暮れなずむエクトプラズム、鶯とポルターガイスト 17+1

(『イラスト先行・競作小説』とは、『はじめにイラスト担当の方にイラストをいくつか描いてもらい、それらを挿絵とした小説を競作する』という企画です)
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暮れなずむエクトプラズム、鶯とポルターガイスト
17+1
 
 結局なんだかんだで本当に怖いのは人間だよね〜〜〜みたいな台詞には生前からいいかげん飽き飽きしていた。忌々しいとさえ思っていた。こんな安っぽい台詞を口にしただけでホラーが何たるか分かったつもりになっている連中や、そいつらに媚びへつらうがごとく『狂気』の二文字を乱発する創作物を見かけると溜息が出る。いや、かつては出た。息絶えた今となってはもはや何も出ない。
 だが、問題なのは『結局なんだかんだで本当はそれほど怖くない』ことにされてしまったやつらのほうだ。されてしまったのにもかかわらず何の行動も起こさないやつらのほうだ。おいお前ら、どうしたんだ、そろそろ恐怖とやらを奪還すべきではないのか、更新すべきではないのか!
 そう憤る俺は、きっと意識の高い幽霊というやつなのだろう。
 そうだ。俺が俺こそが意識の高い幽霊なのだ。
 幽霊の登場する物語でときおり見られるパターンのひとつに、ふとしたきっかけで自分が既に死んでいることに気づいた登場人物が「そうか……、私はあのとき、もう……」とかなんとか言いながらゆっくりと消えていく、というものがある。しかし俺の場合は小樽に殺された三時間後には自らの死を悟っていた。幽霊となったことをしっかり自覚していた。このような点からも俺の意識の高さが窺える。
 野瀬歩。享年十七歳。
 つい一昨日、幼馴染に殺された男である。
 とはいえ、今このとき、俺が先週まで通っていた高校の正門前で腕を組み仁王立ちになっているのはその幼馴染に殺された恨みを晴らすためではない。というか別に恨んでいない。そのへんは一回死んだら割とどうでもよくなった。急に連絡の途絶えた俺のことをまったく気にしない悪友たちにも、無断欠席を繰り返す生徒の家に電話の一本も入れない学校にも、どうせどこぞで遊び呆けているのだろうと息子の安否を心配しない両親にも、特に恨みはない。恨みはないし、未練もない。もしこの世に未練があるとしたら、それは幽霊の恐ろしさを誰もがすっかり忘れてしまったというこの憂うべき現状にであり、そしてその現状を打破するためにこそ俺は高校にやってきたのだ。真っ昼間から!
 そう、真っ昼間。昼放課が終わって二十分、そろそろ窓際の生徒が睡魔に襲われ出す頃合いだ。どの学年も五限は体育ではないようで、校庭にはひとっ子一人いない。幽霊っ子も見当たらない。意識こそ抜きん出て高いものの如何せん幽霊になってまだ日が浅く圧倒的に経験不足である俺なので是非とも幽霊としてのノウハウを先輩諸氏にご教示願いたいところなのだが、不運なことにいまだ巡り会えていない。墓地を訪問すべきだろうか……。
 否否否! 千遍否! そんな暇はないのだ。俺には使命があるゴーストの復権という使命が。先人の方々と繋がりを持つのはそのあとからでもけっして遅くはない。使命を果たした暁には、むしろ彼らのほうから霊界の救世主を一目見んとこぞって俺のもとへやってくるだろう。彼らは口々に感謝の意を告げ、自身の不甲斐なさに恥じ入り、最後は俺に向かって誓うのだ、もう二度と闇夜を生者に蹂躙させないと。再興を祝して、胴上げだってしてくれるかもしれない。空中に放り投げられる俺の姿に歓声が上がり、ドウシタドウシタとさらに仲間たちが集まってくる。それからはお祭騒ぎだ百鬼夜行カーニヴァルだ。その日は幽霊史に残る記念すべき日となるに違いない……。

 すべてはこの一歩から始まる。そう自覚しなから俺は校内へと足を踏み入れた。目撃者がいないのは残念であるしあらゆる分野の今後のホラー描写において大きな損失になるだろうが致し方ない。こんなところで容易に目撃されてしまうようでは計画が台無しだ。恐怖は段階的に醸し出すものそれでいて肝心のときには前触れなく訪れるものだと決まっている。
