バナナチップ その3

 ベンジャミンは、夜空を見上げた。星が見たかったわけではない。ちょっとした現実逃避をしたくなったのだ。今の彼には、爆弾処理班の気持ちがよく理解できた。
 原因は、アシュリーだ。
 彼女は、親指の爪を噛んでいた。
 イライラがある閾値を超えると、アシュリーは爪を噛む。この儀式の最中、彼女はド短気なヘビー級ボクサー、あるいは導火線の短いダイナマイトと化す。どんな言葉を投げかけても、待っているのはKO間違いなしのカウンターか、アクション映画顔負けの大爆発だ。
 だから、するしかない。
 無視するしか──ない。
 とはいえ、あからさまに無視すると、それはそれでアシュリーの怒りを買うことになる。彼女の怒りのサイズは、SやMなんてものではない。XLだ。だから、僕はあなたを無視しているわけではなくて、自然を存分に楽しんでいるのですよ、勘違いしないでくださいね──そんな雰囲気をナチュラルに演出する手法が必要不可欠となる。数々の修羅場をくぐり抜け、ベンジャミンはこの手法をマスターした。だが、志望企業のエントリーシートに書ける代物ではない。そこが極めて残念なところである。
 アシュリーが怒る理由は、わからなくもない。アマゾネスでもない限り、野宿を好む女性はいないだろう。だが、世の中には、思い通りにならないことだってある。無計画な旅ならなおさらだ。そんなとき、いちいち腹を立てても仕方ないではないか。それに、自分とギルバートは、なにもしなかったわけではない。いくつもの家や店を当たってみた。やれるだけのことはやったのだ。ただ、ほんの少しだけ、運がなかった。それだけのこと。この町の住人は、どれだけドアをノックしようと、どれだけチャイムを鳴らそうと、無反応なのである。まるで、墓場で眠る死者のように。
「ほ、星が、きれいだよな……」
 ギルバートがぎこちなく話しかけてきた。五分ほど前から続く沈黙に耐え切れなくなったからだろう。何か言葉を発したくなる気持ちはわからないでもない。が、できることなら、もう少し自然に話しかけてほしかった、とベンジャミンは思う。ギルバートは、腕っぷしは強いのだが、危機感に欠けるところがある。油断の多いライオンのようなものだ。人間社会ではなんとか通用するが、サバンナでは草食動物に翻弄される立場となる。
 ベンジャミンは、恐る恐るアシュリーを見た。
 幸いなことに、爆発の兆候らしきものはなかった。ギルバートの言葉は引き金にはならなかったようだ。だが、油断は禁物だ。第一種警戒態勢を継続せよ。過去から学ばないのは愚者のすることだ。アシュリーを怒らせることは、なんとしてでも避けなければならない。今は自宅の中でもホテルの中でもない。見知らぬ土地。しかも深夜。限りなく確定に近い野宿。このタイミングでのいざこざは、ウエルカムではない。心身の消耗は、できることなら避けたかった。
「……ベン、一つ尋ねたいことがあるんだが」意味深な口ぶりでギルバートが言った。
「なんだよ、人生相談か?」
「おまえは、何座が好きなんだ?」
「………………………………は?」
 ベンジャミンは、世界の中心で頭を抱えた気分になった。よりによって。この非常時に。ピッカピカの一年生のごとき質問をするなんて。頭がどうかしているとしか思えない。肝心なのは、耐えがたきに耐え、忍びがたきを忍び、大自然を鑑賞する振りをしつつ、アシュリーの唇から親指が離れるまで、じっとじっと待つことではないのか。
「…………」ベンジャミンは、答えない。
「なんだよ、言えよ。俺とお前の仲じゃないか」
「…………」ギルバート、空気読め。
「感じワリいな。無視すんなよ」
「…………」お前の方が感じ悪いのだが。
「何とか言えよ、ベン!」
 なんということだ。ギルバートまでがイライラし始めたではないか。世の中は、本当に、思い通りにならない。
「好きな星座か……」黙ったままだと事態はさらに悪化する──そう考えたベンジャミンは質問に答えることにした。だが、単に答えても面白くはない。ちょっとしたユーモアを加えてみる。「グーグル座、アマゾン座、フェイスブック座──そんなところだな」
