バナナチップ その5

 一方そのころ店の横手では、木箱の下敷きになった老爺がちょうど息を引き取るところであった。
 彼の名前はスティーブン・グローブランド。『Banana Chips』の近隣に住む、心優しい男であった。年齢のせいかすこしボケているところはあったが、若い身空でありながらたった一人(と一匹)で店を切り盛りすることとなったルーシーをいつも気にかけており、困ったときは互いに助け合っていた。
 今回だってそうだった。真夜中だというのに何やら騒がしい物音が聞こえてくるので、店の様子を見に来たのだ。厨房に近い裏口へ回ろうと、いつものように店の横の狭い路地を歩いていたそのとき、上空から降る巨大な木箱に押し潰された。
 ルーシーは大丈夫だろうか。
 身動きができず、助けも呼べないスティーブンは、薄れる意識でずっとそのことだけを考えていた。そして、当のルーシーが二階から木箱を落としたのだとは最後まで思い至ることなく、その長い生涯を終えた。こうしてまた新たな悲劇がひとつ、人知れずに幕を閉じたのだ。
 スティーブンが亡くなったことにより、この町の住民はとうとうルーシーただ一人となった。また同様に、この町は北米大陸でもっとも長閑なところだと思っている人間も、ルーシーただ一人となった。
 実際のところこの町では以前から、あくまで平和裏に、事件らしくない事件が多発していた。
 
 
 
「君…あなたって、とっても素敵な指をしているんだね」
 甘い声色とは裏腹に、握力は強かった。突然の出来事に困惑しているせいもあって、ベンジャミンはその手を振り払うことができずにいた。助けを求めるように店主の少女――はたしてリンダなのかルーシーなのか――のほうを見やるが、彼女はあからさまに目をそらしていた。ソファで睦み合う二人の邪魔をしてはいけないとばかりに。
「ああ、ベンジャミン、あなたがこんなにかわいい指をしてただなんて……」
「な、何の冗談だよ。おい、どうしたんだよギル。ギルバート!」
「本当にかわいい指……、特に爪。つるつるしてて、色も良くて、うん、ちゃんと栄養摂っているんだね、カーブもきれい……ん?」
 声が低いな、とギルバートのバリトンボイス。
 咳払い。
 つづいて、アー、アー、アー、と発声練習めいた行為に及ぶ。
「……しまった、間違えた。爪噛み女にとりついたつもりだったのに」
「とりついた?」ともすれば空調のノイズにかき消されかねない呟きを、しかしベンジャミンは聞き逃さなかった。「それに、爪噛み女って――」
 不意にギルバートの顔が近づいてきたため、その先を言うことはかなわなかった。いつの間にかソファに押し倒されている。ベンジャミンは気づき始めていた。目の前にある顔はまさしくギルバートだ、だがギルバートではない。
 ギルバートではない何者かが息を吐く。
 蠱惑的な匂い。
 一瞬でベンジャミンの頭の中は真っ白になった。この部屋に充満している香りを何十倍も強めたような匂いが、鼻孔を通り抜け、常に炎症を起こしがちな粘膜を直撃する。
 神経をくすぐる。
 脳髄をとろかす。
 これまでに感じてきたどの快楽よりも快い。何もかも忘れてしまいたくなる。心身から虜にされていく……。
