バナナチップ その1

 ここは北米大陸でもっとも長閑なところだと、住民の誰もが思っていた。夏は蒸し暑く頻繁に雨が降る土地ではあるが、秋から冬にかけてはまあまあ過ごしやすい。何かと不便なことばかりの田舎町だが、助け合う機会が多いためかひとびとの交流は深い。事件らしい事件の起きたためしがない、実に平和な町だ。
 そんな平和な町の片隅にある小さなお菓子屋さん『Banana Chips』にて、ごく小さな事件――ごく小さな悲劇が起こったのが十一月のはじめのこと。店主であるルーシーの愛犬ピンキーが車に轢かれて死んでしまったのだ。ルーシーはしばらく店を開かなかった。大好きだったおばあちゃんが病死して、この店を託されてから一年、一日も休まず独りでお菓子を作りつづけたあのルーシーが。近隣の住人は、昼となく夜となくルーシーのすすり泣く声を聞いたという。
 しかし、いつまでも休業しているわけにはいかない。いくら泣いてもピンキーは我が家に帰ってこないし、それに何よりクリスマスシーズンが近いのだ。ルーシーは久しぶりに厨房に立った。
「ああ、あたしの可愛いピンキーちゃん……どうしてあのとき、あなたは飛び出しちゃったの……?」
 緑のフレームの奥からこぼれおちる涙。
 時刻は真夜中の十二時をまわっていた。『Banana Chips』名物のバナナチップ、その下ごしらえはちっとも進んでいない。よく熟したバナナが七本、皮をむかれただけだ。平たい鍋は空っぽなのに、何故かガスレンジの火がつけっぱなしだ。
 明日から店を開こうと決意したものの、ピンキーを失った悲しみが癒えたわけではなかった。むしろ、悲しみと責任感との板ばさみでルーシーの精神は極度のストレス状態に陥っていた。ここで心ない者が『お前が散歩中に忘れ物をした程度のことでいきなり大声を出し、そのうえリードをちゃんと握っていなかったせいだろ』などと本当のことを言っていたら、ルーシーはきっと倒れていたに違いない。幸い、心ない者は厨房にはいなかった。ルーシーだけだった。
「だめだめ、こんなんじゃリンダおばあちゃんに叱られちゃう。しっかりしなきゃ。しっかりしなきゃ。しっかりしなきゃ。しっかり……」
 ぶんぶんと首を振るルーシー。その勢いで右手からナイフがすっぽ抜けた。まだ皮をむかれる前のバナナが残っているのに、どうしてナイフを持っていたのだろう。ルーシー自身にも分からないそれは永遠の謎であった。
「あっ」
 ナイフが壁に当たり、フックにぶらさがっていた調理器具が軒並み落下する。
「あっ」
 調理器具のうち、泡だて器などの丸みを帯びているものものが調理台の上を転がっていく。
「ああっ」
 なんやかんやあってつぶれた卵が床に散乱し、辺り全体粉まみれ、ガスレンジから火が噴き上がる。
「ああああっ!」
 それは小さな喜劇――否、やはり悲劇だった。
 ルーブ・ゴールドバーグ・マシンもそこのけの絶妙な不運の積み重ねによって、たった数十秒で厨房は荒れに荒れ、バナナというバナナが消し炭となった。もし厨房のスプリンクラーが作動しなかったら、二十五年ぶりにこの町の消防団が出動することとなっていただろう。
「ど、どどど、どうしよ、どうしよう……! これじゃバナナチップが作れないじゃない!」
 びしょぬれのルーシーは矯正器具が装着された歯をむきだしにしてそう喚くが、バナナチップが作れないとかその程度の問題ではなかった。
 このようなドジを踏んでばかりの女が火や刃物、食品を扱っているというのに、よく今まで事件らしい事件の起きたためしがない平和な町を維持してこられたな、と溜息をつくような人間も、もちろん厨房にはいない。ルーシーひとりだけ。
「明日こそは絶対にお店を開けなきゃいけないのに、リンダおばあちゃんに叱られちゃう、しっかりしないと、しっかりしないと、しっかり、しっかり、しか、しかっり、しっかりしないと……」
 うわ言のように『しっかり』を繰り返しながら、ふらふらと覚束ない足取りで冷蔵庫へと向かうルーシー。『Banana Chips』の冷蔵庫は業務用サイズで、さまざまなお菓子のためのさまざまな食材が大量に詰め込まれているが、熱帯植物であるところのバナナが入っているはずもない。低温障害を起こして真っ黒に変色してしまうからだ。現在別の意味で真っ黒になってしまった、調理台の上でなんとか形を留めているあれらが、店内にあるすべてのバナナだったのだ。
 それでもルーシーは冷蔵庫の大きな両開きの扉を開けて、手当たりしだいに中を探る。食材を取り出しては首を振って投げ捨てる、取り出しては首を振って投げ捨てる。なんともったいないことだろう。
 ルーシーの頭はひとつのことでいっぱいだった。
 何かないか。
 白くて、かりっと揚げることができて。
 なんでもいい、なんでもいいから。
 何か、バナナの代わりになるものは――!
「……あら?」
 ルーシーが手に取ったのは食材ではなかった。赤茶色の染みがついた小汚いバスタオルに何か赤ん坊サイズのものがくるまれていた。何だったか思い出そうとルーシーは自分の側頭部をにぎりこぶしで軽く叩くが、まるで記憶にない。
 タオルを広げてみた。
 そこには懐かしい顔があった。バスタオルにくるまれていたのは、ルーシーの愛したチワワ犬のピンキー、その亡骸であった。
「まあ。ピンキー……。こんなところにいたのね。すっかり忘れてた。もう、探したんだから」
 ルーシーの表情が一瞬ほころぶが、すぐに深刻そうな、焦っているような顔に戻る。視線の先にはピンキーの頭。ずっと冷蔵庫で安置されていたらしく、ほとんど腐敗していない。生前からなのか、交通事故のせいなのか、異様に飛び出ている両の目玉。
「……白くて、かりっと揚げることができて……」
 生唾を飲みこむ音が、無音の厨房で強調される。
 そこからのルーシーの行動は速かった。伊達に一年間『Banana Chips』でお菓子作りをしてきたわけではない。ちょっぴりドジなところはあるけれど、基本的にくりぬくのも切るのも揚げるのも得意分野だ。
 ココナッツ油の香ばしいにおいが厨房にしみわたり、焦げ臭さ、血生臭さを上塗りしていく。厨房もだんだん暖かくなっていき、壁や床がすこしずつ乾き始める。やがて、とびきり素敵なチップスの試作品が完成した。
 一口味見しようとして、ルーシーは手を止める。
「でも、ふたつだけじゃどうしようもないし……。まだまだ足りない……、もっともっと、探してこなくちゃ……。それに、これじゃちょっと小さすぎるかしら……」
 そう言ってルーシーは、ふと、冷蔵庫が開けっ放しであることに気づいた。
 とびきり素敵なチップスの皿を一旦テーブルに置いて、冷蔵庫の前に戻る。まだ冷蔵庫の中身を全部調べたわけではなかったことを思い出したルーシーは、またも食材を取り出しては首を振って投げ捨てる、取り出しては首を振って投げ捨てる、取り出しては首を振って投げ捨てる――。
「きゃっ!」
 ルーシーは思わず飛び退いた。
 無理やり押し込められていたからだろうか、最上段の奥から、シーツにくるまれた何かが、大きな音を立てて転がり落ちてきたのだった。まだ水たまりの残っている床に激突したときにシーツの中から何かが折れるような嫌な音がした。シーツがめくれる。
「まあ。すっかり忘れてた……」
 シーツにくるまれていたのは、ルーシーの愛したリンダおばあちゃん、その亡骸であった。小型犬のそれよりも数段大きな目玉がふたつ、ぎろりと天をにらんでいた。
 よっぽどつらい病気だったに違いない。
 
