何も無かったら書かないでね! その16 《最終回》

 かちゃり、と胸ポケットの中で金属音がした。
「中学のときの友達がさぁ──」
 目の前の美弥子は音になど気づかない様子で話を続けている。私はさり気なく胸元を手で抑え、それで? と話を促した。
「その子の高校だと、雰囲気がオープンっていうのかな? そういう校風なのか知らないけど、帰り道とか男女のペアの方が多いんだって。それで近所の人から苦情がくるくらいらしいよ。あそこの生徒はいちゃいちゃしすぎだーって。すごいよねぇ」
「それは凄いわね」
 美弥子がその話のどこに凄さを感じているかは定かではなかったが、それらしく相槌を打ってやる。
「ねー。うちの学校もそのくらいの自由があってもいいよね。こっちに来ちゃうと出会いがないんだよなぁこれが」
 美弥子の言う「こっち」とは、私たち特進クラスが入る中央館のことだ。
「えええ、それって、特進には大した男がいないってこと?」
 隣で聞いていた芽衣が茶化すように言った。
「それも問題なんだけど……」
 美弥子が真面目ぶってそう言い、美弥子と芽衣は笑い合う。私も笑顔で同意を示した。
 実際のところ、二人は一般クラスのことなどよく知らないのだ。この学校では昔から、特進クラスとそれ以外の一般生徒の隔たりが激しい。校舎が違うという物理的な障害もあるが、特進クラスの生徒はお高く止まっている、と一般クラスの生徒に思われている節もある。そしてそれはある程度は事実だ。例えばこの学校の生徒会は毎年特進クラスの生徒だけで構成されており、ことあるごとに特進びいきの施策ばかり優先すると一般クラスから批判されていたりする。
 昔は、生徒会に一般クラスの生徒が書記として入っていたこともあったらしい。そんなことは他に例を見ないことで、恐らくは何か特別な事情があったのではないかと今も噂されている。しかしそれも随分前のことだというし、その書記の女生徒も半年で降板してしまったようだが。
「とにかく、一般でも特進でも、選択肢が多いに越したことはないかな」
 美弥子がそう言って腕を組み、
「えー、美弥子、ちょっと上から目線。自信過剰なんじゃないの?」
 芽衣がからかう。
 委員会に属していない二人は北館に足を踏み入れることすら稀だろう。よく知らない世界だからこそ、気兼ねなく憧れを抱くことができるのだ。実際のところは──
「由香里はいいよねぇ。あんな素敵なお相手がいてさ」
 美弥子が突然私に水を向けた。芽衣ははっとして私の方を見る。
「先輩のこと?」
 私が聞くと、美弥子は大きく頷く。
「特進の中でも超優秀でさ、生徒会役員で全校生徒に知られてて人気もあるし、優しそうだし! 非の打ち所がないっていうか、参っちゃうよなぁ」
「そんなことないわよ。あれで結構抜けてるところもあるんだから」
「またまたぁ。私だけは知ってる本当の彼、ってやつ? はぁー、幸せそうで何より」
 美弥子は肩を竦めてそう言った。棘のない、あくまで友人の恋路を羨んでいるだけだと言わんばかりの軽い口調で。
「まぁ、由香里くらい美人だったら誰も文句言えないけどさ。実際お似合いだしね。先輩と由香里なら」
 ねぇ、と美弥子は芽衣に同意を求め、芽衣
「うん、本当にね」
 と頷いた。
「そんなことないわ。二人だって可愛いじゃない」
 私がそう言うと、そうなんだけどね、と美弥子はおどけ、芽衣曖昧な笑みを浮かべた。
「それに教室だけがこの世の全てってわけでもないわ。私が先輩と知り合ったのも、コンサート会場だったし。いろんな世界に目を向ければ、人間いくらだって出会いのチャンスはあるものよ」
 そのとき、昼休みの終わりが近づいたことを知らせる予鈴が鳴った。弁当箱を広げて雑談に花を咲かせていた生徒たちが、のそのそと片付けを始める。
 私はあることを思い出し、
「あっ、そうだ。大変」
 と席を立った。
「どうしたの?
