何も無かったらかかないでね!その9

 一年一組。帰りのホームルームの直後、担任から例の生徒会アンケートが配布された。他のクラスでも今頃同じことをしているはずだ。――いや、「はず」ではなくて絶対に。放課後、生徒を解散させる前に全校一斉に行うように指示したのは、他ならぬ私自身なのだから。
 手元に渡った用紙を覗き込み、クラスメイトの幾人かがこちらを振り返る。「藤村さん、何のつもり?」そんな声が聞こえてくるようだ。もの問いたげな視線を向ける彼らに、私は穏やかな微笑みを向けた。一番前の席の鮎川にも同じような眼差しが注がれていたが、彼はあえて気づかないふりをしてシャープペンシルをカチカチ鳴らしている。そして、当たり前のように記入を始めた。
 そう、それでいい。私は表情に出さないよう、心の中で満悦した。唐突に配られたこのアンケートに、不必要な疑問を抱かせてはならない。私たち生徒会役員は堂々としていればいいのだから。当然という顔をして机に向かっていれば、生徒たちも回答することに集中せざるを得ない。思った通り、彼らは慌てて筆箱をあさり出している。


 三年八組。巧い手を考えたものだ、と僕はアンケート用紙を眺めた。とりあえず記名欄に「水野雅臣」と書きつける。
 帰りのホームルームも終わり、そろそろ教室から解放されるというタイミング。生徒会からアンケートが届いている、と担任から知らされたのはそんなときだった。
 調査の存在を伝えると同時に用紙が配られ、簡単な説明がある。公正を守るため、持ち帰りや後日提出は一切禁止。万が一、回答が他人の目に触れる場合を考慮しての措置らしいが、質問事項を読めば生徒会側の狙いがうっすらと見えてくる。
 もし、朝に告知・配布して帰りに回収という手段を採れば、それまでの話題にこのアンケートの件を出す生徒も出てくるだろう。友人間で記入内容を相談することも考えられる。そういった危険を避けて生徒個人の本音を引きずり出すため、この拘束されている時間に実行したのだ。まあ、「嫌いな生徒」「付き合っている生徒」に関しては素直に記入してもらえるとは思えないが。
 それにしても、と僕は宙を睨みつける。「彼」はいつになったら行動を起こしてくれるのだろうか。


 一年二組。調査項目を一つ一つ埋めていた僕は、次の設問を目にして首を傾げた。友人関係の調査なら中学でもやったことがあるが、嫌いな生徒まで書かせて、生徒会の人たちはどうするつもりなのだろう。最初に藤村さんの端正な顔が浮かび、続いて脳裏に現れたもう一人の少女にぎくりとする。思わず斜め後ろを振り返りたくなった。
 あの夏の日の情景が蘇る。自身に浴びせられた憎々しげな声が、鋭い眼差しが。
 夏目さんは、僕の名前を書くのだろうか。彼女に嫌われていることは分かりきっているけど、そう考えるとやはり気が重くなる。
 ……仮に僕がここに誰かの名を記入するとしたら、それは自分自身の名前なんだと思う。高校生になって、大っ嫌いな自分とは決別できると信じていたのに、結局のところあの夏から何一つ変われていない。
 ――絵は、かく人間の鏡よ。
 ――あんな空っぽな絵をかくくらいなら、かかない方がマシよ。
 文末に添えられた、「何も書くことがなかったら書かないでね!」という注意書き。やけにコミカルなフレーズなのに、何故かそれすらも夏目さんの台詞を思い起こさせて。隣に描かれたキャラクターの可愛らしい笑みが、まるで僕をあざ笑っているように見えた。


