キャピタルCインカゲイン その1

 稲玉士がテレビをつけると、昼のワイドショーをやっていた。話題は、先日千葉で起きた謎の怪死事件である。いつも事件のあった近くをたむろしていた若者グループ5人が焼死体で発見されたという。警察では、事件と事故の両方の面から調べると発表されたが、少なくともこの番組では事件として扱っている。若者たちの評判は最悪で、動機がありそうな人間はいくらでもいた。だけど、いったいどうやって殺したのか、皆目見当がつかないらしい。現場の焦げ跡から、殺害現場は間違いなくそこであるはずなのに、彼らの遺品以外、燃えたものは何も見つかっていないという。別に問題なんじゃないかとも思うが、彼らいわく、殺すのならガソリンか何かを撒くだろうとのことだ。ようは大騒ぎしたいだけなのだろう。彼らに天罰が下ったのだと言っている。一応述べておくとその日は快晴で、雷なんて落ちてはいないし、だいたい本当に彼らに天罰が下ったのならば、日本だけでもあと百人は死んでいるはずだ。ただし、超自然的現象であることは間違いなかった。人口の集中具合からいけば、東京近郊にいる数はおそらく一番多い、そのうちの誰かが、この事件を起こしたのは明白だった。
馬鹿だよな。ひとり呟く。こんな事件を起こせば、目立ってしまう。そしてこの情報からでも、おおよその見当を付けられる人物はいるだろう。そう思いながらも、HDDレコーダーに切り替える。そんなものに興味はなかった。別に黙って消されるつもりはないけれど、わざわざ自分から動く気はない、ということだ。それにこのこと自体、命をかけた戦いというよりは、単なる暇つぶしとしてとらえている。暇つぶしは暇つぶしだから、真剣にやるつもりなど毛頭なかった。買い置きしてあるスナック菓子をほおばる。そこには、いつもと変わらぬ日常があった。
 一月七日、冬休みが終わり、新学期が始まった。特別仲のいい友人などいないので、黙って席につき、チャイムが鳴るのを待っていると、聞こうとしなくても教室内の話し声が聞こえてくる。「ねえ、今朝のニュース見た?」声は女子のもの、同じクラスなので当たり前だが、どこかで聞いたことのある声だ。ただしそれが誰なのかはわからない。ただ驚きなのは、彼らが朝のニュースを見ていたということである。そんなもの、一度たりとも見たことがない。ただ、それが話題に上るのだから、何かしら派手なことなのかもしれない。もっとも、朝のニュースと言っていたし焼死事件のことではないだろう。知らず声のするほうに耳を傾ける。だがそれが一体どんな事件なのかは、結局わからずじまいだった。
 それがなんなのか分かったのは、家に帰って、テレビをつけた時のことだった。テレビには瓦礫の山が出ており、警視庁倒壊の文字が画面左上に映し出されている。つまりそれは警視庁の建物ということか。ただし、倒壊というほどかわいいものではなかった。たぶん粉砕といったほうが語弊は少ないだろう。庁舎だけでなく、その周囲も含めて被害は莫大なようだ。どれほどのものなのかははっきりとしない。犯人のことは馬鹿第二号と呼ぶことにする。
 その時はすぐにでもこの馬鹿第二号は殺されると思っていたのだが、悪運が強いのか、それとも少しは頭が回るのか、いや、それはないな、ともかくまたしても大事件を引き起こした。それは警視庁崩壊の三日後、一月十日のことだった。それも、今度は国会議事堂崩壊ときた。常会が行われていたため、多くの大物政治家が死亡し、ほとんどクーデタに近いものがあった。誰かが、というよりも誰もがこれをテロとして扱った。確かにそれは、実際テロなのだ。もっとも、この馬鹿第二号が死ぬのはおそらく時間の問題だが。