「職員室に配布物取りに行かなきゃ行けないんだった。忘れてた……」
 美弥子は焦る私を見てふふんと笑い、
「特進きっての才媛も、これで結構抜けてるところがあるんだよねぇ」
 と先ほどの私の口調を真似て言った。



 昼休みの残り時間は短いが、中央館にある教室は職員室が近い。それほど焦る必要はなかったが、この時間帯の配布物には午後の授業で使われるプリントが含まれていることもあるのだ。私は階段をやや急いで降り、職員室の前の配布箱から今日の配布物を取り出す。
 私は教室への道を歩きながら、配布物の内容を確認する。どうでもよさそうなアナウンスがやたらと多い。来週、進路指導の一環として、この学校の卒業生が在校生に卒業後のことについて話しに来る、だとか。こういう連絡は担任が口で言えばいいのに、この学校ではいちいち紙で配るという習慣がある。
 教室の前まで来たとき、私はふと扉の前で足を止めた。教室の中から美弥子と芽衣の話し声が聞こえたからだ。
「はぁ……あーあ。浮かれちゃってるよね、由香里ったら。先輩の話してるときの顔見た? あの嫌味な感じ」
 この声は美弥子だ。まだ喧騒の収まらない教室の中で、周囲に聞こえないよう声は抑えているようだったが、その言葉ははっきりと私の耳に届いていた。
「嫌味に聞こえるのはそうかもしれないけど、由香里は天然なんだよ、多分」
 芽衣がフォローなのか何なのかよく分からない相槌を打った。
「いや絶対確信犯だって。私へのあてつけだよ、あれ」
「あてつけねぇ……でも、由香里は知らないんでしょ? 美弥子が、その……先輩のこと好きだったって」
「それは……まぁそういう話はしてないけど。でもさ、知ってても知らなくても、とにかく誰かに自慢したいだけなんだよね、由香里ってそういうところあるから。うざいったらないけど、本人は満足してんだろうなぁ」
 美弥子はやれやれと演技がかったため息をついた。
 ──もうすぐそろそろ始業の鐘が鳴ってしまう。早く教室に入らないと。
 私は教室の扉に手をかけ、しかしまた手を下ろす。
「まぁ、そうかもね」
 それまで話を流し気味に聞いていた芽衣が、やにわに話に乗り出した。
「由香里は結構昔からそういうとこあるよ。何ていうか、あれだ、自分に惚れ込んでるってやつ?」
「それそれ。伝わってくるよね、優越感みたいなの。本人気づいてないんだろうけど」
 二人はけたけたと笑い合う。
 もうじき授業が始まるため、廊下にいた生徒たちは次々と自分たちの教室へと帰って行く。私も早く戻らなければならない。しかし、美弥子と芽衣の話し声は止まらない──。
「あの、ちょっといいかな」
 突然背後で男性の声がした。私ははっとして振り返る。
 目の前に、見知らぬ成人男性が立っていた。見たところ歳は三十くらいだろうか。教員ではないし、学校の事務員という風情でもない。
 一体誰だろうと私が訝っていると、その男は
「あぁ、怪しい者じゃないんだ。この学校の卒業生なんだけど……」
 と言って、首から下げているプレートを示した。
 それは、卒業生や来客者に渡されるプレートだった。黒マジックの手書きの文字で、水野、という名前が書いてある。
「……随分久しぶりに来たものだから、迷っちゃってね。職員室って、どこだったっけ?」



 授業が始まり、廊下は休み時間よりも幾分静かになった。先ほど配布物を取りに行った職員室までの道を、私は水野とかいう卒業生を先導しながら再び歩いて行く。
「助かるけど、いいのかい? 授業、もう始まってるだろ?」
 水野にそう尋ねられ、私は
「大丈夫です。次の授業、先生がちょっと遅れて来るらしいですし、職員室はすぐそこですから」
 と半分嘘を交えて答えた。
 何かしら話題を見つけて、会話を続けなくては。ただ黙って廊下を歩いていると、先ほどのことを思い出してしまう。私に向けられた、あの明確な嫌悪を。私という共通の敵を槍玉にあげて盛り上がる二人の笑い声。いや、二人だけではないかもしれない。近くにいた別の生徒も同調して頷いていたかも、いや、もしかして普段から私のいないところではあんな話ばかり……。
