blue-ryu-comic blue-spring-jojo その11(1)

【登場人物】<明日香側>
青波武生  青波家の当主
青波頼子  武生の妻。転落死
青波幸生  武生の息子
輿山  武生の主治医
神埼弘  推理作家。二重人格で、「神埼」が主人格、「神崎」が第二人格
神埼朱実  神埼の妻。三階のトイレで首を吊られ窒息死
空条明日香  探偵助手
眼鏡山  頼子の死を調査しに来た探偵。灰皿で頭を殴られ死亡<東条側>
浪岡粉太郎  浪岡家の当主
浪岡弓子  粉太郎の妻。古尾谷が仕掛けた罠により転落死。当時十五歳
浪岡辰夫  粉太郎の一人息子
車山  弁護士
横崎弘  漫画家・夫
横崎朱美  漫画家・妻
東条  探偵助手
古尾谷王次郎  弓子の死を調査しに来た探偵。首を絞められ死亡
小柄な女給  首を切られる。十八歳

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 今、私はこれまでの十五年の人生で初めて雨に感謝している。
 私にとって、雨などというものはただ世界を灰色に染め、私の肌から熱を奪い、心に不安と寂寥を染み込ませるだけのものだった。屋根のない場所で寝起きした経験が、降雨に対する嫌悪となって現れているのだ。そしてそれ以上に、『降るもの』に対する恐怖心が私には刷り込まれている。だから雨は嫌いだった。
 けれど今この双草荘の窓に打ち付ける雨音と窓ガラスの神経質な振動音、それらをもたらす大荒れの空は、今この一瞬だけは私の味方をしてくれた。もしも今宵が静けき夜であったならば、今しがた眼鏡山の頭骨を陥没させた小気味良い打擲音が誰かの耳に届いていたかもしれない。
 それにしても酷い有様だ。この死体は。自ら手を下しておいてこんな感想を抱くのは不遜かもしれないが、しかし実によく死んでいる。
 かつてはこの私、空条明日香の直接の上司であり、また法律上は保護者でもあった探偵の亡骸は、これといった無念の表情も浮かべず、黙々と瀟洒な絨毯に黒ずんだ血溜りを染み込ませている。


