ななそじあまりむつ その8.1

美味しくないんだろうな、というのがミヨの感想だった。
あまりにも唐突な宣告にパニック状態になった頭が下した正常ではない判断だった。味も何も関係ない。気にするところは他にもある。
「食、う」
「はい」
 目の前で依然としてにっこりと微笑む白装束の男はミヨの言葉に頷いた。
「私が、あなたを」
「はい」
 指で自分をさし、その後男をさす。指を向けられた男はまた頷く。
 そういえば、この男の笑った顔を初めて見たな、とミヨは思った。
長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳は優しげに細められ、スッと通った鼻筋の下の薄い唇は両端がキュッと上げられている。額にかかる前髪がさらりと揺れて、その間から送られてくる視線は何かを期待しているようだ。こうして見ると案外可愛らしく思えてくるから不思議なものである。この顔も、この姿も、以前男が食った誰かの中の一人のものなのだろう。そして次は、私が男を食うのだ。食う。私が。
 マジかよ冗談じゃねえな。
「さあ、どうぞ」
 白装束の男はミヨの手をとり、ぐっと顔を近づけた。
「いいい今ですかすぐにですか」
「はい。網の素を補い災いを捕らえることを早くしなければなりません」
「しかしですねそう言われましてもですね」
「あの、神さま」
 先ほどまで呆気に取られていたスケイチが状況を理解したのか、男に声をかけた。
「ミヨさんが神さまを食ってしまわれたら、ミヨさんは村を出ることができなくなるのではないでしょうか?」
 言われてみればそうである。ミヨが神さまを食べるということは、ミヨが神に代わってこの村の災いを捕らえなくてはならないということではないのか。ならばミヨはこの村から出られなくなってしまう。
「それは問題ありません」
 男はミヨの手を握ったまま顔だけをスケイチに向けた。先ほどまでの笑顔はない。
「私の嫁になるのです。村から出ることは必要ありません」
「そ、それではミヨさんの旅は……」
 スケイチはミヨが大きな目的、大切なもののために旅をしていると思っている。それは宴の席でミヨがついた大仰な嘘だが、あながち間違いでもない。
 確かにミヨは何かの目的のために旅をしているのだ。そして、ミヨにはここを旅の終着点にするつもりはなかった。
「そ、そうです。私は旅を続けなければなりません。あなたの嫁にはなりますが、もう少し、時間を頂けないでしょうか?」
 嫁になる気はないけれど、時間があればまた逃げる隙があるかもしれない。とにかく今は時間を稼ごう、とミヨは考えた。
「何故ですか」
 眉根を下げ、憂うような顔で男はミヨを見た。握る手の力が強くなる。
「あなたは私の嫁になる。けれど旅を続けるとあなたは言う。旅はあなたに必要ない。何故私から離れようとするのですか」
「そ、それは……」
「まあ良いでしょう。あなたが私と添い遂げるなら早く私を食ってください」
 急かすように、また顔を近づけてくる男。もうあまり時間はないようだ。ミヨにとっては村など本当にどうでも良いが、かと言って今は逃げられそうもない。どうしよう、考えろ、何か策はあるはずだ。何でも良いから思い浮かべ。
「あの、神さま、網の素となるものは、これでは、いけませんか……?」
 パッと自分の髪を握り、それを目の前につきだす。
「私の髪では、足りませんか?私は時間が欲しいのです。今すぐ神さまを頂く訳にはいきません。代わりにこの髪を差し上げます。これだけでは網の素となるには足りませんか」
 男はミヨの手を離すと、その髪に触れた。ゆっくりと梳くように撫でて長さを確かめる。
「良いでしょう。これで足りるかは分かりませんがおそらく災いを捕えることができるでしょう」
 そう言って男は左手でミヨの髪を束ねた。右手を小刀のように変形させ、ミヨの耳の下あたりで髪を切る。そして、ミヨとスケイチに背を向けると洞窟の奥へと消えて行った。次の瞬間、突風と共に闇の中から無数の白い糸が伸びてきて、二人の体の横をすり抜けながら洞窟の入口へと向かっていく。風圧に煽られ腕で顔を覆っていたミヨが、風が止んだのを感じて顔を上げると白装束の男が目の前に立っていた。
「災いは捕えられました。さあ、私の嫁になりましょう」
 
