何も無かったらかかないでね! その15.5(番外編)

※時系列としては、その15の直後に位置するエピソードです。
※その16(最終回)の展開を示唆する内容が含まれています。
 
 
「僕は――」
 そう切り出した時点では、何を言うのか決まっていなかった。言いたいことは山ほどあるつもりだったけど、この会合で藤村さんを相手に何を話すべきなのか、考えをまとめることができていなかった。もし水野先輩に促されていなかったら、最後まで黙りこくったままだったかもしれない。
 土壇場になって口から出てきたのは、単なる事実だった。
「僕は――蛇を描いた」
「知ってるわ」
 藤村さんの反応からは、何の感情の機微も読み取ることができない。僕がこの場にいることから――水野先輩の側についていることから、水野雅臣の一連の行為に須藤健吾が関与していたことは自明だ。絵の件の共犯者だと推測するのも簡単だろう。しかし藤村さんの返答は推測の域を越えていて、事実を述べられたから事実を返したという感じだった。
 夏目さんの感情の変化のほうがよく分かった。同じ側にいるはずの彼女はあからさまに僕を睨んでいた。でも、気にしてはいられない。
「黒い大蛇と真っ赤なハート。あの諷刺画。ずいぶんと大掛かりで、一夜で描きあげるのは相当大変だったのではないかしら」
 藤村さんの口ぶりは心から労っているかのようだ。
「そうだね。短時間で描けるよういろいろ工夫はしたけど、それでも大変だったよ」
「あれほど大きな絵を描く機会もなかなかないでしょう」
「うん。あんなに大きな絵を、あんなにたくさん描くのは初めてだった」
「私はあまりこういう分野には明るくないのだけれど、それでも素敵な絵だと思ったわ。ただ、キャンパスの選択はいただけなかったと言うべきでしょうね、私の立場からは」
「四匹の黒蛇」
 藤村さんの賛辞と苦言をスルーして、僕は話題を軌道修正する。
 自分が何を言いたいのか、何を言うべきなのか、話しているうちにだんだんはっきりしてくる。
「分かってると思うけど、あれは生徒会の四人のことなんだ」
「そのようね」
「四匹の中で一番巨大なやつが藤村さんだ」
「抜け殻を踏みつけているのは、私が以前とは変わってしまったことを揶揄しているのかしら」
「……その通りだよ」
 先回りする物言いに、一瞬たじろぐ。
 藤村さんから『変わる』という言葉が出てくるとは。
「自分でも変わったと思うのよ」藤村さんは、視線をやや上方に向けた。「けれど、変わること自体を咎められる謂れはないわ。変化を否定してしまったら、何もかもがおしまいよ」
「それも、その通りだよ。僕に変化を否定するつもりはない」
 修一に悟らされてから、変わることへの思いがゆっくりと、すこしずつ、それこそ変わってきていた。いまの僕には、藤村さんの変化を嘆く気持ちも、自分の無変化を恥じる気持ちもない。違う、ないわけじゃない。さっきみたいにショックを受けることもある。確かなのは、嘆くまい、恥じるまいという意志だけだ。
 ただ、答えを知りたい。
 変わるということは、どういうことなのか。
「それならどうして――ああ、そういうこと。本当は気づいてほしかったみたいな?」
 珍しく藤村さんは冗談めかしたふうに言う。笑みが戻っている。その笑みに僕はかつての面影を見出してしまうけれど、それは現在の彼女を認めたくないがゆえの逃避ではない。だってその笑みは、現在の彼女と過去の彼女に変わりなどないという証のひとつなのだから。
 いや、よくよく藤村さんの顔を見てみると、その表情は先ほど水野先輩に向けてした冷たいそれと寸分違わぬもののような気もする。全然笑っていないようにも見える。ただ、不思議なことに、もう裏切られたような気分にはならない。
 どうしてだろう。
 高校に入ってから初めて、藤村さんとまともに対話しているからだろうか。
 それとも、初めて自分の描いた絵についてまともに語っているからだろうか。
 現在進行形で、僕が変わっているからだろうか。