 私が物心ついたときには、既に私を囲む四方の壁は完成していた。比喩ではない。私は気がついたら本当に三、四メートル四方の正方形の縦穴に放り込まれていたのだ。それ以上古い記憶がないのだが、おそらく生まれて一年もしないうちに私はそのコンクリートの穴の中に入れられたのだろう。
 私にあてがわれた──あるいは私があてがわれた縦穴は、元は地下貯蔵庫の設置予定地だったらしい。随分昔のことになるのだろうが、この屋敷が造られた際に向かい合う二つのバルコニーの中間に位置する庭に掘られた縦穴は、しかし貯蔵庫として使われることはなく、私の部屋になるまでは薄汚れた大きな落とし穴だった。……もしかすると、私より前にここで飼われた者がいたかもしれないが、そんなことを確かめるすべを私は持たないし特に興味もない。
 排泄か、週に一度ほど使用人の風呂へ入れて貰うとき以外は私はこの縦穴から出ることを許されなかった。天井は無く、排水も碌に整備されておらず、雨が上がった次の日には汚泥が箱の底を満たした。古いビニール傘が私を守る最後の盾だった。しかも上から降ってくるのは雨や雪だけではない。あの女──私を閉じ込めたあの母は、何か嫌なこと、気に食わないことがあると穴の上に姿を現し、底にいる私めがけて色んなものを投げ込んだ。
 そう、あの女──青波頼子。私の遠い記憶に登場する登場人物。青波武生の妻であり、双草荘を実行支配する魔女にして、──私を産んだ女。
 私は穴の外のことがほとんどわからなかったから、あの女がどこからあんなに色んなものを持ってくるのか不思議でならなかった。わざわざ中庭へ降りて私をいたぶるのが面倒なときは、屋敷のバルコニーから石を投げ入れることもあった。きっと屋敷のバルコニーには私を狙うための石が積まれていたのだろう。よくやる。一度、生きた野犬を投げ込まれたこともあったが、あのとき私はどうやって野犬を穴の底から追い払ったのだろうか。我ながらよく生きながらえたものだ。
 ……いや、それは私が誇っていい話ではない。私が曲がりなりにも人間として生きていけたのは、彼女がいたからだ。
「明日香、大丈夫?」
 彼女は穴の底に降りてくるとき、いつもそう言って私の体を気遣ってくれた。その声が聞こえると私はすぐに立ち上がって、うんっ! と命一杯元気よく返事をした。
「弓姉ちゃん、それ何?」
「これ? これはねー、遠い国のお菓子なの。一緒に食べよう?」
 彼女──弓姉ちゃんは、私の原初の記憶に登場するもう一人の登場人物で、ある意味では私にとっての全てだった。実際、彼女は私と血のつながりのある本当の意味での姉だったのだが、その境遇の違いに気づく余裕が当時の私にあるはずもなかった。ただ、彼女が穴の底にもたらすお菓子や絵本だけが私の世界を広げる糧だった。
「またこんなに……お母様も酷いことをするわね、全く。わっ、この花瓶なんて、頭に当たったら大変じゃない!」
 弓姉ちゃんは抵抗すらも知らない私の代わりに母親に憤慨し、穴の底を片づけてくれた。
「……ごめんね」
「え?」
「ん、いや……」
 時々、ふと脈絡なく弓姉ちゃんは謝罪を口にした。当時の私はそれが彼女の口癖なのかと思って特に気にしなかったが、あのとき、彼女は何を思ってその言葉を口にしていたのだろう。
 弓姉ちゃんは本名を青波弓子といった。あの性根の腐った青波頼子の娘とは思えないほどに清楚で優しく、慈愛に満ちた人だった。幼少期の私の世界はその明部を弓子が占め、暗部を頼子が占めていた。幼い子は大人とは違った枠組みで世界を捉えているというが、私にとっての世界の構成要素はコンクリートの縦穴と、穴の上の頼子、そして隣にいる弓子の三つしかなかった。
 けれど、私より九つ年上とはいえ、弓子もまた力のない少女に過ぎなかった。私に物を投げつける気の昂ぶった母親を止めることなど彼女には出来ず、穴の底へ降りてくるのも頼子の外出時に限られていた。私と仲良くしているところが見つかれば、彼女も厳しい折檻を受けていたようだった。
 それでも彼女は私の希望であり続けた。頼子が私の絶望であり続けたように。


 双草荘は古い屋敷だ。大正の初め頃、政府の高官が洋風建築を取り入れた豪奢な別荘を造るべく着工したのがその始まりらしい。その後その高官が失脚してからは、青波武生が買い取るまで碌な手入れもされていない無人の屋敷だった。屋敷の中へ足を踏み入れることを許されなかった私は屋敷の内部構造を完全には把握していないが、古い屋敷であるため、武生も知らない隠し部屋や通路が存在していてもおかしくはないだろう。
 双草荘という名が示すように、この屋敷は特徴的なシンメトリー構造を成していた。それは一つの屋敷が正面から見たら左右対称になっている、というものではない。二つの反転対称な屋敷が互いに背を向けあって立地しているのだ。二つの屋敷は東西にそれぞれ立地し、その間に囲まれた緑生い茂る中庭にはそれぞれの屋敷からバルコニーが張り出し、その中庭の中央に私の住居はあった。つまり、私の存在は二つの屋敷によって梱包されていた。
 そういった屋敷の構造が何となく理解できるような歳になっても、私はまだ自分がこの縦穴に閉じ込められている理由を知らなかった。ただ頼子を恐れ、弓子を慕うだけの日々が続いた。


 彼はいつ頃から私の前に姿を見せるようになったのだろう。これも記憶がはっきりしないのだが、恐らく三つか四つのとき辺りだろうか、弓子がある日背の高い痩せた男を連れて穴の底へ降りてきて、
「明日香、この人のことはお父さんって呼びなさい」
 というようなことを私に言ったことがあったような気がする。けれど私が彼のことをそう呼ぶと、彼は何やら神妙な、そして悲しげな表情を浮かべた。今の私には、そのときの彼の気持ちが何となくわかるのだ。実の娘が置かれている境遇を目の当たりにしながら、そこに何の干渉もできない弱い人間。けれどそんな自分の弱さを認めていながら、自分なりの愛情を娘に注ごうとする純朴な人間。私の父親は、そんな男だった。
 父は名を神崎弘という。


