何も無かったらかかないでね! その13

僕と修一は、それぞれ片手にコンビニのビニル袋を持って歩いていた。
袋の中は、現在自宅謹慎をしている水野雅臣のもとへのささやかな差し入れだ。自分たちの罪もまとめて被っているようなものだと思うと、向こうから申し入れられ頼まれたこととはいえ、二人ともなんとも言い難い居たたまれなさを感じていた。
水野の自宅を目前にして、人影をみとめて、僕は思わず声を上げた。
「あれ?」
「へ?」
つられて顔をあげた修一は、その人物が誰かを把握して、驚きの声を上げた。
「…夏目さん?」
ついぞ水野雅臣と接点があるとは思えなかった、あの夏目有紗が、水野の自宅の前に立っていた。そして、チャイムを鳴らし、出てきた水野と少し話すと、すぐに睨みつけるようにしていたが、有紗は手を引かれ家の中に入って行った。
「………」
「……………。出直すか」
「そうだな」
 
何も知らなかったはずの、何の関わりももたなかったはずの自分たちの周りで、何かが大きく動き出す予感を感じた。
いつのまにか大きな渦に巻き込まれていることを意識しながらも、すでに逃げる舞台を降りることなどできないと知っていたから、僕らは言葉もなく、夕焼けの道を歩いた。

 
***
 
有紗は、静かな住宅街を歩いていた。中途半端に雲から覗く沈みかけた太陽に苛立ちが募る。
「曇りなら大人しく雲ン中いなさいよ」
八つ当たり以外のなにものでもない呟きとともに、パソコン室で印刷した地図を見ながら荒くなる足音を無視して歩き続ける。目指すのは水野雅臣の自宅だ。
日下部に水野の過去を聞いて以来、有紗には気になっていたことがあった。この前は須藤健吾に腹が立つばかりでそのことまで気が回らなかったが、頭が冷えると再び浮かんできた、そもそもの疑問。
(なぜ、水野先輩は、雪帆に反対しているの?)
確かに、雪帆のやろうとしていることは、おそらくは常識的にも道徳的にも間違っている。人間関係を管理し、人々の関係や感情までもコントロールしようとしているのだから。それは、人間の運命を操ろうとする所業に似て、まるで神になろうとでもしているかのようだ。
(もしくは、悪魔。まぁあくまでも、この学校限定の、だけれど)
水野の反応は当然ともいえる。まったくもって、『普通』で『正常』な人間の反応だ。
しかし現在の様子を見るに、彼の行動は行き過ぎているといえなくもない。啓蒙活動じみたことを行い、まるで独裁政権に戦う革命派だ。もっとも、革命はどちらかと言うとこれから起ころうとしている訳で、彼はその革命を止めようとしているわけだが。
 
水野が熱血で余計な事にも頭を突っ込んでいく、単純明快な猪突猛進タイプであるならば当然の行動かとも思っていた。もしくは、他人の思うままになることを厭い愚鈍な民衆を導くべきとの信念を持つ思想家であるのならば。しかし、おそらく水野はそのどれでもない。では、なぜ。
なぜ、雪帆は、水野雅臣を味方に引き入れなかったのか。
それが、有紗が気になっているもう一つの疑問だった。
(過去に、人間関係でこじれて、特進クラス落ちをしたほどならば、雪帆の考えに賛同してもよさそうなのに…。)
冷静な思考力と行動力を併せ持ち、更に人望もある水野は、敵に回したら厄介だが味方にしたら非常に心強い人間のはずだ。なぜ雪帆は彼を『自分たちとは相容れない人間』だと判断したのだろう。可哀想な脱落者、なんて、彼には似合わない。どちらかと言えば、そう。
彼は、雪帆と同じ…上に立つ人間だ。
そこまで考えた有紗の頭に、ひとつの仮定がよぎった。
(まさか…。だから、なの?)
水野は始め、特進クラスに居た。そして、現在彼が座する、選挙管理委員長という役職。一般生徒でありながら、生徒会さえも立ち入ることのできない領域に立つ。おそらく彼は、公正を司る最後の砦。選挙制度の崩壊により、その権威は、惜しくも失われたが。
日下部の言葉がよみがえる。
(当時の生徒会長の怒りを買ったせいで特進クラスから落とされた)
彼は、どうして特進クラス落ちした?
(おそらく真実の理由は恋愛沙汰でしょう)
おそらく。日下部はそう言った。日下部も、真実の理由は知らないのだ。
有紗は気になって、過去の議事録に目を通した。おそらくは日下部が読んだものと同じ物を。そして、見た。その時の、生徒会長の名は。
 