 その時どうして水附花梨がその場所にいたのか、それは誰にもわからない。経緯からいえば、誰かが気まぐれでそこに行こうと言い出して、結局その意見が採用されたというだけの話である。本当は行きたくなかったのだけれど、そう言うと白けてしまう気がしたのであえて反論はしなかった。だけどそのことを、すぐに後悔した。そもそもあんな状況になってしまっては、後悔しないほうがおかしい。たぶん普通なら、三回は死んだと思う。
 花梨はその赤い鉄骨を見上げた。思えば、それが最初の、運命の分かれ道だった。赤い塔は天を衝く勢いで伸び、いったいどれほど高いのか、その先端は、途方もないくらいかなたにあった。ただその厳かですらある姿を見せたのはほんの一瞬のこと、直後に鉄塔は、音もなく迫ってきていた。ドオオオンという、鼓膜が破れそうなほどの音が聞こえ、土煙が舞う。何が起きたのか、理解できない。ただ、何かが起こったということだけはわかった。そしてそれが、とても大きな災厄だということも。
ようやく土埃が収まると、変貌した景色が目に飛び込んできた。赤い鉄塔が地面に横たわり、民家やら電柱やら、その他もろもろを押しつぶしている。ただ、自分の周りだけは鉄骨のほうが大きくひしゃげ、ちょうど自分を避けるかのようになっている。しかし一緒にいた友人の姿はなく、かわりに足元に、鉄塔よりも鮮やかな赤の液体が滴っている。とっさに自分の身は守ったものの、思わずしりもちをついてしまい、腰から下にはべっとりと血がついてしまった。その上腰が抜けてしまったらしく、立ち上がることもできない。ぬめりとした手の感触が気持ち悪い。
そんな惨劇の中に、一人だけ立っている人がいた。羽織ったコートの右腕部分が、肩から破り取られている。そこに見える腕は、筋骨隆々で、男らしさにあふれていた。たぶんこのタワーを倒した張本人だろう。そしておそらくは先日の二つの倒壊事件の犯人でもある。
男はこちらの異常に気付いたようで、鉄骨を吹き飛ばしながら、まっすぐ近づいてくる。すでに距離は十メートルもないけれど、まだ腰が抜けたままで立つこともできない。
いや、来ないで。
叫ぼうとした。だけど言葉は声にはならない。ただ拒絶の力だけは増大し、周りの鉄骨がさらにひしゃげた。それを見て、男は立ち止まる。彼の力は触れなければ使えないもののように思える、こちらの力との相性はすこぶる悪い。戦うべきか逃げるべきか考えているのだろう。できることなら、逃げてほしかった。戦いたくはない。でも男がどちらかの判断を下す前に、視界を黒い何かが覆う。それは闇とも、炎ともとれる。とにかく、黒い何かだ。それはすぐに引っ込んだけど、黒があった場所には、何もなくなっていた。先ほどまで立っていた男も、タワーの一部も、地面ごと姿を消していた。そしてかわりに、一人の青年が現れた。先ほどの黒を纏っているその様相は、死を引きずっているようにも見える。ただ、その青年には見覚えがあった。そしてどうやら、向こうもそのことに気付いたようである。「まさか一日で二人もあうとはな、しかもそのうちの一人が、同じ学校のクラスメートとは、もしかしたら、何かしら引力のようなものが働いているのかもしれない。」彼の言葉は、こちらに話しかけているようでも、ひとり呟いているようでもある。ただ、その目に迷いはないように見えた。黒が、今度はこちらに伸びてくる。その速度は意外と速く、そうでなくても腰が抜けているので避けることはできない。瞬く間に、視界を黒が覆った。三百六十度、逃げ場はない。ただ拒絶の力にはじかれたのか、一定の距離を置いて、それ以上近づくことはない。おかげで時間だけは十分にあり、ようやく立ち上がることができた。