「――っ!」
 理性が愉悦に打ち勝ったのか本能が危機を感じ取ったのか、我に返ったベンジャミンは相手の股間を蹴り上げた。腕の力が抜けた隙にのしかかった上体を振りのけ、なりふり構わず部屋を飛び出す。
「あ、お手洗いなら一番奥の扉よ!」
 事態を把握していない少女の的外れな台詞を背中で聞き流す。
 彼女はリンダなのかルーシーなのか。何故彼女はアシュリーのスマホを持っていたのか。アシュリーは今どこにいるのか。ギルバートの身に何が起きたのか。これまでに浮かんでいた様々な疑問はすでにベンジャミンの脳裏から消え去っていた。あと少しでもあの匂いを嗅いでいたら自分は完全にどうにかなってしまっていただろう、一刻も早くあの匂いから逃れなくては――そのような衝動が彼を支配していた。
 当然、彼がトイレに向かうわけがない。階段を駆け下り、店舗の入り口を探す。辺りは真っ暗だが、照明のスイッチがどこにあるのか分からないのでどうしようもない。たいして走ったわけでもないのにベンジャミンの息は上がっていた。そのくせ身体は異様に冷えていた。掴まれた腕は凍りついていると形容しても過言ではない。
 案内されたときの記憶を頼りに歩みを進める。
 しかしその先は、ベンジャミンにとっては不幸なことに入り口ではなかった。
「厨房、か……?」
 照明が点いていないのにもかかわらず厨房だと分かったのは、開けっ放しの業務用冷蔵庫から光が漏れていたからであった。
 冷蔵庫の中はほとんど空っぽで、その周囲は雑多なものが撒き散らされていた。冷蔵庫の周囲だけではない、厨房全体がお菓子の材料や調理器具で散らかっている。そのうえシャワーに襲われたかのごとく、あるいはもっと現実的にスプリンクラーが作動したかのように、調理台や床がずぶ濡れだ。すこしだけ焦げ臭い。
「完璧だ……」
 誰が見たところでお世辞にも完璧とは言えない惨状だが、あの匂いがしないという一点でのみベンジャミンは評価した。
 思わず溜息をついたところで、ベンジャミンは外につながっていると思しき扉に気づいた。見た目からして、どうやら裏口のようだ。想定していた目的地とは異なる場所に辿り着いたが、この店から脱出するという目的は達成できるだろう。
 もう一度、彼は溜息をついた。
 そのまま何も考えず、一目散に裏口から逃げ出していれば良かった。そうすれば、すくなくとも彼だけは無事に、怪我も心的外傷もなく帰路につけただろう。
 あるいは、初志貫徹して店舗の入り口を見つけるために引き返すというのも良かったかもしれない。次善とまでは言えなくとも、そう悪くはない案だ。
 だが、ベンジャミンはどちらの選択肢も選ばなかった。
 安心した彼は思い出してしまったのだ。目的と言うならば、この店を訪れた本来の目的はアシュリーの捜索であったということを。
「……アシュリー?」
 ベンジャミンは、つい厨房を見回してしまった。アシュリーの姿を――人の姿を探すつもりで、見回してしまった。そして、先ほどまでは気にも留めていなかった厨房の隅に、それが横たわっているのを発見してしまった。
 それに近づいてしまった。
 シーツをめくってしまった。
 老婆の死体であると認めてしまった。
 