 私が神崎と頼子の関係をしっかりと理解したのは長じた後、言ってみればつい最近のことだ。探偵助手になり、あの人から操作のいろはを教わるまでは青波家のスキャンダルなど調べようも無かったのだ。
 私が調べ上げたところによれば、当時の神崎は駆け出しの推理作家で、ひょんなことから青波家と知り合った。そして神崎は端的に言えば青波頼子と不倫し、その間にできた子が私だったらしい。神崎と頼子がどういう経緯でそんな間柄になったかは想像するよりほかにないが、大方金と権力に物を言わせて奔放に生きる頼子に押しの弱い神崎が絡め取られてしまったのだろう。頼子に関して言えば珍しい事例ではない。
 青波夫妻は奇妙な夫婦で、互いに複数の不倫相手を持ちながら相手に対しそのことを追求しようとはしなかった。武生と頼子の間にできた子は弓子とその兄幸夫だけだったが、私のような私生児がほかにいないとも限らない。まぁとにかく、私があれだけ厳重に世間の目から隠匿されたところを見ると、青波家は私生児というものをよほど恥ずべきものとして捉えていたのだろう。


「たん、てー……? お父さん、たんてーって何?」
「ん? あぁ、探偵っていうのはね。とっても頭が良くて、強くて、悪い人を懲らしめる正義の味方さ」
 父は私が生まれた翌年には妻・朱実と結婚していたが、青波家が醜聞の種を握り潰そうとしたのか、あるいは頼子との関係が完全に切れていなかったのか、彼は結婚後も時折屋敷に招かれていた。彼はその度に私の穴を訪れ、私に絵本などを贈ってくれた。
 絵本の中に子供向けの探偵ものが多かったのは、もしかすると早く私に自分の作品を読ませたいという作家らしい思惑があったのかもしれない。
「ふーん、探偵……え、せいぎの味方とは違うの?」
「あぁ、そうか。うん。少しだけ違うな。探偵は、いつも正義の味方ってわけじゃないんだ」
「へ? んー……よくわからない」
 探偵とは何なのだろう。
 悪い人を捕まえるが、正義の味方だとは限らない。父はそう私に教えた。今思えば、随分と本質を突いた教育をしてくれたものだ。
「けどね、探偵っていうのは、とにかくかっこいいんだ。何よりも自分と言うものをしっかり持っていて、絶対に信念を曲げたりしない」
 父は目を輝かせてそう語った。
「お父さんは、探偵になりたいの?」
「ん?……いや、お父さんはなれないよ。何せ、自分ってものを最初から持っていないからね」
 あの穴の底の空間は、私にとっては独房だとしても、父にとっては心の休まる場所だったのかもしれない。彼は私に、自らの境遇を包み隠さず話して聞かせた。彼は神埼という人間の第二人格に過ぎず、非常に不安定な存在なのだと。今語る言葉が自らの意思によるものなのか、それとも神埼の意思によるものなのか、あるいは二人の意思というのは別個のものとして存在しているのか。何もかもが不確かだと、彼はそう語った。
 その人格の二重性は、彼の書くものにも大きな影響を与えているのだという。執筆を担当する神埼は、神崎から全ての情報を受け取ることが出来るとは限らない。しかし本質的には彼は一人の人間であるため、神崎が見聞き、経験したことを、神埼が無意識下で想起しそれを自らの創作として著してしまうことがあるのだそうだ。同様のことは神崎にも度々起こり、まるで自分の書いた話が現実になったかのような錯覚を覚えたこともある、と、彼は肩を竦めて笑っていた。
 自らの境遇は普段隠している父だったが、あのときは私には分かるはずがないだろうと思って気軽に話したのだろう。実際、当時の私はその話を一片も理解してはいなかった。けれど今になって思う。神埼と神崎は共生していたとはいえ、それは非常に不安定なものだった。神崎は神埼に隠し事(勿論私のことだ)をしていたし、逆に神埼が神崎に隠し事をしていないとも限らない。しかも始末の悪いことに父である神崎は時折記憶が飛ぶようで、既に私が持っている本を私にプレゼントしたり、同じ話を何度も繰り返したりしていた。


