リカラス その七

 大学。
 独立行政法人
 学問研究機関。
 大学。
 俺はここに居場所があるとは感じられなかった。
 嘗ての俺は、この場所に疎外感を感じ、違和感のままに大学を拒否した。避けて、寄り付かなくなった。
 しかし、頭の片隅に置いてある懸念事項というものは無意識のうちに表に出てきてしまうようで、気が付けば足を運んでいたのだった。
  
 
 自転車に乗ったまま馬鹿でかい門を潜り抜け、構内へ。からからからと車輪の回る乾いた音と風を抜ける音が耳朶を打つ。自転車で入ってくる人間を珍しがる人々の、怪訝な視線をやり過ごして、あてもなくペダルをこぐ。
 だって居場所のない俺はどこへ行けば良い?
 何度目かの自問自答。自分探しなんて、この年代にありがちな馬鹿げたことを、まさか自分がやるとは思っても見なかったけれど、ともあれ、かつて自分が幾度か足を運んだ場所であるここに、もしかしたら自分をうっかりひょっこり落としてしまったかもしれない。
 否、落としてしまったのだろう。普通の、大学生である自分を。
 いつから普通でなくなったのか。大学生になる前から普通ではなかったのだろうか。万引きに慣れてしまった時か、チバたちとつるむようになった時か。大学が居心地悪くなって、真面目に唾を吐きかけたくなった時か。分からない。分からないことだらけだ。
 そもそも巻き込まれた時から分からないことだらけだった。西田紀夫って何だ。何者だ。何で妙な面倒連れてくるんだ。元同級生とか言って、友達でも恋人でもないそれ以下のただ同じ教室で過ごしただけの輩が何で俺を頼るんだ。もっとましな奴いるだろ。馬鹿か。しかも死ぬとか。面倒押し付けて死ぬとか無責任にも程があるだろ。何のつもりだったんだ。分かんねぇ。
 ぐちゃぐちゃと思考が混ざる頭の中と対照的に、ぼんやりと景色を見ながら進む。丸く刈り取られた木々。ところどころに突き立てられたタンク。金属が組み上げられた柱状の何かは、ただでさえ希薄な大学生活の記憶をほじってみても見覚えがない。他学部、それも理系のどこかの区域へ侵入したらしい。タンクに書かれたガスの名前がそんな感じ。理系か。この大学には理学部、工学部、薬学部、医学部、あと何があったか……。それだけか? 縁遠くて忘れてしまった。
 どこだか知らんが理系学部の学生だろう連中が道にちらほらしていた。白衣を着て平気な顔で出かけられる人間だ。それ薬品で汚れてんだろ危ねぇな、と思いはしたが口には出さない。つぃっと横を通りすがるだけ。
 どうも近くに購買があるらしい。人を縫いながら自転車を走らせる。弁当を抱える奴。財布片手に歩く奴。液体窒素と書かれた細口の金属タンクを台車に乗せてガラガラ言わせる奴。手入れされた植え込みで日向ぼっこする猫。集団でぺらぺらと英語を話すれんちゅ、
「…………猫?」
 視線を後ろに流した時には、もうすでに遠ざかった後だった。仕方なく、眼に映したものを頭の中で巻き戻して確かめる。
 猫。確かに、植え込みの下に白いのがいた。
 猫、と思って思い出すのは十中八九リカラスだ。今のはリカラスか? 否、アレは芝生にスローインしてきただろう。今頃ネコネコサッカーしているはずだ。ゴールは何とかいう組織、選手は関係者でボールはリカラス真っ白だから丁度良いだろうと俺は何言ってんだネコネコサッカーて意味分からん脳がショートしてやがる。
 頭を振って思考を戻す。
 吹き付ける風で頭を冷やす。
 猫。
 別に大学周りが城壁に囲われている訳でもなし、野良猫が入り込んでいても不思議ではない。冷静になれば、そんな結論で落ち着いた。そこまで特筆すべき内容でもなかった。妙な設定とかに晒された結果、俺の頭も多少感化されてしまったらしい。どうでも良いんだそんなこと。関係ないんだ。リカラスとか、麻薬とか、宗教とか組織とか、そういうこと一切。
 はぁ、と嘆息一つ。そして、流れて行く風景を眼でなぞる作業に戻る。
 木、
 木、人、
 タンク、
 木、人、人、
 木、猫、鉄柱、鉄柱、
 建物、木、木、木、建物建物、木、
 鉄柱鉄柱、猫、タンク木木、人建物猫木、猫猫木猫木猫猫、
 猫猫人猫猫猫木猫建物猫猫木猫猫猫猫タンク猫猫猫猫猫猫木猫猫猫猫猫猫猫木猫猫人猫猫猫猫猫猫、
「ねこぉ!」
 キキィキイイイイイイイイッッ!!
