キャピタル・C・インカゲイン その6

 倉庫を包む炎はまるで収まる様子もなかった。それどころかいよいよ激しく燃え盛り、火の粉を散らし、夜空を禍々しい赤色に染め上げている。埠頭に座り込んでぼんやりとそれを眺めていた樹たちだったが、どこか遠くから消防車のサイレンが響いてくるのを聞いて、ちらりと互いの顔を見合わせた。
「……ここから離れよう。火事現場のそばで火を眺めてるところなんて見られたら、いらない誤解をされるかもしれない」
 外套の青年に言われるまでもなく、樹はすでに立ち上がり、歩き出していた。燃え続ける倉庫に背を向け、足早に歩を進めていく。青年があとからついてくるのが、気配で感じられた。
 特にどこへ向かっているわけでもない。そもそも行くあてなんてない。家にいたところを、B−Aとかいうあの男に突然押し入られ、気絶させられてここまで連れてこられたのだ。財布なんて持っているわけもなく、しかし徒歩で自宅まで戻るにはいささか遠すぎる。おまけに今は疲れきっていて、倉庫から離れた休憩場所さえ見つかれば、すぐにでもまた座り込んでしまいたい。そう思いながら、疲労で重い足を動かしていた樹だったが、いつまでも青年が後ろをついてくることには不審と警戒を抱いていた。小さめの公園の前まで来たところで、樹は足を止めた。
「……いつまでついてくるんだ、あんたは」
「いい休憩場所が見つかるまで。この公園なんかどうだ?」
「じゃ、あんた一人ここで休んでな。俺は別のところを探す」
 言い捨てて、樹はその場を立ち去ろうとしたが、背中から青年が声を投げてきた。
「待てよ。俺はお前に話があるんだ。そうつれなくしなくてもいいだろう」
「初対面の奴に何の話があるってんだよ」
 樹は苛立ちに尖った声を上げたが、青年は首を横に振った。
「いや、初対面じゃない。よく見てみな、お前、俺を見たことあるだろう?」
 言われた樹は、怪訝に思いながらも、改めて青年の顔を見つめてみた。街灯の安っぽい光に浮かび上がるその顔立ちは、整ってはいるがやや痩せぎすの感がある。その瞳は、常人なら思わずたじろいでしまうだろうほどに鋭く、そして黒い――夜の底の闇をため込んだような、真っ黒な色だった。その黒に、確かにじりじりとした妙な既視感が湧いてくる。何だろう? この瞳、どこかで――。
 次の瞬間、樹は目を見開いた。黒が樹の中に飛び込んでくる。それは頭の底に押し込められていた、激烈で凄惨な記憶を乱暴に引きずり出してくる。目の前、耳の奥に、あのときの光景と音が甦る。人の群れ、悲鳴、獰猛に光る包丁、人混みに広がる恐慌。赤い池の中に横たわる姉、黒い塊の前に立つ、黒い外套、その黒い瞳――。
 目の前の黒い瞳と、記憶のそれとが結びついた瞬間、樹は手の中に渦巻く黒を取り出していた。はっと身を引く青年に向かって、樹は黒を放った。
「ま、待てっ!」
 青年は叫びながら、紙一重で黒をかわした。彼の纏う外套の端が、黒に呑まれてわずかに欠ける。
「待て、お前は何か勘違いをしているだろう!」
「勘違いなんかしていない! お前は姉さんを殺した!」
 樹は怒りのあまり震える声で怒鳴った。どうしてこの顔を、この瞳を忘れていたのだろう。憎しみと共に心に刻みこんでいたはずだったのに、どうして最初に見たときに思い出さなかったのだろう。思い出していれば、彼を閉じ込めていたB−Aの壁など壊さず、爆弾の仕掛けられたあの倉庫に置き去りにしていたものを。
 射殺すような目で睨みつける樹に対し、青年は必死に首を振った。
「違う。お前の姉を殺したのは俺じゃない」
「嘘をつけ!」
「本当だ。あれはただの通り魔の仕業だよ。お前、俺の方を一回見たよな? あのとき俺の前に転がってた奴だ。そいつの方は、俺が殺したけど」
 思いがけない言葉に、樹は再び黒を放とうとしていた手を止めた。疑いを込めた視線を青年の顔に向けると、彼もまっすぐに見返してきた。その黒い瞳から、あのときのことをもう一度思い起こす。駅構内に響き渡る悲鳴と怒号。地面に突っ伏して嘔吐していた樹の頬に、生温かい姉の血が飛び散って、その次の瞬間に爆音が耳を打って。そこで顔を上げた樹の目に、黒い外套のこの青年が飛び込んできたのだ。だからこの青年が姉を殺したのだとばかり思っていた。だが確かに、この青年の前には、黒い塊のような人間が血だまりの中に転がり、黒い煙を上げていた。まさかあれが、姉を殺した奴だったというのか――?