瀬々晶弥。
 
有紗は、背筋が凍る気がした。
(どこまでが…計画?)
日下部は疑問に思わなかったのだろうか。当時の生徒会長が、瀬々重弥と同じ名字だということを。もしかしたら自分が知らないだけで、この学校には彼女の一族が多いのだろうか。重弥の父は、この学校の運営に大きな影響力を持つほどなのだから、おかしくない話だ。…もっとも有紗は、まだ重弥以外に会ったことはないけれども。
(ねぇ。どこまでが、あなたの計画なの?雪帆)
 
***
  
雪帆は生徒会室にいた。この学校の権力の象徴となる革張りの椅子に深く座し、窓枠の中の夕空に過去を映す。
須藤健吾。
何も知らず、自分に転機をもたらした少年。それも、3年もの時間差で。
中学生。
大人では決してなく、子供とも言い切れぬ年頃。
そして、自らを大人に分類したがる未熟な年齢だ。
あの頃、皆が少しずつ無理をしていた。小さな虚構を重ねていた。
自分を大きく見せるために。自分を優れて見せるために。そして、自分を守るために。
誰もが自分のために、少しずつ真実を捻じ曲げる。穏やかな池に落とされた小石は、少しずつ波紋を作り、ぶつかり合って、どこかで大きなしわ寄せを起こす。
怒りと悲しみと憎しみの渦がまく。波紋の中心に立つ人間は知らない。自分たちのまわりで波に浚われて泣く者のことを。
「なぜ私が」
と哭く者のことを。
 
***
 
チャイムを鳴らす。
やや気の抜けた声でインターホンに出た水野は、有紗が名乗ると驚いたように慌てて扉を開けた。
「夏目さん。どうしたの?わざわざ家まで」
「聞きたいことがあります」
「…それは、個人として?それとも、生徒会として?」
水野はにこりと笑いながら、前回と同じ質問を投げかけてきた。
「私、個人の疑問です。その答え次第で、おそらく今後の私の立ち位置が定まるのではないかと思っています」
有紗が真正面から水野を見返してはっきりと言い切ったのを聞くと、水野は面白そうに笑った。
「それはいい。では、とりあえず中に入って。ここでする話じゃないだろう?」
挑戦的な眼差しの中に、相手のテリトリーへ入ることへ怯えを走らせた有紗の手を引いて、水野は笑った。
「大丈夫。誰もいないから」
 
***
 
生徒会室の扉の前、雪帆の美しい横顔に見惚れ、自分でも気づかないうちに重弥は笑っていた。
ただ美しいだけだったかい少女が、みるみるうちに強かでしなやかな女
王へと変じていくのを間近で見つめ、重弥は満足だった。保護すべき対象だったいたいけな雪帆は愛おしいと思っていたが、全ての者を従えるように立つ雪帆には、陶然としたような甘やかな思いを抱く。自分の理想を形作ってくれるだろうという期待。そもそも自分はトップに立つ気質ではない。誰かに仕えてこそ、真価が発揮されるタイプなのだ。重弥はそう信じて疑わない。そして、己が仕えるべき相手は雪帆以外ではあり得ないということも。
 
