blue-ryu-comic blue-spring-jojo その12(1)

 東条の言葉に、私は茫然と目を見開いた。たった今聞いた彼の声が、頭の中で奇妙にねじれて反響している。今、彼は何て。
 この家を逃げ出した浪岡家長男……浪岡東条……? 青波明日香さんと同じように……私と同じように……。
 彼が私の身の上や素性を知っているかもしれない、というのは、前から薄々感じていたことだった。彼の深い色の双眸は、いつだってすべてを見通しているように思われたから。だが、まさか彼が浪岡家の者だったなんて、にわかには信じられない。確かに彼は以前、彼が普段使っている名字は、私の「空条」と同じように彼が勝手に創ったもので、本当の姓は別にあると話してくれたことがある。だがまさか……まさか本当に……。
 凍り付いた表情で立ち竦んだままの私の後ろで、誰かがよろめくような足音がした。強張った首を無理に動かして後ろを振り返ると、青波翁が青ざめた表情で私を見下ろしていた。あおなみあすか、とその口が小さく動いた。私は物心がついてから、青波武生に会った記憶はない。ということは武生の方も、私の顔を見たことなどほとんどなかったはずだ。だからこそ、私はこの屋敷に探偵助手の空条明日香として入り込むことができた。だがそれでも翁は、明日香という私の名前ぐらいは知っていたのだろう。東条の口から青波明日香という名前を聞いて、頼子が産み、中庭の縦穴に閉じこめた私生児のこと、その子供が浪岡家の息子の辰夫に怪我を負わせたなどの遠い記憶が、彼の中に急速に甦ったのだろう。やはり以前に会ったことのない幸生の方も、私の名前に聞き覚えぐらいはあるのか、当惑した表情で私を見つめている。
 ただ一人輿山氏だけが、警戒心に光る目で、目の前の見慣れない青年を睥睨した。さすがに彼は、私に関する情報は青波家から教えられていないらしい。
「一体どういうことですか? 君も眼鏡山氏の助手なのですか? しかし眼鏡山氏は頼子さんの死を調査しに来たというのに、君はなぜ浪岡家の方にいたのです? それに、青波明日香というのは、何のことを言っているのですか?」
 輿山氏は言いながら、東条の背後に控えている浪岡家の面々にも懐疑の目を向ける。彼らもまた、東条の言葉に狼狽と困惑を隠し切れていない様子だったが、輿山氏の視線には露骨にむっとした表情を返してきた。その中の一人、豪華ながらも上品そうな衣服に身を包んだ中年男性が口を開く。
「それはこちらの台詞だ。浪岡家には東条などという息子はいない。東条さん、事件の犯人が判明したので推理を披露すると言うから我々はここに集まったというのに、いきなり何を言い出すんだね? ……いや、それよりも」
 言って、彼は私に鋭い視線を向けてきた。
「今の……そこにいる女が青波明日香だというのは、本当なのか? かつて私の息子を傷つけ、顔に生涯消えない跡を残した青波家の私生児だというのは?」
 彼、恐らく浪岡家当主の粉太郎は、ちらりと自分の背後に目をやった。つられて視線をそちらに移した私は、心臓が止まるかのような衝撃を覚えた。かつて私を穴の上から責め苛み、負のイメージとともに私の心にその存在の記憶が刻まれている浪岡辰夫がそこにいた。あのときより幾分成長した彼の顔には、しかし左の頬に、醜いかぎざきの傷跡がくっきりと浮かんでいる。陶器の破片を突き刺したときにはただただ逃げることに夢中だったが、こんなに深い傷になっていたとは思いも寄らなかった。
 辰夫が、体を硬直させている私を見た。暗い瞳、怒りと憎しみに燃える瞳だった。どくん、と心臓が不自然に脈打つ。幼い頃の恐怖が胸の中に甦り、胃がぎゅっと締め上げられるような感覚に襲われた。
 辰夫は父に向かって低く囁いた。
