「なぜこんな挑戦を?」 3

 立花文がいない。
 そのことに和志はひとしきり安堵しつつも、どこか得体のしれない不安に襲われた。
 ごくり、唾とともにそれを飲み下し、今日は早く本を借りて帰ろう、と心に決める。
 日に焼けた紙の匂い、薄く積もった細かい埃の匂い、古びたインクの匂い。普段は気にも留めないそれらが鼻の奥にツンと突き刺さる。
 いつだっただろうか。彼女が、図書館はまるで墓場だ、書いた人間のもう過去のものとなり死んでしまった思考が、居並ぶ背表紙という名の墓標の下に埋まっているのだから、と言ったのは。
 それらを頭の外へ追いやるべく頭を振りつつ、たどり着いたのは昨日借りる本を探そうと近づいた、小説の書架。列から外れた本は一冊も無く、昨日借りようとしたものが何だったのかもわからない。文か司書の先生か、蔵書整理でもしてくれたのだろうと勝手にあたりをつけ、適当な本を探す。ふと目についたいくつかが手帳には載っていないことを確認すると、その中から一つを選び背表紙の頭に指をのせた。

 
「へぇ、和志君はそういうのに興味があるんですか?」

 不意に真横からかかった声。
 ただ、それだけのことだというのに全身に怖気が走った。
 弾かれたように振り向くと、そこにいたのは男とも女ともつかない、人影。
 確かにその顔を和志は見ているはずなのだが、捉えたはずの顔の造作は次の瞬間には頭の中から消えている。まるで不可解極まりない。急速に喉が渇く感覚がした。
 人影はうっすらと微笑んで続ける。
「どうしたんですか、和志君? 顔色が優れないようですけど――」
「触るなっ!」
 伸ばしてきた手を半ば条件反射的に払った。そのとき相手は一瞬悲しげな顔をしたような気もしないでもなかったが、それを確かめる術はなかった。
「ふふ、嫌われちゃいました」
 冗談めかして後ろに一歩下がりながら、手を後ろにやってやや前かがみの、和志の顔を下から見上げるようなポーズをとる。
 状況が把握しきれない。そして、聞くことのできる相手はわけのわからない人影のみ。
「き、君は誰なんだ」
 絞り出した声は震えていた。
 しかしそれを見て見ぬふりでもするように人影は言う。
「名乗りたいのはやまやまなんですよ? ただ、わたしの事情でちょっと難しいので。けど、それじゃ不便ですよね。なので偽名で勘弁してください、一です」
「ハ、ジメ?」
 これもまた、男なのか女なのか判断しかねる。ただし和志には、しゃべり方から女性のようだと直感的に感じ取った。
「そうですよ」
「じゃあ、一は何か僕に用があるの?」
「きゃ、呼び捨てにされちゃいました!」
「ふざけないでよ!」
「うーん、一度パニックに陥るとヒステリックになるタイプなんですね。初めて知りました。で、用ですか? 一応最後に顔を見たいなーって思っただけですよ」
 彼女(仮)はぴんと伸ばした指同士をその間に絡めて和志の体側を通り抜けていく。
 と、そこで今思い付きでもしたように両手を打ち合わせた。
「そうでした、お土産があったんです。えーっと……」
 そのまま手続用のカウンターまで歩いていき、さっきまで載っていなかったはずの一冊の分厚い革装丁の本を手に取り、両手で差し出す。
「どうぞ」
 渡されるがままに受け取ると、表題が無いことに気づく。
「これは?」
「アンカーへと贈る救済措置、ですかね。本当にどうしようもないと思った時だけこれを開いてください」
「アンカー? 救済措置? 何を言っているんだよ」
「それは――」
 しかしその問いに人影が答えることはなく、茶目っ気たっぷりに人差し指を口元にやると、
「秘密、ですよ。……ばいばい、和志君」
 まるで夕焼けの火が見せた陽炎でしたとでもいうかのように、揺らいで消えた。
 急に寒気を感じて、和志はようやく自分がびっしょりと冷や汗をかいていることに気づいた。
 逃げるように先ほど指をかけた小説一冊の貸し出し手続きを済ませると、革装丁の本を律儀に抱えたまま昇降口へと駆け足で向かうのだった。



 アレの用意が思ったより早く済んだのは、果たして僥倖と言えるのか。
 もちろん、アレだけでシナリオの軌道修正が行われはしないだろう。
 それでも、わたしは最善手であったと信じることしかできない。
 あちらの駒を動かす前の下準備はこれで整うのだから。
 向こうも向こうで動きがあったようだが、果たして何を目的としているのやら。
 そう、問題はあちらなのだ。かといって、こちらで足元を掬われては話にならないが、鍵を守るより奪い返す方が断然骨だ。
 だからこそ、仕掛けるべき時まではじっと待つほかはないのだ。
 ああ、本当にじれったい。