 思わず握ったブレーキの摩擦音がやかましく響き、んなぁーお、という気だるげな一鳴きが抗議した。
 端的に言えば、猫まみれだった。
 人気が無くなって、猫がそこら中に、いた。
 自転車を走らせて走らせて走らせて、辿り着いた一本道。両サイドは木ばかりで、その隙間に猫、猫、猫。ここがどこかは分からない。どこかの学部の建物裏だろう。が、建物は見当たらない。少ししけた場所に入り込んだ、にしては異常な空間だ。
 道に猫が鎮座していた。
 毛づくろいしていた。
 うたた寝をしていた。
 じゃれあっていた。
 虫を狙っていた。
 何かを食べていた。
 猫が、そこかしこで自由にしていた。
 意味が分からない。ついに幻覚が見え始めたのかと思うくらい頭のおかしい状況だ。
 だって、ここは大学だろう? 俺の記憶にある大学は、普通だったはずだ。なのにこんな、猫が大量増殖するような異常な場所になってしまっていた。
「不思議だろう?」
「不思議? そんな言葉で満足できるレベルじゃねぇぞ、これは。だって――」
 言いかけて、俺以外の人語にハッとし、声の方を見る。背後。振り向くとそこに、
「門脇!!」
 片手を上げて応じるように笑う奴がいた。気付かなかった。どこかに潜んでいたのだろうか? 流石ストーカーだな気持ち悪い。心の中で毒づくも、奴は平気な顔でこちらへ近寄ってくる。
 俺は逃げようと前へ向き直ってペダルに足を乗せる。しかし、進むべき路上に猫が横たわり車輪を転がす余地がない。良心が猫を轢き殺すことを許さず、躊躇する。その間に門脇はすぐそこまで来ていた。
「そう騒ぐな。いちいち五月蠅い」
「警戒するに決まってんだろ。あれだけのことして」
 人を追い詰めておいて、警戒されないと思っているのか、この馬鹿は。
「いや、君が無駄なことをしているから止めようと思って」
「はあ?」
「なるようにしかならない、ということさ」
 すかした言葉が胸糞悪い。会話していても雲を噛んでいるような感覚だ。こいつも、俺の日常を壊した嫌な奴だ。敵だ。
「リカラスが麻薬だとか、君の友人が何でも屋だとか、そういうことから現実逃避して。そうやって全てから逃げて、君は一体いつまでそうしている気だね? どこへ行ったって、何もかもから逃れることは出来ないというのに」
 言葉を切り、すぅ、と眼を細めて笑う。睨み返すも、まるで聞いていない様子で、
「リカラスに関わってしまったからには、ね」
 肩に置かれた奴の手を振り払い、距離を取る。乗り手が離脱した自転車は道にガシャンと叩きつけられ、乾いた金属音に驚いた猫が何匹か逃げた。それ以外は、んぎゃーごなどとだるそうな声をあげる。猫などどうでも良い。とにかく門脇の間合いから離れなくては。門脇と俺の間に自転車を挟んだ形。互いに手が届くには自転車をまたがなければならない。少しでも距離を、と思い後ろにいる猫ギリギリまで下がる。自転車の進行方向から見て左から猫、門脇、自転車、俺、猫の並びだ。前門の門脇、後門の猫だが、何かアクションを起こしてきたらダッシュで左に走れば今来た道だ。あちらへ逃げれば撒くことも出来よう。
 逃げ道は確保した。このまま門脇を振り切ることも可能だろう。
「逃げることも可能だ、とか思っているだろう?」
 門脇が口を開かなければ、適当なタイミングで逃げるつもりだった。だが、余裕ありげに顎を撫でつける門脇に、俺はただならぬものを感じた。逃げられないかもしれない、勘のようなもの。
「逃げても良い。だが、ここで君にする話が一応あるんだ、こちらとしては」
「話? そっちの都合なんか知らん。俺の人生に関わってくんじゃなねぇ」
