キャピタルCインカゲイン その8

 ようやく見つけた。花梨。あんたのせいで、みんな死んだのよ。タワーが倒れてきたとき、あんたが自分を守るために力を使ったから、そのせいで。もしかしたら助かったかもしれないのに、あんたが、自分が助かりたいがためにみんなを殺したの。そのせいで、私も、肉体を失った、こんなものになってしまった。生きている者でもない、死んでいる物でもない、こんな意識体のようなものに。あんた、この責任とれんの? 到底、あんたの命だけじゃ足りないわ。答えなさいよ。あんたはこの責任を、どうやってとるつもりかって聞いてんのよ。
 目を開くと、見慣れない天井があった。いつもに比べ、かなり近い天井は、やたらと圧迫感がある。ただその圧迫感も、今の悪い夢ほどではなかった。それは夢であるにもかかわらず、とても鮮明で、だから、今もってその叱責が耳に残る。必死に自分をだまし、何とか保った心をえぐろうとする声。その声には、覚えがあった。日向紗香、あのとき死んだうちの一人。その声が本物なのか、妄想なのかはわからない。だけど、普段おっとりした彼女の、苛烈に責め立てる口調が心に響いたのは確かだった。
「あれ、起きてたんだ。おはよう。昨日はよく眠れた?」
 二段ベッドの下から、槻景早耶佳が顔を出す。奇しくも同じ名前を持つ二人、早耶佳の笑顔の裏にも、何か影があるのだろうか。
「ああ、やっぱ枕が変わるとなかなか寝られないよね。だけどやっぱり、もう家にいるのも危ないだろうし、こっちで寝泊まりしたほうがいいと思うの。……ごめんね。巻き込んで。」
私の芳しくない顔色を見て、勘違いした早耶佳が私を気遣う。それで余計にもやもやしたけど、それを隠し、笑顔をつくった。
「ううん、早耶佳が助けてくれなかったら、私どうなってたかわからないし、それにずっと、どうにかしなくちゃって、思っていたの。だけど私一人じゃ何にもできなくて、でも、レジスタンスとして戦うんなら、私も、役に立てるかな。」
 笑顔を浮かべた早耶佳は、見せたいことがあると言って部屋を出た。外には多くのビルが立ち並ぶ。立地的に言えば、神奈川県相模原。東京との県境近くにある五階建てマンションは、ある協力者が所有するものだという。花梨のように、家にいるのが危なくなった能力者などが数十人住んでいるらしい。
早耶佳は五階にある一部屋の前で立ち止まった。表札はかかっていない。偶然このマンションに住む、何も知らない一般人の、誰もいない部屋から物音が、なんて通報を避けるため、能力者のいる部屋にはでたらめな名前の表札がかけられているはずだけど、そこは居住用じゃないのだろうか。ちなみに二人のいた部屋には野口と書かれていた。
「動かないで。」
 早耶佳がドアを開けると同時に、鋭い声が飛ぶ。中を覗くと、二人、矢羽樹と初めて見る少女が向かい合って立っていた。
「何やってるの?」
「彼の種の引力を探っているの。なんでも力場に微量な変化があるとかで。」
「そこ、しゃべらない。力場が揺らぐ。」
 少女に叱責され、早耶佳はいたずらっぽく舌を出した。


「N−I。」
 突然の声にあたりを見回すも、誰の姿もなかった。しかし耳を欹てるに、炭化し脆くなった木材を踏み拉く音が聞こえた。
「なんだ、I−Vか。別に、いまは能力を使う必要ないんじゃないか?」
 そう問うと、瓦礫のなかに男の姿があらわれた。茶褐色のロングコートの襟を立て、腕はポケットに突っこんでいる。
「しかしここは寒いな。やたら風も強いし、おまえの能力がうらやましいよ。」
 吹きさらしの埠頭は、確かに海風が強い。散開する瓦礫は、風避けとしてはあまりに心許なかった。
「それで、なにかわかったか?」
「微妙なところだ。地下室があったが、撤収した後らしく、痕跡はまるでない。埃の一つまできれいにもってかれている。何かをやっていたのだろうが、なにかはわからないな。」
「なんだよ、収穫ゼロじゃねえか。」
「いや、そうでもない。一つだけだが、面白いことが分かった。瓦礫の中に、死体が一つ見つかった。これだけ派手に燃えたにもかかわらず、みごとに原形をとどめていた。おそらく東京駅前で暴れていたやつだろうから、炎の能力者だってことと、関係あんのかな。まあそれはいいとして、だ。なんと、その死体の口の中に、メモが入っていた。捕まって咄嗟に飲み込もうとしたんだろう。メモには住所が書いてあった。神奈川県の地所だ。調べてみる価値は、あるんじゃないか?」