 校舎までの通い慣れた道を進みながら一日かけて考えたプランを振り返ってみたが、心霊写真という名の青写真は完璧だった。構想一日と言ってしまうと聞こえが悪いかもしれない。しかしどうだろう、殺されてから自分が死んだことを悟るのに三時間、幽霊としてこの世に留まりつづける目的に思い至るに一日、そこからゴースト復権のための具体的な方策を練るのにさらに一日、と息継ぎなくシームレスに考えつづけたというのはなかなかに驚異的なのではなかろうか。生前から「歩、さっきからくだらないこと考えてるだろ」「野瀬くんって思い込み激しすぎない?」「またお前か」などと周囲から高く評価されるほどに考えに考え込み思いに思い込んでいた俺だからこそなせる業、そんじょそこらの輩には真似できまい。
 ゴースト復権への完璧なプラン。
 名づけて、七不思議全部俺計画。
 どこの学校にもあるように俺の高校にも七不思議があった。そして、どこの学校でもそうであるようにその七不思議は生徒からまるで相手にされていなかった。せいぜい部活動が長引いて日がとっぷり暮れたころに軽く話題になる程度で、怖がられることはおろか否定されることすらない。そもそも六つしか不思議がない! 生前から『本当に怖いもの』に不満を抱いていた俺だって我が校の七不思議に大した感慨はなかった。今どき珍しい木造校舎だというのに築数十年の雰囲気抜群な旧校舎も残っているというのに我が校の七不思議は長年のあいだ不遇な日々を送っていたのだ。
 だが、それも今日が最後となる。俺がこの高校にきわめて形式的に伝わっている怪談話を全部実行することによって校内を恐怖で震え上がらせてやるのだ。俺自身が七番目の七不思議となることで全校生徒および教職員に『本当に怖いもの』を知らしめてやるのだ。
 学校というのは誰もが通ったことのある建物だというのにどうしようもなく特殊な空間だ。その所為かよく怪談の舞台にもなっている。学校、と範囲を狭めることでぼんやりと全世界を相手取るよりもビジョンが明確になるし、小規模な活動から始めることができるし、他校への噂話の伝達などの今後の展望も見込める。勝手知ったる場所でもある。ゴースト復権の足がかりとするのにうってつけのロケーションだろう。
 というわけで俺は校舎にずいと乗り込み、さらなるロケハンのために一通り校内を巡ることにした。七不思議の舞台となっている場所をチェックするのはもちろんのこと、人気のないスポットを探すことも欠かさない。旧校舎は特に念入りに見回った。現在も特別教室などが使用されているのだが廊下の照明は少なく、昼間なのにやや薄暗いいかにもな感じで非常に好ましかった。
 旧校舎の探索を終えようかとしたときのことだった。チャイムの音が校舎に響き渡り、すぐそばの生物室からぞろぞろと生徒が出てきた。空気がにわかに喧騒を帯びはじめる。いくつか見知った顔を発見し、五限は物理・生物だったなと思い出す。俺は物理選択だったからよく分からないが手ぶらの生徒が多い。ビデオでも見ていたのだろうか。
 当たり前だが俺に気づく者はいなかった。廊下のど真ん中に立っている俺をみなすり抜けてゆく。ものを動かすだのラップ音を鳴らすだの青白い腕だけ姿を見せるだの何らかの霊障を起こせばちょっとした騒ぎになるだろうが、いきなりここで準備もなくそのような行為に出る理由はないし構っている暇もない。学業に邁進したりしなかったりしている彼らと俺とでは文字通り魂のステージが違うのだ。
 そのように思い、ひとの波が完全に過ぎ去るまでしばしその場で待っていたのだが、すこし遅れて小樽とその友達が生物室から出てくるのを見てすこし気が変わった。
 小樽とは一昨日ぶりの再会になる。小樽は俺を認識していないので厳密な意味での再会ではないがまあいいだろう。この俺を殺しておいてケロリとした顔で登校してきているとは相変わらず大した心臓の持ち主だ。
 俺が皮肉でもなんでもなく素直に感心しているとは露知らず、小樽は友達(たしか山田さんといったはずだ)とおしゃべりしながら俺の前を通り過ぎようとしていた。
