blue-ryu-comic blue-spring-jojo その9

 拭えない違和感。
 停電した双草荘での逮捕劇――そして監禁。神埼自身の体験ではない記憶を神崎から引き継ぐのはこれが初めてではないが、何度引き継ごうともいまだに慣れることのない神埼であった。目の前に広がる殺風景、こちらに向けられた八つの瞳、背中と左肩の痛み、尿意の無さ。いくらそれらが引き継いだ記憶の確かさを物語っていようとも、どうしても困惑してしまう。だから今までは、よっぽどのことが起こらない限りは互いにメモ書きなどで記憶を補完するようにしていたのだが。
 ということは、今現在、よっぽどのことが起こっているとみるべきなのか。
 しかし、何故この微妙なタイミングで神崎は神埼に移り変わったのか、そこが神埼には分からない。引き継いだ記憶を辿ってみても神崎の意図が神埼には読めない。まるで神崎の意図に関わらず人格が入れ替わってしまったかのようだ。そんなことは万に一つもあるはずがないのだが。
 基本的に、他人と接触するのは神崎、小説を執筆するのは神埼。そう決まっていた。それが、医師やセラピストと共に八年間かけて得た役割分担のルール、共存の道だった。そこまで明確なものでなくとも、少年時代、神埼から神崎という人格が生まれた日から、交代人格にして主人格の『神崎』が基本人格の『神埼』を守る立場にあるということだけは決まりきっていたのだ。
 もちろんルールに例外はいくつもある。
 たとえば目の前の青波翁が手にしている原稿については、〆切やストーリーの性質上、神崎と神埼で分担して執筆せざるをえなかった。神崎にとっては二十数年以来の執筆となったが、メモによる記憶の相互補完と同じ要領だ。
 また、空条明日香の推理ショーは、執筆の参考になるだろうと神崎が判断して神埼にも一部を聞かせたのだった。その神埼も思わず口を挟むほどお粗末なものであったが。
 そして朱実の死――これこそよっぽどのことなのだが――このときは神崎のほうが衝撃に耐えられなかったという事情もあった。朱実をより深く愛していたのは神崎だったから。
 どの場合にしろ、神崎の意図がないものはない。
 ならば今回の移り変わりは一体どういうことか。神埼はどうしても違和感を拭うことができない。分からない。何かがおかしい。何か、重大なものが揺らいでいるような気がしている。
 ……いや、今考えるべきは十五年前のことだ。
 そう神埼は思い直す。
 十五年前。
 それは神崎との共存の道を見つけ、治療を終えた翌々年。
 まだ朱実と出会う前、神埼が駆け出しの推理作家だったころ。
 神崎が、取材のために初めて双草荘の門戸を叩いた年。
 どうもそのときに神崎と青波家の間で何かがあった――分かっているのはそのような抽象的なことだけだ。事件や事故の類ではないらしい。その何かについて神埼が碌に知らないのは、当時の神崎が詳細をメモに残さず、また記憶も引き継がせなかったから。
 神崎は、気にせずこれからも青波家と付き合うようにと神埼に忠告した。過ぎたことなのだから詮索するな、忘れろ、と。
 そして青波家の人々も、まるで何事もなかったかのように神埼に接するのだった。十五年前から現在に至るまで変わることなく。年代の近い青波幸生との個人的な交流だけではなく、朱実と結婚してからは食事会にまで呼ばれるようになった。
 いつしか神埼は十五年前のことを意識しなくなった。
 青波頼子の葬儀で良からぬ噂を耳にしたときも、その一週間後に双草荘に呼び集められたときも、十五年前のことなど一切脳裏に浮かばなかった。忘却が神崎の望みだったとしても、その結果が現状というのならば悔やんでも悔やみきれない。
 ――十五年前の鍵は青波翁が握っている。
 とにかく、今はこのメッセージを解読しなければ。
「そういえば、思いだしたことが……」
 時間稼ぎにと神埼が口を開いた、そのときであった。
 
