リカラス その四

「……マジかよ」
 いっぺんに色々なことが起こり過ぎて、すっかり忘れてしまっていた。電化製品には、充電が必要だ。人間にだって、飯という充電が必要だ。俺にだって、休息が必要だ。
 力んでいた肩を下ろし、俺はソファに身を投げ出した。先ほどまで布団のように感じていた柔らかさは、いつの間にか消え失せていた。その固く薄っぺらい弾力には、若者やばあさんがここで楽しく盛り上がっていたのだろう重さがある。逃げている身でぜいたくは言えないが、ここのソファで一晩を明かすには、肉体的にも、そして精神的にもくるものがあった。
 だが今夜の居城を決める前に、携帯の充電ができる場所に移動しなければならない。できればチバ本人ではなくミホともう一度連絡をとって、彼女が他にチバの会話の断片を拾っていないか聞きたいし、ミロクからいつ連絡が来るかも分からない。試すと、一応電源が入りはしたが、ネット通信ができる状態ではなさそうだ。2人の携帯の番号を聞いていなかったことに舌打ちする。公衆電話にたどり着いても、せっかく起動できた電話帳が役に立たない。だらだらと場の流れでできたような交友関係は、こういうところが厄介だ。いつでもフェードアウトできるような番号でしか、つながろうとしない。
 ついでに腹ごしらえもするならば、マックあたりが妥当だろうか。
 時計を見てから、レシートの入室時間を確認する。1時間。小銭を探してポケットに手を入れると、何かとがったものが指の腹を刺した。
 そこでまた、超重要な手がかりを忘れていた事に気づく。
 ポケットから出てきたそれは、門脇の名刺だった。
 あの「仕事ができそう」な顔を思い出して、再び舌打ちする。ったく、それっぽい名刺渡してきやがって。組織対策犯罪部じゃなくて、白猫対策犯罪部(犯罪をする方)だろ。
 門脇啓二という名前を爪ではじき、その下の電話番号をひっかく。
 そこには、携帯の番号も書かれていた。
 一度視線をはずし、また名刺に戻す。携帯。飯。番号。充電。ソファ。マック。一曲も入っていない予約機。チバ。門脇。ルーム料金、560円也。
 俺はカバンをそっと持ち上げた。部屋を出る前に、使ってもいないマイクの「除菌済」袋をはずす。配慮だ。一応掃除はしといてねという。
 