「父さん、やっぱりこいつ、青波明日香だよ。あの穴の中で獣みたいに汚らしくしてた女、俺をいきなり何かの破片で襲ってこの傷を負わせた挙げ句に逃げ出した、あの卑劣で野蛮な女だよ」
 恐怖にただ身を震わせていた私は、しかし辰夫のその言葉を聞いた途端、頭がかっと熱くなるのを感じた。体中を縛り上げていた恐怖すら、その熱さに一瞬どこか遠くへ追い払われた。
 襲ったのはどっちだ、卑劣で野蛮なのはどっちだ。なぜ私がこんなことを言われなければならない、なす術もなく、頼子や辰夫の暴力に怯えながら、気が狂いそうになるのを堪えながら、なんとか幼い日を生き延びてきたこの私が、どうして……っ。
 しかし私がその怒りを吐き出すより先に、青波翁が慌てた様子で口を開いた。
「ま、待ってくれ。確かにあのときのことは明日香が悪かったと、私も思っている。だが、今ではこの明日香と青波家は、完全に縁が切れているんだ。治療費や慰謝料は払ったし、今さらそのことを掘り返されても困る」
 翁の言葉に、辰夫は気色ばみ、声を荒げた。
「何だと!? 金さえ払えば全部済んだって言うのか、あんたは!? 俺はこの傷を一生背負っていかなきゃならないんだ、その傷を負わせた本人が目の前にいるのに、これが黙っていられるかって……!」
「お静かに。皆さん、落ち着いてください」
 東条が鋭く言葉を発した。怒鳴っているわけではなかったが、その声は静かな威圧感を持っていた。深い眼差しで見据えられ、辰夫はうっと言葉を呑み込んだ。そのまま彼は黙り込む。東条はぐるりと周りを見渡し、その鋭利な視線で人々の疑問や反論を封じてから、軽く眼鏡を押し上げた。
「失礼。確かに、自己紹介として話すには少々突飛すぎる内容だったかもしれませんね。あなたがたが混乱をきたすのも無理からぬことです。――しかし、私が言ったことは事実です。そこにいるのは青波明日香、私は浪岡東条。二人とも、昔それぞれの屋敷から逃げ出して、新たな生活を手に入れた者です」
 その言葉に、再び浪岡粉太郎が声を上げようとしたが、東条は素早く視線を向けてそれを制した。
「あなたがたがあくまでそれを否定しようとするのなら、私はそれでも構いません。しかしひとまず、そのことで無闇に騒ぎ立てるのはやめてもらえませんか。とりあえずその話は脇に置いておきましょう。あなたがたが今一番知りたいのは、双草荘の両屋敷で起こった連続殺人事件の全容と、その犯人でしょうから」
 それを聞いて、この場に集まった面々は別の意味でざわめき出した。特に青波家側の者たちは、驚きに大きく息を呑んだ。
「どういうことだ。事件の犯人は、そこにいる神埼じゃないのか?」
 青波幸生は信じられないという口調で、東条の前に置かれた椅子に座りこんでいる神埼を指差した。神埼は頭を抱え込んだまま、呻き、唸り、時折短い悲鳴のような声も発した。血走った白目に浮かぶその瞳は、ガラス玉のように虚ろになったり、かと思うと次には、人間の持つすべての感情を混ぜ込んだかのような歪んだ色になったりした。彼は完全に狂っていた。
 東条はそんな神埼を無感動な瞳で見下ろし、静かに首を振った。
「違います。彼は利用されただけですよ。真犯人によってね」
 東条のさらりとした言葉に、青波家の者たちは茫然と彼を見つめた。一方で私は、自分の心が石のように硬くなっていくのを感じていた。やはり東条は、事件をすべて見通しているのだ。私が三人もの人を殺したことも、それなのにぬけぬけと探偵助手を演じ、その立場を利用して神崎を閉じこめたことも、全部。決して抜け出せないブラックホールが、私を呑み込もうと大口を開けて足元に迫ってきているような錯覚に囚われる。