 父・神崎の次に私の小さな芝居小屋に姿を現したのは、私より三つか四つ年上の辰夫という少年だった。彼の初登場シーンはよく覚えている。何の前触れもなく穴の上に現れ、私を見下ろして笑ったのだ。そして足で土を蹴散らし、私の頭に砂を降らせた。穴の上に現れるのは良くないモノ、という私のジンクスに違わず、辰夫もまた私の生活を害する存在だった。
 当時五歳になっていた私は、弓子や神崎の教育のおかげで多少は自らの意志で行動を決定できるようになっていたが、辰夫には逆らってはいけないと私はすぐに感じ取った。辰夫もまた幼かったが、幼さ故の無慈悲さを備え、しかも自らの立場──何をしても許される金持ちの御曹司というもの──をよく心得ていた。
 ヒステリックに物を投げ入れてくる頼子とは違い、辰夫は何の執念があるのか残飯や土塊、時には汚物を投げ入れてきた。その場に弓子がいれば彼女は彼を窘めたが、弓子が不在の時に辰夫は私を縦穴の上へ連れ出し、穴の底へ突き落としたこともあった。運よく積もっていた土の上に落ちて最悪の事態は避けられたが、そのことで辰夫を咎める者などいるはずもなく、手加減を知らない辰夫の横暴は次第にエスカレートしていった。
 私はただ怯えるだけだった。辰夫は私をおばさん、おばさんと呼んでからかうが、その意味するところもわからず、ただ口を噤んで弓子が来てくれるのを待っていた。しかし弓子も立場上辰夫に必要以上の干渉を行えなかった。
 辰夫──浪岡辰夫は青波に並ぶ資産家にして由緒ある名家の当主、浪岡粉太郎の一人息子であり、そして浪岡粉太郎とは弓子の婚約相手だったのだ。粉太郎の前妻は既に病気で他界しており、その連れ子である辰夫はまさしく私の甥だった。
 婚約の話が持ち上がったのは弓子が十四の時、実際に婚約が成立したのは十五の時だった。無論法律上はこの年齢の婚姻は認められない。所謂内縁の妻というやつだ。何が浪岡家と青波家をして早婚に責き立てたのかは今もわからないが、浪岡も青波も当時は隆盛を振るい勢力拡大の一途にあったことは確かだ。政治的な駆け引きが二つの家の間にあったことは想像に難くない。
 とにかく、私の知らないところで弓子の人生は家名と大人たちに翻弄され、大きな転換期を迎えようとしていたのだった。


 辰夫が私の前へ現れたのと時を同じくして、弓子は少しずつ元気を失っていった。
 相変わらず頼子の目を盗んでは私のところへ来てくれたし、辰夫が汚した穴の底を掃除してくれたりもした。しかし、その言動の一つ一つが以前の彼女ほど溌剌としていなかったように思う。
「ねぇ、弓姉ちゃん」
「何?」
 絵本のページを捲る手を止め、彼女は私のほうを見る。
「えと……何か、変だよ? 元気ない」
 私は彼女の様子が気になって、絵本を読み聞かせる彼女の声が頭に入ってこなかった。
「あ、ごめん。疲れてるのかな。ん、いえ……何にもないから。気にしないで」
 彼女は決して自らの状況を私に話そうとはしなかった。しかし私は幼いながらに何となく彼女が置かれている立場というものを感じ取っていた。少なくとも、彼女が嫁がされるのではないか、といった程度の勘は働いていた。実際には彼女を取り巻く問題は婚姻そのものではなく、それを取り巻く大人たち──とりわけ、当時の私には知る由もないあの男の存在が大きく絡んでいたのだが。