「そう噛みつくなよ。聞き分けがないな。リカラスに関わった以上、聞く必要があるのが分からないようだ」
「分かんねぇな。リカラスとか麻薬とか、そんなの俺が生きて行く上で全く必要ないね」
「全く、ね――でも、君の人生をリカラスが蝕んでいくのは事実だ。知りたくないなら知らないで良いが……無知で後に悔やむのは、君だよ」
 聞き捨てならない。リカラスが、俺の人生を蝕む。後に? 既に散々っぱらいらんことに首を突っ込まされているというのに。更に。
「どういう意味だよ」
「いやいや、話を聞かないという人間に無理に話をするのは良くないから、止めておこう。別にこちらに損はないからな」
「おい、」口車に乗せられるわけにはいかないと思いつつも、俺の人生に関係がある、という点が引っ掛かった。いや、それもブラフで、実はただ単に設定を語りたいだけの人間か。分からん。分からんが、そういう時は行動あるのみだ。弓なりに唇を保ったままの門脇を更にねめつけ、乱暴に言い捨てる。「じゃあ、例えば説明して見ろよ。お前のよく分からん設定を」
 どうせ聞く価値もないくらい意味が分からんだろうがな。
 心で付け足す。だが、言われっぱなしでは気が済まないというのも事実だ。言いたいように言えばいい。が、眼の前で小馬鹿にされるのはムカつく。しかも、現実逃避野郎と言われたまま逃げるのは門脇の言葉を体現しているようでもっとイラつく。
 だから、あえて聞く。分からないことだらけなのもいい加減うんざりだし、くだらない設定を聞いて、その上で一笑に付してやる。付き合いきれないのだ。そんな突然、超理論を振りかざされても。
「良いだろう。では、この――猫たちの話から始めよう」
 こちらの睨みをやはりものともせずに、門脇は右腕を大きく広げてみせる。芝居がかった演出だ。それだけ大仰な設定を語るのだろう。
「リカラスは麻薬だ。完成された、素晴らしき秘薬だ。それは、君も知っているね?」
 知りたくもなかったが聞かされた、が正解だがな。
「リカラスは薬だ。現在開発中のどの新薬よりも最先端の生きた薬だ。例の新興宗教の要でもあり、また、先端医療技術の、英知の塊ともいえる。そいつが一体、どこで生まれたか――この状況から考えてみたまえ」
 いきなりこれだ。あの糞猫を騙ってきやがった。
 俺は半眼で奥歯を噛みしめた。
 考えてみたまえとか何様だ。説明すると言って考えてみろとか矛盾している。
「どういうことだ」
 だから、何も考えずに尋ねた。考えたところで答えが出る訳でもなし、時間の無駄だ。早く話を進めて出来れば終わらせてしまいたかった。聞き流してしまいたかった。
 その俺の心を知らず、門脇は字面だけを読み取って、不出来な俺を憐れむような声を吐く。
「分からないかな、カズト君。ここがどこだか――ここは、大学だよ。独立行政法人。大学。研究機関であり、自治が認められている学問の砦。その――薬学部の、裏道さ」
 大学。研究機関。リカラス。麻薬。そして、ここは薬学部の裏道。沢山の猫――
 もしかして。
 不覚にもそう思ってしまった。一つの結論に思い当たって、一瞬、睨んでいた眼を見開いてしまった。
 一方の門脇はそのまま背広の胸ポケットに手を突っ込む。あわや拳銃でも飛び出すかと思い、腰を低くし警戒態勢を取ろうとしたが、現れたのは煙草の白い箱と銀色のジッポー。ボォッと炎が上がり、咥えられた白い棒の先から紫煙が昇る。余裕を見せつけるようにしばらくくゆらせて、適当なところで溜息のような煙を長く吐いた。
「分かったかな? リカラスは、ここで生まれたんだよ。ここで研究、開発されて、ここで調合されて生み出された。リカラスは――生物兵器なんだよ」