「なるほど。あなたは多重人格だったのですね」
 
 脈絡もなく核心を突かれた。
 神埼はまともな返事をすることができず、声のするほうへと視線を移動させるのが精一杯であった。多重人格。解離性同一性障害。神埼がそうであることは、神崎との共存の道を見つけて以来、朱実以外の誰にも告白していないはず。なのに何故それを、と問いかけたくとも、言葉が出てこない。
 しかし声を発した側はその反応で充分確証を得たとばかりに、「いえ、驚くほどのことではありません。ただ私はあなたの原稿から推測しただけです」と探偵助手にふさわしい表情で言葉を継ぐ。
 探偵助手にふさわしい表情。
 すなわち無表情。
「あなたの原稿はどう見てもひとつの人格によって成立したものとは思えません。複数の人格で、交換日記のように交互に創作したものに違いありません。現実の事件をほぼそのまま写し取ったものを創作と呼べるかは疑問ですが。なお、一旦は奥様との合作かとも考えましたが、奥様の知る由のない事柄の描写も多分に含まれていることからその可能性は限りなく低いと判断しました。神の視点、第三者の視点を装っているものの、この原稿はあなたの視点で構成されています。同様の理由から、双草荘内の他の人物との合作もありえません」
 淡々と紡がれる推理。口元以外は微動だにしない。青波翁から受け取ったのか、それとも奪い取ったのか、原稿の束を胸に抱いている。
 ……そうか、それを読まれていたのだった。
 混乱は完全に収まらないものの、ようやく神埼は把握した。未だ題を冠されていない今回の小説。その原稿を読めば、誰だって容易に気づくだろう。それがひとりで書かれたものでないことに。
「複数の人格によるものであると、原稿から見出される点は幾つも挙げられます。個人の作品なら自然と統一されるべき様々なものが統一されていないのです。たとえば台詞回しひとつとっても、同じ登場人物の台詞が丁寧語だったりくだけていたり、ら抜き言葉だったりそうでなかったり、同じ言葉が漢字だったりひらがなだったり、台詞の最後に句読点があったり無かったり、間合いを取る点の数や棒の長さが違っていたり……頁によって特徴的な差異が見られるのです。とはいえ、これらは単なる推理の補強にしか過ぎません。この原稿の最も不自然なところは――」
 原稿の最も不自然なところ。それは神埼自身が一番理解している。
 同じ原稿用紙だが、手書きと印刷が入り交じっているのだ。
 神埼はいつも手書きだったが、執筆にブランクのある神崎はパソコンでタイプしていたから。
 当然神埼はそのことを指摘されると思っていた。
 ところが、
「――それは、頁によってまるで絵のタッチが異なることです」
 と指摘は続いたのだった。
「どの原稿も下書きの状態ではありますが、タッチの差異は一目瞭然です。描きこみの量もそうですが、特に手足の末端の処理に違いが見られます。二種類のタッチはどちらも立派な漫画家のそれですが、わずかに片方が描き慣れてないふうに観察されます。もちろん台詞の筆跡も別物です」
「た……たっち?」
 ようやく声が出たがほとんどかすれていて、それが届いたかどうか。
 視線の先の男に。
 無表情で推理を披露する男に。
 不意にどこからともなく現れた、あたかも最初からパントリーにいたかのように自然に溶け込んでいた、見ず知らずの男に。
「そ、そ、そうだ。すっかり呆気に取られていた……。どうして、誰も」
 神埼は辺りを見渡す。
 いつのまにか誰もいなくなっていた。八つの目は消えていた。
 空条明日香も。
 青波武生も。
 青波幸生も。
 興山氏も――いや、輿山氏だ。同ではない、車だ……車?
「くるま、やま……」
「安心してください。あなたが多重人格だからといって無闇矢鱈にあなたを犯人として吊るし上げたりはしません。そもそも最初から、この東条はあなたが犯人だとは思っていません。車山氏や浪岡家の面々に吹き込んだことは方便です。このパントリーに容疑者としてあなたを監禁することで、真犯人の動きを牽制するとともに、あなたをその真犯人の魔手から守ろうと、一計を案じたのです」
 男は東条と名乗った。
 それは、神埼の小説の登場人物。
「どういうことだ……夢でも見ているのか……」