 しかしよくよく思い返してみれば、嘔吐する前に垣間見た犯人の顔は、この青年とは違ったような気もしなくはない。それに、この青年は恐らく能力者だ。能力者が人を殺すのに、わざわざ包丁など使うだろうか。そのことに思い当たった樹の体から、不意に力が抜けた。攻撃を警戒して構えていた青年は、急によろめいた樹の様子に驚いて声を上げた。
「おい、どうしたんだ。大丈夫か」
「……ああ」
 呟くように答えた樹の口元は、笑みの形に歪んでいた。自嘲の笑みだった。馬鹿な奴。口の内で毒づく。本当に、呆れてしまうほどの馬鹿だ。姉を殺した奴はとっくに死んでしまっていたというのに、まるで見当違いの相手を仇だと思い込み、復讐悲劇の文学作品なんか読み漁って。むしろあっぱれと言いたくなるほどの馬鹿さ加減だ。
 しばらくうつむいたままその場に立ち尽くしていた樹だったが、やがてふっと息をつき、顔を上げて青年を見た。
「……わかった。とりあえず、あんたが姉さんを殺したんじゃないってことは信じてやる」
 樹が言うと、青年の目元がかすかに和らいだ。
「わかってもらえたんならそれでいい。大体、どうして俺がお前の姉を殺さなきゃならないんだ。彼女は俺たちにとって大事な切り札だったっていうのに」
 青年の言葉に、樹の眼光は再び鋭いものに転じた。
「……姉さんが切り札ってのはどういうことだ」
「だから、俺はそれをお前に話したいんだよ。とりあえず休もう。この公園でいいだろ」
 青年は言って、暗い公園の中へと入っていく。樹は口の中で舌打ちをしながらも、そのあとに続いた。
 公園の中央辺りまで来ると、しばらくここで待っているように言い置いて、青年は公園に隣接している資材置き場のようなところへ向かっていった。戻って来た彼の腕の中には、何本かの角材。もちろん窃盗だが、樹は特に言及しなかった。大体このご時世、持ち主にとっても、少し材木が盗まれるなんて騒ぎ立てるほどのことでもないだろう。
 青年は角材を地面に置くと、それに向かって小さな青白い稲妻を放った。これが彼の能力なのだろう。稲妻が落ちたところから、バチッという音と共に火花が散り、炎が噴き上がった。最初青白い色をしていたそれは、角材全体に広がるにつれて、温かみのある橙色に変わっていった。
 樹は地面に座り、炎に手をかざした。ため息が出るほどに気持ちいい。冬の夜、濡れた服を着ていたせいで、体は芯から凍えていた。火の温もりは、疲労と寒さに強張った体を少しずつほぐしていってくれる。
 だが、リラックスばかりもしていられない。樹は、たき火を挟んで向かい側に座る青年に鋭利な視線を向けた。
「じゃあ、始めてもらおうか。あんたが俺に話したいことって?」
「ああ、そうだな。何から言えばいいか……。まず、俺たち……俺と、あの倉庫に一緒にいた俺の弟は――レジスタンスの一員だ」
 予想だにしなかった単語に、樹の反応は一拍遅れた。
「……レジスタンスって、抵抗運動、だよな? 何に対する抵抗なんだ?」
「CCIさ」
 青年は事もなげに言った。
レジスタンスは、能力者の集団なんだ。俺たちにあの手紙を送り付けた、CCIに対する抵抗勢力。もっとも最近はテロ組織なんてのも出てきてるから、そっちの方も探ってるけどな。お前は意外に思ってるようだが、よく考えてみろ、むしろそうした集団がいない方が不思議じゃないか? どうしてそれまで普通の人間として暮らしてきた俺たちが、突然わけのわからない能力を勝手に与えられて、殺し合いをさせられなきゃならない? 運命だと諦めて潔くCCIの言いなりになるなんて、そんなのまっぴらだと思う奴も大勢いるんだよ」