 出来の悪い生徒に噛んで含めるような、一言。
 俺は馬鹿にされている。門脇は情報を持っているだけ自分の方が優位だと考えているようで、教えてもらう立場の俺を軽んじていた。態度の端々から良く分かる。俺は警戒態勢なのに、奴が一服できるのも、その表れだ。うぜぇ。細かい設定をちまちま知っている方が偉いなんて、人生どうかしている。
「そしてもうわかると思うけど、ここにいる猫は皆、廃棄処分猫だ。試作品、というね。それとも、劣化版リカラスというべきか」
 薄ら笑いを浮かべる門脇。両手を広げて、猫たちを見やる。猫は無関心ににゃーにゃー鳴く。茶色だの縞だの斑だの。いくら実験動物でも、リカラス一匹作るのに裏道がびっしり猫まみれになるくらい使うものだろうか。
「廃棄処分猫と言えど、ここまでの数が集まっているのは明らかに異常だろ」
「異常? 果たして、リカラスは特別で特殊な猫だ。開発にも時間がかかったし、プロトタイプが多くてもおかしくなかろう。……大学の敷地に野良猫が入り込むのはよくある話。また、実験動物が逃げるのもよくある話。さらに、実験動物が野生化して住み着くのも、在り得ない話ではない訳、だ」
「在り得なくないだろ。それは一匹や二匹の話で、」
「これだけ量がいたって、別に、猫だまりと言ってしまえば済む話なんだよ。または猫会議、とか。…………実験動物が逃げた、というのは大学の管理衛生上問題があるけれど、果たして、この劣化版リカラスとその辺の野良猫を、見分けることは出来るかい? もしかすると、この猫たちの中には野良猫だって混ざっている可能性がある。全部が劣化版リカラスとは限らないさ」
 それを言われては、ぐうの音も出なかった。正直、リカラスだってその辺の白猫と見分けがつかない。なのに、どう見ても雑種っぽい猫たちが野良か実験動物かなんて、分かる訳がなかった。
 しかし、実験動物をやすやすと野放しにしていていいのか?
 生物兵器を生産するための実験動物どころか、普通の実験に使う生物さえも、遺伝子汚染や病気保因子になる可能性があるため、厳重管理するという話だ。昔、どこぞの大学で、実験用のマウスが逃げ出したというニュースが一面記事になったのを見たことがある。ならば、実は、猫がここで好き勝手しているというのは大問題ではないのか。ニュースになるような、事件なのではないだろうか。
「警察は何やってんだ。この実験動物の野放図を知らないのか」
 リカラス完成前に動き出していてもおかしくない。野良猫がここまで増えたら保健所も動き出しそうなのに。
 誰も何も言わなかったのか。
「だからね、ここは大学なんだ。大学には自治権が存在していて、滅多なことじゃない限り警察を関与させたがらない。その大学の力量不足を晒すようなものだから、出来れば内々で処理したがるものなんだよ。当然、警察もそれを知っていて、本当にヤバい時以外は入ってこないのさ。だから……もし、この猫を実験動物か野良猫か判別したいと大学側が言い出した時、調べるのは一体誰だか分かるかい?」
 声に出さない問いまで見透かしたみたいに、諭すような門脇の声。ニヤニヤとべた付いた笑いが添えられた。
「勿論――薬学部の連中だ。リカラスを開発した、ね」
「医学部だってあるだろう」生物系の学部ならむしろ検査はそっちが適任そうじゃないか。
「……医学部は、人間様の医療研究に忙しいだろう? 人間様の身体ばっかり好き好んで見つめてる連中だぜ。普段からマウスだのラットだのを実験動物に扱っている連中の方がはるかに動物には詳しいさ。猫が大量発生している領域が近いとなれば、我々の責任、とか言ってな」