 
 ――舞台は数キロ北上し、四分の一回転ほど時計の長針が進む。
 事件らしい事件の起きたためしがない、実に平和な町のはずれ。まったく人気のない、砂利道と道扱いすることさえ憚られるような悪路で、一台の中古車が停まっていた。中古車のそばに三人の若い男女が立っている。縮れ毛の男はボンネットの中を覗き込んでいた。そのすぐ横では別の男が腕を組み、時おり心配そうに縮れ毛の男の方を見る。女は後部座席のドアに寄りかかってスマートフォンをいじっている。
「ベン、直りそうか?」
「いいやお手上げだ。うんともすんとも言わねえ。これならまだ遊園地の木馬を走らせるほうが簡単だな」
「冗談言ってる場合か? どうすんだよ、こんな辺鄙な田舎で立ち往生かよ。信じられねえ」
「俺らがナビ通りに行こうぜって言ったのに、ちょっとの近道くらい大丈夫だろってお前がむりやり押し通したんじゃないか」
「お前の車がこんな高級車だったとは思わなかったからな……」
「ちょっと、二人とも落ち着いて。別に殺人鬼の潜む村に辿りついたわけでもないんだし、そのへんの家を訪ねて、助けてもらえばいいだけの話じゃない」
 ベンジャミン、ギルバート、そしてアシュリー。
 彼らはまだ知らない――ごく小さな悲劇がつい先ほど小さな悲劇を産んだばかりで、その小さな悲劇がこれから惨劇を呼ぶことを。
 もっとも、それはある意味では喜劇なのかもしれないが――。
(担当:17+1)
 
 
 今回のリレー小説のお題は、ジャンルが『ホラー+コメディ』、タイトルが『バナナチップ』ということでした。
 次の担当は斉藤羊さんです。
 よろしくお願いいたします。