ななそじあまりむつ その3

 スケイチの村にはある風習があった。山の麓の岩壁に御印が現れたら、神に村人を一人供えなければならない。そして、生まれたばかりの赤子を一人、次の贄として麓の小さな洞窟で他の村人と関わらないように育てるのだ。
その風習はいつから続いているかスケイチは知らなかった。彼が知っているのは、自分がその村の住民として生まれたこと。そして、自分がその次の贄であることだった。
 スケイチの住む小さな洞窟には、世話役の巫女が数人入れ替わり立ち替わりやってくる以外は誰も訪ねてこなかった。壁にあいた小さな明かり取りの穴からは、遠くで誰かが誰かを呼ぶ声や、甲高い笑い声がたくさん聞こえてくるというのに、彼の住むその空間はあまりにも静かだった。
 しかし不思議と、スケイチに寂しさや不安はなかった。彼には話し相手として巫女たちがいたし、何より自分は神に仕えるという誇りがあった。贄とされた者は神の補佐としてお傍に仕え、その一生を終えるのだと彼は教えられていた。御印が現れるのは、神が次の従者を欲しているのだと。スケイチは神の良き従者になるために、幼い頃から巫女たちの指導のもと、書物を読み、字を書く訓練をした。理由は分からないが、神の補佐として必要なことだと言われたので、ただひたすら励んだ。
 そうしてスケイチは贄として立派に務めを果たすため、一人洞窟の中でいずれ来る神に召し仕える日々に心躍らせながら勉学に没頭していたのだった。
 ある日、スケイチはいつものように洞窟にやって来た巫女の顔が少し強張っていることに気付いた。彼女はスケイチを自分の目の前に座るよう促すと、唇をきゅっと結んだ。
「どうしたのですか?」
「スケイチ、御印が現れました」
「本当ですか!」
スケイチが目を輝かせながら、自分はいつでも神に仕える覚悟があることを伝えると、巫女は困ったように目を伏せた。
「スケイチ、事情が変わりました。あなたはお勤めをしなくてもよくなったのです」
「……どういうことです」
「村に、旅人が訪れました。その旅人があなたの代わりに贄となり神のもとへ行くのです。あなたは贄ではなく村人として生きることを許されたのですよ」
「あの、仰っている事が良く分かりません。何故旅人が代わりに……」
「これもしきたりなのです。神は贄を欲していますが村人が減っていくことは望みません。御印を刻んだ時によその者が訪れたらその者を贄にせよと」
「しかし……」
「スケイチ、あなたは贄となる旅人にお酌なさい。旅人をもてなす宴の席であなた自らが代わりになってくれる者に対してお酌をするのです。これもまた、しきたりです」
そう言ってスケイチを立つように促し、手に瓢箪を握らせた。
「旅人に贄や神の話はしてはいけません。それから、この瓢箪の酒は飲んではいけません。さあ、行きますよ」
困惑した頭のまま巫女につれられ宴がひらかれている屋敷に行くと、群がる村人たちの中央に、髪の長い少女が微笑みを浮かべて座っていた。年の頃は自分と同じくらいだろか、とスケイチは考えた。美しいとまではいかないが、自分が見てきた巫女たちよりもずっと綺麗な顔をした娘である。スケイチは少女の傍によると、おずおずと話しかけた。
「あなたが旅人ですか?」
 少女はスケイチの方を見て少しだけ不思議そうな顔をしたあと、はいと答えて微笑んだ。
「なぜ、この村に?」
「この先の町に行く前に休もうと思い、立ち寄りました。このように歓迎していただいて感謝致します」
 台詞の後半を村人全体へ向け、彼女は正座のままぺこりとお辞儀をした。贄になるからこの先の町へは行けないのに、という言葉を慌てて飲み込む。
「あなたはこの先の町へ何をしに行くつもりなのですか?」
「私の探している物がこの先の町にあると聞いて、行って確かめるつもりです」
「探している物とは何ですか?」
「大切なものです」
  皿の料理を一口食べ、美味しい、と頬をゆるませる少女。スケイチはその顔をじっと見つめた。
「あなたはずっと一人で旅をしてきたのですか?」
「いいえ、ずっとではありません。たまに、誰かと旅をする時もありました。二人だったり三人だったり……旅芸人の一座に混ざっていた事もありましたよ」
 そう言って彼女は傍らの行李をそっと撫でた。きっと芸に使っていた物でも入っているのだろう。
「旅の話を聞かせてください。外の世界とはどのようなものなのですか」
「そうですね……例えば、このような話があります」
  少女はここに来るまでにあった旅の出来事を語ってくれた。ここよりずっと大きな町の話や海での話、雪山を越えた話、旅芸人をしていた時の話。スケイチは彼女の語る外の世界に引き込まれ、何度も次の話をせがんでいた。夢中で話を聞いていると、ふと、少女が怪訝そうに首をかしげた。