***
 
有紗は、リビングに通された。
「さて、何から話そうか」
やけに洒落たコーヒーカップにインスタントコーヒーを入れると、水野は向かいのソファーに座って指を組み合わせた。
「水野先輩が、特進落ちしたときのことを教えて下さい」
「え、そこから?」
意外なところから来るな、と言わんばかりの顔の水野に、有紗は唇の端を挙げてみせた。
「ご心配なさらずとも、まだまだお聞きしますので。とりあえず、そこからお聞きしてもいいですか?」
「うん、いいけど。なんで気になるのか聞いても良い?…正直、あまり人に話す話じゃないからね」
「それは…。なぜ、水野先輩は雪帆に対立するのか分からないからです」
「え?」
水野は今度こそ驚きを露にした。
「人間関係が原因で嫌な目にあったのなら、煩わしい人間関係で困ることのない環境は、むしろ喜ばしいものかもしれない、とは思わなかったのですか?水野先輩が、管理されるのは嫌だけど管理する側に回るのならば構わない、と考えるタイプならば、雪帆はおそらくあなたを味方に引き入れようとしたはずです。敵にしたら面倒だということは、味方にすれば心強いということ。例え気に入らなかったとしても、あなたを敵にするよりもメリットが大きい。違いますか?」
話の途中で面白そうな表情をした水野は、肩をすくめて答えた。
「なんだか、随分と印象が違うね。この間は、完全に感情的になっていたようだったのに。今日は結構理詰めな感じだ。しかも、随分と僕のことを買ってくれているみたいだし」
「からかわないでください」
暫く黙っていた水野は、軽く息をつくと、小さくつぶやいた。
「まぁ、いいか」
 
***
 
有紗の言葉は、雪帆に辛い秋の日を思い出させた。
みんなが必死だった。幼さは過信と見栄を誘い、中途半端な成熟は保身を訴えた。集団が犠牲を求めていた。
力を持たない雪帆は、血色の夕焼けに染まる、哀れな子羊だった。
何がいけなかったのだろうと、雪帆は今でも考える。
中途半端に美しかったから?
『ちょっと可愛いからって』
運動が不得手だったから?
『にぶいくせに』
成績が良かったから?
『頭いいと思って』
気づいたら何もかもが、非難にさらされていた。
『あの子、調子に乗ってるよね』
何が、いけなかったのだろうか。
 
***
 
「君を信用して話すよ。他言無用だ。約束してくれるかい?」
いつになく真剣な表情になった水野に、有紗は自然と姿勢を正した。
「はい」
しっかりと目を見て頷くと、水野はその視線を避けるかのように、かすかに目を伏せた。
「知っての通り、僕が特進落ちしたことは事実だ。そして、その理由が人間関係だったということも当たっている」
「それは、恋愛絡みですか」
「突っ込んでくるね」
ひやかすようにいいながら、水野の眼差しが曇った。
「そうだね。まぁ、恋愛、と言えなくもないのかな?」
「…どういう意味ですか?」
「夏目さん、当時の生徒会長が誰だか、知っている?」
「瀬々マサヤ…。あの、瀬々って…」
「セゼマサヤ?…ああ、そういうことか。そこか」
「え?」
一人納得した様子の水野は、うんうんと何度も頷き、「なるほど」などと言っている。
「どうしたんですか?」
「いや、つまり君は、僕の特進落ちが、実は現生徒会長の陰謀だったんじゃないか、って思った訳だね?」
「…はい。」
「ああ、なるほど。生徒会長の名前を見て、瀬々重弥と同じ名字だから、一年前から藤村君が邪魔な僕を排除しておこうとしたんじゃないかと」
「はい」
「あぁ、なるほど。うぅん…それは、違うな」
水野は、困ったように眉を寄せた。
「僕が特進落ちしたのは、ある意味、合意の上だ」
「え?」
驚く有紗を見つめながら、水野はカップを持ち上げる。
「生徒会長の名前はね、『まさや』じゃない。『あきみ』というんだ。あの年の生徒会長は、女性だった」
ゆっくりとコーヒーを嚥下して、水野は小さく笑った。
 
***
 
窓枠で区切られた薄暮の世界を眺めながら、雪帆は目を細めた。
始まりは、夏の終わりだった。
ひとつの噂が囁かれた。
小さな波紋は、少しずつ広がり、元の形も分らぬほどの大きな波となって、小さく閉ざされた世界を揺らす。
『藤村雪帆は、人の心を弄んで楽しんでいる』
雪帆の耳に届いたとき、すでに最初の噂がどんな内容だったかは、分からなくなっていた。
突然変わった周囲の目。既に、すべてが『真実』になった後で。雪帆の耳に届いたのは、これだけだった。
おそらく、もっと酷い噂もあったのだろう。
雪帆の耳に入らずにすんだのは、重弥が必死になってブロックしてくれていたのだと思う。真相は今でもわからないけれども。
  