・・・
 
 460円を置いて、俺は一歩横にずれた。割とタイプな顔のかわいい店員さんが、俺のために品物を用意してくれるのを待つ。
 一応周りには気を配りながら移動し、リカラスのためのえさを買い、充電ができそうなファストフード店に入った。
 店員さんの笑顔が一瞬こちらに向いて、またすぐ別の客に向けられるのを見届けてから、俺はトレーを持って席を探した。コンセントのある席がカップルの横しか空いていなかったので、仕方なくそこに座る。
 カバンを床に下ろし、中に猫缶を入れてやろうとしたが、ヤツは寝ているようだった。なんだよ、この呑気さは。まさかないとは思うが、匂いに気づいてここで起きてしまうのも面倒だったので、猫缶は上着のポケットにしまっておいた。
 ハンバーガーの包みを開けると、自分で思っていた以上に腹が減っていたことに気がついた。無心でかぶりつき、二つ目を開ける。
 食べながら、手持ちぶさたの左手で名刺をもてあそんだ。
 ――ダメ元だ。どうせ逃げるしかないのだし、いざとなれば最強の人(?)質を使うという手もある。
 幸い隣の二人はお互いを見つめ合うことに夢中で、後ろのボックス席では高校生の集団が騒いでいる。俺はコンセントにさしたままの携帯をとり、門脇の携帯番号をプッシュした。
 ひょっとしたら誰かに見張られていたりだとか、逆探知といった可能性に思い当たった時には、既に呼び出し音が途切れていた。
「……誰だ?」
「…………あんたに昨日、不法侵入された部屋の主だ」
「――ああ、君か。私との約束を破った輩、の間違いじゃないのかい?」
 くつくつと笑い声がした。間違いない、「門脇」本人だ。
「あんたも無用心だな。嘘の名刺に本物の番号のっけるなんて」
「つながらない番号を書いては、名刺の意味がなくなってしまうじゃないか。まあまさか、君が……カズトくんの方からかけてきてくれるとは思っていなかったが」
 電話越しにその低く穏やかな声を聞いていると、いよいよ彼はスパイ映画の敵役なのではないかと思ってしまう。実際には、カメラクルーも、爆破ボタンのタイミングを伺っている演出家も、控えのスタントマンもいない。
 そのハリウッドスター顔負けの彼が、ひゅっと息を吸う音がした。
「――で、リカラスはどこだい?」
 しらを切ったところで、しつこく追及されるのは目に見えている。俺もまた息を吸い込んで、答えた。
「いるよ。たぶん、元気にしてる」俺と一緒にいることは、一応黙っておいた。
「そうか。私は迂遠なやり方が好きじゃない。言いたいことはわかるね?」
「ああ。でも、ひとつ聞きたいことがある」
 正直なところを言えば一つどころではなかったが、その中には、知っておけばマシかもしれないというたくさんのことと――「門脇」が何者なのかだとか、リカラスをどうするつもりだとか、二つの組織が一体何を考えているのか、など――、絶対に知らなければならないという一つのことがある。俺は後者を選んだ。
 あいつが誘ってきたバイトは、本当に、「オレオレ詐欺」の受け子だったのか? そこで引き出す予定だった金は、本当に、見ず知らずのばあさんから手に入れるつもりだったのか?
 なぁ、チバ。
「若い男に、詐欺の依頼を、してるよな?」
 間があった。俺の背後の高校生達から、どっと笑い声が起こった。
「……詐欺? 何だそれは」
「すっとぼけるにしたって、もっとそれらしくしろよ。そいつとお前がさっき電話してたことは、知ってる」
「電話? 私がその『若い男』と?……詐欺の話で」
 彼はまた笑った。
 俺は眉をひそめた。おかしい。しらを切るにしたって、わざとらし過ぎる。本当に首をかしげているような、歯切れの悪い会話。
 たまたま、なのだろうか。あいつが参加しようとしている詐欺の首謀者がたまたま「門脇」という名前だった?
「……詐欺かどうかは定かじゃない。でも、あいつはなんかの作戦に関わってるんだろ。何させる気だよ」
 俺はなおも食い下がって別の可能性を提示したが、「門脇」の答えはあっさりしたものだった。
「悪いが、まったく知らない内容だ。さあ、質問には答えたぞ。リカラスを渡せば、君には――」
 門脇がしゃべる内容が、頭に入ってこなかった。喉に何かが絡まっているような感覚がする。落ち着け、落ち着け、と、歯の奥で唱える。
 ――本当に、詐欺のバイトの話だったのかもしれない。
 疑心暗鬼になり過ぎている。耳が過敏になって、全く違う名前を聞き間違えた可能性だってある。落ち着け。いや、でも、本当にここで納得してしまっていいのか。常にフラフラしているチバのことだし、気の迷いでかなりヤバいとこに絡んじまったっていう可能性も……
「時に、カズトくん」
 俺が聞いていないとわかったのか、「門脇」がゆっくりと言った。
「ニュースで、犯人についてインタビューすることがあるじゃないか。近所の人や、中学生の同級生に。彼らはよくこう言うよね。『そんなことする人には見えなかった』。実に軽薄な発言ではあるが、あながち間違いでもない。悪人が分かりやすく悪人面をしているとは、限らないんだよ」
 俺は、ばっと後ろを振り返った。
 高校生の一人と目が合った。その横を見ると、サラリーマンらしき男が顔を背けた。通路を歩いてきた女子大生が、気持ち睨むように俺を見た。
『見られて』いる。
 俺はカバンをトレーをつかみ、カウンター席から飛び降りた。携帯をひっぱり、無理やり充電コードを引き抜く。
 通話終了を押す間際、門脇の落ち着いた声が聞こえた。
「じゃあ、そういうことで、よろしく」
 