 俺は得意のアイリッシュダンスを披露した。
「きゃっ! えっ何なに、何の音っ?」
 山田さんの叫び声。怯えていると言うよりもやや笑っているふうだったのが残念だ。人間、不意に身の回りで不可解な現象が起こったときには何よりもまず笑ってしまうものなのかもしれない。それが知恩院の鶯張りを数段凶悪にしたような廊下の床板が軋む音なら尚更だ。やはり恐怖には雰囲気作りが肝要だと気づきを得たものの、アイリッシュダンスはやめない。無表情で踊りつづける。
 何故なら小樽が青ざめていたからだ。
「なんか揺れてる……、ほんとこっちの校舎ってボロくて最悪ー」
「…………」
「ん、どうしたの、大丈夫?」山田さんも小樽の表情の変化に気がついたようだ。
「……ううん、なんでもない」
「あ、お化けだと思った? なんちゃって」
「まさか。そんなのいるわけないよ」
「だよねー」
 そんなやりとりをする二人のあいだで俺が踊っている。それ以上は音の原因を追求することもなく、二人は旧校舎を去っていった。

 小樽は俺が五歳からアイリッシュダンスを習っていたことを知っている。小学生のころには発表会を見に来てくれたことだってあった。そのときはもしかしてあいつ俺のこと好きなんじゃと勘繰ったがそれは思い込みというものである。高校受験の時期にインフルエンザを気のせいだと信じ込むことによって克服したこの俺が言うのだから間違いない。
 小樽はあの鶯の声みたいな床板が軋む音が俺のアイリッシュダンスによるものだと分かっただろうか? それとも単なるラップ音の一種として捉え、自分が一昨日殺した男のことを想起したのだろうか?
 どちらにせよ彼女の青ざめた顔は良い景気づけになった。山田さんの反応を確認したときにはこの先に待ち構える前途多難な道程を思い浮かべ心なしか憂鬱な気分になったが、小樽の表情から感じられた恐怖に一筋の光を俺は見た。やれやれ、このようなところで気落ちしていては使命を果たすことはできないぞ、野瀬歩!
 そのまま一曲ぶん踊りきってから旧校舎を出て、今度は体育館に行くことにした。七不思議の舞台のうち体育館とプールはまだチェックしておらず、体育館のほうが旧校舎から近かったからだ。
 ちなみに我が校の七不思議の内訳は次のとおりである。
 一つ目、旧校舎一階の開かずの扉の向こうは異世界に繋がっている。
 二つ目、近くには誰もいないはずなのにプールで何者かに足を引っ張られる。
 三つ目、夜中に生物準備室の骸骨標本と人体模型が動き出す。
 四つ目、新校舎三階の一番奥の女子トイレにはトイレの花子さんがいる。
 五つ目、誰もいない体育館でボールの跳ねる音がする。
 六つ目、夜中に誰もいない音楽室でひとりでにピアノが鳴り出す。
 七つ目、なし。
 列挙してみるとこれぞ七不思議というラインナップのように感じられるが、今ひとつ独自性に欠けているようにも思われる。全部どこかで聞いたことがある内容で、様々な作品で使い古されているというか、使い潰されている印象だ。あと『夜中』と『誰もいない』というフレーズが被りまくっている。昼間もやれよ。誰かいろよ。
 そのような体たらくだから生きている人間に舐められてしまうのだと花子らを諫めたくなる気持ちもなくはなく、それぞれの持ち場にて対面したときには高名な大先輩がたに対する尊敬と畏怖の念を込めたはじめましてのご挨拶の陰でチクリと言葉の棘を刺す気満々の俺であった。幽霊としてはまだまだ未熟者だと自認しているが言うべきところはしっかりと言うべきだ。しかしそんな俺の意気込みに反してこれまで視察してきた七不思議の舞台には誰もいなかったし何もなかった。開かずの扉の向こうにも生物準備室にも女子トイレにも音楽室にも同類の痕跡は何ひとつ見られなかった。異状のないことを確認するたびに昼間もやれよ誰かいろよと連呼したくなったものだ。