 地下の薄ら暗い光が、集まった四十人余りの人影を朧にうつす。レジスタンスの緊急集会、その中心には、早耶佳と樹がいた。そのすぐわきで、花梨は三人の人と一列に並んでいた。ざわざわという、騒がしい地下駐車場、不安げな表情も、一つや二つではない。しかし、その浮ついたような空気は、それでいて確かに、一つの中心性を持っていた。すなわち、一見無秩序にも見えるざわめきの、その向かう方向は早耶佳と樹に集中していたのである。その証拠に、早耶佳が口を開こうとした途端、全ての話し声が、ぴたりと止まった。
「今回はまあ、突然の招集だったけど、みんな集まってくれて、ありがとう。だけど、気づいている人もいると思うけど、シンと、サイが死んだわ。だから、今この場で、黙祷を捧げます。」
 沈黙が訪れる。花梨も同様にして、目を閉じた。手紙を受け取ってから、死、というものに触れたのは、これが初めてではない。死にそうな目にもあった。だけど、こうしていると自分たちが、それに直面しているのだと、いまさらながら思わずにいられない。ここでは、こんなことが日常的に起こっているのだろうか。
「それじゃ、まあ、とりあえずこれからいつも通りに始めるね。まず最初に新入りの紹介。」
 言って早耶佳は、芝居がかった大げさな振りで花梨たちの方に示す。
「今回は、四人新しく入った人がいます。右から順に、ビスクス、忘却の能力者。ニック、殺害の能力者。ギル、超速移動の能力者。そしてルナ、拒絶の能力者よ。そしてさらにもう一人、私たちにとって、切り札となる存在、コードネームはフレンとしたわ。みんな知っていると思うけど、彼の持つ種は、いわゆる親種と引き合っている。すでにエリルが、その方角を割り出した。だから、明日、その方角に向かって移動するつもり。今日はそのための集会よ。」
 それからは、明日の作戦について話し合われ、計画が練りあがっていった。そうしてそれも大方まとまり、そろそろ解散になろうかというころあいになったころ、再び早耶佳が口を開く。
「最後に、一つだけ報告しておきたいことがあるわ。実は、テロ組織に潜入して、一つ、わかったことがあるの。彼らの目的は、トウキョウという能力者国家を作り上げること。東京に独立帝国を構築するつもりらしいわ。だけど、本当は、それでは終わらない。テロリスト、特に穏健派上層部の考えでは、それはまだ第一段階に過ぎないの。過激派はそのために利用されている。いまから話すことが間違いでないなら、CCIだけじゃなく、テロリストも、倒さらなければならない敵、ということになる。ねえ、ノアの方舟って、知ってる? 神は、堕落し、不法に満ちた地上を大洪水によって滅ぼした。だけどただ一人、神の御心にかなった無垢な人、ノアに天啓を下し、箱舟をつくらせた。そして、彼の親族と、すべての種のつがいを箱舟に乗せ、洪水から救った。トウキョウ帝国とは、その箱舟のこと。彼らは世界を、というよりも人類を滅ぼすつもりなのよ。再生による救い、とでもいうべきかしらね。どうやってやるかはわからないけど、問題だらけの文明を、リセットするのが目的らしいわ。」
 爆弾だった。そんな重大事項を、そんなさらりと口にするなんて。もはや怒号に近い声が上がる。テロリストを止める、それもまた自分たちのなすべきことだと、皆がそう思っているのだと感じた。だけど、花梨にとっては、それはそこまで重要なことには思えなかった。テロ組織は敵、それはとっくにそうだったのだし、実際問題、それが知れたところで自分たちのやるべきことは変わらないだろう。彼女の報告は、確かに世界にとっては重要なことだったけれど、私たちにとっては、成功すれば助かり、失敗すればおそらく死ぬ、という今の状況にさしたる変化はない。死、という言葉がわらわらと現実味を伴った今さらに、そんなことを言われても、ただ決意を確かめるだけのことだった。
 ただし、その発言にだれよりも驚いたものが、いた。あまりの衝撃に、出してはならない声を上げてしまった。幸いにもまわりが動揺したために、その存在は気づかれなかったが、本人はそのことで動転し、慌ててその場より逃げだす。マンションを出てしばらく歩く。大通りを渡り、駅のトイレに入り、そこでようやく、もういいだろうとI−Vは能力を解いた。若干の吐き気すら覚える。過激派ならいざ知らず、まさか自分たちの上の人間がそんなやばいことを考えているとは、これではどっちが過激派かわからないではないか。そんなことはするつまりだったなんて、すぐにでも仲間に報告するつもりだったが、状況が変わった。こんなこと、だれに言っても信じてもらえないだろう。異端者として排除される。理想など、もとよりない。ただ脅されて入っただけだ。こうなっては、レジスタンスとやらに頑張ってもらうしかない。運がよかったのは、まだ何も報告していない、ということだけ。N−Iにさえ黙っていてもらえれば、メモの件から何もかも握りつぶせる。


「中部地区で、妙な動きがあるようです。」
 クリスティーン・カンプラはエリック・マンチェスターに報告する。その後すぐに退室。ここでの仕事にも、随分となれた。しかしまだまだプロジェクトは半ば、最後の種をとらえるのが最も危険なのだから、油断はできない。前回はそのために、マネージャーのほとんどが死んだ。今回はさらに危険なものになるだろう。
「何を報告してたんだ?」
 いきなり後ろから声をかけられる。振り返るまでもなく、その主は、オーレン・セルシウスであった。彼との付き合いも随分と古い。お互い古参ながら、信用は得てもさしたる地位は得られなかった者同士、この殺伐とした職場で、気安く話せるものは貴重な存在だ。
「裏切り者のことです。」
「裏切り者? ああ、例の監視員か。しばらく泳がすんじゃなかったのか?」
「いいえ、それとは別に。まだ確証は得られていませんし、人物も特定されておりませんが、おおよその見当はついています。おそらくは、マネージャーかと。」
「あーあ。もったいねえことするなあ。せっかく目をかけてもらえたのに。それでそいつら、どうすんの? 消すのか?」
「いえ、とりあえずはこっちも泳がすみたいです。どうやらプロジェクトを止める気はないようですし、せいぜい場をかき回してくれるようにと。」