 青年の言葉に、樹は目から鱗が落ちる思いだった。樹は能力を与えられたとき、特に運命だと諦めることも、嫌だと反抗することもなかった。何かわからないが、他の人にはない力を与えられて、それによって気に入らない奴を消すこともできるなんて、ラッキーだとすら思っていた。だから、能力を疎ましがる人々がレジスタンスまで作るなんていうのは、まるで思いもよらない考え方だったのだ。
レジスタンスっていうからには、ある程度大きな勢力なのか? 俺は今まで存在すら知らなかったけど」
 樹がやや皮肉っぽく尋ねると、青年は肩を竦めてみせた。
「存在が知られないようにやってきたんだ、これまでは。もうそろそろ表立った行動も始めていくつもりだけどな。大きな勢力かどうかというと、まあ、規模自体はそんなに大きくない。メンバーじゃなくて、俺たちに協力してるだけって奴もいるけど、そういうのを含めても大体四十人程度だ。ただ、その構成員はほとんど能力者だからな。能力者が四十人も集まれば、全体的な力としては相当なものになると思うぜ。リーダーはいるが、全員立場は対等で、自由に意見や提案が言えるし、まとまりも強い。それに何よりの強みとして、CCIのメンバーが一人いる」
 青年の言葉の意味するところがわからず、樹はまじまじと彼の顔を見つめてしまった。彼はにやりと笑みを浮かべてみせた。
「CCIプロジェクトに、かなり初期から携わってる奴だ。何でもあの手紙を配り始めたときぐらいから、人を人として扱わないプロジェクトに嫌気が差してきて、偶然存在を知ったレジスタンスに加入したらしい。CCIの方でもスパイとしてまだ仕事を続けていて、奴らの情報を俺たちに流してくれている」
 青年は得意そうに話していくが、樹にはそれは随分お気楽な考えに感じられた。
「そいつがCCI側の二重スパイでないって保証は、どこにある?」
 思ったことを率直に聞くと、青年は待ってましたとばかりにその笑みを濃くした。
「俺たちのリーダーがそれを証明してくれている。リーダーの能力は、目の前にいる人物が言っていることの真偽を見極めるというものなんだ。CCIのそいつは嘘をついていないということが、リーダーにはわかる」
 その台詞に、樹は意表を突かれて瞬きをした。これまでてっきり、能力というのは戦闘用のものばかりだと思っていた。樹自身そうだし、手紙の内容を考えればそれが自然だったからだ。だが確かに、先ほどB−AにT−Rと呼ばれていた女性が、この青年と彼の弟の少年を連れて突然倉庫に現れたあれは、彼女の能力によるものだったのかもしれない。
「だから俺たちは、CCIについてある程度の情報を集めることができたんだ。俺たちが受け取ったあの手紙は何なのか、CCIの奴らの結局の目的は何か……」
 それから青年は、CCIプロジェクトの内容について話し始めた。『レター』と呼ばれるあの手紙に封入され、受け取り手を苗床として成長する種、その種が生み出す能力の源・エキセントラ力、人間の意志や志向性であるセントラポテンシャル、セントラポテンシャルを消費して顕現するというキャピタルセントラ……。
「つまり、レターを受け取った人物が、中に入っていた種からエキセントラ力を得、能力を発揮できるようになる。その能力者同士が殺し合うと、勝った方が死んだ方の種、及びエキセントラ力を吸収して、さらに力が強くなる。そして生き残った最後の二人がセントラポテンシャルの強い場所に行くと、彼らの種が持つ絶大なエキセントラ力によってキャピタルセントラ、通称ホワイトキャッスルが出現するっていう仕組みだ。これのためにCCIは、あのレターを日本中にばらまいたんだ」
「肝心の、そのホワイトキャッスルってのは何なんだ。奴らはそんなものを出現させて、何をしようとしている?」
 樹が問うと、青年はやや渋面を作った。