とにかく走り出す。思った通り、近づくと黒ははじかれる。ただ周りが全く見えないうえに障害物すらないのでどの方向に進んでいるのか、どれくらい走ったのか全く分からない。ただ、向こうにはこっちの居場所がわかっているのか、黒はどこまでも追いかけてくる。いくら駆けても視界は一向に変わらず肉体よりも先に精神がいかれてしまいそうだった。
 突然視界が開けた。それと同時に、目の前に人が現れる。慌てて力を解除するも、足は止まらず、その誰かさんに思いっきりタックルをくらわせてしまった。すぐに起き上がり、あたりを見回すけれど、彼の姿はすでになかった。
「あんた、大丈夫?」声を掛けられ、肩を掴まれる。別に何ともなかったし、面倒なことに巻き込まれたくはなかったので作り笑いでごまかしてその手を払う。「ありがとうございます。大丈夫です。」と言葉に出して、なんとかその場は取り繕った。それ以上誰かに何か言われる前にその場を立ち去る。


 矢羽樹はビルの間を抜け、裏道を走る。殺人による衝動が胸の中で次第に大きくなっていく。ただ、それとは別の意味で思念が交錯していた。失敗した。初めての戦闘で気持ちが高揚して、派手に暴れすぎてしまった。その上ひとりとり逃してしまった。しかも明日また顔を合わせる羽目になる。だけど、まだ大丈夫、いずれは戦わなければいけないだろうけれど、今はまだ、奴とやりあう必要なないだろう。こちらとしても、クラスメートと殺し合いをするのは気が引けるし、それならまだ殺さないでおいたほうがメリットがある。
角で曲がると、考えていた顔が突然目の前に現れた。あまりに突然のことで、お互いに激突した。樹はすぐに起き上がり、距離をとる。それに対して花梨のほうはゆっくりだ。もとから血まみれだったうえに、追加でついた泥をかなり気にしているようだ。立ち上がってからも、警戒した様子もなく「まさか、まだ戦う気なの?」と聞いてくる。こちらに戦闘の意思がないことを見透かしているのか、攻撃に対応できる自信があるのかはわからないけれど、闘争心どころか警戒心すら見せない。だけどその態度は逆に樹を挑発した。「どうして戦わない?相手を殺さなければどうなるかくらい、知ってるだろ。」樹が問うと、しばらく花梨は考え込み、そしてこう答えた。
「私は、人を傷つけてまで生き延びたくなんてない。」
まさしく模範的な解答だ。テストの問題で出されたら、こう答えるものは多いだろう。ただしそれが本心なのかどうかはわからない。たいていは偽善だろうが、もしかしたら本当にそう思っている絶滅危惧種だっているかもしれない。樹に背を向け去っていく彼女がそのどちらかはわからないが、どちらにせよ、ある意味幸運で、ある意味不幸なのには間違いあるまい。
 家に帰るなり、自分の部屋に閉じこもった。机の上に放り出された封筒を一瞥し、ベッドにもぐりこむ。正月に届いた封筒だ。もう何度も読み返したから、全文暗唱できる。こうして、この封筒に悩まされている人間が、何人もいるのだろう。
殺した。この手で、人を殺した。その事実が、重くのしかかってくる。詭弁でもなんでもなく大真面目に生きるためには仕方のないことであるのだけれど、とても割り切れるものなんかじゃない。だけど、それでも割り切るしかない。今夜はうなされるだろう、だけど、それを乗り越えるしかないのだ。


 今日学校に行ったら、きっとあいつに会う。矢羽樹、あの男を殺し、私までも殺そうとした彼、彼と顔を合わせた時、いったいどんな顔をすればいいんだろう。
朝からそんなことばかり考えている。彼の行いを責めることはできない、誰だって死にたくないもの、むしろ彼のほうがよっぽど立派だ。偽善者だと言われるかもしれない。そしてそれは、確かに的をえている。
それを堂々と、大声で言われたらどうしよう、きっとみんな、なにがあったのかと思うに違いない。そうなったときの言い訳も考えておかなくては。