「は?」ギルバートが声を上げる。「そんな星座、あるのかよ?」
「今作った。空には無数のドットがある」
「相変わらず機転が利くな」ギルバートの声が明るくなる。「だったら俺は、アップル座だな」
 それからしばらくの間、ベンジャミンとギルバートは、共に夜空を見上げ、新しい星座づくりを楽しんだ。マクドナルド座はすぐに完成したが、コカ・コーラ座は困難を極めた。
「上手くいかないな」ギルバートは肩をすくめて言った。
「望遠鏡があるといいんだけど──ん?」ベンジャミンは、ここで初めて、あることに気がついた。「おかしいぞ。アシュリーがいない」
「え?」ギルバートは周囲を見回す。「本当だ。さっきまですぐそばにいたんだが……」
「まいったな……」ベンジャミンは後頭部を軽く掻いた。
 星座づくりに夢中になっているアホな男どもを放っておいて、スタイル抜群のお姫様は先を急ぎました──どうやらこういう展開らしい。これまで何度も経験したパターンである。
「しっかし、アシュリーもよくやるぜ」ギルバートが感心したように言う。「こんなに暗いのに一人で行っちまうなんてよ。やっぱあいつは、その辺の女とは一味違うなな」
「彼女は、僕と同じでド田舎の出身だからな」ベンジャミンは言う。「こんなのには慣れっこなんだよ。スマホの懐中電灯アプリがあれば、なんとでもなる」
「でもよ、あてがあるわけじゃないんだぜ?」
「ウインドウ・ショッピングは、女性の特技だ」
「ここはウォール・ストリートか?」
「どうする? 放っておくという選択肢もあるが……」 
「昼間ならともかく、深夜だからな。合流した方がいい」
「それもそうだ」ベンジャミンはズボンのポケットからスマホを取り出す。「彼女に電話してみるよ」
 だが、アシュリーと連絡を取ることはできなかった。つながらない。何度かけても結果は同じだった。メールやSNSもダメだった。しばらく待っても、返信は一切ない。
 二人は手分けをしてアシュリーを探すことにした。スマホの懐中電灯アプリで足元を照らし、土地勘のない町を走り回った。ありったけの声も出した──しかし。
「どうだった?」合流してすぐにギルバートが言った。
「ダメだ」ベンジャミンは首を振る。「そっちは?」
「手がかりすらなし──だ」
「そう遠くには行っていないはずなんだが……」
 ベンジャミンは星座を作っていたときのことを思い出す。せいぜい五分程度の時間だった。あの短時間でそう遠くまで移動できるとは思えない。それに、アシュリーは自分たちのそばにいた。移動する際に、彼女が暗闇の中で懐中電灯アプリを使ったなら、いくらなんでも気づくはずだ。
「──ん?」ベンジャミンは、自分の思考に違和感を覚える。「何か変だな……」
「おい、ベン、どうかしたのか?」
「もしかしたら、僕はとんでもない勘違いをしていたのかもしれない」
「勘違い? なんだそりゃ?」
「アシュリーの目的は、あの場から離れることだったのか?」
「おいおい何言ってんだ? 離れたから、いないんだろ?」
「いや、離れるためではなく、隠れるため──だったら、どうなる?」
「か、隠れる?」ギルバートは驚きの声を上げた。「な、なんで隠れる必要があるんだよ」
「それはわからない。でも、あれだけ探して見つからなかったということは、僕たちの目の届かないところにいるのは確かだ」
「それにしても、隠れるってのはないだろ。子供じゃないんだぜ」
「じゃあ、より適切な言い方にしよう」ベンジャミンは言いにくいことを口にする。「もしかすると、彼女の身に何かが起こった」
「──ベン」ギルの声質が変わった。怒っているようにも聞こえる。「お前、本気で言っているのか? 世の中には、言っていいことと悪いことがあるんだぜ?」
「最悪の事態を想定して動いたほうが、油断せずに済む」
「最悪の事態──か」ギルバートはため息をつく。「可能性はゼロではないな。もし、そうなら、せっかくの旅行が台無しだな」