「……ねぇ、明日香」
 ある日、弓子は私のところへ来るなり、決意を込めた真剣な目をして言った。
「ちょっと散歩に行かない?」
「……お散歩?」
「そう」
 私は最初、断ろうかと思った。これまでも何度かこっそり庭に連れ出してもらったことはあったが、つい先日頼子に見つかり大目玉を喰らったことを思い出していたのだ。だが、私は弓子の張り詰めた表情に込められた希薄のようなものに圧され、気がつけば
「うん、行きたい」
 と返事をしていた。
 弓子は軽く頷き、上へ通じる扉を開いた。その向こうにいた父と弓子は目線で頷き合い、そして三人は足早に屋敷を去ったのだった。


 それまで屋敷の外へ出たことがなかったわけではない。しかしそれもせいぜい年に一度程度で、しかも外出中は常に頼子の監視下に置かれていた。
 だからこの日が、私が初めて屋敷の外へ出た日となった。ある意味では。
 幼日の思い出はどれも曖昧でぼんやりとしているが、その中でもあの日の散歩はかなり鮮明に思い起こすことができる。あの日神崎の車で屋敷から離れたとき、神崎と弓子、そして私のたった三人で外の世界を走ったとき、私はどれほど胸を高鳴らせたことだろうか。屋敷から私を連れ出すときは人目を避けるため三人は全身に緊張を漲らせていたが、屋敷を離れてしまえば、いつも通りの、いや、いつも以上に快活で安堵に満ちた空気が私たちを包んだ。
「ねぇ、ねぇ! あれ何?」
「ん? あぁ、あれはお食事やさんよ。ほら、向こうの看板もそう」
 外の世界の景色にはしゃぐ私を、弓子は嬉しそうな笑顔で見つめていた。
「そうだな、そろそろどこかで食べていこうか? 明日香、好きなお店を選んでいいぞ」
 好きなお店と言われても、無知な私が味で店を選べるはずもない。確か、どこの店がいいかと悩んでいるうちに時間が過ぎ、結局狭い牛丼屋で昼食を済ますことになったのだと思う。それでもそのとき食べた牛丼は、それまで私が食べたどんなものよりも──いや、私が十五年間の人生で口にした物の中で一番おいしかった。


 散歩と言うにはその外出は遠くまで出向くことになったが、しかし結果的に遠出と言うほど屋敷から離れはしなかった。
 父は海辺へと私たちを連れて行き、私は初めて見る大海に心を弾ませながら砂浜を歩いた。
 やがて日が傾き、私たちは夕日に赤く染まった海岸に並んで座った。運動不足の私の体は既に疲れ切っていたが、心はまだ休もうとはしていなかった。
「ねぇ、明日香」
 弓子がふと私の顔を見、ぽつりと呟くように言った。
「楽しかった?」
「うん!」
 私は思いっきりそう答えた。
「そう。……よかった」
 それきり三人は口をつぐんだ。
 父も姉も、今日と言う日が、この束の間の自由が終わろうとしていることを感じ取っていた。もう、屋敷へ戻らなければならない時間だった。
 けれど──これは私の想像に過ぎないが、父と姉は……神崎と弓子は、口にしたくともできない言葉があったのではないか、と思う。このまま、全ての柵を振り切って、三人で逃げ出さないか、と。弓子は年の離れた婚約相手やあの男に縛られ、神崎は頼子と妻、そしてもう一人の自分に縛られていた。自由になりたい。その言葉を、父も姉も互いに誰かが言い出すのを待っており、そして互いにそれを口にすることは許されないと承知していた。
 もしあの時私がずっと三人で暮らしたいと言えば、いや、屋敷に帰りたくないとでも言っていれば、全ては変わっていたかもしれない。しかし、浮かれていた私は能天気なことに屋敷へ帰らなければならないということをすっかり失念していた。
「弘さん? どこ? いるんでしょう!」
 遠くで聞いたことのない女の声がした。神崎ははっと顔を上げ、慌てて私を車の陰に押しやった。
「やっぱりここにいたんですね。……そちらの方は?」
「あ、朱実……どうしてここに?」
 女の声が近づき、私は狼狽した父の様子から只ならぬ気配を感じ取って車の陰に身を隠した。
「いえ、ね。妻が夫に寄り添うのは当然のことでしょう?」
 女──神埼朱実は含みのある声でそう言った。
「あぁ、でも迎えに来るのが随分と遅くなってしまって、本当にごめんなさいねぇ。眼鏡山さんには感謝しないと」
「眼鏡山……」
 弓子が細い声でその名前を繰り返した。私には聞き覚えのない名前だった。
 私はそっと顔を上げ、弓子の顔を覗き見た。弓子の表情は青ざめ、その口は古尾谷と呟いた形のまま凍り付いていた。