 登校中もいろいろ考えたけど、結局いい案は浮かばなかった。仕方がないので出たとこ勝負、そう考えながら教室のドアをくぐる。
「花梨!無事だったの!」扉を開けた瞬間に拝島清美が叫んだ。彼女も私の友人の一人なのだけれども、昨日は部活があったので来なかったのだ。「うん、急に用事ができてドタキャンしたから助かったの。それより、静やみんなは?」自分一人だけが生き残ったなんて言いづらくて、とっさに嘘をついてしまった。それにその場にいたと知られたら、きっといろいろと聞かれる。一応新聞では目撃者に幻覚症状が見られたと書かれていたけれど、彼の使った黒い物体についても載せられていたし、何か余計なことを言わない自信もない。
清美は嘘にも気づかなかったようで、「そう、よかった。」と呟く。それから、いつも自分よりも早いはずの静がまだ来ていないとつづける。もちろん来るわけがない。あんなことになって、生きていられるはずがない。今に思えば、よくあそこまで平静でいられたなと、我ながら感心する。あの時は本当に命の危機を感じていたから、余計なことはすべてシャットアウトされていたのかもしれない。たぶん今なら、思い出しただけでも吐けるだろう。
 そんなことを考えていると、視界の端に彼の姿を見つける。言瞬心臓がばくんと波打つけれど、彼のほうはこちらを一瞥しただけで、すぐに我存ぜぬとばかりそっぽを向く。みんなの前ではあくまでも何もないふりというわけか、確かにこの場でいざこざを起こしても、お互い何のメリットもない。
 朝のHRが始まって、先生はみんなが行方不明だと告げる。行方不明、確かにそうだ。黒に飲み込まれたのだから、もう死体が見つかることはない。葬式も行われないだろう。少なくとも私なら、生きているかもしれない人の葬儀なんて絶対にしない。だけどみんなは間違いなく死んでしまって、だれに弔われることもなく逝くのだ。生きていてほしいという願いが、そうされるという皮肉、ただ、あの場で殺されていたとしたら同じ目に遭っていたのかもしれない。ああ、いやだいやだ、この歳で葬式の心配をしなきゃならないなんて、これじゃあまるで、私もいつ死んでもおかしくない、といっているようなもんじゃないか。まあ実際そうだけど。
 クラス内で人が三人も消えたというのに、できた波紋は意外と小さかったようでいつもの空気を取り戻すのにそう時間はかからなかった。いまだ授業に何の変化もないのが原因かもしれない。与えられたメニューを消化していくうちに、日常というかわり栄えのないものが私の中にも浸透していく。こうしていると、今この瞬間にも戦いの最前線に立っているのだということも、忘れてしまいそうになる。だけど、駄目だ。油断してはいけない。決して気をゆるしてはいけないのだ。昨日までとは違う、今こうして平和にしている間も、緊迫の糸を解けばその瞬間殺される。学校はすでに安全域ではなく、激戦区のまっただなかなのだ。


 東京タワーが倒れたせいで、テレビが一切見れなくなった。また何人も死に、いくつもの建物がつぶされたらしいけど、身近なところで誰かが死んだとかいう話は聞かない。まあクラスの女子が数人行方不明だそうだけど、別に大した接点もないし、テレビが見れないほうが重要だ。
そう思うことは、果たして悪いことなのだろうか。みんな口には出さないだけで、きっとそれを一番の重要項と思っているに違いあるまい。それが、現実、今の世の中は、そうやってできているのだ。昨日のことを思い浮かべる。タワー倒壊とは違う、もう一つの事件、たぶんそうなる。