 東条が、もう一度人々を見回した。私は手の震えを強いて抑えながら、彼と同じようにぐるりと彼らを眺めてみる。浪岡家側には、粉太郎と辰夫の他、二人の男と一人の女性がいた。男のうち年かさの方が、女性を支えるようにその肩に手を置いている。恐らく彼らが漫画家の横崎夫妻で、もう一人の男が車山氏なのだろう。浪岡家の者たちは、驚きよりむしろ期待と興奮を滲ませた表情で東条を見ていた。忌まわしい数々の事件の真相を、ついに白日のもとに晒してくれるのだという熱い視線だった。
 当の東条はといえば、青波家の視線も浪岡家の視線も涼しい顔で受け止めている。常の淡々とした口調で話し始めた。
「まず、我々の上司である探偵、眼鏡山妻鹿男について簡単に説明しておきましょう。彼はこの双草荘に、青波頼子さんの死の調査という名目で訪れ――」
 眼鏡山の名が出たとき、浪岡粉太郎の顔がびくりと強張ったが、東条はそれに注意を払うこともなく続ける。
「私と明日香はその補助という形で彼についてきましたが、ここに着いてからの彼の行動はどうも奇妙でした。頼子さんの死の真相を知りたいのなら、青波邸だけを調べれば事足りるはずだったのに、彼はなぜか浪岡邸にまで調査に行きました。古尾谷王次郎という偽名を使い、変装までして。これは恐らく、浪岡邸に顔を合わせたくない知り合いがいるという理由からだと推察できますが……」
 ここでようやく東条は、眼鏡の奥の瞳を煌めかせて粉太郎を見た。
「その知り合いというのは、あなたですね? 浪岡粉太郎氏」
 私と東条を除く全員が息を呑んで、粉太郎を見つめた。彼は数秒の沈黙のあと、苦々しげな様子で口を開いた。
「恐らくそうでしょうな。彼……眼鏡山は、私の友人だ。いや、友人だった。九年前、私が青波弓子と婚約を結ぶまでは」
 弓子、という言葉に、我知らず胸が詰まる。粉太郎は私のかすかな表情の変化には気づかないようで、無理に感情を殺したような、奇妙に平坦な口調で話し続ける。
「彼との付き合いは……そう、恐らく十五年ほど前からになるのだろうな。私が探偵としての彼に、ちょっとした調査を依頼したのが最初だった。彼とは不思議と相性が合って、その調査が済んでからも我々は時折会い、話すようになった。そうして六年もの間、我々はずっと交流を持ち続けていたんだが……」
 粉太郎は、そこで口籠もった。東条が静かに口を挟む。
「眼鏡山氏は、いつの間にか青波弓子に恋心を抱くようになっていた。それは次第に妄想にまみれた異常な執着へとエスカレートしていき、あなたが彼女と婚約を結んだところで、ついに爆発した。そうですね?」
 粉太郎は一瞬言葉に詰まったが、すぐに暗い瞳で頷いた。
「ああ……そうだ。以前は浪岡家と青波家は良好な関係を持っていて、弓子もしばしば浪岡の実家を訪ねてくることがあった。眼鏡山は、私のもとを訪れていたときに偶然彼女を見かけ、そして一目惚れしたらしいんだ。私に思いの丈をぶつけ、弓子本人にも会っていたらしいのだが、次第にその愛情はエスカレートしていって、ほとんどストーカーまがいのこともするようになった。私が諫めても効果はなく、むしろ彼は私の忠告を疎ましがるようになっていった。そして私と弓子の婚約が決まった日の夜――」
 粉太郎はほろ苦い笑みを浮かべた。
「眼鏡山は私のところにやってきて、私を罵倒し、恨みごとを並べ立て、そして飛び出すように帰って行ったよ。それ以来、彼との音信は途絶えたままだったんだが……そうか、まさか古尾谷氏が……」
 語尾が小さくなる。古尾谷こと眼鏡山が、すでに死んでしまっていることに思い至ったのだろう。それまでじっと粉太郎の独白を聞いていた東条は、そこで軽く息を吐き出した。
「……眼鏡山氏とあなたは、かつては友人だったかもしれませんが、少なくとも婚約が決まってからは、眼鏡山氏はそのように思っていなかったはずですよ。何せ、バルコニーの柵に罠を仕掛け、あなたを転落死させようと企んでいたぐらいですから」