「考えてみれば、昔の私を知っている人間にしか描けない揶揄だものね……。まあ、こんな細工があってもなくても、私には分かっていたわけだけど」
「気づいてほしかった……、うん、そういう気持ちもあったのかも」
「自分の描いた絵の意図も分からないの? それとも誤魔化しているだけ?」
 どっちだろう。
 答えたそばから嘘になる予感がした。
「どっちだろうね。正直、四月からずっと頭の中がごちゃごちゃしていて、まだ整理がつかないんだ」
「悩める青春時代というわけね」
「よかったら、教えてくれないかな」
「あなたの頭の中身を私が知るわけないわ」
「違う、藤村さんのこと」自然と声が大きくなっていた。「藤村さんの何が変わったのか。藤村さんの思想のすべて」
 こうして、僕と藤村さんのどこへ向かうとも知れぬやり取りは、ようやくひとつの指針を得た。
 藤村さんの表情は変わらない。
 変わらない表情に、僕が抱く印象はころころと変わりつづける。
「……そうね。ちゃんと話していなかったかもしれない。だいたいのところはそちらの方々から聞いていると思うけれど、誤解の余地をなくしておいたほうがいいわね。だって、そもそもはあなたが――」何故か言いよどむ藤村さん。「――いえ、何でもないわ」
 藤村さんが何を言いかけたのか、僕に考える時間は与えられず。
 彼女は彼女の思想を語り始めた。
 彼女の目的。全校生徒に、規則を超えた理想的な学校生活を送らせること。『青春』の二文字をそのまま実現したような、すばらしい学園生活を送らせること。
 その第一段階として、名実ともに、全校生徒の頂点に立つこと。規則の上をゆく超法規的な存在になること。生徒会長就任。生徒会役員選挙の廃止。
 その第二段階として、全校生徒の人間関係を把握すること。人間関係を掌握すること。アンケート調査。交際届け。人間関係の管理。
 中学での経験。
 他人の青春の犠牲となったこと。
 思想の転機。
 みんなが好き勝手に動いた結果によって、みんなが好き嫌いで動いた結果によって、不運な誰かが傷つく可能性が学校にはあること。
  誰一人として、自分にはどうしようもないことで自分の世界を崩されたりはしない。そのような理想郷を作ろうと決意したこと。
「――といったところかしらね。これが私の思想。私の変化」
 立て板に水のごとく、藤村さんは流暢に語り続けた。さすがに中学での自身の経験について話すときには部分的にぼかしている――内容を伏せている印象を受けたが(関係者のプライバシーを考慮したのだろうか)、それを除けば、彼女はまさに思想のすべてを語ったと言っていいだろう。
「どう? 感想を聞かせてもらえるかしら」
 僕を見つめたまま、小首を傾げる藤村さん。
 僕は答える。
「……正しいと思う」
 水野先輩に叛旗を翻すようではあったが、それが率直な感想だった。
 何か言いかける夏目さんを水野先輩が制止するのが横目で見えた。二人の間に挟まれている日下部先輩も、隣の修一も、怪訝な顔をしている。みんなには申し訳なく思うけど、でも、藤村さんの思想は正しいように思える。思えてしまう。
 それは冴えない僕にとって聞き心地の良い話だったからかもしれない。中学時代の藤村さんの経験談を聞いて、一時的に感情移入しているだけなのかもしれない。だけど、そういった感情の左右は水野先輩に対しても言えるのではないか。先輩は、藤村さんの行動を見て、短絡的に反発しているだけなのではないだろうか。思想までもをひとくくりに否定してはいないだろうか。
 藤村さんの行動の是非については意見が分かれるところだろうし、僕も管理されるのには抵抗がある。だからと言って、『誰かが自身の与り知らぬことが原因で傷つくことなどあってはならない』『それを防ぐためには、学園内の人間関係のすべてに与り、学園内の人間関係のすべてを知る者の存在が必要だ』という彼女の思想そのものは何も間違っていないのでは。そして思想が正しい以上、彼女が曲がることは永遠にない。この場で彼女の行動を一旦止めることができても、彼女自身を止めることはできない。
 そう、感じたけれど。