 「おい!うっせんだよ。」駅前で不良が怒鳴っていた。相手は見たところ中坊、当然誰もが、見て見ぬふりだ。もちろん俺もそのうちの一人だった。だけど少しだけ気になった。なにもその中坊の身の安全を心配したのではない。中坊よりは、むしろ不良たちのほうに死相が出ていただろう。わずかに見えたその少年の、不気味な顔がそう告げていた。自分よりも体格のいい男五人に囲まれて、それでもその少年は平然とし、それどころか、薄ら笑みを浮かべているようにすら見えた。
その姿に、感じるものがあったのだ。大きな力を持ったら、それを試してみたいと思わずにはいられまい、そして俺がその実験台にするなら、間違いなくああいった社会悪だ。そして、人によってはそれで味を占めて、また同じことを繰り返すかもしれない。
あれがどちらだったのかは、夕刊で知った。タワー崩壊の記事が一面を彩っていたけれど、三面にその事件が出ていた。どうやらあの中坊が馬鹿第一号だったらしい。駅の近くで、五人分の焼死体が見つかったという。あいつ、たぶんもうじき殺されるな。だけどそれまでにあと何人殺すのか、見ものである。


 東京大阪間がたったの二時間だなんて、昔の人でなくても驚きだ。子供のころは、大阪なんて遠い異国の世界だった。それが今や通学時間に毛の生えたような短時間で行けるのだから、まるで神話の中の世界だ。しかしこのご時勢に旅行とは、いったい何を考えているんだろうか。それとも、もしかしたらこんな時だからこそ、せめて休みの日だけでも東京から離れたいというのがあるのかもしれない。もしくは、もともと予定していたものを変更する気などさらさらないというだけのことだろうか。
思案した結果、その可能性が一番高い。叔父は自分の予定が狂うのを何よりも恐れる人種で、そのために混雑を避け、わざわざこのタイミングで旅行に行くと決めたのだ。もっともその予定に俺が入っているのかどうかはいささか疑問である。昔はわからなかったけれど、親が死んだとき俺を引き取ったのはあからさまに遺産目的、おまけでついてきた俺に対する目は冷たい。本当は俺のことをおいてきたかったと、その目が語っている。ただ、それでも俺を連れてきたのは、日帰りならともかく、泊りで行くのだからおいていくのはおかしいという世間体があったからだ。
そんな人だから、力を手に入れた時には殺すべきかどうか本気で迷った。だけど結局殺さなかったのは、殺すといろいろ面倒だからということと、それで家の収入に支障をきたすのは後々のことを考え得策ではないと思ったからにすぎない。
あとあるとすれば、姉が悲しむから、という理由もあるのかもしれない。叔父叔母には感謝する気など毛頭ない。育ててくれた恩どうこうを感じるほど、世話になった覚えもない。ただ、姉さんだけは例外だった。あの両親からどういった経緯があればあんな人間が生まれるのか、そんな疑問が自然とわく、それほどまでに、姉はどこまでもいい人である。頭がいいとかそういうことではない。まあ頭もいいのだけれど、それ以上に、そのことをひけらかさないところが俺は好きだった。叔父叔母は履歴書だけを人の評価の基準にするような人間であり、姉はその評価基準からいっても合格の部類に入るけれど、姉はそれを、だからなに、と笑い飛ばした。まったくもって、人の成長というのはわからないものである。突然変異もいいところだ。
「樹、お前何見てんだ。」叔父の言葉で我に返る。どうやら叔父をじろじろと見ていたらしい、何かにつけて俺を悪く言う叔父は、またネチネチと愚痴をこぼし始めた。叔父の愚痴ほどこの世に無駄なものはない、聞くに堪えない内容で、思わず吹き出しそうにすらなる。そんなものだから、いくら聞くふりでも苦行に他ならない、だからまもなく到着のアナウンスが聞こえた時には、本当に救われた気がした。