「そうやって、もみ消してきたのか。リカラスの開発を」
「新薬の開発は金になるからな。研究費補助が出る。大学とは、薬を作るのにうってつけの場所だ――学生に売れば噂が飛ぶ。適当に地位のある学者にしゃぶらせれば大儲け。幻覚が見えれば宗教利用。最初に考えたやつは頭が良い――で、俺はその後釜をやらせてもらう」
 門脇の口がさらに弓なりになって、
「本当に愚かだったよ。西田紀夫は」
 低い声で突然言われた名に、咄嗟に反応できなかった。嘲笑交じりのそれを反芻する。
「にし、だ……?」
 西田。俺にリカラスを預けた知り合い。殺された、十年来の同級生。
「そうだ、西田だ。君にリカラスを授けた男、西田だよ――西田紀夫がリカラスを生み出したのだ」
「アイツは、俺と同い年の学生だぞっ! そんなこと出来るわけ――」
「学生がポッと新しい発見をしてしまうことは珍しくない。しかも、学生の身分ではどんな発見をしたところで、研究者代表たる教授に研究成果を横取りされるのはよくある話」
 文字通り、猫糞だな。
 そう呟いて、クックッと嫌味に笑った。
「西田はリカラスを生み出したのだ――しかし、一介の学生にはその荷が重すぎた。関係者で寄ってたかってリカラスを利用し、新興宗教を立ち上げたは良かったが…………死体が出てきたり組織腐敗が詳らかになった辺りで、リカラスが恐ろしくなったのだろう。西田紀夫は自分の生み出したものが、どんな力を持っていたのかに気付いて、その罪の意識と、責任を恐れて――逃げ出した」
 門脇がビシッと人差し指で俺を指す。う、とたじろぎそうになったのを、にゃーおという背後の猫の声で持ちこたえる。西田の存在とリカラスが繋がった。真実か? という懸念があるが、しかし、分からなかったことに対する答えもどきが提示された。嘘か真か、判断できる材料が俺にはなくて、信頼はしまいと思いつつ、否定も出来なかった。
「全ての元凶を持ち出して、君の下へと向かったわけだ。まったく無関係の、十年来会っていなかった君が、最もリカラスから縁遠くて安全だと思って」
 それじゃあ、と話の腰を折って、
「西田の死は、口封じってことか」
 確認。一体誰が殺したかは知らん。眼の前の男かもしれない。部下かもしれない。この大学の教授連中かもしれない。
 門脇の話したことが真実ならば、だが。
「しっかし、本当にその話は事実なのか?」
 話は聞いた。一応、理解できない訳ではない話だった。だが、それらが門脇の妄言である可能性もまた、否定できない。
 だから、否定する判断材料を聞きだす。その上で否定するために。
 周りの猫を見やる。
 斑。縞。黒、白、茶。砂トラ、青目、かぎしっぽ。どれもリカラスにはなかった特徴だ。
「ここにいる猫がお前の言う通りリカラスのプロトタイプだったして……全く、似ても似つかないが」
「だから言っただろう? 劣化版、と。リカラスは完全体だからこそ――特別なのだ」
「特別?」
「リカラスは、麻薬だ――その効能を得た故に体色は全く変わってしまった。色素異常なのだよ」
「色素異常……アルビノの事か」
 リカラスは白猫だ。白い動物が色素異常とくれば十中八九アルビノのことだ。
アルビノ……? 何のことだ……――否、リカラスはオッドアイだ。リカラスはオッドアイの黒猫が元となっているのだよ。オッドアイの猫の三割は白猫と言われているが、リカラスは違う。世にも珍しい黒のオッドアイ
 オッドアイ
 俺は視線では門脇を睨みながら、頭の中で首を傾げた。そう言えば俺は、リカラスの眼をしっかり見ていなかったが、オッドアイだったのか?
