blue-ryu-comic blue-spring-jojo その11(2)

 誰も教えてはくれなかったが、警察の見解では姉は事故死ということになった。バルコニーの柵が老朽化しており、弓子がそこへ体重をかけた途端運悪く柵が折れ、彼女は中庭へ転落したのだそうだ。さして入念な捜査も行われずに彼女の死は過去へと流された。
 神崎が私の前へ現れることはそれ以降なくなった。屋敷へは何度か訪れていたようだが、屋敷の者が中庭へ近づくことを許さなかったのだろう。あるいは、裏を取ったわけではないが、恐らく神崎は弓子の死によって私の存在を忘れてしまったのだ。三人で外出したとき、もし神崎が決意を固めて私たちをそのまま連れて逃げていれば、あの屋敷に渦を巻く陰謀から弓子を救うことができたかもしれない。その自責の念が彼の存在を押し潰そうとした。彼はそれから逃れるために、私と弓子のことを記憶から消した──いや、これはさすがに都合の良すぎる考えか。いずれにせよ本当のところはわからない。
 頼子もまた穴の中へ物を投げ込むことに不吉さを覚えたためか、以前ほど穴の上に姿を見せることは無くなった。その代わりに、辰夫はいよいよ私を甚振ることに快感を覚えるようになったらしく、私の立場は頼子の憂さ晴らしの道具から辰夫のお気に入りの玩具となった。

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 それからの数年間は空虚な日々が続いた。義務教育を受けなければならない年齢になっても私は穴の底から出されなかった。戸籍や保険は一応あるはずなのだが、一体青波家はどうやって世間の目から私の存在をごまかしていたのだろう。
 私は父に貰った本を繰り返し読むことでどうにか単調な毎日を堪え忍んでいた。それくらいしかやることがなかったのだ。何百貢もある本を暗唱できるようになるほど読み込むうちに、私は少しずつ心の内に希望の火を灯すようになった。いつまでも閉じこめられたままでいたりなんかしない、いつかここを出てやろう、私はそう繰り返し自分に言い聞かせた。
 それらの本はほとんどが推理小説だった。


 転機は向こうからやってきた。悪運という形をとってはいたが、それは紛れもなく全てを変える好機に違いなかった。
 ある晩、辰夫が私の穴の底へと降りてきた。そんなことは初めてのことだった。私は驚き、そして彼の後ろに彼の友人らしき少年が数人いるのを見て身の危険を直感した。辰夫は友人に私を取り押さえるように命じ、下卑た笑みを浮かべて私に迫った。
 けれど、そんな状況に置かれたときに私の心に浮かんでいたのは、私を陵辱しようとする下衆どもに対する恐怖などではなく、彼らが開け放した扉の向こうに見える希望だった。
 恐らく、二、三人の少年を私は傷つけたのだろう。夜目が利かない私は無我夢中で投げ込まれた陶器の破片を振り回した。肉を突き刺す感触はあったし、辰夫の悲鳴も聞こえた。だがそんなことに構っている暇はない。私は勘を頼りに扉をくぐり抜け、階段を駆け上り、あとは脇目もふらずにひたすら闇夜を駆け抜けた。


 屋敷を飛び出したからといって行く宛などない。せめて神崎の住所を知っていれば彼を頼ることもできたのだろうが、しかし彼が私のことを忘れている可能性は高そうに思えた。警察や相談所に駆け込むという選択肢もあったのだろうが、私には怖くて選べなかった。大人に対する──というより、他人に対する不信感が強かったのだ。
 文字通り路頭に迷っていた私に、最初に声をかけたのが彼だった。
「おや、どうしたのですか? 随分と酷い格好をなさっていますが」
 妙な青年だった。歳は十代か二十代か、外見からは正確に判断をつけることができなかった。端正で、しかし表情の薄い顔立ちに小さい眼鏡。どこにでも売っていそうな特徴のない服装。信じようにも疑おうにも、彼の第一印象は私に何の手がかりも与えなかった。
 彼は東条と名乗った。変わった名前だと、そう感想を言った覚えがある。実際、かなり珍しい名前だ。その名前に負けず劣らず本人も珍妙な人間だった。
「私の推理によれば、あなたは帰る家がない。違いますか?」
「……まぁ、そう、だけど」
「では行きましょう」
「え?」
 東条は初対面の私の手を躊躇いもなく取り、すたすたと歩きだした。
「あのー……東条、さん?」
「お腹を空かしておられるようですね。しかし拾い食いは感心しません。どうやら長い間まともな食事を与えられなかったとお見受けしますが、口に入れる物は選ばなければ」
 私の手を引いて歩く東条はそこでさっと振り返り、
「私は何でもお見通しです。なぜなら私──探偵ですから」
 と言って中指で眼鏡を押し上げた。
「まぁ、正確には探偵助手ですが」


