何も無かったらかかないでね! その1

「ありがとう」
 その言葉を聞いたのは今から三年と少し前、僕がまだ小学六年だった年の初冬。その日は珍しく雪が積もっていて、友達が皆はしゃいでいた事をよく覚えている。彼女は窓から外を眺めながら、しかし他の子供達よりも明らかに大人びた様子で、僕に語りかけた。それが他ならぬ、ありがとうという言葉。仄かで幼い僕の恋は、その時終わりを迎えた。
「バカ」
 その言葉を聞いたのはついこの前、僕が中学三年だった去年の真夏。いつもと同じ様に暑さが身にしみて、誰もが机に突っ伏していた一日だったと思う。あいつは眉をしかめて見下ろしながら、更に鋭い眼光を添え、僕に苦言を投げかけた。それが他ならぬ、バカという言葉。巨大でいつまでも答えに辿り着けない僕の疑念は、その時膨らみ始めた。


 頬に当たる風が心地よい。自転車を走らせる僕を、太陽は四月にしては若干強めの光で照らしている。少し、暑いだろうか。
 先に見える正門の周辺で、多くの生徒が談笑に興じている。笑顔と不安げな顔が同じフレームに収まる光景を見て、僕は春を実感した。自転車を降りると、サドルに桜の花びらがひらひらと舞い降りて。そんな些細な出来事で微笑む事の出来る僕は、きっと新しい生活に心を浮き立たせているのだろう。
 ヒナたちが成長を遂げ、大空にはばたつ。別にその光景を実際に目にしたわけではない。しかし燦々と輝く太陽のもと、広がる大空を仰ぎ見た僕の心には、確かにその様子がフルカラーで浮かび上がっていた。未知の世界に怯えていたヒナ達が、意を決して飛び立つその姿。きっとその時初めて、彼らは「彼ら」になれるのだろう。
 そう、まさにその日は晴天だった。ため息が出るくらい透き通った空に、羊雲が二、三頭優雅に泳いでいく。それはもしかしたら、僕の心を反映した描写なのかもしれない。しかし確かにその水色の空は、僕の頭上で無限に広がっていた。
「おはよう」
「あぁ、おはよう」
 前方から聞こえた声の主を探すと、そこにいたのは中学からの親友、田所修一。いつもよりも明らかに大きな声で返事を返す僕に、不思議そうな表情を向けていた。
「クラス分け、貼り出されてるけど」
「けど?」
「……いや、何でもない」
 何だよそれ、と言おうとして、しかし僕の口からその言葉が発せられる事は遂になかった。修一は言葉の後すぐに左ポケットから携帯を取り出し、わざとらしい程にまじまじと画面に見入っていて。きっとそれは、彼なりの配慮、あるいは優しさなのだろう。中学から培ってきた暗黙の了解の様なものが、僕の追及の鎌をゆっくりと降ろしたのであった。
 それに、修一が言おうとしていた事は何かとか、ふいに聞こえた歓声が歓喜か失望かとか、そんな事はどうだっていいのだ。大切なのは僕が今こうして、高校生活を迎えようとしている事。過去を忘れて前を向き、新しい自分になろうとしている事。ただそれだけ。巣立つヒナ達は、残されたかつての巣の事など気にしない。彼らの瞳に映るのは、自らが切り開いてゆく大空の道だけなのだから。
 黒山の人だかりの中。すみません、ごめんなさいという声が何度聞こえた事だろう。先に進むたびに気持ちが高揚して、密かにその声を数えて微笑んでしまう自分がいた。その戯れが、いつの間にかただの数字になってしまっても、それでも僕は笑っていた。数が大きくなる事自体が嬉しかったのかもしれない。しかしそんな事をしていたせいか、気が付くと自分の口元から「すみません」が聞こえて。喧噪の中、さすがに携帯を閉じていた修一が、クスリと笑った。
「何だよ」
「いや、別に。それより、あれ」
「え?」
 僕の胸の高鳴りは、その時遂に頂点に達した。人の波が途切れたかと思うと、目の前に広がった大きな白。細々とした字が並んだその予言書に、人々の視線がひたすらに向けられていて。それは様々だが、しかし皆一様にどこか期待感を伴った視線だった。
 下駄箱に続く扉の窓に貼り付けられた、何の変哲もない紙を、こんなにも多くの人々が見つめている。なぜだか僕は、その風景を記憶に残しておきたいと思った。いや、それは多分少し違う。その時の自分の気持ちを、そんな他愛もない一瞬に感慨を覚える自分自身を、覚えておきたいと思ったのだ。本当に変わり始めた自分を、好きになりかけていた。大嫌いだった自分に、決別できそうな気がした。
「これか」
「あぁ」
 それなのに。
 「バカ」
 その言葉を聞いたのはついこの前、僕が中学三年だった去年の真夏。いつもと同じ様に暑さが身にしみて、誰もが机に突っ伏していた一日だったと思う。あいつは眉をしかめて見下ろしながら、更に鋭い眼光を添え、僕に苦言を投げかけた。それが他ならぬ、バカという言葉。巨大でいつまでも答えに辿り着けない僕の疑念は、その時膨らみ始めた。
 夏目有紗。何気ない会話を突然の起立によってやめ、僕の目をじっと睨めつけた後、彼女はやはり突然に僕の前から立ち去っていった。
 「ありがとう」
 その言葉を聞いたのは今から三年と少し前、僕がまだ小学六年だった年の初冬。その日は珍しく雪が積もっていて、友達が皆はしゃいでいた事をよく覚えている。彼女は窓から外を眺めながら、しかし他の子供達よりも明らかに大人びた様子で、僕に語りかけた。それが他ならぬ、ありがとうという言葉。仄かで幼い僕の恋は、その時終わりを迎えた。
 藤村雪帆。何も知らなかったあの頃、不思議な魅力にこころ惹かれ、勇気を振り絞ってそれを告白した僕を、彼女は濁った謝意で置いていった。


 いくつもの記憶が、一瞬でフラッシュバックした。そんな、そんな馬鹿な。そんな事、あるわけがない。噴き出る冷汗は、しかしそんな説得では到底納得してくれず、いつまでも止まらない。
 だって有り得ないではないか。有紗がこの高校を目指していたなんて噂は高校時代一度も聞いていないし、藤村さんにいたっては、あの時、私立の中高一貫校に合格していたのだから。
 同姓同名に違いない。そう思い込んで何とか足を動かした。そうでもしなければ、日付が変わってもその場に立ち続ける事になると思った。その時の僕には知り得なかったのだ。自分の高校生活が、明るい希望ではなく、黒い影によってページをめくられ始めた事など。


(担当:エンディミオン

小学6年初冬  藤村雪帆との別れ 「ありがとう」
中学3年真夏  夏目有紗との決別 「バカ」


最後まで書いてびっくりしました。
何だ、このぼんやり感は!
ちょっと設定が粗過ぎましたかね。まぁ、広がりの可能性こそがリレー小説の醍醐味だと言う事で、勘弁してください。
次は確か雪緒さんだったと思います。広がりを期待しています。