 稲玉士が仙台に現れたのは、やはり、必然だったのかもしれない。やはり、惹かれあうのだろうか。クラリスコルトレーンは、施設の中でも、特に厳重にロックされた部屋に入る。暗証番号と、指紋認証、声紋認証に虹彩認証。それだけの警備が敷かれた部屋は、CCI内部でも一握りのものしか入ることを許されていないばかりか、その存在自体も隠されている。
精密機器が壁一面に置かれ、常にデータをとっている。その対象は、ベッドに横たわる一人の男。名を、バレンタイン・シーモンド。すでにこの世に存在しないはずの男の名だ。
男は一向に目覚めない。微弱な脳波、血圧、確かに生きているけれど、すでに、死体と大差ない。にもかかわらず、男には、幾重もの拘束が施されている。手首、足首、二の腕、腿、腰、胸、首に金具が備えられ、口には金属製の猿ぐつわ、その上で全身を幾層もの鎖が覆っている。そこまでしているのは、その男の力が、あまりにも強大だからである。これはやりすぎではないかというものもいたが、クラリスからしてみれば、これでもまだ、足りないくらいだ。不安げにそれを一瞥する。ここの所、わずかながら脳波が戻りつつある。種の核を取り出し、植物状態となったものが、その種との共鳴によって回復しているのだ。血色もよくなっているようだと、顔を覗き込む。そして、目が、合った。突然の出来事に、とび退くことも、力と使うこともできなかった。胸部に、衝撃が走る。見下ろせば、胸から漆黒の物体が生えていた。そしてそれは、いとも簡単に破壊されたベッドへと延びている。
 クラリスから腕を引き抜き、バレンタインは立ち上がった。強固な拘束は、まったく用をなさなかった。眼が血走っている。まるで、怒り狂う魔神のように、それともあるいは、失ったものを探すかのように。血走った目でバレンタインはその口を大きく開け、咆哮した。壁に、ひびが入る。そして、広がる。もとより急ごしらえの施設であり、耐久性はあまり考えられていない。周囲への安全性など度外視である。いずれ崩れ去るのは、想像に難くなかった。


 樹は、二人のレジスタンスメンバーと、仙台にいた。一人は、樹の引力を図ることができる少女、エリル。もう一人はシオンという護衛役の少年であった。ただし、三人を囲うようにして、四十人もの能力者が歩いている。
「たぶん、このあたり。」
 エリルの報告は、仕込んだ無線機によって伝えられる。緊張が高まり、同時に息をつくのがわかる。確かにここまでの道のりは長かった。だけど、ここから先は、より一層気を引き締めなければならない。CCIには監視員たるものが存在するらしいし、おそらく、自分たちの動きはばれている。いつ、どこから仕掛けてきてもおかしくない。つまり、あらゆる事態を想定しておかなければならないのだ。たとえば、いきなり足場がなくなるようなことも。しかし、樹はそれを想定できていなかった。完全に予想外の事態、それゆえに、彼の反応は遅れた。ただ、それに対応したものもいた。地面に引きずり込まれようとしていた樹は、急に、上に引き上げられるような感覚を覚え、気が付くと、ビルの合間から街を見下ろしていた。ただしその街は、平時のそれとは大きく異なっている。いくつもの場所で地面が陥没し、地下深く、闇を湛えている。いくつもの建物が傾き、中には倒壊しているものもあった。なにが起こったのか理解しようとしたが、目はただ惨憺たる現場を見るだけ、耳を欹てるも、上方より響くバサバサという音以外を拾うことはなかった。見上げると、光り輝く輪を頭上に抱いたシオンが、背中より生えた純白の翼で羽ばたいている。それが彼の能力なのだろう。自分は、彼に助けられたわけだ。しかし、そこで樹は、一つ、重大なことに気がつく。
「彼女は? エリルはどうなった?」
「おいてきた。俺の力では一人抱えて飛ぶのが限界だからな、彼女がいなくても親種を探す手段はあるが、おまえなしではどうにもならない。優先順位というやつだ。それに、そんな悠長なことを言っている暇はない。」
 シオンの物言いに嫌悪感を覚えるも、彼に促されるまま樹は足元を見やり、その言葉の意味を理解した。理解せざるを得なかった。瓦礫の中に、何かが立っている。朦々とした黒煙の中で栄える、闇色の体、ただ立っているだけなのに、それは、圧倒的なまでの威圧感を放っていた。崩壊した街に二足で佇むその姿は、世界を滅ぼす人狼を彷彿とさせる。それは上方を見上げ、その真紅の瞳が樹を射抜く。刹那、それは目の前にいた。そうして、体が宙に浮く感覚。シオンが放したのだとわかった直後に、顔を生ぬるい液体が打った。人狼が宙を蹴り、樹へと直進する。樹は黒を出し、盾としたが、それを憚ることなく突き出された腕が、黒を貫き、樹の左胸を貫いた。