 けれど――それでも何か引っかかるところがあった。
 だから僕は、つい、素朴な問いかけを口にしてしまう。
「正しいと思うんだけどさ、でも――」
 
 
 
 私は諦めていた。
 彼らにはきっと、私が悪あがきをしているように見えているのだろう。藤村雪帆は自身が劣勢であることを認められず、故に煙に巻くような態度をせざるをえない――そう、思われているのだろう。
 半分正しく、半分間違っている。
 私は煙に巻いている。誰に対しても、本気で相手をしていない。私を説き伏せようとする水野雅臣のことも、強い声調の裏で私の身を案じる夏目有紗のことも、いま私に初めて語りかけている須藤健吾のことも、誰のことも、まったく意に介していない。
 とはいえ、私が彼らに対して喋った内容がすべて嘘だったというわけではない。この会合における私の発言は、どれも事実だったと言えば事実だった。本心だったと言えば本心だった。だが同時に、相手の言う内容に適当に合わせ、適当に否定するだけでもあった。ただそれだけのこと。
 一方で私は、自分が劣勢にあると自覚していないわけではない。劣勢を自覚しており、かつ、それを苦に思っていない。悪あがきをしているつもりもなく、いたって余裕綽々である。
 あの諷刺画。
 学校中に描かれたあの諷刺画を見たときから――中央館の壁に描かれた黒蛇を見たときから、私は諦めていた。この学園には、どれほど私が手を尽くしても、けして思った通りには動いてくれない人がいるのだ。そう、心底から悟った。
 だから私は、諦めていた。当初の予定通りに進めることを諦めていた。構想の抜本的な修正は余儀のないことだと考えていた。校舎の壁と同じく、真っ白に塗りなおさなければならないと考えていた。そして白紙にしてからのことを既に考え始めていた。焦ってはいないが、時間はいくらあっても足りない。
 ならば、何故、藤村雪帆はわざわざこの会合に参加しているのか?
 何故、夏目有紗からのアポイントメントの要望に応じたのか?
 理由は二つある。一つは、撤退のきっかけづくりのため。もう一つは、やり残した試行を済ましておくためだ。その試行のためには、もう少しの間、この均衡状態を維持する必要がある。
 そう、私は時間稼ぎをしていた。
 彼らを煙に巻き、会合を引き延ばしていた。
「自分でも変わったと思うのよ」相手に同調しつつ、私は壁に掛かった時計を確認する。「けれど、変わること自体を咎められる謂れはないわ。変化を否定してしまったら、何もかもがおしまいよ」
 あと十五分か。
 重祢の誘導が上首尾に終わっていると良いのだが。
 いや、彼女に限ってこの手の案件で失敗などありえない。不安に思った自分が、無性に可笑しかった。現在の話題と相俟って、つい口元が綻んでしまう。
「それならどうして――ああ、そういうこと。本当は気づいてほしかったみたいな?」
 やり残した試行。それは、本来ならば今後の展開として想定されていた『空白項目を埋めること』だ。空白項目を埋めるというのは、アンケートや交際届け、その他の各種調査を重ねてもなお突き止められなかった人間関係を明らかにするという意味ではない。空白であると判明している項目に、人間関係を人為的に作りあげて埋めてやるという意味だ。
 友達も、親友も、恋人も、好敵手も。
 好きな人間も、嫌いな人間も、ちゃんといる。
 それでこそ青春を、すばらしい学園生活を送れるというものだろう。
 もちろん、天敵となるほどに酷く嫌っている人間がいるというのは健全ではない。バランスをとることが肝要だ。均衡のとれた、計画的な人間関係の構築。既に成り立っている関係を管理するのに比べて、また、単純に恋愛関係を崩すのに比べて、その難易度は桁違いだ。
 だから、試行として。
 アンケートで『付き合っている生徒の名前』が無回答だった須藤健吾と。
 調査結果から『嫌いな生徒の名前』が須藤健吾だと判明した夏目有紗を。
 互いに『付き合っている生徒の名前』にすることができれば、これからどのような方向性で計画が実行されようと、その実績が有用なデータになるのでは――そう考えた。ありていに言えば、須藤健吾と夏目有紗をくっつけるために私はこの会合に参加しているのだ。