「仕方ないさ。多少のトラブルは覚悟の上──そうだろ?」
「しかし、お姫様がいなくなるってのまでは想定してないぜ。彼女がいなけりゃ、旅の目的そのものがなくなっちまう」
「ナイトになるチャンスが増えたと思えばいい」
「お前はナイトってがらじゃないけどな」
「ペンは剣より強し──いや、違うな。ベンは剣よりも強し、だ」
「言ってくれるじゃねえか」
「とりあえず、一時休戦でどうだろう?」ベンジャミンは提案した。
「…………」ギルバートは、答えない。
「ギル」ベンジャミンは、催促する。
「…………」返事は、ない。
「ギル?」
「…………」
 ギルバートの様子は、明らかにおかしかった。あてもなくさまようゾンビのように、ゆっくりと右方向に歩いていく。ベンジャミンの呼びかけにも、一向に応じない。
「おい、ギル!」ベンジャミンは背後からギルバートの肩をつかみ、耳元で怒鳴った。「僕の話、聞いているのか?」
「あっ……」ギルバートはようやくベンジャミンの方を見る。「あ、あれ? お、俺は、一体……」
「どうしたんだ、急に?」
「あ、いや、ちょっと、変な気分に……」
「抽象的すぎる。具体的に話してくれ」
「えっと……」ギルバートはゆっくりと話し始める「お前と話しているとき……、なんだかとてもいい匂いがしてきたんだ。で、それに気を取られていたら……、急に……、ボーっとして……」
「いい匂い……?」ベンジャミンは鼻を軽く動かす。「……特に変わった匂いはしないぞ」
「鼻炎持ちのお前にはわからないかもな」
「そんなにいい匂いだったのか?」
「ああ」ギルバートは頷く。「シャネルなんか足元にも及ばない。一瞬で嗅いだ者を虜にする──そんな匂いだ」
「だとすると……」ベンジャミンはギルバートの目を見て話す。「まさか、アシュリーは……」
「考えたくもないが──」ギルバートは視線を地面に向ける。「そういうことになるんだろうな」



 アシュリーの手掛かりは、ギルバートの感覚だけだった。彼の話によると、匂いに夢中になっているとき、今いる位置から西の方にいざなわれるような気分になったとのこと。ならば、アシュリーも西に進んだ可能性が高い──そう考えた二人は、スマホの懐中電灯アプリを頼りに、西へと進んだ。
 しばらくすると、二階建てと思しき建物が見えてきた。住宅ではなく、商店のようだった。店自体は閉まっているものの、窓から明かりが漏れている。電気の付け忘れでなければ、この建物の住人はどうやら起きているらしい。もしかしたらアシュリーの手掛かりが得られるかもしれない──二人はそう思った。
「どうやら、菓子店のようだな」ギルバートが看板を見ながら言う。「Banana Chips──って書いてある」
「菓子店か……」ベンジャミンも看板を見る。「まさか、ギルの嗅いだ匂いは、ここから伝わってきたのか?」
「言われて見れば、お菓子っぽい匂いだった気もするが……、けどよ、こんなに離れた場所から匂うとは思えないけどな」
「もしかすると、なにかトリックがあるのかもしれない」
「トリックなんて大げさだな。推理小説の読み過ぎじゃないか?」
 ベンジャミンは、ギルバートの発言を無視し、店のドアをノックする。残念ながら、インターフォンのようなものは見当たらなかった。
「誰かいないか?」ベンジャミンは大きな声で言った。「聞きたいことがあるんだ!」
「おーい!」ギルバートも大声を出す。「上手い話があるんだが、ちょっと聞いてみないか!」
「ギル!」ベンは視線に力を込める。「真面目にやれ!」
「真面目だっつーの」
「そうは見えない」
「お前の目がイカれちまったんだろ。あの高級車みたいに」
「なんだと?」
「お? その口の利き方は……、まさか、俺とやろうってのか?」
「そのつもりだ」
「やめとけ。どう考えてもお前に勝ち目はないぜ」
「やってみなきゃ、わからない」
「よし、だったら、ハンデをやろう」ギルバートは胸を軽く叩く。「一発だけ殴らせてやる。どっからでもかかってこい」
「いい度胸だ」ベンジャミンは指を鳴らす。「じゃあ、いくぜ!」