 アルビノ種なら普通は眼の色が赤になるはず。色素異常の白猫がアルビノ種なら眼は赤だ。だが、オッドアイとは。黄色と青の眼を、リカラスはしていたのだろうか。両の眼の色の違いを思い返してみても、浮かぶのは白いヤツの背中ばかり。
 俺が黙り込むから、気を良くしたのか聞いてもいないのに門脇は喋る。
「日本では古くから幸せの象徴とされるオッドアイと、西洋では魔女の使いとされる黒猫を兼ね備えた存在。そして麻薬調合の結果、その黒き毛が変色してしまった猫。それがリカラスの正体だ」
 黒猫――それを聞いてふとミホの声がよみがえる。リカラスの能力とされていた未来予知。同じことを、西欧の黒猫が得意としていたという逸話。アレは確か――
「――シャ・ノワール
「おや、それを知っていたか」門脇は意外そうな、拍子の抜けたような声をあげた。「核心的な単語だから意味ありげに言いたかったのだが」
「ぬかせ。……シャ・ノワール。ちょっと小耳にはさんだことがあるだけだ」
「小耳に……? ああ、君には小蝿のような友人がいたな……小さいのと、女だったか。あれがブンブン言ったか……成る程」
 チバと、ミホのことだ。ミホの方から聞いたのだから、間違いではない。
「カラスは黒と太陽や神、善悪の象徴。Reは『後』という接頭語。『黒の後』、『後の神』――黒から白へと変化した聖なる猫の名に相応しかろう?」
「そーか? こじつけの様にしか思えんが」
 中二病も甚だしいわ。
 バッサリと一蹴してやったら、門脇は肩をすくめた。やれやれ、と言わんばかりに溜息をついた後、顔をあげると、斜に構えた俺の眼を真っ直ぐに見つめてきた。
「ところで、カズト君」
「何だよ改まって。気持ち悪い」
「君は、今の話をどう思う?」
「荒唐無稽だな。後付けのような設定を言われて納得がいかない」
「そうだ。君には、この話題は肌に合わないだろう。リカラスの存在も、俺が此処にいることも、君にとっては不愉快だろう」
 何を言っているんだ。俺は首を傾げた。門脇はその反応を期待していたようで、嬉しそうなにやけ顔で一言。
「ストレスが――溜まっていることだろう」
 ストレスがどうかしたか、返そうとして、俺は止まる。ストレスでどうのこうの、誰が話していた内容だったか。流し聞きした設定の一つにそんなのがあったような。
 俺が回想に入る間もなく門脇は続ける。勿体ぶりつつべた付いた口調で、
「リカラスは麻薬だ。特殊な生物兵器だ。その効能は様々だが、副作用は普通の麻薬と同じ。ストレスを感じると、」
 実に厭らしい顔。眼を見開き愉悦たっぷりに叫ぶ!
「幻覚症状が引き起こされる!」
 大仰に門脇が右手で俺を指さした、その時。
 ぴぃぃいと甲高い音が鳴って、門脇の背後にいたぶち猫がヤツの背中に駆け登った。
「ぎっ――」
 そして、おもむろにその場で爪とぎを始めた。何度も、執拗に。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁっぁあぁっぁぁぁあああああああああああああ!!!!」
 猫の長い爪は門脇の衣類を貫通して引き裂く。それが背中の肉を抉ったようで、暴れ出した門脇の背後から血がだくだくしていた。心臓に近い所をやられたらしい。背中の猫を退けようと手を伸ばしたり身体をぐるんぐるん動かしたりしても張り付いた獣は全く落ちる素振りを見せず、毛が血で染まっても夢中でばりかく。痛みと驚きで狼狽し、錯乱した門脇を俺は呆然と眺めていた。状況がいきなりすぎて頭がついて行かなかった。ら、背後から何者かが左手首を掴んで、注射針を刺し――液体を注入された!