 私は彼に連れられるまま、眼鏡山妻鹿男の探偵事務所へ転がり込んだ。眼鏡山は探偵を名乗る割には知的には見えず、どこか陰険で倦怠な雰囲気を漂わせる中年男だった。事務所の経理は東条が仕切っているらしく、私には探偵より探偵助手の方がずっと優秀に見えた。
 眼鏡山の名を私はすぐに思い出し、しばらく時間が経ってからこっそり事務所の調査記録を調べ上げた。案の定、四年前に彼が神埼朱実から夫の素行調査依頼を引き受けていたという記録を発見した。なぜ朱実が神埼の素行を調査しようとしたのか、そこまでは知り得なかった。しかしその理由を想像することはそう難しくはない。考えてみれば神崎は私や弓子のことを神埼に隠していたのだ。妻である朱実にも同じように隠していたとしても不思議はない。それで彼の挙動を不審に思った朱実が調査を依頼したのか、と、そのときの私は安易に決着をつけ、屋敷のことを思い起こさせるこの一件を可能な限り早く忘れようとした。


 それから、私は探偵助手として外の世界で暮らし始めた。青波や浪岡の呪縛から逃れるため、東条の漢字から一字をもらい、空条明日香と名乗った。空の字を入れたのは、穴の底から見上げていたあの狭い空の下を今歩いているのだと自分に言い聞かせるためだ。まぁ、自分の好みでつけただけあって実在しない苗字なのだが。
 外の世界。かつて私が憧れを抱いていたほどの晴れやかな自由はそこにはなかったが、しかし自らの足で歩くことを許されている道が無数にあった。探偵業務を手伝いながら、私は少しずつ世界と言うものを学んでいった。
「というわけで、この案件はこれで決着、ということになりそうですね」
 夕暮れの事務所に東条の平板な声が響く。眼鏡山は既に帰宅していた。私は東条から書類の束を受け取り、バインダーに収めた。
「お疲れ様。あーっ、何か疲れたなぁ……」
「明日香もお疲れ様でした。今回のあなたの働きはなかなかに見事でしたよ」
 働きというほどのことはしていない。東条に言われたことを諾々とこなしていただけだ。
「……ねぇ、東条君」
 私はふと以前から気になっていたことを尋ねてみる気になり、東条に向き合った。
「何でしょうか?」
「どうして眼鏡山さんの下で働いてるの? 眼鏡山さんって、その……そんなに探偵としては優秀じゃないし、東条君くらいの実力がある人なら、もっといい環境にいるべきだと思うんだけど」
「ふむ」
 東条は口元に手を当てて短く息を吐いた。
「まぁ、誰にでも色々な事情があるということですかね。あなただってそうでしょう」
 何だか意味ありげな言い方だ。
 私は自分からは自らの身の上を話していないのだが、彼には全て見通されているような気がする。何せ探偵だから。この人は。
「……どうして、私を拾ったの?」
「事務所のためです。人手が足りなかったもので」
 とても簡潔な答えが返ってきた。はぐらかされたのかそれが真実なのか、私の目をまっすぐに覗き込む彼の双眸からは読み取ることが出来なかった。


 月日が流れ、私は十五になっていた。……弓子が死んだのと同じ歳だ。
 探偵事務所で暮らすうちに少しずつ過去の忌まわしい記憶から解放されつつあった私の耳に、数年ぶりに青波という名前が聞こえた。
 青波頼子が死んだ。双草荘のバルコニーの床が老朽化しており、彼女の体重を支え切れず崩落、彼女は庭に落下し、首の骨を折ったのだそうだ。警察は早々に事故と断定したらしく、事件は新聞の片隅に小さく記事が載る程度のものとして扱われた。
 無論その記事を読んで私は衝撃を受けたのだが、この案件について真っ先に動いたのは眼鏡山だった。普段はものぐさなこの中年探偵は、どういうわけか自分から青波に連絡を取り、探偵のほうから半ば無理矢理に依頼を取り付けたのだ。どうも眼鏡山は青波翁に直接交渉し、九年前の弓子の事故死と今回の頼子の事故死を関連付け、その類似性から頼子の死に事件性があると青波に吹き込んだらしい。青波は眼鏡山の扇情的な口跡に後押しされ、結局は彼のほうから眼鏡山に事件の調査を依頼する形となった。
 かくして私は五年ぶりにあの屋敷に戻ることとなる。