 押し寄せてきた瓦礫の山から、クラリスは何とか脱出した。胸の傷は、すでに塞がっている。しかしそのせいで、また寿命が減った。まだ残像の頭に残る痛みは、かつての胸の痛みに、とても似ているような気がした。
 思い出す。それはもう、十年も前のこと。それが、何に由来するものかはわからない。おそらく、この世界では神隠しと呼ばれるものだろう。それによって、いきなりこちら側に飛ばされてしまった。そのときはこの世界のことなんて何にもわからなくて、だけどただ、元の世界に戻りたい一心で、野心あふれる男、エリック・マンチェスターに協力させCCI計画を始めた。自分の生命力を削って種を作り、二百、アメリカにばらまいた。だけど結果は失敗。原因として真っ先に上がったのは、エネルギー不足だった。理由は、彼にもあるのだろう。実験用に、ひとり残しておくこと。それが協力の条件の一つだった。その残す一人として選ばれたのは、最後の三人の中で最も多くのエキセントラ力を蓄えたバレンタインだった。確かに、あの男を儀式に使うと二人のバランスが崩れてしまうけれど、そのために力の多くが使われなかったのは事実だった。だけど今回は、バレンタインの種の核を親種として使い、満を持し、前の倍以上、五百の種を撒いた。もちろん彼の分だけでは全然足りず、さらに命を削ることになったけれど、そんなことはもうどうでもよかった。どのみち、安全に戻る方法なんてもはやありえない。NYのときは呼び出したホワイトキャッスルを戻すことで帰る予定だったけれど、三度目の実験には、とても体が耐えられない。ただ、前回の実験で、無理やり現出させた物質は世界からの引力にひかれることが分かったから、それに乗れば帰れる可能性がある。大量に撒いたのは、CCIという組織の意思。組織なしではプロジェクトそのものが成り立たないから、従うほかない。別に余命幾ばくでも、戻ることさえできれば、それでいい。そう思っていた。しかしそれすら、これで叶わなくなるかもしれなかった。すでに消失した可能性もあったバレンタインの力は、クラリスの想像すら超え、まさしく全盛期のそれと同等であった。先ほどの攻撃で、CCIが受けた被害はどれほどのものであろうか。本部がつぶされたのだ。相当の被害、プロジェクト全体に大きく支障をきたすレベルの損害だ。何とかしなくてはいけない。何とかしなければ、このままでは、二度と、帰れなくなってしまう。


 人狼が腕を引き抜くと同時に、大量の血液が飛散した。しかし血飛沫は、途中で動きを止め、逆再生するかのように樹の胸へと戻っていく。そして傷口は、何事もなかったかのように塞がった。それと同時に、一人の男が血飛沫をあげて地面に倒れる。自分の傷を移植させたのだと悟ると同時に、樹と人狼の間を三人が割る。
重力のまま落下する樹は、大量の蔦によって受け止められ、もつれながら抜け出ると、そこに一人の少女が駆け寄ってきた。
「シルフィといいます。詳しい話は後にして、とにかくここからあなたを避難させますので。」
 シルフィがそれだけ述べると、有無を言わさぬうちに、樹の姿がなくなった。後は、ツキも避難させねばとシルフィはその周りを探す。しかし、彼女が見つけたのは、ツキではなく、自身に向けて腕を振り下ろす人狼であった。
 シルフィが死んだ。それによって、状況はより一層まずくなった。これで犠牲は、見当もつかない数に跳ね上がる。今回は自分含め非戦闘員もいるから、機動力も下がり、それをかばえばより一層被害が増える。そのうえ、死んだタイミングもまずい。最優先で逃がさなければならない矢羽樹だけは何とか飛ばしたものの、その直後に死んだために、目的地への到達が危うい。本来なら拠点に飛ばすはずが、動力を失い途中で落っことすかもしれない。最悪、異空間に飛ぶか、体がばらけて命を落とすかもしれない。
だがどうあれ、今は何もできない。とにかくここから逃げること、それだけを考えなければ。槻景早耶佳は大声を張り上げ、全員に撤退を指示する。怒号と悲鳴の渦の中でも、その声は響き、戦場全体を駆け巡る。ゆえに、だれもがその声を聞いた。もちろん、人狼も。その声に反応し、人狼は、早耶佳の目の前に。それと同時に、早耶佳は理解した。次に人狼が、どうするつもりなのか。もちろん、殺すつもりである。そんなことは、だれにでもわかる。ただ、相手の心を読むことのできる、心眼能力は、その攻撃をも理解する。下段からの、突き上げで、喉を狙う。ただそれを理解することと、それを回避することは全くの別物だった。ただ自分の死に方を理解し、恐怖する時間が長引くだけでしかない。
 早耶佳の死、それがレジスタンス全体に、波紋を呼んだのは言うまでもない。しかし、レジスタンスという組織もまた、必ずしも一枚岩ではなく、彼女の死に、特別の思い入れがある人物というのもある程度限られてくる。そのうちの一人であろう花梨は、その光景を目の前にして、悲鳴を上げた。人狼がその声を逃さないはずがなかった。叫び声に反応し、彼女に、人狼の爪が横薙ぎに襲いかかる。花梨は力を発揮するも、その勢いはとどまること知らず、代わりに花梨が、大きく吹き飛んだ。万物を拒絶する、強烈な斥力、人体を破壊するほどの強力な圧力も異形の者には効かず、その反動として自らが飛ばされたのである。飛ばされた先には、崩れ落ち、むき出しとなったビルの柱があった。その柱が、花梨の力で砕かれる。それが、最後の藁となった。支えを失ったビルが、いやな音を立てながら、花梨に瓦礫の雨を降らせる。それは、あの時倒れてきた、赤い塔のようでもあった。