「しかし、案外覚えてないもんだなぁ」
 水野の声で、私のとめどない思考は霧散した。
「高校時代の思い出は色々あるんだけど」
 水野は感慨深げに辺りを見回した。恐らく彼が在籍していたのは十年は昔だろう。それだけ時間が経てば、母校のことなど忘れてしまうものなのだろうか。
「水野先輩は特進クラスだったんですか?」
「あぁ、その……まぁ一応ね」
「一応?」
「元々特進だったんだけど、ちょっと事情があって途中から一般クラスに編入したんだ。珍しいだろ?」
「へぇ、そうなんですか」
 確かに珍しい。そういえば、昔そんな生徒がいたらしいという話をどこかで聞いた覚えがある。恋愛絡みで揉め事を起こし、特進落ちした生徒……この人のことだったのか。
「そんな問題児が、歳月を経て後輩の進路指導でお呼ばれすることになるとは、何があるかわからないものだ」
「進路指導ですか? あっ、もしかして」
 私はまだ手に持っていた配布物の中から、進路指導のお知らせの紙を取り出し水野に見せた。
「この件でいらしたんですか?」
 水野は私に身を寄せ、配布物を覗き込む。
「あぁそうだよ。今日はそれの事前打ち合わせで──」
 そこまで言って、水野は急に言葉を飲み込んだ。その場に立ち止まり、先を急ごうとする私の肩に手を置いて引きとめようとする。
「ちょっと待て」
「どうしたんですか?」
 いきなり肩を掴まれた私は、できるだけ不快感を見せないようにそっと水野から離れる。水野ははっとして手を引っ込めた。
「いや、すまない。だが、それを……僕に見せてもらえないかな」
「これですか?」
 私がお知らせの紙を手渡そうとすると、水野は
「いや、その下の束だ」
 と言ってさっと手を伸ばし、お知らせとは別の紙束から一枚の紙を抜き出した。
「これは……」
 水野は廊下のど真ん中に立ち止まり、配布物を睨んで絶句している。
「それがどうかしたんですか?」
「君……このアンケートは、何かな」
 水野はそう言って、彼が見ていた紙を私に差し出した。それは手書きの原稿をコピーしただけの、お粗末なアンケート用紙だった。幾つかの質問事項が並んでおり、一番下には奇妙なキャラクターのイラストと共に、『何もなかったら書かないでね!』という一文が添えてある。
「あぁ、それですか」
 水野が何故そんなにもこのアンケートを気にするのか怪訝に思いながらも、私はアンケートを受け取って説明する。
「生徒会が時々出してるアンケートです。ほら、よくあるメンタルチェックのようなものですよ。最近悩みはないかとか、そういう内容の。ただこれは、友人関係を聞いてきたり、恋愛関係を聞いたりすることもあって、アンケートにしては色々と不躾だったりもするんですけど」
「これは……よく配られるのかい?」
「よく、というほどでは……。まぁ、年に二、三回らしいです。この学校の伝統行事のようなもので……そういえば、先輩のときにはなかったんですか? 昔からあるものだって聞いてますけど」
「……いや、あるにはあったが……」
 水野はアンケートをじっと睨んでしばらく考え込む。
「あの、ええと……」
「君、このアンケートは生徒会が発行していると言っていたね?」
「あぁいえ、それは……」
 どう説明したものか。この水野という男が在籍していた頃にもアンケートがあったのなら、事情を知っていてもおかしくないはずなのだが、どうもそういう様子ではなさそうだ。彼が何を知りたがっているのかはわからないが、とりあえずこの学校の生徒一般が知っている、この学校の伝統について話しておけばいいのだろうか。
「……そのアンケートですが、生徒会が出しているということになっている、と言った方がいいかもしれません。生徒会の人たちはそれを発行していることを否定しています。そんな無意味な仕事はしない、と言って。でも時々配られるんです」
「じゃぁ一体誰が?」
「誰が、と聞かれても……実際のところ、私たちは誰がこれを作っているのかよく知らないんです」
「知らない……? どういうことだ?」