 
 
「わたしの身体に触るな」
 背後で声が聞こえたために、ベンジャミンは不本意ながらも悲鳴を飲みこむこととなった。振り返ると、ギルバートが立っていた。ギルバートの身体を借りた何者かが立っていた。
「傷ひとつでもつけてごらん。あんたのタマを引っこ抜いてイースターのお飾りにしてやるんだから」
「でも、め、目玉が」
 老婆の顔からは眼球が二つとも失われていた。
「ああ、それはいいの。ルーシーったら馬鹿な子。目玉とバナナチップなんて似ても似つきやしないのに」
「……お、お前は」震える声でベンジャミンは問う。この状況でするべきことが、優先順位が分からない。「ギルバートじゃない、お前は誰だ……」
「リンダよ。前にも言ったでしょう?」
 バリトンボイスで言われたその名前は、店主の少女が最初に名乗ったものであった。
「わたしの名前はリンダ。『Banana Chips』の先代店主にして、誰よりも孫娘ルーシーを愛する者。わたしが死んでからもルーシーと触れ合えるこの町の住民を、住民と犬を、ひとつ残らず呪う者」
「逆恨み以前の問題だ……」
 明らかにそのような軽口を叩けるシチュエーションではないのに、ベンジャミンは思ったままの素直な感想を言ってしまった。ものごとを正しく判断できるほど精神が安定していないせいだ。
「人体を使うってところまでは良かったのにね」ギルバートに憑依する怨霊――リンダはリンダで、ベンジャミンの軽口を聞いていなかったようだ。「先代の味の秘密を自力で探り当てるとはたいした子。でも、もっとバナナチップにそっくりなものが人間にはあるじゃない……、白くて、かりっと揚げることができて、スライスしたバナナみたいに薄くて丸い……」
 爪があるじゃない、とリンダはギルバートの声で言った。
 視線はベンジャミンのほうを向いておらず、調理台の上にあった皿を眺めている。正確には、皿に載せられた揚げ物らしき何かを眺めている。
「お前……、もしかして、僕たちの爪を」
「ええ。だってルーシーがあまりに可哀相だったから。あの子が必死にがんばっているところを見ていたら、あんなにがんばってもこんな出来損ないのバナナチップしか作れないところを見ていたら、つらくなっちゃってね」
 そう言って、皿を床に落とす。割れる音が厨房に響いた。
「アシュリーは! アシュリーに手を出したら、ただじゃ」
「ああ、あの女はダメ。親指の爪が噛み痕だらけだもの」
「じゃ、じゃあ」
「まあ他の指や足の指はまあまあきれいだし、間引きして栄養を巡らせるようにしたらいいんじゃないの。やったことないけど」
 間引き。
 あたかも植物の栽培方法について語っているかのような台詞だが、その意味するところを悟ったベンジャミンは激昂する。
「なっ……、ぐっ!」
 頭に血がのぼった挙句飛びかかろうとするが、相手のほうが速かった。逆に厨房の壁に押しつけられてしまう。首を絞めるように両腕で。つま先立ちになってしまう。腕力も、体格も、完全にギルバートの身体のほうが上だった。
「それよりもあなたよ。ベンジャミン」
 またしてもあの匂いが漂いはじめる。
「前から生きている人間の爪は質が段違いと思っていたけど、あなたの爪はさらに格別」
 呼吸するたびに浸透していく。
「きっと美味しいバナナチップになるわ」
 意識が遠のいていく。
 どうでもいい。
 どうでもいい。
 どうでもいい。
 もうおしまいだ――ベンジャミンが諦めかけた、そのときであった。
「キャンキャンキャンキャン!」
 耳をつんざくような叫び声、いや鳴き声とともに、何かが裏口の扉を突き破るようにして颯爽と侵入してきた。
「アシュリー!?」
 その姿はまさしくアシュリーであった。
 四足歩行のアシュリーであった。
「キャンキャンキャンキャンキャンキャンキャンキャン!」
「な、何なのよ、爪噛み女は裏で眠らせておいたはず……」
「キャンキャンキャンキャンキャンキャンキャンキャンキャンキャンキャンキャンキャンキャンキャンキャン!」
「もしやあの駄犬か!」
「キャン!!」
「ぐはっ」
 アシュリーの姿をした何かは這いつくばったまま、ギルバートの姿をしたリンダを喰らいつかん勢いで突き飛ばした。そのまま調理台に激突し、重なり合って倒れ込む二体の身体から白い煙のようなものがそれぞれ出てくる。二つの煙は追いかけっこでもしているかのごとくぐるぐると小さな円を描きつづけ、しばらくして二つとも天へと消え去った。
 あとにはベンジャミン、ギルバート、アシュリーが残された。
 ちなみにギルバートとアシュリーは失神している。
「………………、えっと」
 ギルバートの腕から解放されたベンジャミンはそのすべてを目撃していたが、そのすべてを理解できなかった。愛すべき飼い主の作ったバナナチップが台無しにされたことに怒ったチワワ犬ピンキーの幽霊が店の裏手で眠らされていたアシュリーに憑依し食い物の恨みは恐ろしいとばかりに襲いかかったのだという真相を知る由もなかった。
「なんだかよく分からんが、とりあえず助かったようだ」
 だから、ベンジャミンはそのように結論付けた。
 
 
 