 舌打ちしたい気持ちを、F−Gは何とかこらえた。新入りがスパイだとどうして憑いていて気づかなかったとか、途中で死んでしまったから先の展開がわからないとか、文句は山ほどある。過激派にレジスタンスの行動を漏らさなかったのも失敗した。親種を手に入れようとすれば、かなりの確率でCCIとぶつかる。この組織やレジスタンスはほぼ全容を掴めたけれど、CCIについてはほとんどわかっていない。今憑いている女は下っ端で有力な情報は上がってこない。その上このところは、独自に怪しい動きを進めている。M−Eに憑いていれば何かわかるかもしれないと思ったから、その邪魔になる過激派を止めていたというのに、とんだ無駄足だった。唯一わかったことは、CCIがとてつもない戦力を保持しているということだけ。状況が予想以上に不利だとわかっただけで、だけど、手を引くことはできない。一人で戦うと、決めたのだから、後戻りは、できない。


 ギルは仲間を抱え、立ち上がる。人一人分の重さはかなりのもので、持ち上げるのは相当にきついはずだけれど、火事場の馬鹿力というやつだ。腰のところをもって肩で担ぐと、そのまま駆け出した。通常なら音速を超える速さも、その状態でははるかに落ちる。どのみちそんな速さでは抱えた人間の負担が大きすぎるが、それでも、もう少しスピードが出ないかと歯がゆくなる。シルフィがいないから、どのみち彼女一人では無理だが、ほかの者たちで仲間を逃がすしかない。しかし敵の戦闘力はまさしく化け物で、安全な場所まで運び、戻ってくるたびに、一目でわかるほど人数が減っている。何人かはだれかが逃がしたのだろうけれど、大半は、おそらく人狼に殺されたのだ。何とか人狼を足止めしようとする仲間も、囮以上にはなっていないように思える。どうして自分は戦えないのだろうと、ずっといやだったのに、今はそのことが、心からよかったと思えてしまう。目の前で繰り広げられているのは戦いではなく虐殺だ。
そうしてまた一人、ギルをレジスタンスに引き入れた男、ルダをとらえ、爪がその心臓を抉ろうとする。
しかし、突き出された腕は、上方に逸れた。
「いまよ。一斉に攻撃して。」
 瓦礫から這い出たエリルが叫ぶ。人狼に対してだけ、重力の向きを逆転させた。それは突然上下が逆さまになったようなものだ。相手も生物なら、一瞬でも混乱するはず。
エリルの声に応えて、人狼に向かい炎が、槍が、氷塊が舞う。猛烈な攻撃の嵐、さらに剣を握った男、ルダがその刃を振りかざす。ルダの首は飛んだが、同時に、切り落とされた腕が、天に向かって落ちていった。だけど、
――どうして、落下しないの?
 そう、落下しない。重力が逆ならば、今の状態ならば上に落下するはずである。たとえ空をかけることができたとしても、今の人狼は、まるで忍者のように天井からぶら下がっている状態だ。しかしその答えは、すぐにも明らかになった。攻撃のために上がった土埃がおさまる。見えてしまえば、種は、簡単だった。爪が地面に食い込んでいる。ただ単純に、踏ん張っているだけ。だけど見えたのは、そんなくだらないことだけではなかった。仲間が命がけで切り落とした右腕、その腕は、すでに人狼に生えていた。とてつもない再生能力、人狼には、傷一つない。これでは、外傷を与える攻撃で人狼の息の根を止めることなど、できまい。
――なら、もっとよ。
 エリルはさらに能力を解放した。人狼は今、地面にしがみついている状態。さらに力が強まれば、いずれは耐えきれなくなって落下するはずだ。そうすれば酸欠で死ぬ。それと、もう一つ、人狼にとどめを刺すための方法があった。混乱の中から、一人の少年を探しだす。
「ニック、やって。」
 新入りの少年。彼の能力は、触れたものを殺すこと。問答無用のその力をもってすれば、この怪物に引導を渡すことができるはず。格が違いすぎる相手、しかし能力者の戦いで重要なのは相性だ。これだけの能力者がいて、有利なものがいないはずがない。そしてその声を、ニックは確かに耳で聞いた。しかし、それを聞き、彼はその場で、腰から崩れた。限界など、すでに来ていたのだろう。この場所に踏みとどまるだけの勇気はあっても、進んで前に出るだけの勇気はなかったのだ。その実、レジスタンスの中で、実際に戦いを経験したものは少なく、ましてこれほどの地獄を見たものなど、一人もいまい。勇者など、数えるほどしかいないのだ。さらに、ニックへと注意が逸れたことで、人狼への集中が散った。その隙を、それは見逃しはしなかった。エリルが気付いたのは、人狼が目の前にいて、自分の首がちぎれていることだった。