 一人、また一人と生徒が起立し、教卓にアンケート用紙を置くと、そのまま無言で教室を出て行く。田所修一は記入済みのプリントを前に溜息をつくと、ちらっと前に視線を送った。最後列のここからは教室の様子がよく分かる。十分ほど前から目立ち始めた空席は、今では全体の七割ほどを占めていた。そんな中で、目的の人物はまだ立ち上がる気配を見せない。こちらから眺める限り何かを書き込んでいるようには見えないのに、一体どうしたのだろうか。
 ――僕は、見極めたいんだ。夏目さんが「あちら」側の人間なのか、それとも……まだこちらに引き寄せる余地があるのか。
 先週の放課後。あの眼鏡をかけた上級生の言葉が頭をもたげた。
 要するに、生徒会に対して思う所がある水野は、夏目有紗のことを修一に探って欲しいらしいのだ。そんなこと自分でやってくれよ、と正直思う。そりゃあ、クラスメイトである修一の方がずっとその役に適しているのは分かるのだが。
 どうやら彼は、他の人なら避けて通るような面倒事でも構わず突っ込んでいく性格らしい。選挙管理委員として薄っぺらな付き合いしか結んでいない修一でも察することはできる。大方、特進落ちしたときもその気質が災いしたのだろう。反骨精神旺盛と評せば聞こえはいいかも知れないが、巻き込まれる側としてはいい迷惑である。
 実のところ、選挙管理委員会の廃止の知らせを受けたときも、修一は内心ほっとしていた。ステータスを買うつもりで引き受けた仕事だったが、逆に生徒会や教師陣に目をつけられてはたまらない。水野には悪いが、深入りしないうちに接点が切れたのは助かった。
「田所」
 突然声をかけられ、ぎょっとする。気がつくと、有紗が目の前で仁王立ちしていたのだ。
「アンケート、もう書けたんでしょ? さっさと回収したいんだけど」
「あ、ああ……って、何で夏目がそんなことやってんだよ」
 言われるままに差し出した用紙を、有紗は滑らかな手つきで裏返してから教卓に向かう。紙の束をとんとん、と揃えながらつっけんどんに答えた。
「生徒会メンバーがいるクラスは、メンバーが直接用紙を回収することになってるの。その方が手っ取り早いでしょ」
「ふーん、あっそ」
 道理で長々と教室に残っていたわけだ。修一は気のない声で相槌を打つ。その態度に、有紗の眉が不快そうに寄せられた。つんと前に向き直り、手元の茶封筒に用紙を押し込める。見るからに苛立っているその背中に、修一は何気ない調子で呼びかけた。
「なあ」
「何よ」
「夏目ってさ、会長の藤村さんとは前からの知り合いだったわけ?」
 弾かれたように有紗が振り向く。
「どうして?」
「いや、入学式の日にさ、見たんだよ。お前が藤村さんを追いかけてるの」
 水野先輩がな、と心の中で付け加える。いわく、式の直前という慌ただしい時間帯というなか、その流れに逆らうように屋上へと向かう姿が印象に残っていたらしい。
「俺らの中学にはあの人いなかっただろ? だからてっきり、塾かなんかの友達なのかと」
 もっともらしく言っているが、修一は本気でそう思ってはいなかった。単純に、落としたハンカチを渡そうとしただけとか、そんなところだ。きっと。
「……そんなんじゃないわ。雪帆は私の従妹。ただそれだけ」
「へえ?」
 意外な関係に修一は目を丸くする。全く想定外の答えだったぶん余計に。その声色に表れた好奇心を感じ取ったのか、有紗は即座に釘を刺した。
「言っとくけど、あんまり広めないでよねそのこと。別に隠してるわけじゃないけど」
「はいはい、っと。じゃあさ、夏目が生徒会に入ったのも藤村さんがいるから?」
「――」
 有紗はキッと修一を睨みつける。その表情は、先ほどよりもずっとささくれ立った感情がむき出しになっている。
「田所には関係ないでしょ。悪いけど、私もう行くから」
 そう吐き捨てると、修一の返事を待つそぶりもなく教室を出て行った。ぱたぱたと荒々しい足音が遠のいていく。
 修一はあっけにとられて有紗がいた場所を見つめていた。中学時代からややきつい物言いには慣れていたが、それにしても気が短すぎやしないだろうか。余裕がなくなっている、とも取れる。
「ちぇっ……何だよあいつ」
 仏頂面で天井を見上げ、愚痴を漏らす。木製の椅子に体重をかけたら、ミシミシと軋んだ。
 有紗の反応は、明らかに過剰だった。おそらく、今後この話題を口にしても彼女は素直に答えてはくれないだろう。さて、どうしたものか。
「……、いかんいかん」
 今度はどこから攻めたものか、と考えかけて首を振る。危うく深みにはまってしまうところだった。修一は、この件にこれ以上関与しないと決めたのだから。
 通学カバンの中をまさぐり、真新しい携帯電話を取り出す。ささっと簡潔に結果を打ち込むと、ためらいなく水野に送信した。そしてぱたんと携帯を閉じ、うずき出す心と一緒に制服のポケットに押し込めた。



(担当:苗之季雨)


小心者すぎて前回の流れから続けるのが精一杯でした。あれ…確か前回受け取ったときも似たようなパターンだったような…(遠い目)
『何も無かったらかかないでね!』のバトンリレーはこの章から折り返しです。次回は17+1先輩になりますね。お役目御免になった私は一足先に離脱して、これからの展開をにやにやしながら眺めたいと思います(^ω^)