんなに重要なことではなかったのでしょう」
「東条さん」
 突然、部屋の片隅で毛布に包まっていた朱美が口を挟んだ。神埼と東条が振り返る。
「……私達、いつまでここにいればいいんですか?」
「いえ、戻りたければすぐに戻ってもらって構いませんよ。あなたはお疲れのようですし、部屋に戻って休まれた方がよろしいのでは」
「いいえ、私が言っているのは、もう自宅に戻ってもいいかということです。…弘さんにも話したように、家でやる仕事が溜まっているんですよ。早く戻って、やり始めないと間に合いません」
 東条の語を遮って、朱美が問い詰める。東条助手は少しも怯むことなく続ける。
「それは無理です。確かにもうすぐ夜は明けますが、まだ警察が到着していません。おそらくこの嵐で崖崩れが起こり、道が塞がれてしまったのでしょう。そんな状況でこの屋敷を出ていっても、自宅へ帰ることは不可能ですよ。犯人にも怪しまれてしまいます。…今は、何もせず、安全な場所で静かに過ごすのが得策です」
「安全な、場所……。そんなところが、今の、この屋敷にあるのですか?」
 朱美の隣に座った神埼は、我知らず尋ねていた。東条は神埼を一瞥し、パントリーを見渡す。
「もちろん、絶対とは言えませんが…鍵を閉めて閉じこもっていれば、おそらく安全でしょう。犯人と接触する可能性が大方無くなるのですから。――そう考えると、今の状況は危険ですね」
 明るくなったとはいえ、まだ薄暗い室内。開け放たれたドア。その向こうに見える厨房。……誰かが潜んでいたとしてもおかしくない。神埼は薄気味悪くなり、後ろを振り返った。
 東条はドアをそっと閉め、朱美に向き直る。
「どうしますか? 部屋に戻ることを勧めますが……」
 朱美は静かに頷く。神埼は、立ち上がろうとしてふらつく彼女を押し留めて尋ねる。
「あの、誰が朱美を部屋まで連れていくんですか? この状況では、一人で歩けませんよ。どこに犯人が潜んでるとも分からないし……。そもそも、今はどこにいるんですか?」
「彼らは…各自の部屋で休んでいるでしょう。パントリーの監視は、この東条一人でいいと言ってありますから。ただ……」
「ただ?」
 思案顔の東条助手に朱美が尋ねる。東条は視線を戻し、首を振った。
「あ、いえ。……ただ、一つ気になることがあるのですが」

***
 言葉が途切れ、重苦しい沈黙がパントリーを包み込む。誰もが、次の言葉を待ち構えていた。
「……すまないが、もう我々は部屋に戻ってもよろしいかね?」
 俯いていた横埼は面を上げ、声のした方を見返る。椅子に坐している老人を。
「な、何故ここに……?」
 そこには粉太郎氏ではなく、青波武生が腰掛けていた。
 横埼は狼狽しながらもパントリーを見回した。そこには、浪岡翁も辰夫も、車山氏、そして東条助手もいない。
「いいでしょう。犯人は私、空条が見張っておきますので。……皆さんよろしいですよね?」
 二十にも満たない少女が、有無を言わせぬ口調で問う。皆、黙したまま頷くと青波翁の後に続き、パントリーから去っていった。最後に空条明日香がドアを閉め、錠を掛ける音が薄暗い部屋に響く。
 横埼は、その様子をただ呆然として眺めていた。

***
 神埼は一人、パントリーに取り残された。することもなく、手に持ったままであった原稿を玩ぶ。
 つまるところ、朱美は東条助手が付き添うことになった。この雨の中、横崎を探して庭にまで出ていったのが災いし、風邪をひいたのだ。また、彼女は横崎が犯人と疑われてパントリーに監禁されたことを知らなかったらしい。大広間の明かりが消え、皆が部屋に帰ろうとした際に、横崎は捕まったのだが、その時はすでに自室に戻っていたという。
 ――辰夫氏以外に、この食事会に呼ばれた粉太郎氏の御子息はいらっしゃいますか?
 先程の東条の声が蘇る。何故そんなことを訊いたのだろう? 彼らが自分の小説の人物だとしたら、粉太郎には辰夫しか息子はいないはずなのに。……あるいは、そうではないのかもしれない。さっきは悩んだ末、分からないと答えたが、改めて考えると神埼は不安を感じ始めていた。
 コン、コン。
 誰かがドアを叩いている。誰なのか確かめようと神埼が腰を浮かせた時、ドアがゆっくりと開いた。


(担当:小衣夕紀)
遅くなってしまい、大変申し訳ありませんでした。
時間がかかった割には話が進んでいませんね(汗) 話に収拾をつけようとしたのですが……。
次の担当はikakas.rightsさんのはずです。よろしくお願いします。