「おやおや。あなたがそのようなことを言っていては、手塚治虫に怒られてしまいますよ」東条は初めて笑みをこぼす。その笑みはどちらかといえばあの十五歳の少女に似ていて。「話を戻しますが、第二の殺人が起こったとき、既に私はこの企みを胸に秘めていました。そう、その直後の推理ショーもまた方便だったのです」
「方便……嘘……」もはや何が嘘で何が真実なのか。
「その通り、嘘です。どうしてこれほどまでに方便という名の嘘で塗り固めなければならなかったのでしょうか。答えは単純にして明快、非力な私一人では、複数犯を正面から相手取ることなど不可能だからです。ですからこのような奇計を用いる他になかったのです」
「複数犯……?」
「そうです。真犯人は、浪岡親子に車山氏、そして残っている使用人全員です。すべては浪岡家の謀だったのです」
 浪岡親子――青波武生に青波幸生。
 車山氏――輿山氏。
 それに、使用人全員。
 符合関係が正しければ、そういうことなのだろうか……。
 まともに思考がついていかず、ぼんやりと納得しかけてしまう。
 気づくと、周囲が揺らいでいる。
 ……いや。
 思い返せば、第三の殺人以降から揺らぎは始まっていた。
 東条の顔が時折少女のそれになる。背丈が変わる。手元から原稿が舞い落ちた。タッチの違う下書き。手書き。明朝体。原稿用紙。原稿。漫画。小説。ぱらぱらと。重なって。最終頁の最後の行に名前が。『罪深き探偵 古尾谷王次郎』古尾山? 谷? 山? 眼鏡山?」と声が聞こえる。人間の声か。登場人物の声か。登場人物は東条助手。空条明日香も皆を騙しているのか。それとも騙されているのか。あるいは信じ込んでいるのか。盲目的。白く濁った瞳。そこかしこで丸椅子に腰掛ける老人や中年の姿が消えたり現れたり。入れ替わり立ち替わり。青波。浪岡。青浪。波岡。輿山。車山。興山。車。同。同じ。どちらも同じ。二つが一つに。重なって。ぱらぱらと。星印がこぼれおちて。自分の姿さえあやふや。多重人格。解離性同一性障害。神埼なのか、神崎なのか、それとも横崎なのか。人格の移り変わり。意図せずとも、揺らいでいる。現実が先なのか。小説が先なのか。漫画が先なのか。ストーリーテラー。現実の事件をほぼそのまま写し取った。ならば第三の殺人の場合は? 停電の場合は?」と声が聞こえる。
 揺らいでいる。
 上位と下位が、揺らいでいる。
 殺人事件! 泣く子も黙る名探偵の首筋にはどす黒い圧迫痕がくっきりと浮かび、冷たくなった哀れなからだ。嵐近づく闇夜の洋館、頼子が屋敷の三階から転落死したのは、先月のことだ。不肖この東条が事件の全容を解き明かしてみせましょう」と声が聞こえる。妻の不審死の調査を故・古尾谷探偵に依頼した、青波翁が開く個人的な食事会には、アリバイを立証できないのは辰夫だけだった。ちなみにあなた方ご夫妻は犯人ではありません」と声が聞こえる。――殺人だ! 哀れ首切り裂かれたるは齢十八の小柄な女給。まだ悪鬼の手に落ちて間もない亡骸が焦点を失った瞳で見下ろしていた。犯人は確かにこの中にいます」と声が聞こえる。皆使用人の悲鳴に引かれて集まってきた者たちだ。天井から垂れ下がった縄で首をつっている格好の妻、横崎夫人がドアノブに手を掛ける。頼子は夫、武生と仲が悪かった、前にもあの屋敷で死人が出た、などである。使用人にでも頼みましょう」と声が聞こえる。油断させ、騙し、仕留める。浪岡邸の三階バルコニーの木柵にあらかじめ細工をし、このパントリーの用途は神崎弘を監禁することに尽きる。ではなぜ、青波頼子は、弓子女史は、眼鏡山氏は、古尾谷王次郎は、朱実は、女給は、何故死んでしまったのか。まだたった15歳の哀れな少女!! 15年前の鍵は青波翁が握っている。この一見支離滅裂な断章が事件を解くための鍵となるはずだ。最後の殺人が引き起こされる前に。
「あなた」
 と別の声が聞こえる。
 振り向くと、パントリーの扉が開いていて。
 そこには横崎夫人――横崎朱美が扉にしなだれかかるようにして立っていた。
 思わず横崎は、神埼は、否、神崎は、愛する妻の名を呼ぶ。
「………………朱実」

(担当・17+1)




上位:青波武生、青波幸生、(青波頼子)、輿山、神崎弘=神埼、神崎朱実、空条明日香、(眼鏡山)
下位:浪岡粉太郎、浪岡辰夫、(浪岡弓子)、車山、横崎、横崎朱美、東条、(古尾谷王次郎)
たいへんな展開にしてしまいました。
次はおそらく小衣夕紀さんです。
違ってたらごめんなさい。