 私は初め眼鏡山について屋敷に戻るかどうか躊躇っていたが、現在の双草荘の状況を聞いて調査に加わる決意を固めた。眼鏡山によれば、青波家と浪岡家は今非常に険悪な間柄にあり、同じ名を冠する屋敷に住んでいながらほとんど互いのことを無視しているのだそうだ。関係が悪化した原因は双方の資産家としての利害が一致しなかったことにあると眼鏡山は分析していたが、私はそれだけではないと思う。私はあの屋敷を脱出するときに浪岡辰夫を傷つけた。私は曲がりなりにも青波頼子の娘であり、青波家の管理下(実際は頼子の管理下だが)にあった。そんな私が浪岡の一人息子を傷つけ、逃げ出したのだ。それが浪岡と青波の間に深い溝を掘ったのではないだろうか。私はそう考える。
 しかしそのおかげで私は青波家に戻ることができた。頼子がいなくなってしまえば青波に私の顔を覚えている者などいないし、辰夫と顔を合わせる心配はない。何せ浪岡は青波に一切干渉しようとしないし、逆もまた然りだからだ。


 何故眼鏡山がこの事故に異様なまでに興味を示したのか、私は最初わからなかった。しかし青波翁を説得する彼の様子が何やらただならぬ気迫に満ちていたことから、ある推論が私の中に芽生えていた。
 彼は屋敷へ来ると更なる奇行に及んだ。彼は青波邸の調査と同時に浪岡邸の調査も行ったのだ。頼子は青波邸のバルコニーから庭へ落下したのであって、浪岡邸を調べる必要はないはずなのだ。彼の言い分では双草荘全体の陰謀である可能性もあるため、とのことだった。
 しかも彼は浪岡邸に行くときは偽名を用い、変装までした。名探偵・古尾谷王次郎、だそうだ。この格好つけた名前は偽名というよりは通り名のようなものらしく、探偵職務で名を伏せるときはかなり昔から好んで使っていたらしい。しかし、何故浪岡の調査において名を伏せる必要があるのかは彼は話さなかった。
 浪岡粉太郎には十五年前の弓子の死を再調査したいという申し出を半ば強引に押し付けた。私と東条はそれぞれ青波、浪岡で助手を演じるよう命じられた。
 私たちが双草荘へ来たのは頼子の死から三週間ほど経った後で、その頃には警察はすっかり引き払っており、青波の屋敷は陰鬱な空気に沈み込んでいた。東条によれば、浪岡の方は誰もが頼子の死を毛ほども気にしていない様子なのだという。両家の溝は恐ろしく深く、あらゆる交流は断絶されていた。
 眼鏡山は二つの家を行き来して調査を行った。初めのうちは青波家のバルコニー周辺などを調べていたが、次第に浪岡家を中心的に調査するようになった。向こうでどのような調査が行われているのか私にはわからなかったが、私の頭には常に嫌な想像が付きまとって離れなかった。
 私は東条に言われ、眼鏡山が青波家にいる間は常に彼から目を離さなかった。彼は家人への聞き込みなどはほとんど行わなかった。私がそのことをこっそり東条に告げると、彼は満足げに頷き、
「でしょうね」
 とだけ言った。