「中にいる何かを召喚しようとしている……のかな。詳しいことはわかってない。CCIの中でも、プロジェクトの核心部分はある程度の上層部でないと認知していないんだ。部下たちは、上からの命令にただ従っているだけ。俺たちの仲間のCCIの奴も、そこまで上級クラスではないからな、俺たちにもキャッスルの正体はよくわからない。ただ言えるのは、その出現のためには膨大な数の生贄が必要だってことだ。CCIは種を作り出すことはできるが、種そのものを互いに合体させることはできない。それが寄生する人間を媒介としないと、エキセントラ力を凝集させることはできないんだ。だから奴らはレターに種を封入して、日本中にばらまき、受け取った者同士で殺し合いをさせてるってわけだ。強大なエキセントラ力を生みだすために」
 青年はそこで一度口を噤んだ。自分の前で揺れ躍る炎を見つめたあと、そっと息を吐き出す。
「……初めてレターを読んだときには、殺し合いだなんて信じられなかったけどな。あそこに書いてあったことは結局事実だったってことだ」
「……タイムリミットってのは、実際あるのか?」
「あるらしい。それがいつかまでは、俺たちにはわかってないが」
 青年の答えに、樹もまた深く息をついた。たき火に使われている木材が、パチン、と音を立てて弾ける。ゆらゆらと動く火の橙色を見つめてみると、ふっと手紙を受け取ったときのことが思い起こされた。
 あれは去年の十二月末、年の瀬も押し迫った頃だった。樹宛てに届いた、一通の封筒。差し出し人は『CCI』という聞いたこともない名前で、不審に思いながらも自分の部屋に持っていき、ハサミで切り開けて中身を読んだ。読んでいくにつれて、あまりの馬鹿馬鹿しさに失笑が口元を歪めていった。何だこれは。『あなたは選ばれました。あなただけの特別な力を与えます』、そんなことが書いてある。非現実もいいところだ。おまけに、文の後半にはやけに物騒なことが書かれている。――『この手紙を受け取ったことにより、あなたの中に力の種が住みつき、それによってあなたはあなただけの能力を扱えるようになります。力の種は日本中の選ばれた人たちの中に散らばっています。これらの種は互いに引き合い、最終的には一つになることを求めています。そしていつまで経っても一つになれなければ、種の持つ力は暴走し、宿主自身を滅ぼします。なので死にたくなければ、日本中の能力者を殺し尽くし、あなただけが生き残る必要があります。タイムリミットまではしばらく時間がありますので、頑張ってください』――。阿呆くさいと思いながらも、樹が最後の一文までを読み終えたそのとき、唐突に手紙の縁から、何十本もの細い光の糸のようなものが生えてきた。はっとした樹が何をする間もなく、糸は素早く樹に向かって伸び、その胸へと吸い込まれるように入ってきた。痛みはなかったが、今まで感じたことのない不思議な熱さが体中に広がった。そしてふと気がついたときには、すでに手紙には光の欠片もなく、代わりに胸の一番奥に、先ほどの熱さが灯のようにほんのりと宿っているのを自覚した。
 それから樹は、あの黒を自在に操れるようになった。能力を持って初めて、最近ニュースでやたらと報道される不可解な事件は、恐らく能力者が起こしたものだったのだろうと推察できた。気に入らない奴はいつでも消せるという考えは愉快な一方、能力は死への不安と常時の臨戦態勢を強要した。タイムリミットまでに他の能力者を皆殺しにしなければ死ぬ、というのが本当かどうかはわからないが、どちらにしろそれを事実だと信じている能力者に命を狙われる危険は常にある。気の抜けない日々の中、それでも樹は、種の暴走なんて虚言であるというかすかな期待を抱いていたのだが。
「……はた迷惑だよな」