 もしかすると、昼間だから何もないのではなくそもそも何もなかった、そういうことなのかもしれない。幽霊やお化けの存在が絵空事ではないことは美容商品の効果を証明するかのごとく他ならぬこの俺が証明しているが、あまりにもテンプレート通りでオリジナリティの欠片もない我が校の七不思議がすべて外部からの引用に基づくもので由来が校内に存在しないまったくの嘘っぱちであったというのはそうありえない話でもない。
 こうなってくると七不思議全部俺計画もある程度軌道修正する必要がありそうだ。現存する七不思議のいくつかあるいは全部を刷新すべきか。新たに考案すべきは七つ目の不思議のみと思っていたがこいつはどうも無い骨が折れそうだ。他の怪談とのバランスを慮って七つ目の不思議は『七不思議すべてを知ると云々』という定番のあれにしようかと目論んでいたのだが、白紙に戻すか。ふむ、まずは俺自身がどれくらいの規模の超常現象を起こすことが可能なのか、どのような怖がらせ行為が可能なのかを探っていくことが重要だろう。
 そうこうしているうちに体育館前に到着した。
 ものは試しにと壁をするりと突き抜けてみたが壁というものは案外分厚いのだなと我ながら妙な感想を抱いただけで特に感動らしい感動はなかった。ならば浮いてみようかと一瞬考えて、生前についぞやったことのない行動を不用意にとるのはあまりよろしくないと思い直した。どんな失敗をするか分かったものではない。墜落したからといって痛みを感じるとは思えないが……。
 そういえば死ぬときも痛みはなかった。あれは失血死と言うのかそれともショック死と言うのか……、何にせよ苦痛がほとんどなかったのは幸いであった。いささか不本意な死ではあったが、おかげで崇高な目的に到達することができたのでその点では殺してくれた小樽には感謝している。小樽が凶行に及んだ動機は『いっぺんやってみたかったから』なんてふざけたものだったと記憶しているが、それでも苦痛を伴わない殺し方を選んでくれたのは彼女なりの優しさだったのかもしれない。小樽によって拘束され視界も奪われた俺が死ぬまでのあいだ退屈しないようにか、これから俺がいかにして死ぬのかをじっくり丁寧に解説してくれたところもありがたかった。
 ブアメードの血、と言ったっけか。
 心理実験のひとつで、人間は思い込みによって死ぬことができるという一例でもある。具体的な内容はこうだ――オランダかデンマークか、とにかくヨーロッパのある国でブアメードという死刑囚を使ってある実験が行われた。医師団はブアメードを丈夫なベルトでベッドに縛りつけ、分厚い目隠しを巻いてからこう告げた。『これからあなたの足の指先にメスで小さな傷をつけて、徐々に血を抜いていきますよ』と。ブアメードの足許には容器が用意され、ぽた、ぽた、と一定の間隔で血液が滴り落ちる音が実験室内に響く。もちろんブアメードの耳にもその音は届く。しばらく時間が経って、全体の三分の一だったか三分の二だったかの血液が失われたと医師団が告げたのを聞いて、ブアメードは静かに息を引き取ったという。ところが、実際にはブアメードは血を抜かれてなどいなかった。足には最初にちょっとした痛みを与えただけで切り傷ひとつついていなかったし、容器にはあらかじめ用意してあった水滴を垂らしていただけだった。ブアメードは自分が出血していると思い込んだがために死んでしまったのだ。
 まあ全部小樽の受け売りなのだが。
 要するに俺はブアメードさんとやらとまったく同じ方法をもって殺されたというわけである。それを冗談実験と嘯く小樽の悪趣味には辟易するが、ここは結果オーライだと捉えておこう。小樽の凶行をきっかけに全幽霊が救われるというのだから。
 外からでも聞こえてはいたが、するり抜けた先、体育館の中は騒ぎ声にあふれていた。一年男子がバスケットボールに興じている。試合はまだ始まったばかりのようだ。これは丁度良いと俺はコートを一直線に突っ切り、隅っこに二台並んでいるボールかごのほうへと向かう。体育館中央で一旦立ち止まりぐるりと全体を見回してみたがやはり同志の気配はなかった。これほどまでにやかましくもあればボールの跳ねる音が一つ増えたところで聞き取れる者は皆無だろう。
 ならば視覚的に攻めるまでだ!