 東条の言葉に、そこに集っていた人々はぎょっとしたように目を見開いた。だが肝心の粉太郎は、一瞬驚きの表情を作ったものの、またすぐに苦笑を浮かべた。
「そうか、やはりな……あの柵に何かあったとは、思っていたんだ。あれは人が体重をかけたぐらいで壊れるほど、老朽化したものでもなかったのでな。……しかしそれで実際に死んだのが弓子だとは、彼もショックだったろう。そう考えると、弓子は私の身代わりになって死んでくれたともいえるのかもしれないな。何も知らないまま、罠の仕掛けられた柵に体重をかけて……」
 粉太郎氏の言葉に、私は心の中で反論した。いいえ、違う。弓子が死んだのは、神埼朱実にバルコニーから突き落とされたからだ。そのときに眼鏡山の罠も利用したのかもしれないけれど、直接の要因は違う。私はそっと東条の方に目を向けてみる。彼は、弓子の死の真相を知っているのだろうか? その顔をじっと見つめてみるが、彼の静かな瞳からは何も読み取ることができなかった。東条は私の視線に気づかないかのように話を続けた。
「眼鏡山氏がこの双草荘にやって来たそもそもの理由も、それなんですよ。彼は、青波家のことよりも、浪岡家のバルコニーについて調べたかった。そこに仕掛けた罠が誰かにばれなかったのか、今現在のバルコニーはどうなっているのか。頼子さんのことは、ただの口実です。彼女の死の原因は、本当にただのバルコニーの床の老朽化のようでしたしね」
 東条が平然と言うと、青波翁が憤慨したように肩を怒らせた。
「そんな理由だったのか。あの男がやたらと九年前の事故と今回の事故を関係づけて、調査に訪れたいと言い張っていたのは。頼子の死をそんなことに利用するなんて、まったく人を馬鹿にするにもほどというものが……」
「――でも、それならなぜそうしてこの双草荘にやってきた眼鏡山氏が、殺されたんですか?」
 不意に、輿山氏の冷静な声が割って入った。
「私は、彼は頼子さんを殺害した犯人によって、口封じのために殺されたんだと思っていました。しかし、君の言うには頼子さんの死は完全に事故だということだったじゃないですか。それなら、眼鏡山氏は、誰になぜ、殺されなければならなかったんでしょう?」
 言って、輿山氏は東条を見据える。東条は、口元にかすかな笑みを浮かべた。それを見た私の心臓が、不自然に跳ね上がる。あれは、浪岡邸で眼鏡山氏に推理を突きつけたときに浮かべていた笑みだ。犯人を推理で追いつめるときの、冷徹で情け容赦のない笑みだ――。
「そう慌てずに。それをこの私が、今から話そうというんです」
 微笑を崩さないまま、東条は再び眼鏡の位置を正す。
「まず、浪岡邸での眼鏡山氏の殺害状況について。青波の方々にもわかりやすく説明すると、彼と最後に顔を合わせたのは、犯人を除けば恐らく私です。私は昨日の午後五時頃、眼鏡山氏の部屋に赴きました。……九年前に彼がバルコニーに仕掛けた罠について、私の推理を話すために。それから私は部屋を出て行きましたが、十五分ほど経ったときに、浪岡邸の女給の一人がその部屋の中の彼の死体を発見して、我々は現場に駆けつけました。そのとき我々は部屋の隅に転がった眼鏡山氏の亡骸を見たのですが――」
 ほんの少しだけ、東条の笑みが深くなった。
「私はそのとき同時に、犯人の残した決定的な証拠をも見つけ出しました」
 その言葉に、私は胸を見えない槍で突かれたかのような衝撃を覚えた。どくどくと、鼓動の音が頭の内側にうるさく響く。
 何だ? 私は一体どんな手がかりを残してしまったんだ? 確かに私は眼鏡山を殺したときには頭に血が上っており、冷静に現場を見返すことなどできなかった。だが一体何を……?