 まあ、知り合い同士が険悪な関係にあるのは心苦しいという思いも、なくはなかった。また、『無関心』を『好き』にするよりも『苦手』や『嫌い』を『好き』に反転させるほうが比較的簡単だろうという思惑もあった。
 そこまで考えたところで、ふと。
 私の意識の焦点が須藤健吾に合う。いままでのリズムを崩して。
「よかったら、教えてくれないかな」
 彼が、私の何が変わったのかが知りたいと言ってきたからだ。
 私の思想のすべてを教えてほしいと言ってきたからだ。
 丁度よかった。ここで私が独り語りを始めれば、時間調整が容易くなる。重祢によるお膳立てが整うまで、時間稼ぎができる。
 私は彼に、私のすべてを打ち明けた。
 彼がそもそものきっかけであるということを除いて。
 どうして隠したのかと問われれば、別に隠すつもりはなかったと答えるだろう。それが事実であり、本心であった。ただしその回答は、仮想した相手の問いに適当に合わせ、適当に否定しただけに過ぎない。どうして隠したのかと問われなかった場合、つまり現状では、まったく異なる回答が心の裡にあった。誰にも問われないので、その回答が言葉になるときは永遠に来ない。
 私が私の思想を彼に話しているあいだ、それまでのように煙に巻くことはなかった。むしろ語るべきことが多すぎて、残り時間を超過しないように適宜要約しなければならないくらいだった。
「どう? 感想を聞かせてもらえるかしら」
「……正しいと思う」
 自分の思想について感想を乞うなんて、普段だったら絶対にしなかっただろう。
 それほどに、自分語りは気持ちよかった。
「正しいと思うんだけどさ、でも――」
 完全に油断していた。
「だったら林くんは?」
 そう、彼は言った。
 思ったことを素直に問うたという面持ちの彼に、私は虚を衝かれる。
 すぐに意味を読み取れていないのにもかかわらず、致命的なことを言われたとだけ分かった。こんな感覚は久しぶりだ。
 林達弘、だったか。
 一年一組。特進クラス。重祢に馴れ馴れしい男子。
 あいつが一体どうしたというのか。
「林くんって、生徒会書記に立候補していたんだけど、たしか開票が終わる前に辞退しちゃった人、いたよね。特進クラスの一年男子。水野先輩や修一に聞いたんだけど、あれって藤村さんたちが辞退させたんだよね」
「そうよ」彼に質問の意図はなかっただろうに、私は答えてしまう。
「それってさ、林くんが犠牲になったということになるんじゃないのかな。他のみんなが青春を楽しめる代わりに林くんは望んでいた役職に就けなかった、そのチャンスさえ奪われたということは、林くん自身とはまったく関係ないことが原因で、林くんだけが傷ついたということなんじゃないかな」
「それは……」
 私は考える。顧みる。
 何故、藤村雪帆は林達弘を書記立候補から辞退させたのか?
 夏目有紗を書記に据えるためだ。一般クラスである彼女を書記にすることで、生徒会が特進クラスの一部の生徒による専制支配組織であると見抜かれないようにするためだ。始めから一般クラスの生徒のみが立候補していては上級生に訝しがられる。だから林に立候補させ、夏目もまた誘導により立候補させ、あとから林を辞退させたのだ。
 そう。私は言っていた。私はこの学校の人間関係を完全に管理しようとは思ってはいない、と。例外として漏れる者もいる。林はその例外だったのだ。ただし、私が中学のときに演じた犠牲とは性質がまるで異なる。林達弘は、個人の感情による犠牲としてではなく、計画の遂行における不可避の犠牲として、辞退したのだ。私が辞退させたのだ。
 はたして本当にそうなのだろうか。
 私は私のことを知っている。
 従姉の夏目有紗を、自分を間近で見ていてもらう存在とするために書記にしたことを知っている。林の態度が馴れ馴れしく、重祢に嫌われてることを辞退させる理由にかこつけたと知っている。本命の理由ではないにしろ、そういった側面があることを私には否定できないと、私は知っている。
