キャピタルCインカゲイン その9

「エリック!」
 クラリスは体を移すや否やテーブルの最奥で食事を摂っているエリックに食って掛かった。
「バレンタインが暴走した。それどころか…」
クラリス、君の分も用意させた。報告は夕食の後でいいだろう?」
「……」
 彼の余裕を含んだ笑いから、クラリスはまたこの男が何かしたのだと悟った。
「……それもあなたのシナリオ通り、ということ?」
 黙っている様子から肯定を汲み取って、クラリスは溜め息を付いていつもの席、最奥のエリックから左へ三席手前に座った。
 燭台の明かりで仄かな光沢を見せている白磁の皿に、ハウス物のアスパラガスとベーコンの炒め物、その盛り付けに添えるようにして温野菜のカボチャソース和えが彩りを加えている。そして既に点火されている小鍋からはチーズの匂いが漂ってきている。一口サイズにカットされたパンからするとチーズフォンデュにしろということだろう。そのくせグラスではビールが泡を立てている。この男はいつもながらアンバランスだった。
 飾り気のない大食堂の中、壁沿いに誂えられた暖炉の中で爆ぜる音が大きく聞こえた。それがそのままひどく寂しいBGMになって、やがて夕食が片付いた。二人の食器を下げさせた所で、やっとエリックがこちらを向いた。
「エリック、どこまでがあなたのシナリオ通りなの?」
「どこまで進んだのか分からないから私にも分からないな。とりあえず全部話してくれ」
「その前にあなたのシナリオとやらをしっかりと確認したいわ」
「それは報告の前でも後でも君にはどうしようもないことは君が良く分かっているだろう?」
「……」
 報告しなければプロジェクトは成功どころかどの段階からでも暴走しかねず、このプロジェクトは彼だからこそ成り立っていた。結局こちらの手札というものは存在しない。どう足掻いてもこちらの意を通すためにはエリックに従う他無かった。
「今回は情報が多過ぎるわ。記憶を丸ごと結合させるから少し動かないで。取捨選択なんて出来ないから必要な情報は自分で読み取って」
 クラリスは溜め息混じりに一呼吸置くと目を閉じて、自我を自分の体から切り離しエリックの位置へと重ねた。一瞬ひどく疲れた表情で眼を瞑る自分がエリックの目を通して見えたけれど、すぐに閉じられた。瞼の裏でこれまでの記憶を反芻する。狼男の血走った瞳。瓦礫と人だった物の山。興奮した表情で狼男を断頭する少年と彼の種。現場を後にするマネージャーと唇を噛んで車を走らせているテロリストの女幹部。仔細を反芻し終えると唇が動く感触がする。自分の体へと自我を戻してクラリスは眼を開けた。エリックは瞼を下ろしたままリズムを取るように頷きを繰り返して、ぶつぶつと何か言葉を反芻していた。やがて静かに眼を開けると懐からメモを取り出しておもむろに手を走らせた。
「例外はあれ、おおよそ進行に支障はないだろう。ただナゴヤへの変更が、少しこちらで手を加えてやらないと十分なポテンシャルを蓄えられないかもしれないな。介入したいから意識の一部を俯瞰させて私に繋げてくれ。監視、伝達任務はこれまで通り、仔細は目立った種のみで手紙にまとめ、彼らに届けるだけで十分だろう。ノブヒトの監視にも注力してくれ――」
 口が止まると同時にメモも書き終わったらしい。懐に仕舞いこむとエリックはこちらを一瞥して、
「……そうだな、そろそろ君の言うように君は私の目的を知るべきかもしれない。
 私は君がこちらの世界に来てから数十年の間、思うがままにさせて貰ったが、やはり君と私の能力だけでは限界がある。無論、富や名誉なんかには何一つ不自由していないが、不便が無いわけではない。分かるかな?」
 エリックは稀にそうするように片眉を傾げておどけて見せた。
「あなたの話は回りくどいわ。端的に述べてくれない?」
 少し表情を崩して、言うね、と口だけ動かし、
「つまり、私が欲しいものというのはもう少し可能性を持った世界ということだ」
「……? それで何をやりたいの?」
「こちらとあちらの融合、もしくは侵食かな」
「……本気?」
「これは君に乞われてこのプロジェクト計画した初期から温めていたものだ。もし君が帰ってしまったら私も能力は使えなくなってしまうだろう? 私の性格をもう少し考慮に入れて考えてくれ。私が得をするにはどうすればいい?」
 相変わらずの調子だけれども、その裏でわずかに上擦っている気配があった。
「それで出来るかも分からない、出来たとしてもその後何が起こるかも分からない実験を二つの世界を使ってやりたい訳?」
「ああ、可能性がゼロで無いなら出来るからね。これは私しか出来ない仕事だ。こう言うのは嫌いだが天啓、天命というものだろう」
「だけど……」
 何が起こるか分からないのは怖い。向こうの世界の仲間は、こちらの世界の人間は、世界が混じり合った際、どうなるのだろうか。また、どうするのだろうか。けれどもそう甘い事を言っていられるほどクラリスに余力は残されていないのもまた事実だった。クラリスは言いかけた言葉を飲み込んで小さく首肯した。
「私の願いも変わらない。私が向こうの世界へ帰ること、それだけ。あなたの計画がそれを満たし得る限り、私は協力する」
 満たしうる限りね、と繋げようとして見た机の向こうには、意外なほど真直ぐな視線があった。




