「なぜこんな挑戦を?」 2

 目を覚ますと、わきには有名な作家が書いた、話題になっている推理小説が無造作に置いてあった。
 表紙と裏表紙は透明なテープが貼られ、カバーが取れないようになっている。さらに裏表紙には自分が通う学校の名前に続いて「図書館」の三文字とバーコードが印刷されたシールが、こちらも透明なテープで保護されていた。
 つまりはこれが眠る前に読んでいた本なんだろうと、もし頭の中をのぞかれたなら怪訝に思われるだろう推測をしてみる。
 本当に不思議な感覚だった。
 図書館で若干どぎまぎしながら本を借りたことは覚えている。けれどその本については全く思い出せない。この本について自分に判るのは、ニュースの特集でたまたま見た内容だけだった。
 部屋の机から生徒手帳とシャーペンを取って、本のタイトルと著者を書き写す。
 図書館には、大抵いつもあの子(・・・)がいるから同じ本を借りると怪しまれると思って始めたことだった。生徒手帳には今書いたものの他に十数個のタイトルと名前や出版社が書いてある。それらは全部読んだはずなのに、読んだことを思い出すことができない。
 そのことにうすら寒いものを感じつつ、最後に「物を止める」と書く。こうやって向こうで使った魔法も書いているが本と魔法の関係は未だに分からない。
 少しの間眺めた後、生徒手帳を閉じて向こうの世界と区切りをつける。
 僕は朝食を食べるために部屋を出た。

 一日の授業が終わり、教室から人が消えていく。その行先は部活であったり、自宅であったり様々だ。数学のノートと筆箱をしまい終え、僕も教室の外へ出る流れにのる。
 主には昇降口へ向かう人ごみから離れ、図書館へと向かう。徐々に人はまばらになっていき、図書館付近の廊下には人っ子一人見当たらない。ただ昇降口やグラウンドの喧騒が別世界からの音のように響くだけだった。
 橙色の光を背に受けながら、僕は図書館に入る。
 出来れば居てほしくない、という僕の思いとは裏腹に彼女は既にそこにいた。カウンターの中で分厚いハードカバーの本を熱心に読んでいる。
 これ幸いと、気付かれる前に本を返却ボックスに入れる為、鞄から昨日僕が借りたらしい本を取り出す。
 
「今日も来てくれたんですね」
 
……気付かれて、声をかけられてしまった。
 顔を彼女の方に向けると、微笑んだ顔がそこにはあった。何故彼女がそんな顔になるのか僕には分からない。
 こちらはぎこちなくも笑顔を作ろうとして、気恥ずかしさと後ろめたさからおそらくすごく中途半端な顔になっているというのに。
 気まずさが自分の中で膨れ上がるのを感じて、そそくさと手の本を返却ボックスに入れ、本棚の林の中に自分の身を隠す。
 彼女の視線が切れたところで、溜息がもれた。そうして彼女にまともな態度が取れない自分に嫌気がさす。自己嫌悪しながら本を探すのがほとんどルーチンワークのようになっていた。
 種類と五十音に沿って並べられた本の背表紙を眺めながら、どの本を借りるか考える。
 今までは種類がばらけるように借りていたが、今日はどうしようか。小説、図鑑、実用書、哲学、童話などてんでばらばらな種類の本が手帳には書いてあった。
 敢えて、今日は小説を借りてみようかと足を小説のコーナーへ足をのばす。気になるタイトルがないか背表紙の壁を目で追いながらゆっくりと歩を進めていく。出し入れされることがない本たちの背表紙はきれいに揃っている。
 と、その中で唯一その列から外れている本がある。利用頻度の少ないというかほとんどないこの図書館では珍しい。
 気になって、手に取ったその時。
 
「和志君、それって今さっき返した本ですよ」
 
 そう声をかけられた。
 突然のことに僕の思考回路は停止する。
 慌てて声が聞こえた方に振り返ると彼女、立花文がそこに立っていた。
 柔らかい笑顔を保ったままで彼女は一歩こちらに近寄った。
 