「つまり、ええと……この学校では、職員室の配布物置き場に積まれたものは、クラス委員が休み時間の間に各教室に配ることになっています。ですから、生徒会や先生以外の誰かがそこに何かしらのプリントを置いておけば、自動的に全校生徒に配布されてしまうんです。そのアンケートも、本当に生徒会の人が置いているかもしれませんし、別の誰かがこっそり置いているのかもしれません」
「別の誰か……?」
「さぁ、普通の生徒か、教職員か。本当のところはよくわからないんです。噂では、……まぁこれはただの噂なんですけど、誰かがこの学校の生徒の交友関係を全て調べ上げて、人間関係のデータベースを作っているんだそうです。そのアンケートは、情報を集めるための手段の一つなんだそうで。その誰かはデータベースを使い、様々な手段で人間関係に介入したりもしているんだとか……。そうやって、裏からこの学校を監視、というか支配している存在がいる、なんて言う子もいます。それは流石に荒唐無稽だってみんな思ってますけどね」
 これで大体伝わっただろうか。校内限定の都市伝説を説明するのは何とも気恥ずかしい感じがしたが、しかしこれはこの学校では有名な噂だった。しかもただの噂に留まらず、実際に定期的にアンケートが届くものだから、荒唐無稽な噂にも妙な説得力があるのだった。
 水野は私の話を聞き終えると、
「そうか……。わかった、ありがとう。助かったよ」
 と言って、私にアンケートを返した。
「君はもう授業へ戻りなさい。もう道はわかるから。確か、こ廊下をこのまままっすぐ行けば職員室だったね?」
 私が頷くと、水野はもう一度礼を言って足早に職員室の方へ歩いて行った。



 女子生徒と別れた水野は、足音を荒げないように気をつけながら職員室への道を急いだ。
 職員室の扉の外に、引き出しの多い棚が置かれてあり、その上には『配布物ボックス』と印字された紙が貼ってあった。水野は棚の前に屈み込み、教室ごとに区分けされた配布物入れを覗き込んだ。大半の教室の配布物入れには何も入っていなかったが、まだ持っていかれずに残っている配布物もあった。その中には、あのアンケート用紙の束も見受けられた。
 水野はそれを確認すると、苦笑いを浮かべ、
「驚いた……」
 と独り言を呟いた。
 彼は職員室には入らずにその前を素通りした。そのまま職員室の隣の部屋の前まで行き、理事長室と書かれた扉を叩いた。中から若い女性の声が彼に入室を促す。
「どうぞ」
「失礼します」
 水野が理事長室に入ると、部屋の奥にある大きな机の向こうに座っていたスーツ姿の女性が立ち上がり、
「お待ちしてました」
 と水野に微笑みかけた。
 水野は部屋の扉を閉め、女性の顔をじっと覗き込む。
「君が、重弥君か」
 重弥と呼ばれた女性は頷き、
「こうしてお会いするのは初めてですね、水野先輩」
 と、いくらか砕けた口調で言った。
「姉や雪穂から、あなたの話は色々と窺っていました。姉からは、頭の硬い勘違い男だと。雪穂からは、一を聞いて百を知った気になっている浅薄な正義漢だと。警察官にでもなっているのかと思って調べてみれば、まさか学問の道を志していたとは。姉に話したら爆笑していましたよ」
「初対面の来客に対して学園の理事長がかける言葉がそれかい。ということは、僕は自分のこれまでの人生を面白おかしく滑稽に飾り立てて語って聞かせることを求められているのかな。まぁ、生徒たちにとってみれば、見ず知らずのOBだとかいう奴が偉そうに語る進路哲学なんかより、そっちのほうが退屈しないかもしれないがね」
「面白おかしく語ってくださるのは結構ですが、くれぐれも生徒に悪影響のある言動は謹んでください。断っておきますが、私はあなたを呼ぶことに反対していました。大学以降でのご活躍はともかく、この学校でのあなたは今尚語り継がれる問題児だったのですから。……結局はあなたの論壇でのご高名を理由に、押し切られてしまったわけですが」
「……君は……」
 水野は神妙な面持ちで重弥の顔を覗き込む。
「まさかとは思ったが、本当に十年も昔のことを根に持っているんだな。聞いていたよりもいい性格をしてるね。その歳でそんな地位を任されておきながら」