 律子は路肩に止めた車に鍵を掛けるも早々に、半地下へと続く階段を怪しまれない程度に駆け降りて、木製のドアを押し開けた。鈴が賑やかに音を立てると、隅のボックス席からいかにも意志の弱そうな顔が現れ、手を振った。店員に伝えて奥へ入って行くと十六夜の側と向かいの席とに既にモカコーヒーが湯気を立てていた。
「さすが時間通りだね。……と言ってる場合ではないかな?」
「えぇ、手短に」
 時計の針が止まるのを確認すると、律子は手早くファイルから一通の封筒を取り出した。
「まずはCCI上層部の方で非常事態があったようです。稲玉に植えつけられていた親種が今回の核になっていると見られる人物の種を目覚めさせて暴走しました。これとレジスタンスが接触し、レジスタンスは3名を残し壊滅しました。残った種のリストはこちらです」
 十六夜は既に一枚になったリストに軽く目を走らせ、懐に仕舞いこんだ。
「それがあの局地地震報道か。それで、その暴走した種はどうなったんだい?」
「殺したのは六条順仁。監視員も今回を契機に注目したのでしょう。……擬態する能力で、相手の能力もコピーできるそうです。そしておそらく稲玉と接触したかと」
 律子は双眼鏡の向こう、爆心地に忽然と湧いた少年の指の先で雑草のように刈り取られた男の頭を思い浮かべた。
「実質なんでもアリなお手軽能力……ね。何でこんなもの放置しておくんだか分からないけれど?」
「上層部の真意は分かりません。
 けれども実は現場を見ていたのですが、頭は単純ですね」
「それは心強い味方だ」
「現在、入手した能力を活用して各地の種の回収に向かっているようです」
「はは、勤勉だね」
「見習って欲しいですね」
「……そうだね。
 ええと、テロリストの方はどうなったんだい? 急進派もその付近にいたんだろう?」
「それが、送られてきた情報によると急進派は先に話したものとは違う謎の襲撃を受けてリーダーを残し全滅。そして、ここから理解し難いのですが、……リーダーの内部に矢羽"楓"の方の種と意識が寄生している。だそうです。矢羽樹の死亡も確認されました」
「全滅か。なんとか内部分裂して欲しかったけれど、まあ次の策を考えよう。
 それよりも姉の方の種が生きていただって? 百歩譲って弟に取り込ませたのが悪かったのかな。それにしても予想外の生命力だ」
「ですが、あの雑踏でなければ刺客を送ってもまず返り討ちでしょう」
 矢羽楓殺害計画の構想段階で弟が姉を取り込む事態は想定していたが、取り込む能力と侵食する能力がかち合うので傷ついた姉の意識よりも弟の意識が勝つはずと思い込んでいたのが間違いだったようだ。詳細は不明だけれど、結果姉は生き残り、弟は死んだ。
「分かってる。君の言うとおり面倒臭がらずに手紙を受け取る前に処分しておけば良かったよ。
 でも既に僕たちが手を加えてしまったのだし仕方ない。それで下手に改変して僕たちがどうにかなったらそれこそ今までの苦労が、だ。
 悪手だけど例のポテンシャルをひっくるめて全て0にしてしまうあの穴ぼこ能力だけ忘れてもらおうか。
 ……ただそれだと弟の方の能力も考慮に入れると10人以上の記憶の堆積を相手にしなくちゃいけないことになるな。大丈夫かい?」
「記憶自体は問題ないですが、やはり意識が2つあるというのは経験がないので分かりませんね」
「分かった。明日僕も行こう。時間稼ぎにはなるだろう」
「お願いします。
 そういえば、過去改変はどうなりましたか?」
 言うが早いか、待っていましたとばかりに十六夜はニヤリとした笑みを返した。
「あぁ、最近なんか良い調子になってきたよ」