 藤村雪帆は私利私欲によって林達弘を傷つけた。
 それは私の思想とは矛盾していて。
「これは、あくまで僕個人が思うことだけど……」何も返すことができない私に、彼は言う。「藤村さんの思想は正しいよ。正しいと思うよ僕は。でも、それは不可能なことなんだよ。絶対無理だよ。自分にはどうしようもないことが原因で、自分の世界を崩されない理想郷を作ることなんてできないんだよ。藤村さんがどんなにすごくてもできない。それは邪魔が入ったからとかじゃなくて、能力が足りないからとかでもなくて、誰にもできないんだ。ひとりの人間にできることじゃなかったんだよ」
 この会合で彼らに否定され、計画を手仕舞いにする。
 そうなるよう自分から仕向けたのに、何故私は動揺しているのか。
「自分にはどうしようもないことって、自分がそうだよ」
 その言葉は、私の思想を揺さぶるには充分すぎた。
 
 
 
「お前なんかが偉そうに言うな!」
 あ。
 声が出てしまった。
 完全に場違いだというのは分かってる。そういうタイミングじゃないって分かってる。脳内では冷静に判断できている。なのに声が出てしまったということは、これはもう堪忍袋の緒が切れたってことだな。積もり積もって破裂しちゃったんだな。そう他人事のように思う。
 みんな呆気にとられている。
 特に水野先輩。さっきみたいに私を止めることも忘れて、ぽかんと口を開けている。
 御託を並べていた須藤も、それを聞いていた雪帆も、椅子を倒す勢いでいきなり立ち上がった私を見て固まっている。
「さっきから聞いてれば、勝手なことばっかり!」空気を読まず、私は怒鳴る。近くに割れ物がなくてよかったと思う。「あんたさあ、あんただよ須藤! あんた、そんな説教くさいこと言える立場なわけ? 伴ってないだろ中身。結局空っぽなんだよお前はいつまで経っても!」
 あーあ。
 とうとう言っちゃった。
 面と向かっては言うまいと思ってたんだけど。
 最後までぶちまけるしかないんだろうなあ、これ。
「な、夏目さん……? い、いや、僕は、別に」
「その態度がむかつくんだよ!」
 近くに凶器がなくてよかったと心から思う。
「いや僕は別に、いや僕は何も、ってさあ! バカじゃん。実際お前は別に何もしてないよ。だってそうでしょ? あんた生徒会選挙に立候補した? してないよね。開票作業に立ち会った? 立ち会ってないよね。生徒会選挙が廃止されたとき、アンケートのとき、交際届けができたとき、あんた一言でも何か意見言った? 言ってないよねえ! 校舎にラクガキしたのはお前だけどそれ普通に迷惑行為だしそもそも考えたのは水野先輩なんでしょ。生徒会のこと調べてたのも水野先輩。あと田所。この会合のセッティングだってあんたは何一つ貢献してないじゃない。それなのに何? さっきの『これは、あくまで僕個人が思うことだけど……』って。『正しいと思うよ僕は』って。偉そうに。笑っちゃうよ。だってあんたのやってることって全部ひとから頼まれたことで、あんたが言ってることって全部ひとから聞いた話じゃん。あんたは空っぽのまんまでなんにも変わっちゃいない。そんな受け売りしか能のないやつがさ、実際に自分で考えて行動している人間に何か言う資格なんてないって!」
 罵倒の文句は次から次へと溢れてくる。自分の顔が真っ赤になっているであろうと予想がつく。鏡はないけど体温で判断できる。血が上っている。喉が渇いている。
 須藤は何も反論せずに俯いている。ざまあみろ。
 でも、このへんで誰か止めてくれないかな。
 田所あたりが「おいおいそのくらいにしておけって」とか言ってくれると助かるんだけど。
 それか日下部先輩。先輩なら私を止めてくれるはず。
 ……んー、ダメかー。
