blue-ryu-comic blue-spring-jojo その6

 一階廊下の照明も消えていた。
 懐中電灯の光が虚しく暗闇を貫く。どうやら双草荘全体が停電しているらしいと神崎はようやく気づいた。眠っている間に偶然、たまたま雷が落ちたのか。それとも人為的なものか。これまでの事件を考えると、疑心暗鬼にならざるをえない。
 犯人は偶然と疑心暗鬼二人の共犯です。
 そう言ったのは、確か空条明日香だったか。
 ふと大広間の様子が気になったが、奇妙なことに何も聞こえてこない。神崎の足音さえも毛足の長い絨毯が吸い取っているので、ほとんど無音に近い。雨風だけが遠くでかすかに唸っている。
 もしや大広間には誰もいないのでは、と神崎は思う。お互いの姿が確認できないようでは、一部屋に固まることはむしろ危険であると言える。既に各々が与えられた自室に戻り、篭城しているに違いない。先刻までの神崎自身のように。
 途端に神崎は、自分の現在置かれている状況が空恐ろしくなる。懐中電灯片手に悠長に歩いている場合ではない。顔を洗うなど以ての外。もはや監視態勢は崩れに崩れているのだ。心地よい密室に閉じこもり、嵐の退去を、朝の日差しを、そして警察の到着を待つべきである。名探偵は早々と殺されて、その助手はまるで役立たずなのだから。
 神崎が踵を返そうとした、その時であった。
 不意に背中に衝撃を感じたかと思うと、懐中電灯の光があらぬ方向へと転がっていった。膝が崩れ落ち、右頬を絨毯の柔らかい感触が襲う。遅れて左肩に激痛が。背後から体当たりされ捻じ伏せられた、と神崎が自覚したころにはすべてが終了していた。
「捕まえたぞ!」
 青波幸生の声だった。
 それが合図だったのか、双草荘中の明かりという明かりがすべて点く。光が完全に復権したと同時に、青波武生、輿山氏、そして空条明日香が神崎の前に現れた。まるで陳腐な芝居のようだと神崎は感じるが、感想を述べる余裕はない。顔を上げることさえできず、自由の利かない左肩はきりきりと痛む。
「これは一体……何の真似ですか……」
 そう問いただすのが精一杯であった。
「何の真似? そうですね、これは私の名探偵の真似ですよ」明日香はわざわざしゃがみこみ、神崎の耳元で囁く。「油断させ、騙し、仕留める。それが私の名探偵のやり方でした」
「仕留める……? それでは、まるで」
「ええ、あなたが犯人です、神崎弘さん。あなたが青波頼子さんを突き落とし私の名探偵を灰皿で撲殺し妻の朱美さんの首を絞めたのです」
「そ、そんな、どうやって、それにどうして私が……」
「トリックと動機については、あなたがいない間に大広間で皆さんに説明しました。犯人のあなたのためだけに、再度説明する必要性を感じません」
 にべもなく言い捨てる明日香。
 その手にはいつの間にか原稿用紙の束が握られていて。
「そして証拠も、さっきあなたの部屋から見つかりました」
「……それは! 違う、それは違うんだ!」
 思わず神崎は右手でその原稿を奪おうとするが、明日香はひょいと避けて立ち上がり、そのまま神崎から離れた。青波幸生の取り押さえる手に力が込もり、神崎はまたも呻く。輿山氏も幸生に加勢する。青波翁が、どこかしらに控えていた使用人を大声で呼びつける。
 神崎の味方は一人として存在しなかった。
「『殺人事件!』」
 神崎たちに背を向けて、明日香は朗読を始める。
「『嵐近づく闇夜の洋館、轟く悲鳴はただならぬ気配。慌てて駆け付けた一同が見たのは、腰を抜かした家政婦と仰向けに倒れた名探偵。じっと天井を見つめる虚ろな双眸は、とんと生気が見えぬ。まばたきもせず、身じろぎもせず』――これはこれは、小説の体をなしていながら、なんとおぞましい殺人報告書でしょう……おや? どうやら未完成のようですね」
 ならば残りは獄中で書き上げてもらいましょうか。
 その台詞が、逮捕劇の幕を下ろす。



 双草荘には、一階厨房室の奥にパントリーがある。使用人の管理しているグラスやカトラリー、金属器を収納するために造られた小部屋だ。青波武生にも頼子にも骨董蒐集の趣味はなかったが、よく客を招き酒食を饗する故だろうか、それでも相当たる量の食器類がパントリーには眠っていた。
 だが、現在に限っては、このパントリーの用途は神崎弘を監禁することに尽きる。ナイフなどは撤去され、代わりに鉛筆と原稿用紙が放り込まれた殺風景な小部屋。内側から開けることのできない錠。頭も通らない明かり取りの小窓。埃を被ったランプ。
「カンヅメ、か」
 質素な丸椅子に体重を預けながら神崎は独りごちた。
 取り押さえられてから時間が経った今では、左肩の痛みは大分治まっている。気分も落ち着いている。手足は縛られていないが、だからと言って何ができるわけでもない。むしろここで下手に抵抗すれば余計に状況が悪くなる。好機を待て。考えろ。そう、神崎は自分に言い聞かせる。
 思い出すのは深夜零時ごろ、空条明日香の最初の推理――否、推理未満。
 あの時、明日香は「あなた方ご夫妻は犯人ではありません」と断言していた。ところが現在ではこの有様。そこが神崎には腑に落ちない。あれが考えなしの発言だったということならば、それが正しいか間違っているかはどうあれ、あの時の明日香はおよそ推理めいたものを所有していなかったということになるのではないか。
 犯人は次に明日香を狙うのではないかという指摘を受けて推理を中止してしまうのも、今にして考えてみれば変な話だと神崎は思う。
 もし彼女の推理が正しければ、たとえ逆上した犯人が襲い掛かってきたとしてもその場で犯人を捕らえることができただろう――神崎を捕らえた時のように、他者の協力によって。もし推理が外れていれば、犯人が彼女を狙う道理はないだろう。少なくとも、そのまま推理を披露したほうが誤魔化すよりも安全だったのだ。しかし明日香はそうしなかった。まるで、はじめから推理を披露するつもりがなかったかのよう。ただ時間を稼いでいたかのよう。
 そして先ほどの逮捕劇。
 油断させ、騙し、仕留める。
「…………まさか」
 神崎の脳裏には、空条明日香への疑念が浮かんでいた。これまでの事件をもう一度振り返ってみるべきだと、強く感じていた。思わず書きかけの原稿用紙が視界に入った。
 小窓に打ちつける雨の勢いは弱まっているが、夜はまだ明けない。
(担当・17+1)



これで折り返し地点、次回から二巡目です。
ですが、次の担当者が誰なのかわかりません……。