「お客さんはァ何にします? ラーメンうどんそばきしめん、全部作り方一緒」
「おっちゃん、ラーメンで」
「ラーメン? ラーメンね、あい分かりました」
 木組みの丸椅子に腰を滑り込ませ、すぐ後ろの冷蔵庫に背を預けるようにして、涼太は一番奥の席に収まった。ただでさえ四畳の窮屈な部屋にカウンターと六つの丸椅子に加え、冷蔵庫や雑多なものが積まれているのだから身動きの取りようが無い。煤で黒ずんだ壁は一面に色褪せたステッカや朽葉色に焼けた色紙やらがレトロな猥雑さを醸し出していた。
「そういえばァ聞きましたよ。
 この前のテロリストで東京が大変なことになったでしょ。それだもんで、生き残ったお偉いさんが名古屋に首都を移すって。
 昨日のラジオで言ってましたよ」
「僕も聞きましたよそれ。なんでも東京に一番近い大都市ということで、マスコミが名古屋を中心に体勢の建て直しを図っているからそれに合わせるためだとか」
「あぁ、そうなんですか。そうは言っても最近物騒ですからね。マスコミも命がけで大変でしょうに」
「そうですね。でも幸いなことに近くに浜松って立派なモノを持ってますからね。今もひっきりなしにヘリが飛んでいっているそうですよ」
「最近はァよく耳にしますね。バリバリバリって」
小牧基地からも何か支援が行っているのかもしれませんね」
「えらいことですね。……ほら、お兄さん立ったって。私腕があまり上がらんもんで。すいませんね、はい」
 節くれだった手で億劫そうに持ち上げたどんぶりを、涼太は手近にあった台拭きで挟んで下ろした。
 ラーメンのはずなのにまず麺が盛られているというのはさておき、そこにキャベツともやしが積まれている。毎回来るたびにレベルが違うが今日は殊更もやしの量が多かった。
 堆積物から麺を掘り起こして貪っていると、オヤジが丼に麺を盛り付けてカウンターの上に滑り込ませてきた。
「おっちゃん?」
「今日はもう締めるで、お兄さんが最後のお客さんだから綺麗にしたって」
「……はは、ありがとうございます」
 幸い瀬戸内との遠征にはまだ少し時間が有るため、麺の山を攻略することにした。
 早ければあと数日後にオヤジどころか予想が正しければ名古屋市全域を壊滅させるのは涼太自身なのだから、オヤジの頼みくらい聞いておくべきというものだろう。
 そうぼんやりと思う上辺で、涼太は夜更けも早くから表通りを行き交う車の排気音を聞いていた。