「そうだよあんたは空っぽ。去年から全然変わってない。あーいらいらする。ねえ覚えてる? 私が去年言ったこと。覚えてるわけないよね空っぽなんだから。中身を埋める努力してないんだから。もっかい言ってあげるよ。絵は、描く人間の鏡。あんな空っぽな絵を描くくらいなら、描かない方がマシ。だいたいあんたの絵って、描く動機が不純すぎ。あのときの自画像だってそうだった! あんた言ったよね、覚えてないか、私は覚えてるよ、一言一句漏らさず覚えてるよ、あんたが『地元の子が全コンで入賞したって新聞に載っててさ。しかも同じ中三なんだって。すごいよね、尊敬しちゃうよ。で、入賞した作品が自画像だって書いてあったから、僕も自画像初挑戦してみようかなー、なんて』って言ったの。は? 何それ。意味分かんない。何であんたが勝手に雪奈の夢をとるのよ返せバカ!」
 あー、カッコ悪い。
 どう見ても八つ当たりじゃん。
 めちゃくちゃだよね。身勝手だよね。いくら私でも分かってるよ。さすがに。
 考えてるよそれくらい。あれから一年も経ってるんだから。
 ごめんなさい水野先輩。すみません日下部先輩。ごめんね雪帆。田所もついでにごめん。
 どうしても我慢できなかったんだ。
 だって、須藤がちゃんとしたこと言うようになったら。中身があること言うようになったら。
 それじゃあ私はどうなるのって。
 何もしてない私は。何も描いてない私は。
 雪奈。
 ごめんね。
「ほんと、あんたがハイハイそれも頼まれましたんでって感じで雪奈の夢を受け継ぐから私は、捨てることしかできなかった私は、雪奈は託すって言ってくれたのに」
「ギャーギャーうるせえよブス」
 そう言ったのは、もちろん須藤なんかではなかった。
 平坦な口調の暴言に、私は我に返る。周囲を見渡す余裕ができる。私が倒したはずの椅子が起こされている。日下部先輩がやってくれたのかな。その日下部先輩はそっぽを向いていて、両手で口を押さえているっぽいけど表情が読めない。水野先輩もいつの間にか立ち上がっていて、私に見えるのは背中だけ。田所はよく分からないけどドン引きって感じだ。雪帆は須藤に色々言われてからずっと浮かない顔をしている。あいつの言うことなんか気にすることなんかないのに、計画は思い直してほしいけれど、と思って、我ながら都合が良すぎるなと感じる。須藤の顔が上がっている。情けない泣きっ面になっているかと思ったけれど、あいつの表情も分からない。
 誰もが私を見ていない。
 みんなの視線の先、扉が開いていて。
「その女に用があるんだけど」
 会合に招かれざる客、生徒会会計こと鮎川浩記がそこにいた。
 生徒会室の一番奥にいる、私を指差していた。
「何よ」
「お前さ」指を差したまま、鮎川は生徒会室に這入ってくる。不快だ。「絵ェ習ってたんだってな」
「鮎川くん、いま大事な会合の途中だから……」いつもよりよそよそしい日下部先輩の声。
「絵ェ習ってたんだってな」
 元彼女を無視して、鮎川は繰り返す。
「そうだけど」
「やっぱそうか。そうかそうか、お前だったんだな、俺らのアーチェリー場を汚したのは」
 鮎川は突拍子もないことを言った。
 あまりにも突然で、それにこちらに向けられた爪の尖り具合が不穏で、私は否定し損ねる。
「おかしいと思ったんだよなあ。会長が実行犯を突き止められないだなんて。首謀者だけ処分して、残りのやつらを放っておくだなんて。だが、実行犯が生徒会側にいるなら話は別だ。……夏目、最近お前そこのメガネとよく話しているそうじゃねえか」
 人差し指の向きがややずれる。
「つーか、見た感じそいつの側についてるようだな。スパイだったってわけか」
 私が絵を習っていたことといい、水野先輩と話してたことといい、どうやら情報がリークされているようだ。
 それもかなり歪んだ形で。
「会長が不問にしたとしても、俺は納得いかねーよ。どう落とし前つけてくれんだよ。好き放題汚しまくりやがって、ふざけんなクソが」
 鮎川が一歩近寄ってくる。
 鮎川の剣幕が、怒りが、私に刺さる。貫通する。須藤に対する私の怒りなんて比じゃない。だって私の怒りは、突き詰めてしまえば私に向けた怒りでしかないのだから。
 自分にはどうしようもないことが、自分。
「おい夏目、黙ってないで何か言えよ。謝れよ」
「…………ちが」
「違う。描いたのは僕だ」
 須藤の声だった。