 世の中には、どうしようもないことというのがあって、おそらくこれは、そういった例に入ることなのだろう。突然の出来事、しかも周りに一般人がいるとなれば、力を使って何とかするのは難しい。しかも今、士はその一般人たちと一緒にいる。
「これ、どこなんだろ?」
 誰かが言った。答えられるものはいない。わかっているのは、ここが自分たちの乗っていた地下鉄よりもさらに下の空間だということである。非常電源が入っているのか、幸いにもわずか生き残った蛍光灯が、仄かに、埃っぽい通路を照らす。その幅は電車より一回り大きい程度、よくもまあ、ここまで綺麗に入ったものだと、感心する。通路のところどころに瓦礫が散開し、見晴らしはすこぶる悪い。見上げると、深淵の闇が蟠り、どれほどの高さがあるかしれない。おそらく地下鉄道の天井だろう、そこから列車ごと落とされたのだ。能力を使わない限り、上からの脱出はできまい。
懐中電灯の光が戻ってきた。一方は瓦礫に埋まってしまっていたが、もう一方の通路はかなり先まで続いている。それを見てくると言って、一人、まだ軽傷のものが先へと歩いていた。ところが、帰ってきた彼の傍らには、別の男の姿があった。
「この通路、だいぶ向こうまで続いてた。ちょっと終わりも見えなかったから、いったん帰ってきた。それでこの人、朝倉雄平さんも上から落っこってきたらしい。腕を骨折している。それで、この後、どうする? ここもいつ崩れるかわからなさそうだし、できるだけ早く脱出したほうがいいと思うんだが。できれば、全員で。」
「でも……みんなで、動けるんですか?」
 一人の女性が、横たわる男性を一瞥し問うた。今生きていて、電車から脱出した、救い出された人間は合計十一人。そのうち、どう考えても自力では動けない重傷、重体のものが三人。残りのものも、無傷の人間は一人もおらず、半数は動きに支障をきたすレベルの怪我を負っている。その女性もまた、足を引きずっていた。
「わかった。確かに、全員での移動は無理だ。だけど、俺一人じゃ、いろいろと不便だってことが分かったから、誰か、一緒に来てくれ。」
 誰も、手を上げようとはしなかった。なにがあるかわからない、地下施設、動き回るより、ここで待っていたほうが安全だという気がした。確かに、地上に繋がっているのなら、それは万々歳だが、それを探すのは何も自分じゃなくてもいいだろう。彼以外の、動けそうな三人、ガラの悪そうな男、中年の女性、そして士の三人は、互いを探り合っている。埒が明かないと思ったのだろう、彼は男に近づく。自分はまだ高校生、大人ではない。ならその男が行くのが順当である、ていうか行け。そう思っていたのだが、あまりやさしくなさそうなその男に自分から近づいていく彼の度胸には驚く。
「あんた、悪いけど、一緒に来てくれないか?」
「うるっせえよ、なんでてめえの言うことなんか聞かなきゃなんねえんだ。てめえいつからリーダーになったんだ。行きたきゃ一人で勝手に行け。」
 男がすごみ、彼も少しビビったらしい。それ以上の言及はせず、今度は士のほうに近づいてきた。


 花梨は、瓦礫の影から人狼を見ていた。そこに、生きた人間の姿はすでにない。あるものは胸をえぐられ、あるものは顔の潰れた屍たち、それらが、わらわらと這い出し、人狼に向かって踊りかかる。幾百もの兵士は、腕がもげ、首が落ちようとも、なお動くことを止まない。さながら糸につられたマリオネットのごとく、人外の動きで人狼を翻弄し、屠られていく。しかるに人狼は、その死者の渦のうちより口を大きく広げた。閃光が、迸る。その矛先の向いたのは、一棟の傾いたビル、その屋上より惨禍を見下ろす人影であった。この場所からではそのものの表情を見て取ることはできないけれど、おそらくは、恐怖におののいていたことだろう。それとも、すべてに覚悟し、神への祈りを捧げていたのかもしれない。どちらであろうと、その姿は粉砕したビルの向こうに消え、確認の仕様はない。
ビルの崩壊とともに、死人の糸は切れ、地獄のような大地に崩れ、二度と動くことはなかった。大きく損傷し、横たわる死体が、山のように、堆く積み重なっていた。いったい、どれだけの人が亡くなったんだろう。思わずにはいられない。数えきれないだけの無念が、横たわっている。生きているがために、いまだ埋もれた人たちも、この惨状ではどれほど助けられるかわからない。それはすでに鬼籍に入った、一連の惨劇に加えられたとしても、とても一抹に終わるような数ではない。元来数の問題ではないのだけれど、災害において数が規模を表すように、今回の戦いの大きさは、あまりに甚大だと言える。その中のほとんどは、おそらく何も知らない人たち、ただ平穏な日常を生き、唐突にそれを剥奪された人たちだ。否、すべての人がそうだと言える。自分も含めてそう。ただ平凡に生きていたのに、『手紙』によってそれを奪われたのだ。どうしようもなく、怒りが込み上げてくる。地獄を跋扈する人狼に対しても、すべてを暗躍するCCIに対しても。
――ならなぜ、戦わない? 今、この場で人狼と戦わないんだ。
そんなことは、きまっている。勝ち目がないからだ。
――そうか、なら、勝ち目があったら戦うわけだ。もし今目の前にいる敵が、あんな化け物じゃなく、もっと、普通の敵だったら。
その通りだ。もしそれなら、戦うだろう。あんな奴を前に飛びかかるのは、ただの蛮勇だ。
――だったら、なぜ東京駅でおまえは何もしなかった。おまえはただ、見ていただけではないか。
それは、ただ、様子を見ているうちに突然消えてしまったから。
――いいや、それは言い訳に過ぎない。おまえは結局、何もしなかった。それだけが事実だ。気づいているだろう? あの時の二人組、樹と共におまえを助けたのは、その片割れだ。なら、もう一人はどこへ行った? 早耶佳の言っていた、二人の戦死者。もう一人が、それではないのか、おまえが何かしら行動を起こしてさえいれば、助けられたのではないのか。あるいは、二人とも。
本当にそうとは限らないじゃないか。それに3ビルのときは、あれは仕方なかったんだ。私一人では、どうにもならなかった。
――また言い訳か。おまえはいつもそればかりだな。なあ、おまえはいったい、だれに向かって正義をかざしているんだ? 友達か? 先生か? それとも、誰に対しても、自分は正義だと思わせようとしているのか? そんなわけないよな。偽善者だって、うわべじゃ正しい行いをしている。だがおまえは、それすらもしていない。早耶佳じゃあるまいし、ほとんどの人間には他人の心の中なんてわからないんだ。何もしていないおまえのことなんて、だれも善人だと信じたりしない。おまえが、本当に善であろうとしているのは、自分自身に対してだけだ。それだったら、ただ心中で葛藤すればいいんだもんな。おまえは何もしないから、偽善に苦しみ、葛藤する自分を自身の中で演じることで、自らを己の倫理観から守ろうとしているだけだ。納得できない自分をつくることで、納得しようとしている。おまえは偽善者なんかですらない。誰かに手を引いてもらわなければ、青信号も渡れないようなただの臆病者だ。
違う。
――ならばなぜ、おまえは自分の友達を殺した?
それは……仕方なかった。
――仕方なかった? なぜ? 人を傷つけてまで生き延びたくないんじゃなかったのか? おまえはその言葉を守ろうとする一方で、自分自身のため、その言葉が虚偽いつわりだと認めている。おまえはどうしようもなく矛盾をはらみながら、なおも偽善者気取りを続けるのか?