・・・
 
 息を切らして、座り込む。周りを見ずに走ったのでわからなかったが、商店街に入り込んでいたようだ。人の多いところを選べるあたり、さすが俺。店と店の隙間という、漫画でならカツアゲの定番スポットになりそうなところにしゃがんでしまったが、実際はほぼ表通りのような明るさがある。目を覚ましたらしいリカラスが、不機嫌そうに鳴いた。
 心臓すげー鳴ってる。運動不足が顕著。
 驚いた、という言葉でこの緊張を表せるのか分からない。
「そういうことで、じゃねぇよ……」
「門脇」は、示唆してきた。リカラスを探していて、更に一度は俺を取り逃がしたにも関わらず、その声に焦りがにじみ出ていない理由を。
 その気になれば、俺を見つけることなんて、羊の群れからキリンを見つけるのと同じぐらい、簡単なのだ。ただ、意図は定かではないが、「門脇」は俺をいますぐ捕まえるつもりはないようだが。
 ふーと息を吐き出す。鎖骨のあたりにまで、大きくなった拍動が響いているのがわかる。
 こんなにビビったのは、いつぶりだろうか。冗談抜きで、殺されるかもしれないと思った。
 斜め向かいに駄菓子屋が見える。人の往来の隙間に、鮮やかな色のカバンがちらつく。ランドセルをしょった子ども達が、物欲しそうに商品を眺めている。小学生は金なんて持ち歩かないもんなあ。ぼんやりと彼らを見ていて、ふと思い出すことがあった。
 ああ、そうだ。これまでで一番死にそうだと思ったのは、初めて「万引き」をしようとした時だ。
 俺はドラッグに手を出せないし、女を部屋に連れ込む度胸もない。だが、清潔まっとうな人生でした、と言い切るには、「万引き」も含め、情けない罪が多い。
 恥ずかしいことに、あまりにも緊張したためか、小さいけれど罪を犯したことへのショックのためか、何を奪ったとか、どうやっただとか、バレずに済んだのかだとかは、ほとんど覚えていない。確か、まだ一応は大学に通っていた時のことだったとは思うが。ひょっとしたら俺自身はやっていなくて、友達がやるのを手伝ったり、はたまた見ていただけかもしれない。
 記憶をさぐるが、やはり概要は思い出せなかった。たまに何かの色がちらつく気がするのだが、それすらもつかめない。どうせ俺のことだ、大した結果ではなかったのだろう。
「万引き」。
 対価を支払わずに、黙って、何かを奪うこと――
「あ、すいませーん」
「え? ああ、はい……」
 誰かが、俺の足につまずいた。見上げると、やけにきらきらした男女の学生らしきグループである。俺の大学の生徒かもしれない。んなとこで転んでんじゃねーよー、うっせぇ転んでねぇよ! 男子がからかう。女子が笑う。どやどやっと、その集団が一瞬俺の周りに集まり、また去っていった。
 嫌な気分だ。とりあえず、また居座れる場所を探さなくては。
 腰を上げた時、ふと身が軽すぎることに気づいた。指先に触れていたものの感覚が、ない。
「しまっ……!」
 俺はすぐさま立ち上がって、さっきの集団を探した。だが、顔や姿を見たくないと目をそらしていたため、服装などがわからない。主婦、サラリーマン、学生、子ども、老人。夕暮れの商店街は、とにかく多種多様な人でごった返している。
 今までずっと気にかけていたはずなのに、こんなところで失手放してしまうとは。
 リカラスの入ったカバンを、とられた。
 俺は深く、深くため息をついた。「門脇」は俺を今すぐ俺を捕まえるつもりではなさそうだとか、どの口が言ったんだったか。
 正直、俺と接触せずに持って行ってくれるなら、それに越したことはない。殺されるとかいう馬鹿な心配も、面倒事からも解放される。
 わかっているはずなのに、俺の足は動き出していた。小さな声で謝罪を繰り返しながら、人ごみの間をすり抜けようとする。思うように通れない。香水の匂いがきつい。ざわめきが反響して聞こえる。食い物の匂いに酔う。
 あいつを、見つけてやらなきゃならない気がする。
 
・・・
 
 拍子抜けするほど簡単に、彼らは見つかった。集団にいたであろう内の二人が、先ほど俺がいたのと同じような、店の間の路地にいた。俺のカバンを持って、何やら話している。
 すぐに飛びかかるのはためらわれたので、彼らのすぐ近くの店先で、携帯をいじっているふりをした。せめてもの対策として上着を脱いでみたりしたが、彼らは話に夢中で、こちらに気づきそうな気配がなかった。
 やがて、二人の会話が聞こえてきた。彼らの声のボリュームが、突然上がったのだ。
「おい、これちがくね?」
「は? あいつで合ってるはずだけど」
「でもさあ、こいつ……」
「白猫じゃないじゃん。ただの野良っぽい」
 ……は?
 唖然とした。
 思わず、彼らの方を振り向いてしまった。
 カバンが見える。その中からたまに、白い手や頭が見え隠れしている。異変を感じたのか、暴れているのかもしれない。
 いや、間違いない。あれはちゃんと、白猫だ。まぶしいぐらいの白だ。俺の目には、そう映っている。
 確かに、俺があの猫を受け取ってから、他の奴らに見せたことはなかった。「門脇」でさえ、俺が猫を持っているところを見ていない。あの猫がリカラスだという保証は、西田が口走った以外、誰からも得ていない。
 だが――だが、俺の目には、確かに白に見えている。だが、あいつらは「白」猫ではないと言う。
 意味が、わからない。