 重弥はにやりと笑い、
「そんな、根に持っているだなんて。軽い冗談じゃないですか」
 と言った。
 そのとき、重弥の背後の戸が開いて、失礼します、と事務員が茶を持って現れた。理事長室内の会話は一度途切れ、水野は重弥に促されて来客用のソファに腰を下ろした。茶が配膳され、事務員が姿を消すと、重弥は幾つかのファイルを持って水野の対面に腰を下ろす。
「あまりお時間を取らせる訳には行きませんし、来週の講談会についてご説明させていただきます。まずこちらの資料ですが……」
 そう言ってファイルから資料の紙を抜き出そうとする重弥を、水野は「その前に」と制止する。
「聞きたいことがあるんだ。今のこの学校について。いいかな」
 重弥は水野の顔を見た後、手に持つファイルを机の上に置いた。
「何でしょうか」
「先ほど、あのアンケートを見つけてね。実に懐かしいものだった。夏目君のイラストまで当時のままだった。……あれはどういうことだい」
「あれですか? さぁ、何でしょうね」
 重弥は至極真面目にそう言って軽く首を傾げて見せた。
「冗談はやめよう、僕は真剣にこの話をしたいんでね。無論、あの騒動から十年も経っているんだ、僕とて当時のままの僕じゃない。今にして思えば、あそこまで熱くなっていた自分のことを恥ずかしく感じもするし、あれはあれでいい思い出になっているんだ。ただ君も言っていたように、あの時の僕の行動は正しいものだったという確信は今も揺らいでいない。それが浅薄な正義感かどうかは知らないがね。結局は人間関係を全て操作することなんてできないし、あらゆる権限を行使してそれを為そうとする藤村君の計画は、社会を知らない人間が描いた無責任な空想でしかなかった」
「雪穂のことを悪く言うのはやめて頂けませんか」
 重弥は鋭い声でそう言った。
「雪穂は大多数の者の幸福を誰よりも真剣に考えていただけです。そして一度決めたことは最後までやり通す覚悟を持った人でした。あなたみたいな、途中で投げ出して一人悟った気でいるような人間とは違います。実際、今だって雪穂はあなたより、いえ、この学校の卒業生の誰よりも成功しています。……もう、私の手が届かないところまで彼女は行ってしまいました」
 重弥は言葉を切り、視線を自分の膝の上に落とした。
「……なるほどね」
「何が、なるほどなんですか」
「今ので大体事情が飲み込めたよ。あのアンケートは、君が続けていたんだな。彼女の意志を引き継いで、彼女の計画を実現させるために。君の口ぶりからすると、今なお彼女から指示を受けて続けているということでもなさそうだ。それなのに学校の伝統になるまで続けるとは、結構な忠誠心じゃないか。……そんなことをして何になるっていうんだ。藤村君は確かに全校生徒の幸福を願っていたかもしれないが、今の君は誰を幸福にさせているんだい」
「あなたは何もわかっていません」
「少なくとも社会のことは知っているだろうよ、君よりはね。聞けば、君は卒業してすぐこの学園で働き始めたそうだね。元々親族が学園の関係者だったとはいえ、理事長にまでなってしまうとは大したキャリアじゃないか。しかし、君はもっと広い世界を見るべきだったんじゃないのかい。藤村君の言葉を通してではなく、君自身のその目で。そうすれば、人間社会というものがどれだけ複雑で奇怪な様相を呈しているか、身を持って知ることができただろう。そしてそのとき理解するはずだ、人間関係を管理するという企てがいかに空虚な妄想であるかを」
「なるほど。つまり私は社会を知らない井の中の蛙であると」
 重弥はそう言って首を振った。
「ところが、私ではないのです」
「……何がだ?」
「あのアンケートを配っているのは私ではありません」
 水野が驚いて黙り込むのを見て、重弥はため息をついた。
「私に対するご高説はありがたく受け取っておきましょう。私を世間知らずと思うのもあなたの自由です。しかし、あなたはそれとアンケートを関連づけようとしていましたが、そこには何の関係もないのです。何しろ、私も誰があのアンケートを配っているのか知らないのですから」