 低い声で樹が言うと、青年はふと、何かを含んだような笑みを漏らした。彼の黒い瞳が炎を映してきらりと光る。
「ああ、はた迷惑だ。そしてはた迷惑な奴らを破るための切り札がお前の姉、矢羽楓だったし、……今はお前だ。お前、矢羽樹が、今の俺たちの切り札だ」
 青年は勝ち誇ったように言うが、樹には意味がわからない。相手が自分の名前を知っているのもなんとなく不愉快で、樹は鋭く青年を睥睨した。
「姉さんが切り札ってのはさっきも言ってたよな。で、今度は俺もか? あんたは何が言いたいんだ、回りくどいのはナシにしてくれ」
 樹がきつい口調で言うと、青年は少し黙ったあと、頷いた。
「……そうだな、じゃあ直入に話そう。矢羽楓に届いたレターは――正しくは中に入っていた種だな、それは他の種とは違う、特異なものだったんだ。CCIが手紙に入れる種を作るとき、どうやっているか知っているか? 一番もととなる特別な種があって、それに大量の子の種を生みださせるんだ。この、言わば親種は、ばらまかれる子の種とは違って、他の種を求めて引き合ったりはしない。だが、楓に宿った種はどういうわけか、この親種と引き合っていたんだ」
 青年はそこで一つ息をついた。
「俺たちの最終的な目的は、CCI本部に乗り込んで、このプロジェクトを無理矢理にでもやめさせることだ。奴らは一度人に宿った種を取り除くこともできるらしいから、日本中の種を除いてもらう。だが親種が本部のどこに置かれているかは、CCIの本当にトップクラスだけが知っている機密で、俺たちにはわかっていない。そしてたとえ何とかプロジェクトをやめさせたとしても、親種が残っていれば、また同じことをやり出すことだってできるだろ。俺たちにはそれが懸念材料だった」
 思いがけずどんどん展開していく話を、樹は内心当惑しながらも、口を挟まずに聞いていた。そんな樹に向けて、青年は先ほどと同じ、勝ち誇ったような笑みをちらりと浮かべた。
「……だが一週間ほど前に、CCIでスパイをやっている奴が、重要な情報を手に入れてきたんだ。矢羽楓に宿った種が、親種と引き合う問題作だったと、今になって明らかになったとな。しかもその引き合う力は、他の種同士より遥かに強く、宿主の楓が親種の近くに行けば、その存在を感じ取れるだろうというほどだったらしい。ただCCIの奴らは、楓自身はそんなことまったく知らないし、CCIの本部に侵入なんてできるはずがないからと、そのことについては特に手を打つつもりはないようだった。だがその情報は、俺たちにとっては渡りに船どころの騒ぎじゃない。もし楓が俺たちと協力して、CCIの本部に乗り込んでくれれば、親種を見つけることだってできるかもしれないんだからな。だから俺はすぐさま、楓と接触を図りに新大阪駅まで駆けつけた。そしてその俺の目の前で……楓は通り魔に刺されてしまった」
 そのときのことを思い出したのだろう、青年の顔に一瞬暗い影がよぎった。
「あと一歩のところで、俺たちの切り札は消されてしまった。俺は衝撃に打ちのめされたが、それでも通り魔に相応の報いを与えてやったあとで、素早くその場を離れた。……お前の姉は、すでに死んでいると思って。だが後日新聞を見てみたら、片隅にその事件の記事が載っていて、そこでは通り魔に襲われた者は、死亡ではなく行方不明になっていた。俺たちは何か変だと思い、近いうちに弟のお前にも接触を試みようと考えていて……そして今日、俺は偶然、お前と鉢合わせした。そしてお前の能力を目の当たりにした」
 青年はそこで一度、息を継ぐように言葉を切った。それから、半ば呆然としている樹をまっすぐに見据える。