 C−Lから緊急の連絡があったのは、つい五分前のことである。仙台のあたりで、激しい戦闘。そこに、矢羽樹、裏切り者のM−Eら多数の能力者を確認。なぜF−Gから何の連絡もなかったのか、気になるところだが、今彼女を追及している時間はない。一分一秒でも早く、仙台に行くこと、うかうかしていたら、親種を何者かに持っていかれてしまう。しかし、焦ろうとも、東京から仙台まで、どれほどの時間がかかるかわからない。この状況で交通網がまともに機能しているという保証はない。T−Rさえいれば、何人かは先行させることができたというのに。すでにメンバーの大方は集まっている。それは本来、僕がやるはずの仕事、しかし彼に二度も逃げられたため、僕自身、プライドを捨て、協力を求めざるを得なかった。そのことも兼ねた、臨時の招集があったのは予期せぬ幸運だった。おかげで集合までの時間が短縮された。どのみち、C−Lの情報通りなら人手は相当必要になるのだ。
そうして、さあ漸う出発しようかというとき、誰かが、驚きの声を上げた。
自分たちのど真ん中に、何かが、現れた。まるで空間が揺らぐように、空気が不透明になり、朧に現れた影が、徐々に輪郭を取り戻していく。それが瞬間移動だとは、すぐに理解した。しかし、T−Rはいない。そもそもT−Rとは出現の仕方が違うし、仲間の中に彼女と同様の力を持った者もいない。急襲、という言葉が即座に浮かんだ。しかし、その場に現れた人間の顔を見た瞬間、どういうことか、まったくわからなくなった。矢羽樹が、目の前にいた。しかも、現れると同時に足を縺れさせ、その場にへたり込んだ。
「D−R。」
 とりあえず指示を出す。すぐにその新入りが、矢羽樹を後ろから羽交い絞めにした。それで正気に戻ったか、矢羽樹は黒で防ごうとするが、頑強な鱗に守られたD−Rはすぐには効かなかった。その間に箱を作り出し、きっちりと閉じ込めた。もちろんD−Rは外に退避している。
「驚いた。これはいったい、何の啓示だい? クリスマスだとしても景気が良すぎる。」
「いや、驚いたのはこっちだよ。あんたんとこはいまだに旧暦でやっているのか、さすが、どこまでも盲目なやつらだよ。」
「ほう、この状況でまだ減らず口が叩けるとはね、だがいくらなんでも、これではどうしようもないだろう? 当然今度は床も囲ったし、どのみちここには、二十人以上の能力者がいる。」
「猿の間違いじゃないのか? 猿回しに回されている。」
「CCIのことかい? 残念だが、利用するのは僕たちの方だよ。それに、君もね。ふむ、いい加減このやり取りにも飽きてきたし、そろそろ本題に入らせてもらうとしようか。とりあえず、僕の左腕を返してもらおう。」
 黒を出させる暇は与えなかった。至近距離でのスピードでは勝っていたらしい。箱により、左腕を破壊する。血飛沫が飛び、悲鳴があがった。叫びは当然矢羽樹のものであるが、ためらう気などない。倒れた彼の足を、上から押しつぶす。叫び声はさらに大きくなった。痛烈な叫び声。しかしその叫びは、途端弱くなり、のたうちまわっていた矢羽樹は、その場で動かなくなった。慌てて箱を消し去ると、N−Wが駆け寄り、首筋に手をかけた。ショック死、という言葉が即座に浮かんだ。
「あーあ、死んじゃったじゃないですか。やりすぎですよ、B−Aさん。」
 周りから視線のそそがれるのがわかった。確かに、これは完全に自分の落ち度だ。気を晴らすため殺してしまっては何の意味もないと、取り返しのつかない失態を見やる。そのとき、その死体に、異変があらわれた。死体が、黒くなっていく。それは、その死体、矢羽樹の能力とは、本質的に違ったもののように思われる。あるいは隠していただけで、これもまた、彼の能力なのだろうか。全員が、それから距離をとり、身構える。
「N−W、本当に、こいつは死んでいたのか?」
 B−Aの問いに、N−Wは、ええ、と首を縦に振る。それと同時に、光を失った瞳、その眼球が窪んだ。穴でも開いたかのように、顔の奥へと吸い込まれていった。次に、やや低い鼻。少し紫がかった唇。ニキビの浮いた頬。全てが窪んでいく。
顔に、穴が開いていく。そして今度は、穴が肉体に増殖した。次は心臓部だった。そして、腹が、肩が、手が、次々と増殖する穴はその速度を増し、そして、全てを飲み込んだ。残されたものにはすでに人の人たる要素を微塵も持ち合わせておらず、ただ、何もない物体だけが横たわっている。
 そして、次の変化は、まったく別の場所で起こった。突然の出来事は、だれにも予想できず、ゆえに回避の方法はないに等しかった。その『奇襲』によって、三人が死んだ。死体も残さず、黒に飲み込まれた。それを操るB−Aに、躊躇いの色はまるでない。だが、それを防ごうとD−Rが全体の前に躍り出た時、その目前で、黒が止まった。B−Aを見ると、何かを悟ったような顔をしている。それが、全員を絶望させた。仕掛けはとうにしてあり、防ぐ術がないことを、皆が知っていたからだ。B−Aが指を鳴らす。本来必要ないはずのその行為は、おそらく、恐怖と絶望を与えるためのものだろう。一瞬にして、全員が、死んだ。
「誰だ、貴様。どうなっている。」
 B−Aの声、それに、B−Aの声が答える。
「あの子の、姉よ。」
 その声に、B−Aは息をのむ。確かに姉の存在はあったようだが、今は行方不明のはずである。その疑問に気付いたのか、矢羽楓はさらに続けた。
「自分の殺した相手の精神に侵入し、時には体を乗っ取る。そしてそれらの能力もまた継承する。それが私の能力。まあいろいろあって、瀕死の私を樹が殺したの。そのおかげでどっかの変態の体に入らずに済んだから、樹には感謝している。かわいい弟だしね。だから、私はずっと隠れていた。出ていくことで樹の精神に変調をきたすわけにはいかなかったから。けど、あなたは許さないわよ。樹を殺したあなた、かわいいかわいい弟、私の、たった一人の弟を殺したあなたには、永遠にこの体は渡さない。何もできない牢獄で、一生苦しむがいいわ。」