「ぅわっ」
 反射的に腕を引っ込めようとしたものの、思いの外、力強く腕を掴まれていたため逃れられず、何かを体内に入れられてしまった。引っ込めようとした力によりくるりと半回転して、背後の人間と対面する。
「だから言っただろう? ボクは――それを防ぐ、と」
 注射器を抜きつつ、ミロクは自信たっぷりに言った。
 針が抜けたのを見て、俺はヤツの手を振り払う。全く気配がなかった。いつの間に俺の背後を取ったのか、俺に何を入れたのか、言いたいことがありすぎて何も言えなかった。
 一方、ミロクは飄々と俺を見返すと、
「やっほ」右手を軽く上げて、自然体だった。「良かったよ、予想通りの所にいて。どんぴしゃって感じだけど」
 猫を隠すなら、やっぱりここが一番だしね――
 そう言って、門脇を襲った猫がミロクの訓練した猫で、大学に潜入させ、いざという時に使えるようにしていたということ、俺にストレスを与えて副作用を起こさせ、麻薬なしでいられなくすることが門脇の目的だと考え、あえて俺を泳がせていたことなどを簡単に説明した。
 見慣れた綺麗な顔で平然と立つ姿からは、危険な匂いがしなかった。だからこそ、文字通り猫だましが成功したのだろうが、空恐ろしい奴め。俺を餌に使いやがって。
「一応言っておくと、蕎麦屋で君の言った通りだ。発信機。時間稼ぎしてくれたおかげで追いついた。というか、始めから言っただろう、大学へ行けってさ」
 細く眼を開けて笑うと、一旦俺をおいておくことにしたらしく、ひょいと俺の身体をよけて、道路の真ん中、倒れた自転車の方へ寄る。俺も視線でミロクを追いかけて、結果身体ごと半回転。ヤツは、俺と門脇の間に入って、門脇に正面から向き合う。のらりくらりとしたマイペースさに調子が狂う。
「どーも、門脇。カズトに説明ご苦労。ボクの話を聞いてくれないから困ってたんだよね」
「貴様……」
 痛みにもだえ苦しみ、遂には膝をついてしまった門脇を無視してこちらを一瞥するミロク。フッと流し目で笑んで見せて、
「カズトにミホが流したデマ、あれ、あながち間違いじゃなかったんだよ」
 どういう意味だ、と問う間も与えられずヤツは言葉を続ける。
弥勒菩薩の語源、ミスラは太陽神つまりヤタガラスと同種の存在」
 何を言い出したのか、なんて聞き返すまでもない。否が応でもここまでいろんな設定を聞かされてきた俺は多少察しが良くなっていた。
 ミロクの口から弥勒菩薩の知識が出たということは。
 関係があると言いたいのだろう。
 キーワードはヤタガラス。黒い三本足の烏だ。黒い、鳥? ん? それ、それも、どっかで聞いたぞ…………。
 思考のままに俺はポケットからスマホを取り出す。調べるは検索履歴。うろ覚えだったが、確か……あ、あった。そう、電話がかかってきた時に話していた、あれは、
「じゃあミホの言っていたリカラスを狙う別組織って」
「うん。ボクの――ボクが筆頭を務める組織のことだね。別に、ヤタガラスのマークをいつも背負ってるわけじゃないけど。ミホがボクのことを仄めかそうとしてたんじゃないかな」
 独り言のつもりで言った内容を肯定するミロク。さもその電話を聞いていたかのような発言だったが、こいつなら盗聴の一つもやりかねないと思い、最早ツッコむことはしなかった。会話が成立しているだけでもういいだろうと早々に諦めた。
 嘆息するのを見たミロクは、視線を正面の門脇に戻し、先程とは全く別人のような冷たい声で、
「リカラスは存在してはいけない。捕獲して鴉色に戻ってもらう。現在、リカラスの麻薬成分を失わせるための治療を開発中だ。カズトに入れたのも、その薬。だからもう幻覚とかは大丈夫だよ、多分ね――そして、門脇。ボクはお前らを野放しにするわけにはいかないんだ」
「そう、言われても……な。こちら、には、こちら、の、考え方が、ある」
「考え方も何も、麻薬が蔓延るのはどう考えたっていけないことだ。小学生だって分かることだよ」
 ようやく猫を引き剥がし、息も絶え絶えな門脇。衣服は背中から流れる赤でベタベタに汚れ、毛だらけで顔をそむけたくなるようなありさまだ。猫の爪に何か入っていたらしく、タダのひっかき傷以上にダメージを喰らっているようだった。
 だからだろう。ミロクの声が相対的に無機質に感じるのは。息を多く孕んだ門脇の声に対し無慈悲で、