 私を除く全員が、東条に期待のこもった視線を注いでいる。証拠とはいったい何なのか。私と同じ疑問を、しかし私とはまったく違う感情とともにこめた視線だ。東条はそれを静かに受け止めながら、すっと片手を動かした。人差し指を下に向け、自分の足元を指し示す。
「……足跡ですよ。あのとき、この辺りは嵐による豪雨に見舞われ、庭の土は激しくぬかるんでいました。犯人は窓から部屋の中へと侵入したため、その靴の裏にも泥がついていたのです。もっとも、部屋の床には絨毯が敷いてあったので、毛足に泥は残っていても、足跡ははっきりとは判別できませんでした。ただし、絨毯上のものは判別不能でも、窓の枠には、そこを乗り越えたときの足跡がしっかりと残っていたんです。一目見れば、それが誰のものと即座に思い至ることができるような足跡が」
 一同は息を呑み、探るように素早く他の人々の靴に視線を走らせていく。そんな中、私は一人茫然としたまま東条を見つめるだけだった。そうか、靴だったんだ。私はあのとき、土足で窓を乗り越えて部屋に入り、眼鏡山を殺したあとそのまま外に逃げた。窓の枠に足跡が残っていても何の不思議もなかったのだ。それに、私の靴――。青波、浪岡両家の者や、彼らに招待された客人たちは、皆洒落た品のいい靴を履いてきているのに対し、私だけはスニーカーだった。無論、ただ単にスニーカーというだけなら、今は履いていなくても、青波家浪岡家の者たちも持っているだろう。だが、この人々の中では私が一番小柄で、恐らく靴のサイズも一番小さい。普通より一回り小さいスニーカーの足跡が窓枠についているのを見れば、東条でなくても、犯人が私だと予想を立てることは難しくないだろう。
「それで、誰だったんだ、犯人は? 俺たちは窓枠なんてしっかり見てなかったけど、あんたは見たんだろう? 浪岡邸の外から侵入したってことは、そいつは青波側の奴なのか?」
 浪岡辰夫が、焦れたように東条に迫る。しかし東条は特にたじろいだ様子もなく、片手で軽く押し留めるような仕草をした。
「そう焦らないでください。確かに私は足跡を見て、犯人が誰かまでわかりました。しかし大半のミステリーでは、推理の前半から犯人を名指しするのは面白くないでしょう? ここまで話した時点で出てきたのは、まだ状況証拠のみですしね」
 東条はそう言ってまた微笑んだ。その笑みの裏に隠されたものに、私は背中をすうっと冷たい手に撫で上げられたように感じた。東条も人が悪い。少しずつ証拠を積み重ねられ、じわじわと包囲網を狭められた末に殺人犯と吊し上げられるよりは、いっそ初めから私が犯人だと声高に指し示してくれた方が、どんなにか気が楽なのに――。青ざめる私に気づく様子もなく、不満そうに鼻を鳴らした辰夫は、しかしそのまま黙って引き下がった。東条はありがとう、と軽く会釈する。
「ではそういうわけですので、真犯人を明らかにする前にしばらく、そのあとの出来事や私の行動などを、順を追って説明していきたいと思います。さて、そうして犯人の見当はついたのですが、私はとりあえず現場を保存しておこうと、眼鏡山氏の部屋を立ち入り禁止にしました。しかし、私が何やかやと動いている間に、摩訶不思議な事態が発生したのです。……少し目を離した隙に、眼鏡山氏の死体が現場から忽然と消えてしまったのですよ」
東条の言に、青波の者たちの間に驚きが走る。東条は続ける。
「さすがの私にとっても、それは青天の霹靂でした。私は考えを巡らせました。死体を移動させたのは、恐らく犯人だろう。どこかに隠したにせよ山の中に捨てたにせよ、とりあえず犯人側の様子は掴んでおきたい。犯人側――すなわち青波邸の方の状況も、把握しておきたいとね」