憧れていた先輩からの、冷たい言葉。
親しくしていた友人の、蔑んだ眼差し。
先生たちの、何かを含んだような奇妙な笑み。
  
3年かけて築きあげた全てが、一瞬で無に帰した瞬間だった。
  
すべてのきっかけは、雪帆がぽろりとこぼした昔話だった。
  
ちょっとしたガールズトーク
夏休みの間に出逢った男の子との、ちょっとしたロマンスを、一人の友人が語ったのだ。
 
『聞いて聞いて!』
『告白されちゃったの』
『どうすればいいと思う?』
 
雪帆は愚かにも、至極真剣に答えたのだ。
それは、単なる自慢だったのに。
彼女は、優越感に浸りたいだけだったのに。
 
『どうすればいいか分んなくて!』
『ねぇ、どうすればいいと思う?』
『みんな、教えてよぉ。』
 
彼女は教えてもらう気なんかなかったのに。
他人の経験談なんて聞きたくなかったのに。
劣った者が打ちのめされ、ひれ伏す姿を求めていただけだったのに。
 
「私はね」
「ありがとう、って言ったの」
「いい思い出よ」
「『好きになってくれてありがとう』って、感謝の気持ちを伝えればいいんじゃないかしら?」
「受け入れることはできなくても、気持ちは伝わるんじゃないかしら」
 
彼女の笑みが歪んだことにも気づかずに。
なんて愚かだったのだろう。
 
『調子に乗ってる』
『上から物を言ってるよね』
『告白なんて、慣れてる!って言いたいワケ?』
 
そんなつもり、なかったのに。
 
雪帆はその日の夕方、クラスの前で男子生徒に告白された。
友人の一人が、恋していると言って憚らなかった、彼女の憧れの生徒に。
すべての、間が悪かったとしか、言いようがない。
 