 調査を始めてから六日目の晩。つまり今日……数時間前のことだ。
 調査はさほど進んでいるとはいえなかった。というよりも、私の見たところでは頼子の死は完全にただの事故なのだ。バルコニーの土台は確かに老朽化していた。崩落しなかった箇所を歩いても床はぎしぎしと軋み、非常に危険だった。
 頼子の死は単なる事故で、眼鏡山の調査はそれを無理に過去の事件とこじつけようとしているようにしか見えなかった。
 眼鏡山はこの日、どういうわけか青波家、浪岡家の関係人物を屋敷へ呼び寄せるよう武生と粉太郎に言いつけていた。つまり青波武生の友人である神埼夫妻と主治医の輿山、粉太郎の友人である横崎夫妻と弁護士の車山だ。ひょっとしたら推理ショーでも始めるつもりだったのか、となると誰を犯人として摘発する予定だったのか気にはなるところだが、しかし先を越されてしまっては彼とてその活躍を諦めざるを得なかっただろう。
 眼鏡山はその日も古尾谷として青波邸にいた。私は集まってくる客人に応対しながら探偵は今部屋で思考に耽っているといったような言い訳をしていた。
 私の中には一つの予感が芽生えていた。推理ショーをする気なら、何かを決断したか何かに思い至ったかしたはずだ。その何かを、私はどうしても事前に確かめなければならない。そんな気がした。
 そして私は発見する。眼鏡山の鞄の中にあった彼の財布に、古びた弓子の写真が収められていたことを。


 眼鏡山が何らかの形でこの屋敷に関係しているというぼんやりとした予感は的中していた。私は徐々に強まっていく雨の中、中庭を一直線に横切って浪岡邸に駆けつけた。浪岡には来るなとの言いつけだったが、そんなことを気にしていられるほど私は冷静ではなかった。
 浪岡家一階の古尾谷の部屋の外まで来たとき、中から話し声が聞こえ、私は身を隠しながら聞き耳を立てた。
「わ……私が一体、何をしたのだと……」
「あぁ、予め断っておきますが、これから私が話すことは全て憶測です。所謂、確証は無くとも確信はある、というやつですね」
 話をしていたのは何やら狼狽した様子の古尾谷──眼鏡山と、平然とした顔で彼に対峙する東条だった。
「まず私がどこまで情報を手に入れているのかと言いますと、世間に公表されている以上のことはほとんど私も知り得ません。まず、九年前にこの屋敷で一人の少女がバルコニーから転落死したということ。更に先ほど屋敷の方に窺いましたが、彼女──浪岡弓子は老朽化した柵から身を乗り出そうとし、結果柵が折れて転落した、ということです」
「そんなことは、……それがどうしたと言うんだ?」
「次に」
 東条は眼鏡山の言葉を気にせずに落ち着き払った口調で喋る。
「あなた、つまり古尾谷こと探偵眼鏡山氏が探偵業務以外の何らかの目的を持ってこの屋敷を訪れたこと。これは普段のあなたの勤務態度とここでの奇妙な行動を比べれば客観的に明らかですね。それに加え、あなたは妙な行動が多かったですね。何故変装をする必要があるのか。ここは可能性として挙げられる様々な論を待たず、会いたくない知り合いが浪岡にいる、という最も自然な推論を採択しましょう。そもそもあなたは何故青波邸ではなく浪岡邸を詳しく調べたのか。これもまた最も単純かつ安易な推論により、あなたは頼子女史の死より弓子女史の死のほうが関心があった、と考えられます。さてさて」
 水のように流れる東条の推理に、私も眼鏡山も呆然と聞き入っていた。
「最も奇妙な行動は、あなたがこの浪岡邸のバルコニーを調べたときの挙動です。あなた、最初に浪岡邸へ足を踏み入れたとき、まず最初にバルコニーを調べましたね。何故ですか?」
「私は、今回の事故と九年前の事故の関連を調べていたのだ。二つの事故は客観的に言って類似点が多い。そのためには九年前の事故現場であるこちらの──」
「それならば何故バルコニーの東側を調べたのです?」
「……え?」