「どうして、また手に取ったんです?」
 
 そう尋ねて彼女はまた歩を進める。
 まだ僕の思考回路は復活しない。記録装置のように目に入った光景を脳に垂れ流す。
 ただ彼女の態度に変化はないのにひしひしと緊張感は高まっていく。
 
「ねえ、答えてくださいよ」
 
 そう言って、また彼女は歩を進める。
 もう顔の真ん前に彼女の顔がある、そんな状態になったとき僕の中の緊張感は爆ぜた。
 思考回路は再起動というにはあまりに暴力的な活動をこんな訳のわからない状況をどうにかするために始める。
 そんな僕の頭がたたき出した答え。
 
「あのっ、……えっと……その、この図書館ダトそろってナイノガめずらしいナってなんてオモッチャったり……シテ……ハハハ」
 
 そんなよくわからないことをくちにだしたあと、ぼくはだっしゅでそのばからにげだした。
 
 暗くなった廊下に歩く影は見当たらない。
 僕が認識できる範囲にいる人間は僕しかいない。そのことに怯えながら昇降口を目指す。
 果たして、昇降口にはまだ疎らに人が残っていた。それを見て全身から力が抜け、疲れがどっと出た。
 校門を抜けた後、このシーンを思い返したが結局その本のタイトルが何だったのか僕は確認できなかった。
 

 
 外は暗くなり、わたしの周りも文字が読めない程度の暗さになってきたようだった。
 その暗がりの中でわたしは思考する。これからわたしはどうするべきなのかを。
 もう既に歯車が狂っているのは確実だ。
 このままではわたしは失敗してしまう。これまでの努力と代償が無駄になってしまう。
 それだけは絶対に避けねばならない。何としてでもこれだけは成功させねばならない。
 
 この挑戦だけは達成しなければ。

 そのためにわたしはどうしなければならない。なにをしなければならない。考えろ。考えろ。考えろ。
 このイレギュラーを修正する方法を、このエラーを直す方法を、このハプニングを凌駕する方法を。
 必ずこの挑戦は成功させなければならない。それこそがわたしにとって唯一の命題だ。
 

 

 
「それで君は結局、本を読んでこなかったのかい」
 
 ジンさんは呆れながら、向かいの椅子に腰かける。
 僕はそれに対し、何も反論できない。
 
 あれからどこかに寄ろうという気力も起きず、そのまま真っ直ぐ家に帰った。
 家に帰ってからも何かをしようと思えなかった。
 夕飯を食べてからも布団の上に寝転がるだけだったのだ。
 そうして天井を眺めながら、今日の分の本をどうしようかと考えた。
 今、おそらくこの家には本と呼べるものがない。小さいときから僕にとって本とは買うものではなくて借りるものだった。
 けれどジンさんとの約束を破るわけにもいかないから最終手段として教科書を読んだのだ。それもプリントの奥に眠っていた授業予定が印刷された紙を引っ張り出してきて、念のため授業で扱われない範囲の部分だけ読んで眠った。
 結果、今回は待てど暮らせど魔法は使えるようにならなかったという訳だ。
 
 
「そのキョウカショというのは本とは形式が違うのかい」
 
 ジンさんは尋ねてくる。
 それに対し、僕は曖昧な返事しか返せない。
 教導用の本という言い方しかできないけれど、僕の中で本と教科書はやはり何か違うものなのだ。
 そのニュアンスを上手く伝えられたらいいのだが、ジンさんには理解し辛いようだった。
 