 本を手に取りいつものようにあとがきまで読み込むと、和志は眠りに落ちた。
 革装丁の方ではなく、小説だ。
 あちらには錠が付いていたため開くことすらできず、いよいよ正体不明である。
 とはいえ手放すのも気が向かず、今は読まれないまま部屋の隅に立てかけられているのだった。
「お、起きたか。今日はちゃんと本を読んできたよな?」
 意識が浮上すると真っ先に聞こえてきたのはジンの声だった。
「おはようございます。さすがに昨日の今日で忘れたりはしませんよ」
「はい、おはよう。それにしてもよかったわ。ジン、あんたもさっさと自分のやることやったら?」
 リサは和志の返答に頷くと、今度はジンにじとりとした視線を送る。
「え、何のこと?」
「部屋の片づけよ、まさか本気で私に全部任せる気でいたの?」
「当然!」
 ジンはいい笑顔で頬をはたかれた。
「朝食はできてるから、着替えて
 二人が出て行ってから身支度を済ませ居間へ向かうと、二日前のガラクタの山を積みなおした以上の山が出来上がっていた。
 それだけならまだ……いや、十分よくないが、さらにひどいことにうっすらと埃が積もっている。
「うわぁ……」
 見ているだけでくしゃみが出そうで、和志は呆れたように口を開くも口元はしっかり押さえている。
「ね、さすがにこれはないでしょ?」
「そう思うならやってくれてもいいいんだぜ、って痛い、やめて」
 もはや無言でジンを小突くリサ。特に音が出るほどの力ではないので単にじゃれあっているだけなのだが、それで居間がきれいになるのなら誰も苦労はしない。
 とはいえ、ここに割り込んでいくのも野暮だと思い、和志は黙ってテーブルについた。
「リサ、カズシが待ってる。早く朝食にしようぜ」
「あんたねえ……。はあ、ひとまずここまでにしておいてあげるわ」
 三人がそろって朝食となる。
 粟に似た穀物のミルク粥に、こぶし大の林檎のような見た目で味が蜜柑のような果物の切り身が添えられている。
 この世界のことについてあまり知らないので、どこでどう作られているのかは見当もつかない。そもそも、二人はそれほど詳しく教えてくれなかったりする。
 まあ、世界について教えてくれと言ったところで、もうすでに教えてくれていること以外には何を話せばいいか二人も困るだけなのだろうし、聞けば教えてくれるから問題ないが。
 ぼーっと、いまだ慣れない食材に思いをはせていると、飛来した綿埃が粥の中に入った。
 これはもうジンを手伝ってでもガラクタを片付けるべきかと思った途端。
「あれ?」
「ん? どうした、カズシ」
「いえ、埃が入ったんですけど……」
「ジン、あんたが片付けないから!」
「いえ、埃が突然消えたんです」
「見失ったのではなく? ……すごく地味だけどそれが今日の魔法かな?」
 首を捻りながらも機械に入力していくジン。そこにリサが口を挟んだ。
「地味ではあるけどこの部屋中の埃がなくなってるわ。ゴミ箱の中身も込みで」
 リサはよくやったとばかりに和志に向けてサムズアップする。
 しかしながら、ガラクタの山だけは健在であったため、あんまり役に立たないなあと和志は内心零したのであった。



 翌朝目を覚ますと、革装丁の本はきれいさっぱり消えてしまっていた。
 何でもかんでもとりあえず消えればいいとか思ってんじゃねーよ、と自分でもわけのわからない文句を呟き、その内心ただただ気味が悪いと思いながら、今日も和志は朝食を食べるべく部屋を出るのだった。 



 立ち並ぶ高層ビルの隙間。薄暗い路地裏にその人影はあった。
 丈に余裕のある外套を身に着けた上でフードを目深にかぶり、遠目に見てもその人相は判然としない。
 口元と、外套と同じ漆黒の髪だけを確認することができた。
 黒い無骨な直方体を耳に押し付け、何かをしきりにしゃべっており、時折その背に背負った革製のトランクの位置を直したりしている。
「はい、こちらはまあ、ぼちぼちかと。……はい。……ええ、そうです」
 黒い直方体は十中八九通信機器、特にトランシーバーであろう。
 仮にトランシーバーであるとして、多くの一般人は普通所持している物ではない。
「では、そちらも手筈通りということでしょうか。……もちろんです、了解しました」
 その通信がどこに通じているのか。近隣住民の情報機器に影響がなかったという証言を頼るなら秘匿回線の一種なのであろうが……。
 人影は通話を終えると外套の内側へと通信機を押し込み、歩きはじめる。
「メイヴィス・オルブライト、これより七十二時間以内に状況を開始します」
 その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。