 
 
 山の中の屋敷の一室で、白装束の男とミヨは向かい合って座っていた。部屋の隅には居心地が悪そうな顔をしてスケイチが座っている。和やかな雰囲気ではない。
 村の災いを捕え尽くした後、男は再び建てた屋敷にミヨとスケイチを連れて帰って来た。屋敷は以前となんら変わらず、チラリと垣間見えた外の様子から見えない壁も健在であると思われる。あれだけの髪でここまで元通りになるなら贄は人間ひとり分では多いのではないかと思ったが、十二年もこの状態を維持するにはそれだけの量が必要になるのだろう。振り出しに戻ってしまった、とミヨは思った。いや、振り出しではない。もっと最悪だ。ミヨは目の前に座っているこの男の嫁になってこの男を食べなければならないのだ。マジで冗談じゃない。ふざけんな、人間の嫁を取るなら人間に合わせろ、蜘蛛の基準で考えんな、である。
 白装束の男はミヨに微笑みかけると、スッと右手を顔に翳した。
「髪を食べた時にミヨの記憶を見ました。といっても少しですが」
 そう言いながら立ち上がり、ミヨの前に来て顔を近づける。
「この男は誰ですか」
「えっ」
 ミヨの目の前に差し出された顔は普段の男のものではなく、別の顔がついていた。
それはミヨにとってとても馴染みのある顔だった。ミヨが最も会いたい顔。
「師匠……」
 その顔は幼い時に見たのと同じように優しげに微笑み、ゆっくりと瞬きをした。
「そうですか。この男はミヨの師匠ですか」
 男がもう一度右手を翳すと師匠の顔は消え、元の男の顔に戻った。
「この男はミヨの古い記憶の中に居ました。ミヨの旅の目的とはこの男を探すことですか」
「そ、そうです」
 突然現れた懐かしい顔に動揺しながらも、ミヨは肯定した。そうではないが、そういう事にしておこう。
「私が幼い頃に突然姿を消してしまわれたので……」
 ミヨは物心ついた時から師匠と共に旅をしていた。師匠から芸を学び文字を学び生きる為の知識を学んだ。ミヨはこのままずっと師匠と旅をしていくのだと思っていたのだが、ある大きな町に滞在している時、師匠はミヨを置いて何処かへ行ってしまったのだった。町の人々は引きとめたが、ミヨは師匠がいなくとも一人で旅を続けて行く事を選んだ。置いて行かれた理由は分からないが、旅を続けている内に何処かで再会するかもしれないし、その時にまたついて行くのも良いと思っていたのだった。
「という事は、ミヨはこの男を見つけたら旅をやめるのですね」
「はい? あの、どういう事でしょう」
 確かに師匠を旅の目的だと言ったが、本来は違うわけで、師匠を見つけたからといってミヨは旅をやめるつもりはない。
「ミヨの旅の目的は師匠です。その男が見つかればミヨも旅をする必要はないでしょう。そうなればミヨはここに留まります」
 男はミヨの手を取り、強く握った。
「初物七十五日。私はミヨの髪を食し七十五日分の力を得ました。私がこの力を維持している七十五日以内に師匠を見つけて連れてきたらミヨを私の嫁にしましょう。しかし七十六日目になったらミヨを食べて力を得ましょう。それはとても残念なことです。私はミヨを嫁に欲しい」
 きらきらと輝く視線を受けながら、これはチャンスだ、とミヨは感じた。七十五日以内に師匠を見つけることができなくても、この空間の外、この山から遠ざかればこの男の力の及ばないところまで逃げることができるはずだ。
「この男はミヨが来る前にこの山の近くを通りました。まだあまり遠くへは行っていないでしょう」
「本当ですかっ」
 師匠がこの近くにいたとは驚きである。もしかしたら追いつくかもしれない。
「すぐに支度をします」
 立ち上がりかけたミヨの手を離すことなく引っ張ると、男は首を横に振った。
「行くのはミヨではありません。あなたは私の嫁になるのですから逃がしはしません。行くのはこの子です」
 そう言って白装束の男に指を向けられたスケイチは、口を半開きにして
「おれですか……?」
と呟いた。