「知らない……? そんなことがあるか。君でないとしても、この学園で十年も続いていることなんだろう。理事長の君が、その実態を把握できていないと?」
「そうです。何しろ、人間関係というものは複雑で、私のような世間知らずには到底管理できるものではありませんから。そうですね、もうあなたはこの学園に干渉することはできませんし、お話しても大丈夫でしょう。あのとき雪穂が思い描いていた、本当に幸福な学園のあり方について」
 重弥は茶を一口飲み、ふう、と一息入れてから話し始める。
「入学当初、雪穂は生徒会の権限を拡大し、また情報を集める様々な手段を駆使することで、学園内の人間関係を一手に管理するつもりでした。彼女は、ある時期までは確かにそれが可能であると信じていました。ところが」
 重弥は水野を睨みつける。
「あるとき、彼女はその構想を見直す必要に迫られました。彼女の考えがどう変化して行ったのか私には完全に把握できませんでしたが、彼女がはっきりと方向の転換を決めたのは水野先輩、あなたが描かせたあの悪趣味な絵を見た時だったようです。この学園には、どれだけ手を尽くしても決して思い通りにならない人間がいるらしい、と彼女は私に言いました。あぁ、あなたのことではないのでご安心ください。あなたという存在のことを彼女は最初から最後までさして気にかけていませんでした。彼女の考えを動かしたのはあの絵を描いた人物──須藤君でした。あなたはご存知なかったかもしれませんが、彼こそは雪穂にあの計画を思いつかせた張本人だったのです。間接的に、ですが。雪穂は、そんな彼からNOを突きつけられたことを重く受け止めているようでした。そして、全てを転換することを決めたのです」
「転換だって? 君たちはあの落書き事件の後も、何事もなかったかのように活動を続けていたじゃないか」
「そうでしたね。そうやって圧政を続けておけば、いつかはあなたや須藤君、それに夏目さんが自分を止めに来ることを、雪穂は予測していましたから。雪穂は当初の計画を畳み、別の方法に転換することを決めていましたが、あのときの雪穂は自分で計画を手仕舞いにすることができなかったのです。そうすればあなたたちに疑われたでしょうから。まだ何か企んでいるのではないかと。ただ実際は、企みというほど大掛かりなことをしていたわけではありません。彼女はただ、探していたのです。自分の後を継ぐ人材を」
「それでは……生徒会と関係のない人間に、仕事を引き継がせたということか? 僕たちの目を誤魔化すために?」
「いいえ違います。それでは、実行者が交代しただけで、やっていることは同じじゃないですか。それではうまく行かないということが既にわかっていました。だから、雪穂はこう考えたのです。この学園には、ただ仕組みがあればいいのだと。何か不幸な、不本意なことが身の回りに起きた時、あるいはのっぴきならない事情で人との関係を変えなくてはならなくなったとき、それを解決し管理する支配者がいなくとも、適切な解決手段が提供されていればいいのだと。そしてその手段は直接的なものであってはなりません。あなたたちのような妨害者を生まないために、何重にも間接的な回りくどい方法でなければいけませんでした」
「しかし……結局何をしたんだ? 話がまだ飲み込めないんだが」
「彼女はまず、目をかけた数人の生徒にデータベースを分配し預けました。生徒会が管理していたデータベースが漏洩した、という体で。ここで、分配したというのが重要な点です。誰か一人に全てを譲渡すれば、それで興味が途絶えてしまったでしょう。しかし彼女はうまい人選を行いました。分配した生徒たちの間には、一切のつながりも共通点もありませんでした。しかし受け取った生徒たちの一部は、好奇心からデータベースを完全なものにしようと動き出しました。ちょっとしたゲーム感覚です。いい退屈しのぎになっていたでしょうね。分配した最初のデータベースは結局一つのところに集約されませんでした。かなり無関係な生徒にばら撒きましたから、消えてしまったものもあります。すると彼らは、自分たちの力でデータベースを更新し始めました。年が変わって学年が一つずれると、今度は新入生を巻き込みながら密かにデータベースの更新は続けられたのです」