「とりあえずまとめると、違うとは指摘できるけど違いを上手く説明できないってかんじかな」
 
「まあ、そんな感じです」
 
 そんな感じでお茶を濁す
 彼の期待に応えられないことに居心地の悪さを感じてしまう。そしてその原因である立花文に思いをはせる。
 何故あのとき彼女はあんなことを言ったのだろう、何故あのときの彼女に恐怖にすら近いものを感じてしまったのだろうと。そこまで考えてあのとき僕は彼女に恐怖していたのだと理解した。
 そんなことを考えていたら、ジンさんの話は右から左へ受け流してしまったらしい。
「おい、カズシ聞いているのか」
 そんなジンさんの声でようやく意識がジンさんの方へ戻る。
「あっ、すいません。聞いていませんでした」
「まったく……、次からはしっかり読んできてくれよ」
 まあ、魔法が使える条件が分かっていくのはいいことなんだけど、と言いながらジンさんは自分の部屋に行ってしまった。
 机の上に置いてある自分のグラスに残ったアセロラジュースのような何か(名前は聞いたけどよく分からなかった)を飲み干して、ジンさんのグラスとともに洗いに行く。
 魔法を使えなければ、やることはほとんどなくなってしまう。
 与えられた部屋のベッドに寝転がりながら、ぼんやりと窓の外のビルを見ていた。
 
 この世界の人たちには各個人に一つIDがあるらしい。
 個人情報はすべてそれで管理され、指紋や虹彩、遺伝子などで本人認証できれば何も持っていなくても問題なく買い物や旅行ができてしまうそうだ。
 そんなこの世界では当たり前のことを僕は知らなかった。そして僕にはIDがない。(これはリサさんが最初に自動販売機のようなもので僕の指紋を試した時に分かった)
IDがない人間がどうなるかはジンさんたちでも分からない。出生とほとんど同時に与えられるIDがない人間なんていなかったらしい。
そこで僕は考えてしまう。今考えている僕は僕だけどこの身体はいったい誰のものなのかと。
 向こうの世界の記憶は子供のときからあるが、こちらの世界のものはジンさんとリサさんに発見されたときからしかない。何が原因は分からないけれど、これだけなら僕は元々向こうの世界の人間で、こちらに移動しているだけになる。
 けれど僕が向こうの世界に行っている間、身体は眠ったままらしい。ならば移動しているのは精神だけということになり、今のこの身体はこちらに予めあったということになる。
 そうなると、IDがないこととこの身体を成長させた精神があるはずだということが問題になってくる。
 本当に訳が分からない。考えて僕に答えが出せる訳がないがどうしても考えてしまう。
 ベッドから立ち上がり、窓の方へと歩み寄る。
 流れる雲を切り裂きながら、そびえるビルの群の向こうで空が暮れていく。
 それとともに、鏡のように自分の顔を映すガラスを見ながら、この顔は誰だろうとふと思ってしまった。


 
 だいたい方針は決まった。
 やはりあちらの駒も動かさなければなるまい。わたしが直接様子を探れないのが不安であるがしょうがない。
 既にあちらでは奴らに鍵を保護されてしまったと言っても過言ではないだろう。この状況は本当にまずい。
 ここから成功させるにはどちらでも鍵を手中に収めなければなるまい。こちらはどうにでもなるとしても、あちら側は少なくとも奴らの力が及ばない範囲まで鍵を動かさなければ。
 あちらの駒を動かしてしまえば、いよいよわたしの力も限界が見えてくる。
 慎重に行わなければ、目的を果たす前にわたしが消えてしまうだろう。かといって時間はそのままわたしの弱体化と同義になっている。
 考えて、考えて、考えて、実行に移さねば。
 

 

 
第七次報告                          
〇〇・〇〇〇〇〇
                  
 観察対象は今回魔法を発動せず。条件を洗い出そうとするも、あまり有益な情報なし。しかしながら、観測機による魔力観測によると依然数値は高いままであり、警戒は続行する。第一種禁忌との関係も未だ不明。第一種禁忌との関係を探るため、情報開示許可と緊急時用の戦闘員の派遣を要請する。また観察対象の出身世界の特定を急ぐ。
 
以上
 

 

 
 図書館の前で息を飲む。
 心拍数が上がっているのか、脈の音がいやに大きい。
 背中にはもう太陽の暖かみはなく、空はもう群青に染まっているのだろう、扉にかけた手の細部は暗く、視認できなくなっている。
 自分の恐怖を何とか宥め、意を決して扉を開け中に入る。
 けれど、そこに立花文の姿はなく、ただ寒々として無機質な空気があるだけだった。

 3に続く