 俺はボールかごに入っていたバスケットボールを片っ端から投げ始めた。誰一人として手を触れていないのにもかかわらず試合とはまるで無関係に放たれ弧を描くボールの群にひとびとは驚きを隠せない。さらに俺は手前側のバスケットと奥のバスケットへ目掛けて交互にシュートし続ける。傍目にはポルターガイスト現象が起こっているようにしか見えないはずだ。旧校舎でのケキョケキョしたラップ音といいこのひとりでに浮遊するバスケットボールといい、この程度の怪現象ならば事前の準備がなくとも難なくこなすことができる。そのことを再度確かめておきたかった。
「っわ! あぶねえな誰だよ!」
「なんだよ俺じゃねーよ」
「おい試合止めろ!」
「見ろよ、ボールが勝手に!」
「本当だ!」
「なんだこれ……」
「全部外れてるぞ!」
「ド下手だ!」
 俺はその場を去ることにした。充分に試行し効果も得られたと判断したからだ。呆然と立ち尽くす後輩くんらに更なるサービス精神を発揮してやる義理はない。
 それに、これまでの予行演習、一連のシミュレーション心霊現象を通して新たに分かったことがあった。それは七不思議全部俺計画にはひとつ重大な見落としがあったということだ。我が校の七不思議が六つしかないとかコピペに過ぎないとかそういった瑕疵とは段違いに実際的な問題だ。一刻も早く対応策を練らねばならない。
 俺の復興プランには、噂を広める人間が想定されていないのだ。
 迂闊だった不覚だった何よりすっかり自惚れていた。幽霊としての自身の秘められた才覚にあぐらをかいてしまい生者だったときの感覚を忘れていた。無関心というこの高校の七不思議に対する当時の自らのポジションを忘れていた。幽霊になった自分ならただやればできると思い込んでいた。怖がらせれば怖がってくれると信じきっていた。
 否否否! 万遍否! その結果がご覧のざまではないか。あからさまに目の前で怪奇現象が繰り広げられているというのにどうだい彼ら彼女らの顔を見てみろ、恐怖よりも仰天の感情がはるかに勝っているではないか。下準備が下拵えが下地作りが足りなかったのだ。ムーブメントを呼び起こすにはセンセーションを巻き起こすにはゴーストを叩き起こすには七不思議の噂を広める人間が不可欠だったのだ。
 そうと分かれば立ち直りは早い。
 協力してくれそうな人間に心当たりはある。
 小樽だ。
 彼女には貸しがある我が命という大きな貸しが。彼女に罪の意識があるかは不明だがうらめしやと軽く脅せば何でも言うことを聞いてくれるに違いない。それにもともと小樽にとってこの手の話は好物の範疇にあったはずだ。最初は先ほどのように青ざめた表情を浮かべるかもしれないが変わり果てた俺に慣れてしまえばまたいつもの星目がちな瞳に戻るだろう。
 俺は古式ゆかしく小樽を手紙で呼び出すことにした。その辺の教室の誰かの机からレターセットを拝借し、便箋に『伝説の樹の下で待っています。A・N』としたためて封筒に入れて下駄箱にそっと忍ばせる。白紙の便箋をもう一枚添えることも忘れない。ここでおどろおどろしい字体をもって小樽を驚かす必然性はない。血文字などもってのほかだ。
 伝説の樹というのは、校庭の南端に生えている古い木のことだ。旧校舎よりも古くからあるらしく、樹齢は百年は下らないとか下るとか。それほど大きな木でもないからきっとデマなのだろうが、とにかく生徒からは伝説の樹と呼ばれ親しまれている。その伝説というのも名ばかりでありこの樹の下で告白した男女は結ばれるといったジンクスもなければ樹の下には死体が埋まっているみたいな七つ目の七不思議候補になりえる怪談話も存在しない。ただの古木だ。