 無断で外へ出たことで、私は頼子に厳しい折檻を受けた。青波家の友人である神崎や嫁入りを直前に控えた弓子を懲罰することなど頼子がするはずもなく、全ての矛先は私に向けられた。足蹴りにされ、穴に落とされ、色々な物を投げ込まれた。そのとき投げ入れられたものの中で一番重かったのは古い陶器だった。頭に直撃しなかったのは幸いだったが、破片が目に入り、そのために私の視力はぐんと下がった。
 弓子は中庭へ入ることを禁じられ、邪魔がなくなった辰夫は面白がって母の真似をした。私を生き埋めにでもしようとしたのか、シャベルで庭の土を掻いて何度も私の上に降らせた。だがすぐにやめてしまい、何を投げ込めば最も愉悦が得られるか彼は考え込んでいた。
 やがて弓子は入籍し、浪岡姓となった。これは後からわかった話だが、浪岡粉太郎と息子の辰夫、そして弓子は双草荘の半分を住居とすることになった。対称な二つの屋敷によって構成される双草荘の西側は、この時点で浪岡家の土地であるというように登記も改められたそうだ。一まとめに双草荘と言っても二つの屋敷を繋ぐ通路は存在せず、弓子は半ば浪岡家側に監禁されたような生活を送っていたらしい。そのため、彼女が私に会いに来ることはなくなった。
 神崎は三人の外出の後も折に触れて私の様子を見に来てくれたが、しかしさすがに肩身が狭くなったのか、いよいよ自分の立場も危なくなってきたかもしれない、と零していた。どう考えても六歳の女児に薦めるような内容ではないような分厚い本などを持ってくるようになったのは、心のどこかで私との別れが近いことを予感していたのかもしれない。
 頭上の青天井を除き、外の世界との繋がりはその一切が絶たれた。
 私は度重なる折檻に疲れ果て、傷の痛みに耐えながら日々をやり過ごした。


 そんな頃、よく晴れた日の午後。
 全く唐突に何の前触れも無く、私の縦穴へ投げ込まれたものの中で最も印象的なものが空から降ってきた。


 弓子だった。




 あまりに突然のことだったため、私は弓子が死ぬ前後のことをはっきりとは思い出せない。
 直前に、木の柵が壊れる乾いた音と、短い悲鳴を耳にしたような気もする。それできっと顔を上げたのだ。おや、何だろう、と。だから、私は目の前で姉が硬いコンクリの地面に頭部と肩を打ちつけ絶命するその一部始終を目撃した。
 一瞬の出来事だった。
 地面に激突した瞬間に悲鳴が聞こえたような記憶もあるが、あれは断末魔だったのだろうか。衝撃で肺から押し出された空気の音が声のように聞こえただけかもしれない。何せそれは弓子の声にしてはあまりに低くて鈍かった。
 ボールのような形状であれば多少重くとも落下すれば地面で弾むのだろうが、頭部から落下した弓子はその衝撃が胴体を突き抜けたためにバウンドすることはなかった。ただ頭骨や肋骨に包まれていたものを零しながらぐしゃりと潰れるだけだった。
 弓子は大変おぞましく忌まわしく、汚らわしく無残に凄惨に、そして綺麗に死んでいた。綺麗に、というのは、誰もが──当時六歳の私ですら、一目見て絶命してると判断せざるを得ないほどに、完膚なきまでに死んでいるという意味だ。
 一瞬の時が流れ、そして次に永い静寂が訪れた。
 私は穴の隅に座ったまま動けなかった。上空を通り過ぎる風の声を頭の片隅で聞きながら、私の頬に飛び散った姉の血が冷たくなっていくのを感じていた。


(担当・ikakas.rights)

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 まだ続きます。続きはもう少しお待ちを。