「あなたはずいぶんと顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
 少女がスケイチの顔を覗きこむ。生まれてからずっと洞窟の中で育ってきたスケイチの肌は他の村人の健康的に日焼けした肌に比べて病的なほどに白かった。思わず身を引いたスケイチの手に瓢箪があたり、それをこの少女に飲ませなければならないことを思い出す。スケイチは瓢箪を握ると胸の前にかざしながら、少し震えた声で答えた。
「あの、大丈夫です。そんなことより、お話のお礼にお酒を」
「でも声も震えていますし、それにお酌なんて」
「いえ、お酌させてください。あの、どうぞ」
 瓢箪の栓を抜きかかげるが、少女は訝しげな表情を崩さない。彼女に酒を飲ませなければならないのに、とスケイチは焦り、目が泳いだ。それを見てさらに少女が首をかしげる
「どうしたのです。大丈夫ですか」
「あの……」
「いやぁ旅人さん、スケは昔から病弱であまり外で遊ばないんだよ。今日は旅人さんが来て気が高ぶってんだ。な、スケ」
 答えようとしたスケイチの後ろから少女との間に割り込むように大きな体が座った。スケイチが名前も知らないその村人は人懐っこい笑みを浮かべてスケイチの頭をぐりぐりとなでた。持っていた瓢箪をスッととられる。
「ほらスケ、そんなたくさん話をせがんで旅人さん困らすなよ。お前は体が弱いんだから、もう帰って寝とけ。な?」
 村人は近くで様子を見ていた巫女を呼ぶと、スケイチを宴の場から帰した。帰る寸前、スケイチが少女の方を振り返ると彼女は村人から酌を受けているところだった。長い髪がさらりと肩からこぼれる。美味そうに酒をすする彼女はやはり綺麗な顔をしていた。
 旅人がきちんと贄として捧げられるまではまだ洞窟にいるように言われ、スケイチは慣れ親しんだその小さな闇へ体を横たえた。スケイチは旅人の少女の事を考えていた。話をする限りでは利発そうだった。旅の話の中で、文字の読み書きができるというようなことも言っていた。そして、どの巫女よりも整った顔立ちをしていた。彼女なら、スケイチの代わりに神のお傍に仕え、その仕事を補佐することもできるだろう。
 しかし、スケイチはどうするのか。普通の生活とやらが果してできるのだろうか。洞窟から出ることを許されなかったため、筋力はあまりない。頭は良いが、それでどう村の仕事をするというのか。何より、これから何を支えに過ごせば良いのか。
「おれの今までって一体……」
 何だったんだ、という呟きは、狭い空間に幾重にも反響し、波が引くように消え、静寂がスケイチの小さな体にどろりとのしかかっていた。
* *
 次の日、巫女に起こされたスケイチは、旅人が無事贄になったことを伝えられ、洞窟から外に出された。朝の光に目をしばたかせていると、突然誰かに抱きしめられた。柔らかい感触に戸惑って上を見ると、涙を浮かべた中年女がスケイチを見下ろしていた。スケイチはそれが自分の母だと直感したが、何故かさしたる感動は沸いてこなかった。少し離れた所で涙ぐんでいる父親らしき中年男と弟だと思われる小さな男の子を彼は母親に抱かれながら静かに見つめていた。
 家に連れられ贄ではない生活を始めたスケイチは、もう勉強する必要がないと知った。弟はもちろん、母親も父親も文字の読み書きが出来なかったのでそれが生活に必要な技術ではないことを知ったのだ。何より、勉強のための本も何も持っていなかった。スケイチは勉強の代わりに父親の畑仕事を手伝った。筋力がないのであまり役には立たなかったが、それでも父親は喜んでくれた。空いた時間は村の探検をした。家の周りに生えている植物や生息している生き物を見て、それらが前に読んだ本草書の通りであることに驚いていた。行くなと言われた神の住む森と、次の贄が生活しているであろう洞窟以外は村中をほとんど見てまわっていった。一度、御印が現れる麓の岩壁に行ってみたが、もう消えてしまったのか御印らしきものは何も残っていなかった。
 スケイチはなかなか村の子供たちに馴染めなかった。子どもたちは贄として育てられたスケイチを敬遠しているのか横目でチラリと見て行くだけで近寄ってくるものはなく、スケイチの弟も突然できた兄という存在に戸惑っているのか、それとも親を取られると警戒しているのか、母親にべったりとくっついてスケイチとは喋ろうとしなかった。スケイチも、子供たちに対してどう接して良いのか分からず、また、自分は神の補佐を務めるはずだったというプライドもあり、結局洞窟で暮らしていた時のように彼らの楽しげな声を聞きながらぼんやりと絵を見るように遊んでいる所を遠くから見つめているだけで、仲間に入れてもらおうということは思わなかった。