 それでも待ち合わせスポットくらいの役目は務めてくれる。
 伝説の樹の幹に寄りかかりながら俺は小樽を待った。下駄箱の手紙を見つけるのはすくなくとも放課後以降になるだろう。今日が図書委員の当番日にあたっていたならばもっと遅くになるかもしれない。いろいろ練習したいこともあることだしまあ気長に待つとしよう。
 それからしばらく経ち、日も暮れようかとしていたころ、
「――野瀬? あ、あんたなの?」
 果たして、小樽は現れた。
 独りで来いとは手紙では特に指定しなかったが、予想通り小樽は単身で伝説の樹の下にやってきた。俺の真心のこもった便箋を両手に持っている。顔色は旧校舎で見たときと変わらず悪いままだ。自分が殺したはずの男から手紙で呼び出されたというのだからその心情は察するに余りある。

「ねえ野瀬、本当にいるの? あんた一体、何がどうして」
「俺はここだよ」
 もうすこし様子を観察するつもりだったが、あらぬ方角に向かって問いかける小樽を不憫に思った俺はつい声をかけてしまった。考えてみれば幽霊になってから声を出すのはこれが初めてかもしれない。心なしか震えて聞こえるような。ふむ、俺の知り合い相手でなければ小道具を用いて音を立てるよりも肉声のほうが効率的に恐怖を演出できるかもしれない。覚えておこう。
「やっぱりあんただったんだ! どこに隠れてるの!」
 俺の声を頼りに俺の立っている方向すなわち伝説の樹の幹をきっと睨む小樽。口調にもいつもの張りが戻りはじめているが、どこに隠れているの、とは随分と混乱しているようだ。
「いや、俺はずっとお前の目の前にいる。幽霊だから見えないんだ」
「あ、あんたねえ……」
「信じられないと言うのなら証拠をお見せしよう!」
 演出めいた台詞を口にしてから俺は強く念じた。数時間の練習の成果をお披露目するときだ。集中して、今はもう無い身体に力を込めるようなイメージを持続させる。やがて俺の周囲から霊的エネルギーと思しき水滴のような光の球が大小いくつも重なって出現する。
 オーブ。あるいは玉響現象。
 心霊写真によくあるあれだ。
「……ほん、とう、に、幽霊なんだ」小樽は中空を見つめたまま長いあいだ唖然としていたが、すべてのオーブが同時に消えた瞬間、ついに俺の存在をそして幽霊の存在を認めた。「いや、いやいや、いやいやいやいや――」
 かと思えば全力で否定しはじめる。
「怖がることはない、別に俺はお前に殺された恨みを晴らしに来たわけじゃないんだ」
「たしかに生物室で床がめちゃくちゃ軋んだとき、これは野瀬だこのステップは野瀬にしかできないって思ったけど――」
「むしろお前には感謝している。何故ならお前が殺してくれたおかげで俺は生きがいを、いや死にがいを見つけることができたのだから。恐怖の更新、ゴーストの復権という使命を抱くことができたのだから」
「一昨日の夜以来ずっと姿見てなかったけど、下駄箱にあった手紙はどう見ても野瀬の文字だったけど、でも――」
「とはいえ、祟りはしないがすこし協力してもらいたいとは思っていてね。なあに簡単なことだ、小樽なら余裕で完璧にこなすことができるだろうよ、俺という大の男を殺害せしめた小樽ならこんなこと朝飯前にしてデザートは別腹ってやつさ」
「あたし! 殺してないし!」
「…………え?」
 殺してない?