「お前はあの黒いのを使って姉を呑みこんだ、そうだよな? だから現場に矢羽楓の死体は残っていなかった。そしてあいつが持っていた種は、今はもとのお前の種と融合して、お前の中にある。当然、楓の種が持っていた特異性も、今はお前が持っている。――わかっただろう? お前の姉が、そして今はお前が、俺たちにとっての切り札だと言ったわけが」
 青年は、そこでようやく口を閉じた。その黒い瞳は、揺らぐことなく樹を見つめている。勢いの衰えてきた炎の弱い光が、真剣な表情のその顔の上で、ちらちらと揺らめいていた。
 樹はしばらく、言葉もなく青年を見つめていた。だが、だんだんと頭の中が整理できてくるにつれ、頭の中に湧いてきたのは苛立ちだった。
「――切り札だ何だって当然のように言ってるけどな」
 樹は、低い声の底に怒気を滲ませながら言った。
「俺がお前たちに協力するなんて、勝手に決めつけてるんじゃねぇよ。そんな義理がどこにあるっていうんだ」
 青年は樹の不穏な気配を察したようだった。その顔にわずかに緊張の色が浮かんだ。
「このままだと、能力者の中で最後の生き残りとならない限り、死んでしまうんだぞ? お前だって死にたくはないだろう」
「お前の言っていることが本当だってどうしてわかる? レジスタンスも種の持つ特異性も、全部嘘っぱちかもしれないじゃないか」
「それなら、俺たちが拠点としているところに連れて行ってやるよ。リーダーや他のメンバーもいるから、話を聞くといい」
「それも面倒だから嫌だと言ったら?」
 樹が言うと、不意に青年の雰囲気が鋭くなった。黒い瞳の放つ眼光が、無形の槍のように樹を射抜く。
「……嫌だとしても、無理にでも協力してもらう。俺たちはCCIに対抗するといっても、平和主義者の集団じゃないんだ。目的のためには、多少の荒事はいとわない。今日だって、テロリストがどういう組織なのか知るために、奴らを生け捕りにして尋問しようと思っていたぐらいなんだからな」
「そして逆にとっ捕まったってわけか。なかなか無様な話だな」
 挑発するような樹の言葉に、青年の顔にもはっきりと怒気が浮かんだ。睨み合う二人の間に、触れれば切れそうなほどの緊迫した空気が横たわる。熾火が立てるパチパチというかすかな音が、重苦しい沈黙の中でいやに耳に響いていた。
 何秒間か、緊張に満ちた時間が過ぎた。微動だにせず青年を見据えていた樹は、不意に口元に笑みを浮かべた。
「……いいよ、協力してやる」
 青年はとっさにその言葉を受け止められなかったようで、虚を突かれたように瞬きした。樹は笑ったまま続けた。
「嘘にしては、手の込み過ぎた話だもんな。確かに俺だって死にたくはないし、適当にその辺ぶらついて人殺ししてるよりは建設的な感じだしな」
 それに、姉のことだって詳しく探れるかもしれない。この青年の言う通り、姉の種が特殊なものだったとしたら、恐らく死に際の彼女を侵した黒も、白紙になった手紙も、それに関係しているのだろう。
 青年は、樹の台詞の真偽を確かめようとするかのように、しばらく樹に視線を注いでいたが、やがてふっとその瞳の緊張が弱まった。
「……わかった。それなら近いうちにお前をリーダーたちに紹介する。だが、今日はひとまず家に帰ってゆっくり休息を取るといい。また後日迎えに行く」
 青年は言いながら立ち上がり、ほとんど炭となったたき火を踏み消した。
「あっちに地下鉄の駅があるはずだから、行こう。金は持ってるから運賃はおごってやる」
「持ってるのかよ」
 樹はいささか拍子抜けした声を出しながら立ち上がった。それならこんなところでたき火を囲んでなどいず、さっさと帰ることもできたものを。
 樹の表情を見て、青年は人の悪い笑みを浮かべた。
「先に金を見せると、お前がそれだけ奪って行ってしまう可能性もあっただろ。ちゃんと話を聞いてもらうためにはこうするのがよかったんだ」