「どうしてもっていうなら、」いつの間にかポケットに突っ込んだ手は、折り畳みナイフを握っていて、「消えてもらうしかないよ」
 門脇の頬を五センチほど裂く。
 ぱ、と赤い花が咲いたかと思うと、門脇は眼を剥いて気を失った。出血多量のせいかもしれない。
「うっわ、脅しのつもりだったんだけどな。案外呆気なかった……」
 左手で頭をかく仕草をして、ミロクは平然としていた。瞬時に間合いを詰めたヤツが何を言う。相当扱いが上手い。
 立っているミロクが低い位置の門脇の頬を傷つけるには、一旦膝を折って頬を狙い、切り裂く必要がある。眼の前で膝立ちの男は、門脇がかわす余裕もない速さで傷つけた。
 これは、敵にまわったらヤバい。
 頭の中で声がした。すぐさま俺は傍にあったカバンに手を伸ばした。
 ミロクは立ち上がると自転車を大股で越えて門脇に近寄り、ポケットから取り出した縄でヤツの両手両足を縛った。
 その間にカバンを左肩にかけて、右手を突っ込む。ごそごそと、弄る。使えるものを探して。ミロクがナイフを使ってきて、対抗できるものはあるか? 否、対抗するだけではいけない。先手必勝。それ即ち――
 冷たくて固い感触があった。ビニール袋に入ったそれ。触ってみて思い出す。ああ、そう言えばあったなあと。それを袋からそろっと出す間に俺の頭の中は冴えわたった。精神がビックリするくらい凪いでいた。
 まるで、ヤクでもキメてる時みたいだ、と自嘲した。麻薬は精神安定剤向精神薬だ。頭がすっきりするとよく言われている。
 ストレスが閾値を越えきっていた故の効果かもしれない。幻覚症状はなかったけれど。
 あるとしたら、ストレッサーに対する怒りくらいなもんだ。
 ああ、どいつもこいつも面倒くせえな。
 爽快な頭で痛快なことを考える。
 ストレッサーが何なのか。何なのか? 何でもない。
 俺以外の、面倒事を持ってくる連中。
 例えば、眼の前の人間とかな。
「格好良いコトを言って」
「え?」突然の俺の言葉に、無防備に振り返る。
「救世主にでもなったつもりかよ、ミロク――」
 その一瞬を狙って、
「――お前は、俺の人生にはもう必要ない」
 リカラスの猫缶。捨てる機会を失ってずっとカバンの中に入っていたそれの蓋を、ミロクの首筋に一振り。
 勿論、鋭いとはいえ刃物より切れ味は悪い。しかし、切る場所が良ければ。
「っ!」
 びゃっ、べしゃっ、とミロクの左、頸動脈から血が噴き出す。右手で刃物を構える場合もっとも狙いやすい場所。そして、相手は刃物を持っていると思っていないのだから、当然警戒が甘い場所だ。心臓を刺すよりよっぽどやりやすい。頭に近い分大量に出血する。咄嗟のことで向こうも反応が遅れた。そのスキを突いた完全なる不意打ち。
「リカラスの麻薬を無効にしてくれたのは俺の人生で有用な働きだったさ。けど、お前の存在は不必要な設定が多すぎる」
 念のためナイフの攻撃を警戒し、背後に回って背中を蹴倒し、地面に這い蹲らせる。呻き声が聞こえないあたり、声帯も傷つけたらしい。ひゅう、という乾いた空気音がした。
「だから言っただろう。死ねと」かはっ、と吐血しミロクの周りで花が咲く。ぐりぐりと靴で踏みにじる。諸々の鬱憤を込めて。「とっとと死ね。早く死ね。潔く死ね。俺の人生に入り込むんじゃねぇ」
 紅い液はどくどくと噴き出していたが、それでもミロクの身体はぴくぴくしていた。まだ生きている。虫の息だろうが。放っておけばそのうち勝手に死ぬだろうから、とどめを刺さずに無視する。しかし、舌打ちをして、
林業は圧倒的に経済効率が悪いんだよ。付き合ってられるか馬鹿」
 と呟く。思い出すのは蜂の巣城のことだ。
 山神信仰とか山男の誇りとか見えないモノのために闘うなんて理解できない。大体、林業は収入が少なく支出の多い職業。赤字当たり前のそれに何故執着する。信仰は自分より大事か。自分が一番可愛いんじゃないのか。馬鹿か。全体主義か。クソくらえ。人は一人で生き一人で死ぬんだ。自分のために生きて何が悪い。人のために面倒背負うのは真っ平御免だ他でやれ!
 考えるのはやめだ。いらない連中は文字通り切り捨ててやる。それが俺の現実への対処法。
「逃げも隠れもしねぇ――邪魔な奴から排除する」
 俺以外の皆、死んじまえば良いのに。

 ・・・

 ミロクと門脇はもう動けない。
 念のため、警察に通報しておいた。
  
 チバもミホもいない、安寧の地を求む。