「馬鹿な、そんなに上手く行くものか」
「私も当初は半信半疑でしたよ。まぁ、そのデータベース構築グループの中に私も潜り込んでいたので、時々ごく軽い方向修正はさせてもらいましたが。しかし、私や雪穂が卒業した後も、数名の生徒によって活動は続けられました。まるで校内限定の地下組織のようなものができていました。しかも、彼らの大多数は互いに面識のない生徒たちでした。つまり雪穂は、データベース更新に一種のゲーム性を与えることで、更新者たちのモチベーションが自動的に保たれ続け、かつ統合され一つの大きな勢力にならないような環境を構築したのです。そして、次第にそのデータベースを活用する者が現れ始めました。主に、恋愛関係で。何しろ便利ですからね。それを見れば、校内の人間関係が俯瞰できるのです。どうです? 素敵な仕組みでしょう? ここにはもう管理者などいないのです。生徒たちはあくまでも自分の意思で楽しい学園生活を謳歌しているだけなのです」
 重弥は言葉を切り、水野の反応を窺った。水野は腕を組み、渋い顔で考え込んでいる。
「……それで、あのアンケートは? あれも情報収集の一環というわけかい?」
「ええ。誰がアンケートを配っているのかはほとんど知られていません。あれ以外にも様々な手段が用いられているようですが、私たち教職員が把握できているのはそのごく一部です。数年前、ある運動部の部室から盗聴器が発見された時は、さすがに仕掛けた生徒を特定してそれなりの処分を下しましたが」
 重弥は静かに立ち上がり、そっとソファを離れると、大きな机の引き出しから何かを取り出した。それは数枚のアンケート用紙だった。先ほど水野が廊下で見たものとは違い、印字は褪せて紙は黄ばんでいた。
「それは……」
「ええ。一番最初のアンケートです」
 重弥は古びた紙の表面を懐かしげに撫ぜる。
「雪穂の最初の計画があなたたちに受け入れられなかったのは、ある意味で当然のことだったのかもしれません。あなたたちにとっては、充実した幸福な学園生活などよりも、生徒会による支配、管理の問題の方が重要な論点となってしまっていました。それさえなければ、きっとあなたたちも完成された学園生活を享受できたでしょうに」
 重弥は窓辺に立ち、カーテンを開けて校庭を見下ろした。校庭では、体育の授業に勤しむ生徒たちが爽やかな汗を流している。
「……あのデータベースができてから、この学校の評判は非常に良くなりました。学園生活に対する満足度が非常に高いとして、最近では教育関係者からもよく話を聞かれます。勿論、この仕組みを公にすることはできないので、毎回話をごまかすのが大変なんですよ」
「しかし……」
「まだ納得が行きませんか?」
「……結局は作り物の青春じゃないか。どう考えたって、そんなものが……」
「やはりあなたは相変わらずですね」
 重弥は肩をすくめて困ったように微笑む。
「本人たちが満足しているのなら、それでいいじゃないですか。作り物であるかどうかなんて、大した問題ではないんですよ。この学園にはこんなにも──笑顔が溢れているのですから」



 終礼が終わると、部活動に入っている生徒たちは元気良く教室を飛び出して行った。私は部活動には所属していなかったが、鞄を持って足早に教室を後にした。去り際に芽衣と美弥子とすれ違い、また明日、と何気無い調子で挨拶を投げかけた。
 放課後の校舎は閑散としていた。私は人気の疎らな廊下を一人歩いて行く。校庭からは部活動に励む生徒たちの掛け声が聞こえてくる。別の校舎では吹奏楽部が楽器を吹き鳴らしている。廊下を歩いていると、時折会話に花を咲かせている男女の組とすれ違う。教室の中に残って、静かに教科書を広げている生徒も時折目にする。
 私は放課後の校舎の空気が好きだった。誰かの熱気と、別の誰かの気だるい談笑。