 浪岡家の者たちが、ばっと鋭い視線を青波家の者たちの方へと投げかけてきた。青波家側は青波家側で、懐疑に満ちた視線をせわしなく周りに走らせる。私も疑いの目を辺りに向ける振りをしてみたが、心の中ではもう駄目だととっくに諦めていた。東条はもうすべて、見透かしているのだから……。
「私は粉太郎氏に断って、一度青波邸を訪ねてみました。しかし青波家の使用人は、鍵をかけた玄関の扉越しに、怯えた声でお帰りくださいと言うばかりで、決して扉を開けてはくれませんでした。なので、私は浪岡家に戻って再び考えたのです。どうするべきか。どのようにして、青波家側にこちらの事件のことを伝えられるのか。粉太郎氏に相談してみると、青波家に行くというだけだったらできるだろうということでした。……実は双草荘には、二つの屋敷を結ぶ隠し通路がいくつか存在しているとのことだったのです」
 東条がそう言うと、両家に招かれた客人たちは驚いたように目を見開いた。もちろん、私も。そうか、そうだったんだ。驚きの中に理解が生まれる。私が朱実を殺害する現場を目撃した、あの女給。一階まで追いかけていったのに、急に姿を消したかと思ったら、なぜか浪岡邸の方を駆けていた。彼女はそうした隠し通路を知っていて、その一つを使って逃げたのだ。
 青波翁が、難しそうな表情で東条を見た。その顔には驚きの色はない。それは幸生や辰夫も同様で、本当の意味での青波浪岡の者は隠し通路のことは承知していたようだった。
「東条さん、そうした通路のことは私たちも知っている。だが今回の殺人が起こってからは、通路の青波家側の出入り口は、すべて鍵をかけてしまったんだ。あなたたちがこちらに来ることは不可能だっただろう?」
 明らかに肯定を期待した疑問文――しかし東条はあっさりと首を振った。
「いいえ、私は青波邸に行くことができました。なぜなら、あなたたち青波家の者たちも知らない通路が、一つだけ存在していたからです」
 東条の言葉に、青波翁は虚を突かれたように表情を固まらせた。東条は続ける。
「浪岡邸と青波邸の北側の、一階廊下を結ぶ地下通路です。それの存在をあなたたちは知っておらず、そのため青波家側の扉に鍵はかかっていないはずだと、粉太郎氏に助言されたのです」
 北側の、一階廊下。ちょうど私が女給を見失った場所だ。彼女はその通路の存在を知っていて、逃げ込んだのだろう。もしそのまま浪岡邸に行かず、通路に留まっていたのなら、もしかしたら私の追跡をまくことができたかもしれないと思うと、ほんの少しだけ哀れみが込み上げてきた。
「そして私はまた考えました。その通路で、私は青波邸に行くことはできます。しかし行ったとして、何をすればいいのか。犯人のところに赴き、自首するよう説得をするというのが一番だったのかもしれませんが、客人や青波家の者たちの部屋の位置は大体固まっていて、犯人と話をする前に他の者に見つかりかねません。そうすると侵入者だ何だと、色々と面倒が予想されます。では私はどこへ行けばいいのか。……実は客人たちの部屋の中で、一つだけ、他の者たちの部屋と離れているところがあったのです。それが、神埼夫妻の部屋でした」
 皆の目が、はっと椅子に座っている神埼を向いた。視線を向けられた彼自身は、そのことに気づく様子もなく、ただ何かをぶつぶつと呟きながら髪を掻き乱すだけだったが。
「実は私は、神埼弘さんとは少しだけ面識がありました。だからまず、彼のもとへ行ってみようと決めました。彼を通して、青波武生氏に事件についての話を伝えられればいいと思ったのです。幸い青波邸の造りは、浪岡邸と左右対称になっている他はまったく同じだったし、事件の前に明日香から、どの部屋に誰が泊まっているかということも聞いていたので、用心していけば地下通路から神埼さんの部屋まで誰にも見咎められずに行くのは、それほど難しいことではありませんでした。そして私は、朱実さんのいない部屋で、一人小説を書いている神埼さんに会いました。しかし、彼は――何か、様子がおかしかったのです」