 ベンジャミンの拳が、ギルバートの顔面に迫る。
 そのとき──。
「うるさいわね! わたしのお店の前で何をやってるの!」
 女性の声だった。
 しかし、聞き慣れたものではない。
 ベンジャミンは、拳を止め、二階の窓を見る。
 明かりのついた窓から、少女が身を乗り出していた。
「どうやら、作戦成功のようだな」ギルバートが耳打ちをした。
「ああ、そうだな」ベンジャミンは頷く。「家の前で喧嘩をされれば、誰だって出てきたくなる。それが人情というものだ」
「とはいえ、この町では、初めての成功だがな」
「ちょっとあなたたち!」少女はさらに窓から身を乗り出す。「わたしの話、聞いてるの?」
「ああ、聞いてる聞いている」ギルバートは手を振って答える。「いい声だから、よく聞こえるよ、お嬢ちゃん」
「わたしのこと、からかってるわね!」少女は腕を伸ばしてギルの方を指さす。「許さないんだから。そこで動かないで待ってるのよ。とっちめてやるんだから────あっ!」
 バランスが、崩れた。
 重力が、牙をむく。
「危ない!」ベンジャミンは叫んだ。
「任せろ!」ギルバートは地面を蹴った。
 少女との間合いを瞬時に詰めたギルバートは、衝撃を上手く殺しながら、彼女の身体を抱きかかえる。
「バカ野郎!」ギルバートは腕の中の少女に怒鳴る。「もう少し注意を払え! 下手すりゃ死んでたぞ!」
「ご、ごめんなさい……」少女は泣きそうな声で言った。
「わかればいいんだ」ギルバートの声が優しくなる。「……立てるか?」
「う、うん……」少女は頷き、地に足をつけた。
 それから彼女は、ベンジャミンとギルバートに向かって深く深くお辞儀をした。
「助けていただいて、どうもありがとうございました」
「気にすることはないぜ」ギルバートは軽く手を振る。「当然のことをしたまでだ」
「これ、落ちてたよ」ベンジャミンは、スマホを少女に差し出す。ギルバートが抱きかかえたときに、彼女のポケットから落ちたものだ。幸いディスプレイにヒビは入っていない。
「……えっ?」スマホを見たギルバートは驚いたような声を出したが、ベンジャミンはそれを無視した。
「わあ、ありがとう」スマホを受け取った少女は笑顔で言う。「これは、是非とも、お礼をしなくちゃいけないわね」
「え? 本当?」ベンジャミンは笑顔を作る。「それは嬉しいなあ。実は、少し前にこの町に着いたんだけど、泊まるところがなくてね。その上、お腹も空いて困ってたところなんだ」
「そうなんですか。だったら、わたしの家に泊まってください。食事も出しますよ」
「それは、とても助かるね」ベンジャミンはとびっきりの笑顔を意識して言う。「ギル、最高の展開だな。神は僕たちのことを見放さなかった」
「あ、ああ……」
「では、少しここで待っていただけますか。準備をしてきますので」
 そう言って、少女は店の裏の方へと姿を消した。
「どういうことなんだ?」少女が見えなくなってからギルバートが言う。「あのスマホについていたシールは、アシュリーのものとそっくりだったぞ」
「そっくりじゃない。同じだ」
「確認したのか?」
「ああ、間違いない」
「何がどうなっているんだ?」
「さあね。でも、これだけは言える。あの少女はアシュリーを知っている」
「これから、どうする?」
「僕に考えがある」
 その場で二人は作戦会議を始め──少女の足音が聞こえた時点でお開きとなった。
「準備ができました」店の裏手から歩いてきた少女は満面の笑みで言った。
「どうもありがとう。助かるよ」ベンジャミンは微笑んで言う。「ところで、自己紹介がまだだったね。僕の名前は、ベンジャミン。ベンと呼んでくれればいい」
「俺の名前は、ギルバート。まあ、ギルとでも呼んでくれ」
「ベンさんに、ギルさんですね。お二人とも、Banana Chipsへようこそ」少女は軽く会釈をする。「わたしの名前は、リンダです。このBanana Chipsの店主をやっています」


(担当:花庭京史郎)


続きがとても気になりますね。
次の担当は、竹之内大さんです。
よろしくお願いします。