何も無かったらかかないでね! その2

 教室に向かう生徒に埋まった廊下を僕は修一と歩く。修一はしきりに何かを話しかけようとしているが僕の頭の中には彼女の名前がこびりついて離れない。藤村雪帆なんてそれほど珍しい名前ではないし、中学と違って学力でおおよそ集められた高校で同姓同名なんてざらにあることだ。
 「おい、教室過ぎてるぞ」
 「あ」
 僕はあいまいに笑ってごまかして修一を追って教室へと足を踏み入れる。
 誤魔化しつつも覚悟はしていたが、藤村さんの姿はなかった。ほっと息を吐いて修一とくだらない会話にふける。
 そう僕は変わろうとしているのだ、だから破れた恋のこととも彼女の残像とも決別するのだ、いやしなければならない。
 ふと見やった眼下に桜吹雪が見える。女子生徒たちが桜を捕まえようとしている。それが雪のようにも見えて僕は目をこする。過去の情景がフラッシュバックした。
 そして手を放した僕は息を止めた。折しも僕の方を見上げた女子生徒がいた。目が合ったその女子生徒の大人びたような微笑みがぞっとするほどに美しかった。
 久しぶりね、と見上げた彼女の唇が動いていた。
 「大丈夫か」
 再び視線を戻すと女子生徒の姿はなかった。見間違えでないことは僕の汗ばんだ掌が証明していた。
 「修一、オマエの判断は正しかったよ」
 お下げに結っていた髪を長く伸ばしていても僕は彼女が誰かなんて考える必要などなかった。なぜならば噎せるような桜吹雪の中でも、雪を背景にした彼女の微笑みの美しさは、四年近くたつというのに何一つ変わっていなかった。
 大嫌いな自分と決別した自分の高校生活が、少なくとも明るい希望ばかりで始まったわけではないと直感的に分かった。


 「雪帆」
 夏目有紗はクラス番号が載った紙の前を通り過ぎていく女子生徒を呼びとめた。
 藤村雪帆は有紗の声が聞こえているはずだというのに振り返りもせず階段の方に歩いて行った。
 何組だったかと問いかける友人をおいて有紗は雪帆を追いかけた。二階、三階、四階を通り越して雪帆は屋上に続く扉を開けた。薄暗い階段にぱっと光が差し込んで有紗は目を瞑った。
 「おいでよ、有紗ちゃん」
 この呼び方をするのは彼女しかいない。屋上に上がるとフェンスを乗り越えた雪帆が振り返って微笑んだ。
 「何やってんの、雪帆。クラス番号も見ずにこんな屋上まで来て」
 「私はきっと一組よ」
 「馬鹿、有名一貫校出身だからって必ずしも一組なはずがないじゃない。特進クラスよ」
 「希望的観測じゃないわ、一組」
 「わけわかんない、雪帆」
 雪帆はフェンスに凭れて傍に来た有紗の胸元を掴んだ。
 「決まってるの」
 有紗の知る雪帆はこんなことはしない。同い年の従妹は優秀だがのんびりとした、気の弱い面を持つ少女だった。中高一貫校に入ってからも、なれない寮生活に泣き言をいっぱいに詰めた手紙を送ってきた。その手紙が来なくなったのはいつのことだろう。友達ができた、と弾んだ文面を見たのが最後だったと思う。
 「でも残念、有紗ちゃんは二組だ」
 この子はだれ―――
 有紗は雪帆の瞳を覗き込む。綺麗な黒い瞳には陰りがある。四年前の彼女になかったものだ。
 「見ててね、有紗ちゃん」
 「何を?」
 「これからのこと」
 雪帆は悪戯っ子のように微笑んでフェンスを軽やかに乗り越えた。黒髪が一瞬視界を覆って流れていく。
 校内放送が聞こえた。割れた音声と常に流れるノイズとても耳障りだ。スピーカーを通したしわがれ声は一年生の有紗たちに体育館に入るよう促している。生徒たちが椅子を引く音も聞こえてきた。
 「藤村さん」
 唐突に錆びついた音を立てて一人の女子生徒が屋上に入ってきた。
 「ねぇ重祢ちゃん、私のクラス番号は何?」
 「一組です」
 「ほら、ね」
 雪帆は小走りに女子生徒の横を駆けて行った。女子生徒は踵を返したが、何を思ったのか不意に振り返った。有紗の方を睨むように見つめている。
 有紗もまた女子生徒を見つめる。飴色がかった茶色の長髪、適度に日焼けした肌と、少し吊り上った目尻。気の強そうな女子生徒だ。自分と同じく机の前に座るよりも体を動かすのが好きそうなタイプだ。
 「貴女も早く行った方がいいですよ」
 「あんたも、ね」
 「藤村さんのことだけど、友達ごっこはもういらないよ。『友達ができた』から」
 「何、それ」
 女子生徒は肩をすくめて去って行った。最悪の高校生活になりそうなことが有紗には容易に想像できた。


 「藤村さん」
 「何、重祢。あなたも有紗と同じように呼び止めるのね」
 雪帆は舞台側の扉を開けて中に入った。すでに数人の男子生徒と女子生徒が椅子に座っている。雪帆は空いた席に座って幕の切れ目から生徒たちを眺めた。当たり前のように緊張し、ざわめき、あるいは雑談をする生徒たちがそこに居る。有紗を探そうとして、ある男子生徒を見つけた。
 今日は本当に懐かしい人間に会う日だ。
 「うげ、うじゃうじゃ気分悪い」
 ある男子生徒は雪帆の隣から覗き込むように生徒たちを眺めて吐き捨てた。
 人は見かけによらない、典型タイプだと思う。
 それを聞いた重祢は目尻をさらに吊り上げて縮こまる教師の一人に命令した。一生徒のできる技ではないような横柄な態度に教師はびくりと体を震わせた。彼らには雪帆たちを咎める気はない。
 腐っている、と雪帆は思う。
 滝のような汗をしきりにハンカチで拭いている、蝦蟇蛙のような教師。こんな男でも校長なのだから笑える。経営能力もなければ、指導能力もない愚鈍な男がなぜ校長に居座れるのか。
 「早く終わらせてよ、入学式」
 ひたすら頭を下げる校長に重祢は追い打ちをかける。
 「どうせアンタらのくだらない話で終わるんでしょ、やめてよね。せっかく特進クラスのお披露目なのに」
 「重祢、あんまり苛めてやるなよ」
 「名前で呼ぶな、馴れ馴れしい」
 別の男子生徒がからからと笑いながら重祢を小突く。鬱陶しそうに重祢は男子生徒を払いのけた。
 「生徒がそろいましたね」
 「ほら、藤村さんも言っているから早く始めなよ」
 重祢に突き飛ばされた校長は転がるように逃げて行った。失笑がこぼれる中、雪帆は立ち上がって上がっていく幕を眺めていた。
 会うとわかっていた幼馴染、規則を超えた理想的な学校生活。
 迎えようとしている高校生活は彼女の中で最高の三年間となるであろうと考えると、雪帆には可笑しくてたまらなかった。


玉砕した。時代小説がからない台詞回しは難しい。そして色々趣味に走った!
とにかく勝手気ままに書きました。伏線も放置中。次はるりさんだったと思うので頑張れ。骨を拾ってくれ。