「あなた、まず最初にバルコニーの東側を調べましたね? 私はこの屋敷でのあなたの行動をずっと見ていましたので、あなたが何よりもまずバルコニーの東側の柵に興味を示したこともしっかりと記憶しています。さて、頼子女史は青波邸のバルコニーの南側から転落しています。通常の感覚であれば、対称形にある浪岡邸のバルコニーへ来たときにいの一番に調べるのはやはりバルコニーの南側ではありませんか?」
「そっ、どこを調べようと私の勝手だろう! 第一、九年前の事故はバルコニーの東側から転落しているんだ。バルコニーは作り直されていたが、そこを調べるのは当然だろう」
「お詳しいですね」
 東条が、ずい、と一歩眼鏡山に歩み寄る。
「警察はマスコミに現場を公開していませんよ。報道されたのは、ただバルコニーからコンクリの縦穴に落下した、という事実だけです。何故東側から転落したと言い切れるのですか。あなた、そういった類の聞き込みをこの家の者には行っていませんよね」
 青波邸でもそのような聞き込みはしていなかった。
「それは単純な推理だ。東側から転落しなければ、庭の中央にある縦穴には転落しないだろう」
「いやいや、実にお詳しい。しかし──」
 東条は窓の外、中庭のほうへ目線をやった。
「縦穴なんてもうありませんよ」
 東条の言葉で私はようやく気づいた。双草荘へ来てから中庭へは近づかないようにしていたため見逃していたが、先ほど中庭を横切ったとき、確かにあの縦穴はどこにもなかった……。
「昔──五年ほど前に埋め立てられたそうです。今中庭を見ても埋め立て跡には芝生が生い茂り、縦穴がどこにあったかはわかりません。ではあなたは何故縦穴が庭の中央にあったことを知っているのです? 念押ししておきますがあなたはこのことも聞き込みしていません。となると、あなたは縦穴が埋め立てられるより前にこの屋敷のことを詳しく知っていた、という推察が成り立ちます」
「そ、それは……」
「最後にもう一点だけ、私が気になっていることがあります」
 東条は眼鏡山の背後に回りこみ、彼に囁くように言った。
「頼子女史は床が崩落して亡くなった。それなのに何故、あなたは真っ先にバルコニーの柵を確認したのですか? 弓子さんが床が崩れて落ちたのではなく柵が折れて落ちたということを、ここへ来た直後に既に知っていたのは何故ですか?」
 眼鏡山は何も答えられず、東条は声を低くして断言する。
「弓子さんを殺したの、あなたですよね」


 私が我に返ったときには、既に眼鏡山は冷たくなって床に横たわっていた。
 確か東条の推理ショーが終わった後、眼鏡山は色々と自らの過去を語っていたような気がする。粉太郎より先に弓子に目をつけ、妄執的な愛情を抱いていたとか、婚姻が許せなかったとか、何とか。けれどそんなことは私の耳にはこれっぽっちも入ってこなかった。東条が部屋を出ると私は部屋へ踊り込み、眼鏡山に掴みかかり彼のネクタイで彼を縊っていた。
 頭が冷えるまでどれほどの時間が過ぎたのか、よくわからない。すぐに私は逃げ出して庭に出た。外で聞き耳を立てているとやがて浪岡の者に眼鏡山の遺体が発見され、東条が現場保存の理由からその部屋を立ち入り禁止にする頃には、降り注ぐ雨によってかある程度冷静な思考が戻っていた。
 それから私は考えた。眼鏡山がいなくなれば、今度は青波の者が不審がる。私が疑われるか、さもなくば彼を探して浪岡まで来るかもしれない。そんな状況になったらどうする? 眼鏡山と古尾谷が同一人物であることがわかれば当然私と東条に注目が集まる。今、最も危険なのは東条と顔を合わせることだ。東条なら私の犯行だと容易く見抜いてしまう。それだけは避けなければならない。
 ──一つだけ、危険ではあるがいい方法がある。眼鏡山が死んだことを青波の者にも教えるのだ。しかも青波の屋敷の中で。探偵の死体を発見した青波はどうするだろう。外部犯の更なる襲撃を恐れて厳重に屋敷の扉という扉を閉ざすに違いない。そうすれば東条や浪岡の者が青波の屋敷を訪れても容易には門戸を開かないはずだ。ひとまずこの場は凌げる……。


 そうして、私は今、こうして血まみれの灰皿を片手に立ちすくんでいる。青波の屋敷で死んだことにしなければならなかったため、また外部犯の犯行を匂わせるため、部屋にあった灰皿で眼鏡山を二度殺した。
 これで、とにかく雨が上がったら逃げ出して──そうだ。また逃げればいいのだ。
 五年前も私はそうして逃げ出し、そして新しい生活を手に入れたではないか。
 大丈夫、何とかなる。
 逃げてやる、何としてでも──。
 自らを鼓舞しながらも、私の脳裏には眼鏡山を追い詰めたときの東条の冷徹な目線が表情がちらついていた。



(担当・ikakas.rights)

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 恐ろしいことにまだ続きます。