 様子がおかしい、というその言葉に、ここで初めて、車山氏と見られる男が口を開いた。
「それは……そのときにはもう、彼はこのような状態だったということなのかい?」
 虚ろな目で座っている神埼を目で示しながら尋ねる。
「あなたが明け方、パントリーに監禁されている彼を我々に見せたときには、まだまともな状態に見えたけれど」
「いえ、私が部屋を訪れたときの彼は、あなたたちに明け方見せた彼と同じでした」
 車山氏は、東条の言った意味が呑み込めないというように眉をひそめた。
「……? それなら、別におかしな様子でもなかったんじゃないか? あのときの彼と同じなら」
「さあ、それはどうでしょうか」
 東条は謎解きでも問いかけるかのような口調で言った。その口ぶりに、全員が彼に怪訝そうな瞳を向ける中、東条は薄い笑いを浮かべて軽く首を振り、話を戻した。
「……私は確かに神埼さんの様子がおかしいと思いましたが、そのときにははっきりとその違和感の正体は掴めませんでした。だから、神埼さんに浪岡邸の事件のことを話し、青波邸でも何か変わったことなどないかと尋ねました。神埼さんはわからないと答えました」
「わからないだと?」
 青波翁が驚いたように言った。
「そんなはずはないだろう。そのときには、眼鏡山氏の遺体はすでにこちらでも発見されていて、騒ぎになっていたはずなのだから。彼は嘘をついたんだろう」
 決めつけるように翁は言ったが、東条はそれには答えず、一呼吸置いてから話を続けた。
「私は浪岡邸に戻りました。しかしそのあと、浪岡邸でさらなる殺人が起こりました。若い女給が、廊下に首を切り裂かれて倒れていたのです。私はこの事件が起きたすぐあとに、また隠し通路を通って青波邸に行ったのですが、神埼さんの部屋に辿り着く前に、使用人たちが廊下の片隅で青波家側の事件について話しているのを、そばの物影から偶然立ち聞きしてしまいました。そこで私は初めて、青波邸で眼鏡山氏の遺体が見つかったこと、さらに神埼さんの妻の朱実さんまでが何者かに首を絞められ殺害されたことなどを知りました。……それで収穫は得られたので、浪岡邸に引き返してもよかったのですが、神埼さんのことが気になって、私はそのまま彼の部屋を訪れました。彼は妻の死にも関わらず元気そうで、そして私が事件について聞いても、やはり何も知らないの一点張りでした」
 東条の言葉に、今度こそ私も、青波家の者たちも、驚きに息を詰めて彼を見つめた。だって、神埼が元気そうな様子だったなんて、そんなはずはない。朱実の死体を目にしたときの、あの彼の動揺ぶり、悲嘆ぶりを考えれば、自室に帰ったあとも彼が普通の精神状態に戻れたとはとても思えないのだ。それとも朱実の死体と対面したときと、東条が会ったときとでは、神埼と神崎が入れ替わっていたのだろうか。しかし、神崎が昔穴の底の私に自分のことを話してくれたときには、神埼も神崎も朱実のことを愛していること、人格が入れ替わるときには互いに記憶を引き継がせるようにしていることなどを言っていたから、やはりどう考えても、矛盾している……。
「どういうことなんだ? 神埼が、俺たちの前で奥さんの遺体を見たときは、とてもショックを受けていたようだったぞ? あんたが言っている内容は、さっきからどうにもちぐはぐじゃないか。本当のことを、もっとわかりやすく話してくれよ」
 青波幸生がたまりかねたように大声で言った。東条はまた、制するように片手を上げた。