 最初、私は水野先輩が言ったのかと思った。それくらい信じられなかったのだ、須藤がこの状況で自ら名乗りでたということが。私に想像できるのは、あいつがひとから促されて罪を告白するというシチュエーションだけだった。そう、もしも誰かが「あの絵を描いたのは須藤健吾だ」と名指ししたら、たぶんあいつはすんなり認めるだろう。嘘を吐いてまで逃れようとする度胸なんて、ハリボテのあいつにはないからだ。
 あいつが度胸なんて大層なものを持ち合わせているはずがない、と私は思っていた。
 ついさっきまでは。
「ん? 誰だよお前」
「須藤健吾」
「知らんて。何、お前なの、あのふざけた悪戯描き描いたの」
「ふざけてない」
 須藤は強い口調で言う。
 鮎川の怒りを跳ね返すくらいの、それは断言だった。
「校舎やアーチェリー場に無断で絵を描いたのは、申し訳ないと思ってる。謝っても許してもらえないだろうけど、何度だって謝るよ。謝罪だけじゃない。鮎川くんが望むのならなんだってやる。……でも、あれは僕の、僕たちのメッセージなんだ。この学園は本当にこれで良いのかっていう問題提起なんだ。ふざけていないし、ただの悪戯でもない。面白半分にやったわけじゃないんだ、僕たちは」
 須藤は鮎川のほうを見ている。
「もしもあれらの絵の意図がうまく伝わっていなくて、それでおふざけだと判断されているのだとしたら、それは僕の責任だ。僕の実力不足だ。デザインを考えたのは僕で、実際に描いたのもほとんどが僕なんだから。その伝わらなかった意図をいま説明しようとは思わない。言葉でうまく表現できないから絵に描いたんだ、説明できるわけがない。ただ、中身がないただの悪戯描きに見えるからって、そうと決めつけるのは、中身を見ようともしないのは、お願いだからやめてほしい」
 でも、その言葉は私に向けられたもののように思えた。
「……まあ、どうでもいいけどさ」須藤の気迫に圧倒されたようで、鮎川のトーンはやや下がっていた。「とりあえず全校生徒に謝罪と停学処分、あと一発殴らせろや」
「やめなさい」
 と鋭い声で言ったのは、雪帆だった。
 雪帆の存在が意識から外れていたことに私は驚く。
 あんなにも鮮烈だった雪帆が、儚げで。
「やめろって言われても無理な話っすよ、会長。俺はこいつが」
「それ以上続けると、インターハイに響くのではないかしら」
 雪帆は冷ややかに指摘する。いや、脅しなのかもしれない。
 インターハイ。アーチェリー部にも所属している鮎川にとって、毎年夏に行われるそれは何よりも大事だろう。
「……………………ちっ」
 わざとらしい舌打ちをして。
 それから鮎川は生徒会室を去っていった。
 足音が聞こえなくなってから思わず、ふう、と溜息が出る。私も、たぶん他のみんなも、きっと雪帆も、これ以上何かを続ける気分ではなくなっていた。
「じゃあ……、えっと、そろそろ終わりにしようか。別に、この場で何か結論を出さないといけないというものでもないしね」
 そう、水野先輩が締める。
 こうして、生徒会長・藤村雪帆を糾弾する会合は、よく分からない展開を繰り広げ、変な余韻だけを残して幕を閉じたのだった。
 
 
 
 ――夏休みがやってきて、あっという間に去って、そしてまた授業が始まった。
 藤村さんとのあれこれはたった四ヶ月間の出来事だったと考えると、なんだか騙されたような気持ちになってしまう。昔の思い出がまるで昨日のことに思えるといった台詞がよくあるが、その逆だ。四月がはるか遠い過去のことのように感じられた。
 僕は学校までの道を歩いている。自転車登校をやめたせいで、すこし早起きしなくてはならなくなってしまった。その代わり、周りの風景をじっくりと見ることができて、ちょっとした季節の変化を感じ取れるようになった。
「どうしたの」
 隣にいるのは夏目さんだ。
「いや、別に」
「あっそ」
 夏目さんとは夏休みにもいろいろあったけれど、本当にいろいろあったけれど、まあ、いまはこんな感じにうまくやっている。けっして付き合っているのではない。その点では夏目さんと意見が一致しているのだが、どうも修一には信じられていないふしがある。