 それは殺したという意味だろうか。反語的な。
「あっ、殺すつもりはなかったということか? まあお前がそう言うのなら俺も無闇に追及はしないよ。ひとの心の裡を他人が完全に理解することなどできやしないし、それに過ぎたことだ」
「そうじゃなくて! いや殺すつもりはなかったけど、そうだけど、そうじゃなくて!」
 肩で息をしている小樽。彼女が何かを伝えようとしているのは分かるが、何を伝えようとしているのかさっぱり見えてこない。
 日は暮れそうでなかなか暮れない。
「……あんた、一昨日の夜、あたしがあんたを冗談実験の実験台にして何をやったか覚えてる? あたしが懇切丁寧に解説してやった内容、覚えてる?」
「冗談実験って……。ああ、えっと、ブアメードの血だろ? 今にして思えば俺にぴったりの殺害方法だよな」
 俺は死のまぎわに小樽から教わった話をそのまま繰り返す。ブアメードの血。心理実験。人間は思い込みによって死ぬことができるという一例。身体の自由と視界を奪われた死刑囚ブアメード。医師による血抜きの宣言。足許に用意された容器。ぽた、ぽた、と一定の間隔で響き渡る音。が大量の血液が失われたと知らされ、苦痛もなく絶命したブアメード。しかし実際にはブアメードは無傷だった。思い込みによる死。
「あー」俺の話を最後まで聞いた小樽は顔に手を当て、天を仰いだ。「昔っから馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、まさかここまでの馬鹿だったとは」
「なんだよ。何か間違っていたか?」
「あのねえ」
 俺の問いかけを無視して、小樽は言った。
「オチまで知ってるんなら、あんたが血を抜かれたと思い込んで死んじゃうわけがないでしょうが!」
 …………。
 …………。
 ………………はっ。
 そうだ。言われてみれば当たり前のことだ。ブアメードが死んだのは、本当は足の指がメスで傷つけられてなどいないと知らなかったからだ。容器に滴る音が血液ではなくただの水だと知らなかったからだ。たとえブアメードとまったく同じ状況下にあったとしても、そういった真相を実験の最中に小樽から聞いていた俺が足の指から血を抜かれていると騙されるなんていくらなんでもありえない、と、思う……。
「ったく、何のために解説したと思ってるの、だから冗談実験なんだってば。ネットで見ていっぺんやってみたかっただけ。あたしはあんたを殺しちゃいない」
「で……、でも、それじゃあ」
 小樽に殺されていないというのならば、どうして俺は幽霊になっている? どうして俺は誰にも視認されることがない? どうして俺は人間も壁もすり抜けることができる? どうして俺はオーブを出すことができる?
「あんたの思い込みの激しさを甘く見てた。朝起きたら放置してたはずのベッドがもぬけの殻だったときには、てっきり縄抜けでも覚えたのかなって思ってたけど、そんなもんじゃなかった……」
 呆れたというよりは単にうんざりした顔で小樽は言う。
 こんな馬鹿なこと死んでも言いたくなかったけど、と前置いて。
「血が抜かれていると思い込んで死んでしまうという話を聞いたあんたは、こともあろうに、血が抜かれていると思い込んで死んでしまった――と、思い込んだんだ。そしてあんたは、さらに馬鹿なことに自分が幽霊になったと――」
 そのとき。
 俺は自身がにわかに白く輝きだすのを自覚した。思わず右手を顔の前にやる。握り拳が、手首が、シャツの袖が、輝きの奥からじんわりと現れてゆく……夕日に照らされてゆく……。
 これは――幽霊の登場する物語でときおり見られるパターン、の逆。
「そうか……、俺は、まだ……」

 
(終)