 ただそれはほんのひと時のこと、そのすぐ後に、それとは別の、いやな空気に襲われる。なんというか、張り詰めた、冷たい空気。ピリピリとした緊張感が漂う。これと同じような空気を前にもどこかで感じた気がしたけれど、それがどこだったか思い出せない。ただその空気は、何かが起こる嵐の前に似ていた。
知らず意識を集中させる。なにか異変は、なにか気配はないかとあたりを見渡すけれど、どこを見ても人が縦横無尽に歩き回っている。それらは、あるいはしゃべりながら、あるいは黙り込んで動き続け、それらすべてが敵にすら思える。
いっそのこと、すべて消してしまおうか。
そう考えた瞬間、悲鳴が上がる。それもどこか遠くでではない、すぐ近くでだ。誰もがそれに振り返り、そして唐突に、パニックが起きた。
怒号、足音、包丁、人、悲鳴、赤、
理解よりも早く、体が固まる。世界が色彩を欠き、無音無風の虚空が支配する。恐怖と驚きの顔、顔、顔、
いけない、それだけは。
止めなくては、やめさせなくては、
だけど体は動かない、頭がクラリとして、地面に突っ伏す。
ガボガボと胃の内容物を嘔吐し、涙が止まらない。
時間が逆流し、忘れていた光景が目の前の惨劇と重なる。
怒号と悲鳴、
歓喜と恐怖、
赤と灰、
父と母、
そして誰かが、またしても俺の前に立ち、
だめ、
きづいた時には遅すぎた。生暖かい何かが、顔を打つ。
それが何か理解した時、突然の爆音が、虚空を破る。
スローモーションだった時間が正常な流れを思い出し、空気が震えることを思い出した。
同時に悲鳴が、空を引き裂かんばかりの悲鳴が世界にこだまする。目の前に見える色は、赤と、黒。赤い水たまりの中、黒い外套を着た誰かが、黒い塊の前に立ち、その黒い塊は、黒い煙を上げている。黒い外套が、黒い瞳を見せ、人ごみの中に消えていった。
 その顔を、覚えておかなければならない。その男もまた、俺の敵に違いないのだ。こんな時だというのに、目の前に倒れた姉の顔よりも、フードの下にのぞく顔のほうを、頭の中で反芻する。すでに俺は、そういう人間になってしまったようだ。それは、いわば叔父側の人間というやつか、悲しみに暮れるよりも早く、自分のことを考える、そんな人間に。


 どうやらこの世界には、目に見えない引力というものが確かに働いているらしい。こんな短期間のうちに、またしてもあの馬鹿第一号に出会うことになるとは思わなかった。それも今度は別の駅前で、である。時間もあるし、暇なので観察してみることにする。
中坊の格好は先日と同じ、黒のパーカーに黄土色のジーンズという組み合わせだ。ガードレールに寄り掛かり、ガムを噛んでいる。わざと立てているとしか思えないくちゃくちゃという音が、不快だ。そういえば、この前の不良もそれに突っかかっていたような気がする。ということは、それで絡んできたやつをターゲットにしているということか。ただそうやって待っていても、なかなか相手は現れない。皆足早に通り過ぎていくだけである。そういうものなのか、それとも事件続きで言動を控えているのかはわからないが、最初に音を上げたのは彼のほうであった。立ち上がると、どこかに歩いていく。
場所を移すのか、それとももうやめにして帰るのかと思ったが、どうやらそうじゃないらしい。偶然歩いていた、いかにも不良、といった感じの若者グループとのすれ違いざまにわざと肩をぶつけてみせる。しかもおじさん気をつけなよ、という言葉のおまけつきだ。ケンカ売ってんのか、と怒鳴る若者の言葉はまさしくその通りなのだが、それが逆に滑稽だ。そのまま店の間に連れ込む。そうやって自ら人目のないところに行き、あっさりと殺されるわけか。



(担当:すばる)
もうかなりやりたい放題やっちゃいました。長くなってしまい申し訳ありません。
しかも長い割にいろいろなところがほったらかし。でもその分自由度があるということで勘弁願います。
次の方よろしくお願いします。