 スケイチは日に日に息苦しさを感じていった。母親と父親はもちろん優しく彼に接してくれる。しかし、贄として育てられた自分がここで生きていて良いのか、という違和感が少しずつ彼の中で膨らんでいった。スケイチは洞窟を出て初めて外の世界と触れ、今まで自分が勉強してきた知識が正しいということを知り、実物に触れてみることで文字の上だけでは得られない知識も得た。今の自分の方がより神の補佐として相応しいのではないかと思えた。ここは自分が本来いるべき場所ではない、という思いはスケイチの心をじくじくと蝕んでいき、とうとう洞窟から出て八日目の朝、スケイチは神の住む森に入り神に会うことを決意した。彼は今からでも神に会って、自分も補佐にしてくれるよう頼みに行こうと考えたのだ。神だって補佐は多い方が良いに違いない。スケイチはいつも通り父親の手伝いを済ませると、散策に出かけるフリをして用意していた手紙をちゃぶ台の上に置いて家を出た。手紙はきっと巫女が読んでくれるだろう。
そうして、スケイチははやる気持ちを抑えながら神の住む森に足を踏み入れた。
* *
森に入ってから数時間経ち、スケイチは完全に迷子だった。無計画に森に突っ込んでいったのだから当たり前と言えば当たり前だ。スケイチは何か目印になりそうなものはないかと辺りを見回したが、同じような木が生えているばかりで木肌を傷つけ印を残せるような物も見当たらなかった。長時間彷徨っていたために喉も乾いていたので、スケイチが水場を探そうと耳に意識を集中させると、左側からかすかに水音が聞こえてくる。その音を頼りに草をかき分けていくと、目の前がひらけて川が現れた。スケイチは川のほとりにしゃがみ込み、両手を川の中に浸して冷たさを確かめた。そして気持ちが良いほど透き通ったその水をそっとすくい上げ、喉を潤す。水が体に染みわたるように何度か口に運んでひと息ついたところで、彼は横の茂みの川に飛び出した部分に何かが引っかかっているのに気づいた。紙のようである。拾い上げると、そこには文字がびっしりと書いてあり、滲んで分からない個所もあったがそれが本草書の一部であると分かった。
「なんでこんなとこに本草書が……」
「あのっ」
 突然響いた誰かの声に、スケイチは驚いて固まってしまった。
「あの、それが、読めるんですか?というか、声、聞こえていますか?」
 スケイチは本草書の切れ端を握りしめながら、ゆっくりと振り向いた。誰もいない。そのままぐるりと見渡してみる。やはり誰もいない。神が住むこの神聖な森に妖などいる訳がない。ならば
「神……さま……?」
 なおもぐるぐると回りながら辺りをうかがう。
「神さま?神さまですか?いらっしゃるんですっかっ」
 喋りながら足をもつれさせてあおむけに倒れる。木の幹に背中を思い切り打ちつけた。背骨に鈍い痛みが響く。
「いってて……」
「あの、大丈夫ですか?」
 降ってくる声をよく聴くと、川の上流の方から響いているようだった。そちらに顔を向けて頷く。スケイチは地面に正座して恐る恐る口を開いた。
「あの、あなたさまは神さまでいらっしゃいますか?」
「いえ、私は神ではありません。あなたたちが生贄として差し出した旅人です」
「旅人さん?」
 旅人ならば何故姿が見えないのだろうか。神の補佐となったから、彼女もまた何か人間ではないものになってしまったのだろうか。
「旅人さん、神さまはそこにいらっしゃるのでしょうか」
「今はどこにいるのか私には分かりません。あなたは神に会いに来たのですか?」
「そうです。おれも、あなたのように神さまの補佐にしていただきたくて!」
 スケイチが前のめりになって訴えると、困惑した声が返って来た。
「補佐ってどういうこと?私は補佐なんかしてない」
「へ?」
「生贄にされたら神に食われるんじゃないの?」
「食われる?神さまは人を食べるんですか?」
 お互いが混乱しているらしく、しばらく沈黙が続いた。神さまが人を食べるなんて巫女たちは言っていなかった。贄とは神の補佐役のことではないのか。何故旅人の姿は見えないのだろうか。スケイチには分からないことが多すぎた。
「あの、ちょっと、君」
 呆然としているスケイチに旅人の声が響く。
「なんでしょう」
「とにかく、あなたは村の人間よね?あなたたちが崇めている神さまの正体は、何?」
「神さまの正体?」
 神さまは神さまだ。スケイチはそれ以上のことを知らなかった。
「おれには……」
「ここでなにをしていますか」
 ふいに後ろから声をかけられた。それと同時に、スケイチの全身に緊張が走った。今まで感じたことのない圧力が背後から体全体にのしかかるように流れてくる。スケイチはごくりと唾を飲み込むと、ゆっくりと振り向いた。
 長い髪をうしろで一つにまとめた背の高い男が立っていた。身につけている装束は美しく透き通るような白だ。男がゆっくりと口を開く。
「ここでなにをしていますか」

(安住 小乃都)