 呼吸が落ち着いてから、彼は確認する。
 アシュリーは無事見つかった。ギルバートも元に戻ったと思われる。数多の不可解な出来事の元凶っぽい、リンダとかいう白いのもいなくなった。こうなればもうこの店に用はない。むしろこんな薄気味悪い店とっととお暇したい。
「よし、みんな帰ろう」
 もちろん返事はなかったが、ベンジャミンは構わず行動に出た。すなわち、右肩でギルバート、左肩でアシュリーを支え上げようと試みた。こういった力仕事は三人で飲みに行ったときに何度も経験しているので、それほど苦ではなかった。吐瀉物を服にかけられないだけ、いつもよりマシとさえ思えた。
 両の目玉がくりぬかれた老婆の死体は見ないようにする。忘れようあれは忘れよう、すべては解決したのだからとベンジャミンは自分に言い聞かせた。
「……ん?」
 繰り返すようだが、そのまま何も考えず、一目散に裏口から逃げ出していれば良かった。そうすれば、すくなくとも彼らは多少の怪我を負う程度で済み、これ以上の悲劇に見舞われることなく帰宅できただろう。
 あるいは、二人を担いでいるのだからと、店舗の広い入り口を見つけるために引き返すというのも良かったかもしれない。次善とまでは言えなくとも、そう悪くはない案だ。
 だが、ベンジャミンはどちらの選択肢も選ばなかった。
 安心した彼は思い出してしまったのだ。老婆の死体――リンダから、両の目玉をくりぬいたのは誰かということを。ギルバートの声を通して、他ならぬリンダ自身から聞いた内容を。
 ルーシー。
 最初はただの不注意な女の子だと思っていたが――いや、あれはリンダだったのか――とにかく、あの少女はやばい。
 そうベンジャミンが危機感を抱いたとき。
「――さん? ベンジャミンさん?」
 最悪のタイミングで到来した呼びかけに、全身が粟立つ。
「二人ともどこですか? 迷っちゃいましたか?」
 階段を下りているのか、遠くからすこしずつ近づいてくるルーシーの声。
 このまま厨房にてルーシーと対面すればまずいことになると、ベンジャミンには容易に想像できた。こちら側に女が一人増えているとか、三人中二人が気を失っているとかは些事に過ぎない。問題は死体だ。こちらが死体のことを知ったとルーシーが知ったら。あの怨霊の孫娘はどうするか。
 ルーシーが一階に下りてくるまでのわずかな時間でベンジャミンにできることは限られていた。彼が目をつけたのは業務用冷蔵庫だった。内側からも開閉できることを確認してから、ほとんど空っぽの冷蔵庫に失神している二人を隠し、プラグを抜く。もともと開けっ放しで温度が上がっていただろうから、まず凍死はしないだろうと判断した。そして彼自身も調理台の陰に隠れる。無理をすれば三人とも冷蔵庫に隠れることも不可能ではなかったが、いざというときに動きにくい場所にいるのは不安の種だ。リンダの死体も元通りシーツで覆っておく。
 あくまで一時的でいい。
 今だけルーシーをやり過ごせば、勝手に帰ったとでも勘違いしてもらえれば、そうすれば、裏口から逃げ出すことができる……。
 そう願いながら、ベンジャミンは息を潜めた。
「ベンジャミンさん? ギルバートさん? あれ、ベルバートさんだったっけ」
 厨房の明かりが点いた。ベンジャミンの隠れているところからは見えないが、おそらく扉からルーシーがこちらを覗いているのだろう。
「いない……。うーん、帰っちゃったのかしら……」
 残念ねえ、という声がしてから、明かりが消える。冷蔵庫が閉まっているので真っ暗だ。足音が聞こえなくなっていく。
 ベンジャミンは心の中で十秒数えた。
 数え終わってから、もう一度十秒数えた。
 それから、ようやくベンジャミンは生つばを飲み込むことができた。暗闇に目が慣れたところで、そっと顔を上げて慎重に辺りを窺う。誰もいない。いなくなったフリをして実はそこにいた、なんてオチもないようだ。
「ったく、ハラハラさせてくれるよ」
 小声で呟いて、立ち上がった。
 ずっと身を屈めていて筋肉がこわばっていたので、大きく伸びをする。
「さて、と」
 ピロリロリン♪
 ――と、電子音がした。
 ピロリロリン♪
 ピロリロリン♪
 ピロリロリン♪
「……お、おい!」
 電子音はベンジャミンのスマートフォンから流れていた。慌ててベンジャミンはポケットから取り出す。
 画面を見ると、アシュリーのスマートフォンから電話がかかってきていた。
 アシュリーのスマートフォン
 現在それを持っているのは――ルーシー。
「ああ、こんなところにいた。ごめんなさいね、あたしったらちょっと散らかしちゃって。でも良かった。やっぱりこのスマホ、あなたのお友達のものだったのね、えっと……ベンジャミンさん」
 ふたたび厨房の明かりが点く。
 ルーシーが、床に落ちていたくりぬきスプーンを拾い上げながら朗らかに笑っていた。
 
 
 
 リンダとルーシーは血縁関係にあるだけあって容姿も性質もよく似ていたが、当然、年齢など異なる点も多い。その中でも三つほど特筆すべき相違点があった。
 一つ目は、リンダはもう死んでいるが、ルーシーはまだ生きているということ。
 二つ目は、リンダはスマートフォンが何なのかも知らないが、ルーシーは使い方を熟知しているということ。
 そして三つ目は、リンダは悪意をもって呪い殺すが、ルーシーは悪意なしに殺すということ。

 
 
(担当:17+1)

今回から後半戦です。ベンジャミンがんばれ。ルーシーも負けるな。
次の担当は花庭京史郎さんです。
よろしくお願いします。