「ありがとう。でも、ごめんなさい。」
断るしかなかった。見せつけるように。
 
『私の気持ちを知っていてあの人を誘惑したのよ』
『だって、ずっと優しかったのに、急に冷たくなったもの』
『酷い子』
 
幼い見栄とプライドが、感情の捌け口を求める。
 
『友達の好きな人を奪うのが趣味なわけ?』
『ありがとう、あなたの気持ちはウレシイけれど、って?』
『常に自分が上位から、選ぶ立場だとでも思ってんの?』
 
そんなつもり、なかったのに。
もっとも、あの告白を断らなくても、後の展開は同じだったろうけれど。
 
***
 
「僕は以前、藤村さんと同じことを考えていたんだ。愚かしい争いを起こる前に食い止めるためには、『優れた人間が、それ以外を管理すればいい』とね。
そして、なんとも恥ずかしいことだが、その優れた人間というのは自分以外にあり得ないと思っていた。
僕は当時、クラスの人事などは勿論、あらゆる人間関係に介入していた。ごく自然に。
そして、僕は、僕の思う通りの、理想の穏やかな生活を手に入れていた。面倒ないざこざとは無縁の、ね」
静かに話す水野の声に有紗は耳を澄ませる。その台詞とは裏腹に、水野の声は穏やかで、傲慢の気配は感じられない。
「さて、晶弥さんだけれどね、彼女はなかなか苛烈な会長だったよ。そして、恋に対しては酷く情熱的だった。彼女が惚れたのは、僕のクラスメイトだった」
水野は、有紗のほうを向きながら、有紗を見ていなかった。
過去を思い返す眼差しで、水野は呟く。
「クラスメイトの…仮にAとしておこう。彼は、晶弥さんのアプローチにほとほと困ってね。言ってしまたんだ。自分が好きなのは、僕だ、と」
「…は?」
思いもよらぬ展開に、有紗は間の抜けた返事を返した。水野は困ったように笑い、まだそれほど経ていない昔を思い出して目を細めた。
「Aとは普通に話はしたけれど、それほど親しくはなかった。最も、当時の僕にはそんなに親しい友人はいなかったんだけど」
有紗は開いた口が塞がらないまま、間抜けな顔で呆然としていた。
「そこで、僕がもっとも厭っていた『愚かで醜い争い』が生じたわけだ。なんとも面倒だと思った。嫉妬に怒り狂った生徒会長がうっとうしくて、僕は自らクラスを落ちた。まるで罪人のように扱われて、少々プライドが傷ついたが、正当な主張をしたところで、どうせ僕の話を聞きたい人間なんかいやしない。自分が『管理してやっていた』つもりでいた人間関係というものが厭になったのもあったし、恩知らずめ、という的外れなAへの苛立ちもあったし、…うん。当てつけみたいな部分もあったね。厄介な役目を押しつけやがって、と。どうせ、他の女の子を巻き込むまいとのご大層な優しさとやらで、一番打たれ強そうな僕に目を付けたんだろう、とね。僕は、人の好意や善意というものを信じていなかったから」
どこか懺悔めいた思い出話を聞きながら、有紗は不思議な気持ちでいっぱいだった。穏やかで
熱血で、冷静で、人徳のある水野雅臣。その印象が、少しずつ変わっていく。
「Aがどういうつもりで僕の名前を出したのかは、今でも分らない。僕の特進落ちのすぐ後、Aは学校をやめてしまったから」
「ええ!?」
思わず、有紗は声を上げた。特進クラスの特待生ともなれば入学金免除となるが、曲りなりにもこの学校は私立であり、それなりに高額の入学金が必要となる。授業料も結構なものだ。入るのが難しいこともあるが、一度入ったらそんなに簡単には辞めない。普通なら。
「優秀だったから、教師陣には引き留める人も多かったと聞くけれど、おそらく僕を巻き込んでしまったことに責任を感じたんだろうね」
水野は肩をすくめて笑った。
「驚きだったね。他人のために感情が動かされるのさえ苛立たしいと思う僕にとって、その行動は完全に予想外だった。だって、クラス落ちをしたのも、結局は自己責任だからね。
僕が本気で動けば、変えられたかもしれない状況だった。それだけの強さが僕にはあったはずなんだ。そして、Aもそれは知っていた。でも、僕はしなかった。
僕がAなら、原因を作ったことを申し訳なく思いこそすれ、そこまでの責任を負う気にはなれないだろう。
それなのに、Aは退学の前日に一言『ごめん』とだけ告げて、何の弁明もせずに学校を去った。
その後、晶弥さんも落ち込んでね、反省したのかな。自分は周りを見えていなかった、多くの人に迷惑をかけたと思うって、僕に謝りに来た」
有紗は驚きに目を丸くした。
「ふふっ。もっと凄いことを教えてあげようか?晶弥さんはね、Aを追いかけて学校を辞めたんだ」
「うっそ!」
水野は、心底愉快そうに笑った。
「凄いだろう?もうここまで来たら天晴で、腹も立たない。彼女は自分で彼が転校した先の高校を見つけて、編入して行ったよ。まだ思いは実っていないみたいだけど」
定期的に報告の葉書が来るんだ。別に頼んではないんだけど、義務だとでも思っているのかな?
そう笑いながら、水野は続ける。過去を漂っていた瞳が、現在に戻り、有紗をまっすぐ見つめる。
「だけど、まぁ、その事件のおかげで僕はいろいろと学んだわけだ。自分が気付かないところに、いろいろな人の心が転がっていることにね。
人の感情というものは、僕が予測して操作できるほど、容易なものではなかったんだ。Aが何を思って僕の名前を出したかは分らない。僕はそれまで、周囲とはなおざりな付き合いだけで、真剣に向き合ったことなどなかったから。
人は人を、操れないということを、僕はその時に初めて気がついたんだ。」
少しずつ早口になっていく自分を押さえるように、水野はコーヒーを口にした。一呼吸置くと、水野は噛みしめるように続けた。
 