 その言葉に、樹は舌打ちだけを返した。
 それから二人はしばらく無言で歩いていった。服はまだ湿っていたので、火のそばを離れるとやはり寒さが身に沁みる。表通りに出て、地下への階段を下りていくと、風が通らなくなって随分マシになった。構内の壁にかけられた時計を見ると、もうすでに八時を回っている。家に帰ったらまた叔父に怒鳴られるだろうなと思うと、少しげんなりした気分になった。
 青年に彼の帰るルートを聞くと、途中までは樹と同じだった。何だかんだで精神的にも身体的にも疲労がたまっていた樹は、さっさと別れたかったが仕方がない。一緒に地下鉄に乗り込み、空いていた席に二人並んで座る。車体がゆっくり動き出すのを感じながら、樹はふと、そういえばこの青年の名前を聞いてなかったことに思い当たった。どうでもいいといえばどうでもいいことだが、向こうは自分の名前を知っているのにこちらは知らないというのは、あまり気のいいことではない。
「あんた、名前は?」
 短く聞くと、青年は少し驚いた顔をした。それから彼も短く答える。
「サイ」
「は?」
 樹は思わず間の抜けた声を上げた。
「サイ、って、それが名前なのか? どんな字を書くんだよ?」
「漢字はない。これは俺たちのコードネームだ」
 青年――サイはさらりと言った。レジスタンスの、と明言しないのは、周りの乗客に聞かれるのを警戒してのことだろう。樹はその答えに内心ずっこけつつも、声に苛立ちを込めた。
「俺が聞きたいのは、コードネームじゃなくてちゃんとした名前だ」
「サイだってちゃんとした名前だ。俺たちは皆、どこでも常にコードネームで呼び合う。万が一俺たちの活動内容がCCI側に知られたとき、名前まで奴らに知れるとまずいことがあるかもしれないからな。弟……シンとすら、コードネームで呼び合っていた」
 シン、と口にしたそのとき、サイの顔に激しい何かが行き過ぎた。思わず樹ははっとなる。それはとても一言では表現できない――悲痛と失意と悔しさと、そして怒りが混じり合った、激しい感情の波だった。
「……そうか、殺されたんだよな、弟」
 樹がぽつりと言うと、サイは強く唇を噛みしめた。膝の上の拳がかすかに震えている。
「今までは、俺にとっての真の敵はCCIの奴らだけだった。テロリストたちは、邪魔をするようなら消す、という程度のものだった。だが、今は違う。絶対にシンの仇を取ってやる。あのロングコートの男。あいつだけは必ずこの手で殺してやる……!」
 復讐の炎にぎらぎらと瞳を輝かせるサイに対し、樹はやや現実的な質問をした。
「でも、奴が次にどこに現れるかなんてわかるのか? CCIの方はスパイがいても、テロリストの方の情報なんて、探る方法あるのかよ?」
 意外なことに、サイは少しためらったあと、頷いた。
「一応、糸はある。テロリストの方にも、レジスタンスのメンバーが一人潜り込んでいる。ただ、そいつはあっちではまだ新入りだからな、詳しいことはなかなかわからない」
「……なるほど」
 樹は素直に感嘆の息を漏らした。今日の今日まで、能力者なんて勝手に動き回って殺し合っているだけだとばかり思っていた。それが実は集団を作っているばかりか、こんなにあちこちに手を回しているなんて。樹でも思わず感心せずにはいられない。
 それからサイは、目的の駅に着くと、一人地下鉄を降りて行った。その後ろ姿を見送った樹は、ようやく一人になれたことに、大きくため息を吐き出した。本当に今日は色々なことがあって、疲れた。テレビでテロのメッセージがあって、そのテロのメンバーに拉致されて、戦って、逃げ出して、レジスタンスの話を聞いて、協力を承諾して……。昨日学校に普通に登校したことが、ずっと昔のことのように思えてくる。