 血の海を跋扈する人狼、その地獄絵図の中に、突如として、人間が現れた。それも、その絵の中心、人狼の、そのすぐ背後に。当然それに、即座に気付いた人狼は、後方に向けその爪をつきだすが、その人物に到達する前に、土台の腕ごと切り落とされる。再生は、しない。否、できない。なぜならその腕は、怪物のものではなく、人間のものとなっていたからだ。長く逆立った体毛もすでになく、やわな、人の肌がさらけ出されている。
――やっぱこの能力、すげえ。っていうか、最強じゃね?
 稲玉士は、うっすらと笑みを浮かべたまま、冠を失った帝王にギロチンを下した。扱いやすく、応用も効く風の能力、それに加えて、すべての能力者を無力にする力。もう、だれにも負ける気がしなかった。あのとき、とっさに手に入れた能力は、予想をはるかに超えるものだった。それに加え、今の男。殺した瞬間にわかった。あまりにも圧倒的な力が流れ込み、はち切れんばかりに、生命力があふれる。いったい男がどれだけの能力者を殺したのかはわからないが、今、自分は、間違いなく最強の能力者だ。これだけの力があれば、なんだってできる。そう、これまでみたいなちまちましたやり方なんてしなくてもいいのだ。悪人を、この世から抹殺する。いや、それよりも、もっといい方法がある。悪人が好き勝手にやっているこの世界そのものが悪なのだから、自分が世界の王になって、世界を正しくする。それは、幼心に描いた夢想だった。叶うはずもない愚かな夢、自分自身で笑った。だけど今なら、それができる。まるで神からの啓示のようだ。自分は、選ばれたのだ。選ばれた自分、その自分が世界を正しく支配し、動かす。それを想像するだけで、笑いが止まらなかった。
 だけどその前に、あの男を殺さなくてはいけない。ないとは思うが、稲玉士が種を育て、自分と同じほどに強くなってしまっては非常に面倒だ。なによりも、胸に受けた傷と、屈辱の分を返さなければならない。二倍、いや、十倍にして返してやる。六条順仁は、これも先ほど手に入れた瞬間移動の能力者に変身し、その場より姿を消した。

(担当:すばる)
 一応なるべく伏線拾おうと思いつつ、結構好きにやっちゃいました。ごめんなさい。
次だれかよくわかんなくなっちゃいましたが、次の方、よろしくお願いします。