「だめなんだ、絶対に。人間関係は、自分で築き上げ、自分で気づかないと始まらないし、手に入らない。
今生徒たちが手に入ったように思っているのは、紛い物だ。絵にかいたような理想の学園生活の中で得られるのは、偽物の関係と偽物の青春だけ。他人から与えられる親友なんて意味はないし、誰かに管理される関係なんて嘘っぱちだ。
今なら、それがわかる。
時間を経て振り返った時、おそらくそこには何もない。空虚な張りぼての青春の残骸が転がっているだけだ。
少し前までの僕は、管理する立場のつもりでいた。自分は世界の中心にいて、誰一人、自分の世界を崩すことのできるものはいないと思っていた。傲慢で、勘違いも甚だしいけれどね。ほんの一握りの人間の心がもたらした波にさらわれて、僕の生活は、単純に崩された。」
深く重い息をついて、水野は整った顔を微かにゆがめる。やり切れなさを表すように、低い声が呟くように絞り出される。
「だから、藤村さんを見ていると、どうしても苛々するし、腹が立つ。まるで、過去の自分を見ているようで、ね。
自分を万能だと勘違いして、きっとそのうち、手酷いしっぺ返しを食らうに違いないのに。
藤村さんだけじゃない。このままだと、この学校の生徒は皆、紛い物の青春を送ることになってしまう。個人の感傷に周りを巻き込むべきではないよ。
…まぁ、多感な中学生時代に、あんな経験をすれば、『じゃあ、管理してしまえばいい』と思う彼女の気持ちもわかるんだけれどね…」
何気なく発せられた言葉に引っかかりを覚えた有紗は、慌てて水野の言葉を遮った。
「ま、待って下さい!雪帆が、どうしたんですか?」
「あれ?知らない?…僕が話していい話かわからないんだけれど…。仕方ないか。あのね…」
  
***
  
沈みゆく夕日は、一年前の秋を思い起こさせた。
あの日、重弥は誓ったのだ。
『管理する方に回ることにする』
濡れた瞳で、そう言い切った雪帆の強い眼差しを見た時に、この少女のために己の力を尽くそう、と。
自分がこれと定めた者に、信頼を置かれ、その者に命じられる快感、命令を完璧に遂行する喜び。これまで誰かの下につくことなど決して認めなかった重弥が初めて知った、自ら選んだ主に従い、服従する喜び。少々歪んだその感情を弄びながら、重弥は今、このゲームを楽しんでいる。
決められたレールの上を歩み、将来のビジョンが既に確定している重弥は、大した願望も期待もない。望むものがないというのは、つまらないものだ。
だから雪帆に、己にない光を求めた。雪帆の夢を渇望する強い瞳に引きつけられたのだ。
幼い少女が、自らの欲するものを手に入れるために戦うことを決めた日。
新しい世界への期待に、重弥は震えた。
 
重弥は、雪帆を選んだのだ。
主として。
 
***
 
ギシ…ッ
生徒会長の椅子が小さく軋む。
その音を聞きながら、雪帆は沈むゆく紅の夕日を見つめる。一日の終わりを告げる眩しさに、わずかに目を細めながら。
何が原因かなんて、もうどうでもいいのだ。全ては、今更の話だ。
私は、誰一人、自分にはどうしようもできないことが原因で、自分の世界を崩されない理想郷を作ろう。
私は、この学園の管理者になる。
すべての生徒の幸福のために。
 
***
 
有紗は、混乱したまま水野家をあとにした。
水野から聞いた話が頭の中を駆け巡っている。
水野の過去。そして、雪帆の過去。
なぜ雪帆は人間関係をコントロールすることに固執したのか。
雪帆が目指す『理想の学園生活』とは、何なのか。
そうだ。確かに、雪帆が目指しているのは、無茶な話なのだ。
真の友情も、真の愛情も、真の幸福も、すべて、自分で手に入れなければ手に入らないものなのに。
雪帆は、水野先輩と同じような経験をした挙句、全く逆の方法を選んだわけだ。
「ごめんね、雪帆…」
何も気づかなくて。文通してたのに。全然力になってあげられなかったんだ。
 
「ごめんね。―――でも」
 
私は、水野先輩につく。

 
 
 
 
 
 
すみません。めっちゃ遅くなってすみません。本当にすみません。
次はるりさんです。よろしくお願いします。