 壁の向こうの仕分け機器の音が鈍く聞こえる中に混じって、いつもの私書箱から定刻通りにことりと小さな落下音が聞こえた。
 律子は引き出しを開けて昨日よりは薄い茶封筒を取り出すと踵を返し、もう1ヶ月くらい経っているとはいえ、この有事の事態に慌ただしい様子の郵便局を抜け出た。外の白いミニバンへ身体を滑り込ませて、待っていた十六夜に車を出させた。
「さて、二人、というか目的の情報は入っているかな」
「次の大通りに出たらしばらく道なりなのでそこで話しましょう」
「それがいいね」
 信号を右折してから数メートル進むと背景がピタリと動きを止めた。前方にぽつぽつと見える車を避けながら十六夜は、それで、と促した。
「まず六条ノブヒトの動向が数ページに渡っていますね。あとで詳しく見ましょう。
……そうですね。辛うじてありましたが現在地だけのようです。監視員が着目していないのか特に目立った動向は起こしていないのかは分かりませんね。親種の元が暴れた現場から場所を移して東京に戻ってきているようです。ただ、テロリスト達の拠点ではなくその隣の区のホテルに潜伏しているようですね」
「戻りたいが戻るに戻れないという状況かな」
「そうかもしれません。いずれにしても一人でいる状況はありがたいですね」
 十六夜が周りを止めていれば、テロリストの中に混じっていようと一人を選び出して記憶を改変することはできるものの、より安全であるに越したことは無い。とりわけ今回は二人の意識というのが律子には不安の種だった。二人の意識が並存しているのか、それとも多重人格者のように交互に浮き沈みをしているのかが分からない。後者ならば経験はあるものの、前者はどのようなものなのか。これまでのやり口であった、個々人の知覚から自分の存在を消して安全に改変することはできるのか。二人の知覚を正確に認識して正確に存在消去できるのか。危うい点は数え上げれば長くなる。
「そうですね。今回の件は少し協力して貰いたいことが」
「うん? というのは」
「改変している最中もずっと時間を止めておいて欲しいということです」
「あれ、改変対象が思考していないと改変できないんじゃなかったっけ?」
「えぇ、ですから認識下に入れて欲しいのは十六夜さんと私、それから矢羽楓、B-Aこと大井剣也です」
「まあ確かにその方が周りの動きに対しては安全だけれど問題は僕もその場にいる必要があるから、最悪の場合二人とも見つかって即死する可能性があるんじゃないかな? いつも通り僕が隠れて瀬戸内さんが危なくなったら止める方が良いと思うけれど」
「ええ、本当はそれがいいのですが、……前にリーク方法の話をしましたよね。わざとスパイ能力を持った能力者に取り憑かせて、その能力者の知覚を改変しつつ、折を見て流していると」
「ああ、それか! そういえば今止めているのもそいつを防ぐ意味もあったね」
「ええ、今回は特に何が起こるか予測がつかないので、万が一にも憑いている能力者に不必要な情報が漏れることが無いように対策をお願いします」
「分かったよ」
 顎で肯定を示して十六夜ダッシュボードに手を伸ばしてラジオを付けた。前方のトラックが動き始めると同時に淡々とした交通情報が流れ始める。
 背後の意識を探って認識のギャップを埋め合わせてから、律子はしばらく目を閉じて仮眠を取ることにした。



 下火になったとは言えテロの警戒からか、都心部の割りに往来の少ない大通りの一角にあった地下駐車場に車を止めて、涼太たちは疎らな人通りの中進んだ。
「そこの角を曲がったらホテルか。とりあえず彼のいる部屋まで時間を止めておくよ」
 大通りから逸れると閑静な路地裏は普段にも増して物静かだった。2ブロック先に目的の看板を見つけ、涼太は時を止めた。
「314号室ですので階段を使う必要がありますね。部屋位置を考えると緊急時は隣の部屋まで行けば非常用梯子があります」
「まあそんなに使うことはないように動きたいけどね」
「えぇ、ですから頼みますよ」
「……いつもすまないね」
「そうですね」
 そうは言っても都合で経路を変えることになったのは数回しかないのだが、瀬戸内は時折それをネタに出す。けれども今の状況で一番負担が掛かっているのは瀬戸内なのだから、涼太は甘んじて受け入れることにした。言っても言い返されるだろう気持ちも薄々あったが。
 ビジネスホテルにありがちな鉄組みの簡素な階段を上ってつきあたりまで行くとそこに今回の標的が潜伏しているはずだ。矢羽楓に侵食されてからどうなっているのかは知らないが、まあ精神崩壊していてくれれば今回の作戦も遂行しやすくなるだろう。
 件の木製のドアを認識すると、涼太は先ほど瀬戸内がカウンターからちょろまかした鍵を差し込んで開けた。
「ちょっと待って、誰かいる!」
「え?」
 涼太は口調に呑まれて部屋の隅の人影へ視線を向けた。
「あ、誰お前?」
 辺り一面に血飛沫が飛び散った部屋の中、写真で良く見た事のある顔が金庫から顔を上げた。
「あーこの変人のオトモダチ? オタクみてぇなきめぇナリの奴はロクな奴がいないってほんとなんだなー」
 黒革の財布をポケットにしまって六条ノブヒトが口をつり上げて笑った。



2ヶ月以上もサボった上に対して進んでいなくて本当にすみません。
とりあえずあまり主人公側に影響が出ない程度に動かしておきました。
何か展開的に矛盾点などががありましたら指摘お願いします。

ついでに次の人は飯田さんか白霧さんだと思います。