 この学校では、誰もが今この時のために生きているのだ。今この瞬間がかけがえのないものだと信じ、形のない何かを輝かせるために有り余る体力を費やしているのだ。そんなことを考えていると、不意に体の奥底からぞくぞくとした快感が私の背を駆け上がった。私は足を止め、廊下の壁にもたれかかって気分を落ち着ける。深呼吸をすると、初冬の冷たい空気が心地よく肺を満たす。きっと、今誰かが私の表情を見たらぞっとするだろう。誰もいない廊下で一人、頬を赤くして薄ら笑いを浮かべている女生徒なんて、不気味以外の何物でもない。
 しばらくして私は再び歩き出した。校舎を出、職員駐車場を横切り、中央館と体育倉庫に挟まれた狭い路地へ入る。その薄暗い路地の奥には、消火栓ボックスのような金属製の箱があった。
 私は胸ポケットから鍵を取り出し、箱を開けて中から数冊のファイルを取り出した。そのファイルを素早く鞄にしまい、箱を再び施錠してその場を後にする。
 私はそのまま図書室へ行き、自習をしていますと言った風を装ってファイルを机に広げた。
 ざっとファイルの内容に目を通すが、大きな更新はないようだった。一月ほど前、文化祭の前後ではデータベースは大きく変動したものだったが、今の時期は皆落ち着いているようだ。またクリスマス前には多少の変動があるだろう。誰かが別のファイルにまとめた過去十年分の統計によれば、十一月は一年を通して最も人間関係が硬直する時期らしい。
 私はファイルの先頭に最近見聞きした生徒同士の様々な人間関係を記入していく。このデータベースを作り上げているのは、それぞれが異なる役割を担った生徒たちだ。ファイル全体の情報を整理整頓する者、過去の情報を分析して参考資料の形にする者、そして勿論、アンケートを作って配布する者。私はただ見聞きした情報をひたすら書き込んで行くだけだ。後は、顔も知らないどこかの誰かが情報を活用できる形に整えてくれる。
 そう、このデータベースは活用するためにあるのだ。私は情報を書き終わると、生徒一人一人の情報の載ったファイルを捲っていく。条件に合う手頃な生徒はいないものか……。
 データベースは、それを作り上げる者に見返りとして問題を解決するいくつかの手段を提供する。それが可能となるようにデザインされている。情報の活用を情報提供者のモチベーションとすることで、このシステムは学園の伝統、あるいは都市伝説となるほど長く存続してきたのだ。
 ある男子生徒のプロフィールが目に止まり、私はページを捲るのをやめた。学年は私と同じでクラスは一般、成績は中の中、新聞部に所属しており時々学内新聞を発行している。顔立ちはそこそこ整った草食系といったところで、現在恋人はいない、と……。
 私は頭の中に美弥子の姿を思い浮かべ、次にこの男子生徒の姿をその隣に並べて見た。この生徒にしようか。データによれば、私の知り合いを二人経由すればこちらから働きかけることもできそうだ。そういえば、美弥子は来週部活動の交流試合があるのだった。なら例えば……事前に美弥子が彼に気があるというような話をそれとなく伝えておいて、その試合に新聞部の取材に行かせ、そこで何らかの形で接触させる、とか……。細かい詰めはまだ必要だが、大筋では行けそうだ。
 美弥子は一般クラスの生徒を見下している節がある。それは、一般クラスの生徒に自らを崇めさせたいという願望の裏返しでもある。だから成績はあまり優秀ではなく、特進クラスに素直に敬意を表すことのできるような相手がいいだろう。うまく誘導に乗って仲が深まればいいが、当然本人たち次第の部分も大きい。一応、予備の彼氏候補も探しておこう。
 美弥子は最近欲求不満が募っているのか言動が荒くなった。元々承認欲求の強い性格だ。私という、自分よりも優れた人間を攻撃することでどうにか平静を保っていられるのだろうが、それに周囲を巻き込んで行くのだからたちが悪い。早くいつものように恋愛を処方してやらないといけない。彼女の幸福のために。
 次第に暗くなっていく図書室の中で、私はさらなる情報を求めてファイルのページをめくった。



(終わり)



遅くなりましたがこれでおしまいです。
担当:ikakas.rightsでした。