「ご心配なく。もうすぐわかりますよ。……私はそのあと浪岡邸に戻りました。そして皆で、少しだけ仮眠を取っていたときに、一人の女給が慌てて私を起こしに来ました。偶然台所にいた彼女は、滅多に使わないパントリーの扉越しに、人の声や物音がするのを聞いたと言うのです。彼女が驚いているうちにパントリーは静かになったようで、青波家の誰かが何かをしていたのかもしれないと言われて、私は粉太郎氏を連れ、浪岡家側のパントリーを通り抜けて、青波家側のパントリーに続く扉を開けてみました。するとそこには、神埼さんが閉じこめられていたのです」
 東条は、自分の前の椅子に座る神埼に目をやった。
「私は集まってきた皆さんに頼んで、しばらくの間神埼さんとパントリーに二人きりにしてもらいました。そして神埼さんから、詳しく事情を聞こうとした。しかし彼の返事は、どうも要領を得ませんでした。まるで、なぜ閉じこめられていたのか自分でもわかってないかのように。それに、パントリーの棚の上に置かれていた原稿を読んでみると、浪岡邸での事件が、小説の形で綴られていました。これは一体どういうことなのか。私が本当に不審を感じ始めた、そのときでした。神埼さんの表情が奇妙に変化したのは」
 東条は一度言葉を切った。さっぱりわけがわからず、困惑するばかりの面々をぐるりと見回してから、そっと続ける。
「……神埼さんは、急に焦点の合わない目をしました。私を通り越して、どこか遠くを見るような。しかしそれはほんのわずかな間のことで、次の瞬間には、神埼さんはまた私を見つめていました。そして、非常に驚いたような顔をしたのです。彼は私に向かって、なぜ小説の中の人物が目の前にいるのかと口走りました。それで、私もようやく気がついたのです。彼の人格の多重性に」
 この場にいる者たちが、揃って驚愕の声を上げた。翁や幸生も、目を見開いて顔を強張らせているところから、神埼と親しかったはずの彼らも二重人格のことについては知らなかったようだった。しかし私は、変わらず疑念に満ちた目を東条に向け続ける。神埼が二重人格であっても、問題は何ら解決しないのだ。東条は何を言いたいのか……。
「じゃあ、何です。君が部屋で顔を合わせた神埼さんが、朱実さんの死を気にしていない様子だったのは、そのときの神埼さんと、朱実さんの遺体を見た神埼さんとは、別の人格だったからとでもいうのですか」
 輿山氏がいささか興奮した口調で、先ほど私が思ったのと同じ考えを口にする。東条は、それにかすかに笑って頷いた。
「ええ、そうですね。確かに、違う人格でした。……ただ、彼が二重人格だということは、前から私も知っていました。そしてそれだけでは、二つの人格は記憶を共有しているはずので、彼の様子のおかしさを説明することはできないのです」
 東条の言葉に、輿山氏は肩すかしを食ったような顔をした。
「じゃあ、何も解決していないじゃないですか。それに、もとから知っていたなら、君がさっき言った神埼さんの人格の多重性に気がついたというのは、どういう意味なんです?」
 東条は、静かな瞳で輿山氏を見た。そして、言った。
「そう。私は彼の人格の多重性に気がついたと言ったのです。――二重性ではなくね」
「……っ、それ、じゃあ……!」
 輿山氏が、言葉に含まれた意味を悟り、大きく息を呑む。それは他の皆も、そして私も同様だった。神埼が二重人格だと知っていた私だが、いや知っていたからこそ、その驚きはほとんど衝撃となって私の体を痺れさせた。
 東条はゆっくりと言葉を継いだ。
「そうです。神埼さんは実はもう一つ、人格を持っていたんですよ。私が昨日から今日にかけて会っていたのは、彼の三つ目の人格だったのです」


(担当・白霧)
むちゃくちゃ遅くなってすみません。なんか延々東条たちが話してるだけって感じになってしまいましたが、もう早いところこのリレーにキリをつけたいので上げちゃいます。でもまだまだ続く…。