「そういえば、日曜に雪奈にメールしたんだ」
「あ、ついに? 何て書いたの」
「最近調子どう? とか。あと、絵のこともすこし」
「そっか」
 最近、おすすめの画材屋さんのこととか、この前行った美術展の感想とかを夏目さんと話すようになった。雪奈さんのことも全部聞いた。今度は僕のことを雪奈さんに伝えるつもりだと夏目さんは言っている。すこし気恥ずかしく思う。
 夏目さんは美術部に入部するみたいだけど、僕はまだ迷っている。他人の影響を受けないように、しばらくひとりで描いたほうがいいのかな、とか考えている。それでも大なり小なり、何かのきっかけで影響されてしまうのだろうけど。
「なんだかんだ言って、雪奈も描きたそうだった」
「だったら描けばいいのにね」
「バカ。そんな単純な話じゃないの」
 正門に近づくにつれ、だんだん登校する生徒の姿が多くなる。僕たちは話すのをやめ、なんとなく互いに距離を置く。
 校門を通り過ぎると、中央館が見えてくる。僕が描いた絵はひとつ残らず綺麗に消えている。すっかり元通りというわけだ。
 あのときの僕は、どうしてあんなことが言えたのだろう。
 そう、僕は不思議に思う。
 あのときの僕が、いまの僕と同じ人間だとは考えられない。
 あの会合以来、生徒会は嘘みたいに大人しくなった。交際届けは、制度の見直しのため一時受付停止という扱いになった。実質、廃止と言ってもよかった。夏目さんによると、人間関係の調査のほうも完全に中断、というか停止しているらしい。
 夏目さんは前期で生徒会をやめるそうだ。実際には藤村さんに降板させられるというかたちになるのだろうが、やめるのは夏目さんの意思だという。
 日下部先輩と鮎川くんは、なんと、よりを戻した。具体的な経緯は窺い知れないが、鮎川くんががんばったらしい。インターハイでも好成績だったと聞いている。
 藤村さんは、自らの計画を自ら取り下げたあとは、特に動きを見せていない。水野先輩を退学にすることもなかったし、僕や修一に何らかの処分を下すこともなかった。藤村さんが何を考え、何を思って最終的にその決断へと至ったのか、藤村さんに決定的な一言を告げたらしい僕にもそれは分からない。
 唯一、僕が知っている情報は、会合の翌日に藤村さんが僕に残したメッセージだ。
 ――あなたの言葉がヒントになった。
 ――ありがとう。
 これは誰にも言っていない。水野先輩にも。修一にも。夏目さんにも。
 藤村さんに会って直接真意を聞こうかとも思ったけれど、なんとなく、それは藤村さんが望んでいない気がして、いまだに僕は中央館に入れずにいる。その辺りは、前と変わっていない。
「じゃ、先行ってるから」
 前方から声が聞こえた。歩きでも夏目さんの足は早く、遠ざかる一方だ。
 自分の歩幅で歩きながら、僕はまた考える。
 変わるということは、どういうことなのか。
 誰かは変わるのを僕はどうにもできないし、僕が変わるのを僕はどうにもできない。誰かが変わったと僕が思うのを僕はどうにもできないし、僕が変わったと誰かに思われるのを僕はどうにもできない。そもそも、本当に相手が変わったのか、それとも自分が変わったから相手が変わったようにみえるのか、両者を見分けることなんて不可能だ。
 自分も相手も、常に動きつづけているのに、どちらがどれだけ動いたかなんて計算できるわけがないんだ。
 求められるのは、二人のあいだの距離だけ。
 それが僕の、ひとまずの答えだった。
 

 
 
(担当:17+1)
(協力:エンディミオン
 
『学園もの』をジャンルテーマとして掲げたリレー小説『何も無かったらかかないでね!』は昨年ikakas.rightsさんによって劇的な幕切れを迎えたわけですが、時系列的にその15とその16(最終回)のあいだにあたるものを以前から妄想していたので、このたび番外編として勝手に書かせていただきました。
もし本編と矛盾が生じていた場合は、こちらのミスです。すみません。
エンディミオンさん、ご協力ありがとうございました。