 そこまで考えたとき、ふっと、学校のもう一人の能力者――水附花梨のことが、樹の脳裏に浮かんだ。樹には偽善だとしか思えないような、お人よしの平和主義者。こんな戦いは絶対おかしいと、あの夕暮れの図書室で懸命に訴えていた彼女の声が、頭の中に思い起こされる。
 レジスタンスという集団は、もしかしたら彼女の方にこそふさわしいのではないかと、樹はなんとなく思った。サイは、自分たちは平和主義者の集団ではないと言っていたが、それでも花梨と意見が合いそうな奴だっているかもしれない。そしてそういう奴を見つけたら、彼女も自分にうるさくつきまとわなくなるかもしれない。彼女と二人きりで話す機会があれば、レジスタンスについて話してみてもいいだろうか。
 そんなことを考えていた樹だったが、積もり積もった疲労と車体の心地よい揺れのせいで、急速に眠気が襲ってきて、思考はそのままうたた寝の淡い夢の中に沈んでいってしまった。

 
 能力者二人とテロリストが消えたあとは、特に駅で目立った動きはなかった。徒労感が半分、安心が半分といった心持ちで、花梨は東京駅をあとにして家路についた。
 でも、一体何だったんだろうな、あの二人。冷たい風に身を竦めて歩きながら、花梨は考えた。駅の中で派手に戦闘を繰り広げていたのに、テロリストだと名乗る女性が現れた途端、息を合わせて彼女に襲いかかった。彼らは敵同士ではなかったのか。そのあと忽然と姿が消えたのも謎だ。ただあちらは、少年の能力が炎、青年の能力が稲妻だったことを考えると、テロリストの女性の方の能力だったのかもしれない。
 つらつらと考えながら、花梨は家に帰り着いた。少し遅い時間になってしまったので、母は心配していたようだった。物騒なことに巻き込まれるといけないから早めに帰ってきなさいよと、安堵しながらも注意してくる母に、自分から物騒なことに関わろうとしていたなんて本当のことは言えず、ごめんなさいとだけ謝った。
 それから花梨は夕食を取り、風呂に入った。熱い湯の中にざぶりと浸かると、一日の疲れが溶け出ていくようだった。思わずふうっと息が漏れる。
 これからどうしよう。湯の表面にゆらゆらと映る天井の明かりを見つめながら、花梨はぼんやりと思った。結局テロリストが何をしたいのかわからない。明日も東京駅で張っているべきなのだろうか。だが、仮にテロリストが駅に現れたとして、今日もただの野次馬にしかなれなかった自分に、それ以上の何かができるとも思えない。せめて樹に相談できればいいのだが、先ほど駅を離れる間際に電話をかけたときも、やはり彼は出なかった。本当に、声も聞きたくないぐらいに嫌われてしまったのだろうか。
 沈んだ気持ちで風呂を出た花梨は、ドライヤーで髪を乾かしてから居間に行った。そこでは父がテレビを見ていた。どうやらニュースのようだ。画面には半分崩れ落ちた建物が映っており、仙台で爆発事故があったとキャスターが淡々と――この程度の事件はもはや日常茶飯事だからだ――告げていた。
「ん? どうした、花梨」
 父の声も、花梨の耳には入っていなかった。花梨は食い入るように画面を見つめていた。テレビの映像が建物から、その周りを不安そうに行き交う人混みへと移ったからだった。そしてその人の群れの中に、見知った顔を見つけたからだった。あり得ないはずの顔、ついこの間死亡したはずのクラスメートの顔だった。


稲玉士だった。


(担当:白霧)

 
とうとう年が明けてしまった……遅れに遅れてすみません。
今までの伏線をなるべく回収しようと頑張ってみましたが、こんな回収の仕方でいいのかかなり不安です。長いし……。
とりあえずこれで一巡して、次はまたうつろいしさんです。よろしくお願いします。