『血と暴力の国』・『ザ・ロード』 コーマック・マッカーシー

こんにちは。西本歩浩です。
この忙しい時期ですが、またちょっと小説を紹介したい欲にかられました。部員からも「書いて良いよ」とお許しを得たので、再びこの場を借りて本の紹介を掲載します。
今回紹介するのは、アメリカの作家、コーマック・マッカーシーの作品二つです。一つは、2005年の小説『血と暴力の国』(原題:No Country for Old Men)。もう一つは、翌06年の、ピューリッツアー賞も受賞した小説『ザ・ロード』(原題:The Road)。

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

どちらも映画化されています。前者は2007年に米国で公開され、日本では『ノーカントリー』の邦題で翌年封切られました。後者は2009年に米国で、日本でも同じ題で翌年公開されています。
今回は、まずこの二つの作品も含めたマッカーシーの文体上の特徴についてちょっとした解説を前置き、次に『血と暴力の国』、『ザ・ロード』をそれぞれ紹介していきます。

1. マッカーシーの文体の特徴
彼の文章には目に見えて分かる特徴が主に二つあります。
一つは「カンマ(邦訳では読点)をほとんど使わない」こと。
つまり、意味の区切りとか、主節とか従属節とかの切れ目とかを示すためには一切読点が使われないのです。例えば、『ザ・ロード』にはこういう段落があります。

 遠い過去に彼はこのすぐ近くで一羽の隼が山の青い横長の壁を背景に急降下して鶴の群れの真ん中の一羽を胸骨の竜骨突起で一撃しぐったりしたひょろ長い獲物をつかんで川まで運び秋の静かな大気の中に飛び散る薄汚い羽毛の尾を引くのを見たことがあった。
[『ザ・ロード』(ハヤカワepi文庫版、以下同じ) 25ページ]

これは多少極端な例です。彼の文章は一文一文が普通そんなに長くないので、テンポよく読めます。ただ、こういう特徴もあるので、少し読みづらい文にも突き当たったりするかもしれません。もちろん、全く読点が無いわけではありません。ある種最低限のルールみたいなのがあるようで、例えば名詞を列挙するときには読点が使われます。

 少年の手を引いて品名がステンシル刷りされた箱の列に沿って歩いた。チリ、玉蜀黍、シチュー、スープ、スパゲティソース。消滅した世界の豊かさ。
[『ザ・ロード』 159ページ]

もう一つの特徴は、「クオーテーションマーク(邦訳ではカギ括弧)を一切使わない」こと。これはより重要です。本のどこを探しても、一つもカギ括弧が出てきません。セリフの部分は改行されることで示されます。

 若者はコートを脱いでそれをよこしモスから紙幣を受け取った。
 これ何がついてんだ?
 血だ。
 血?
 血。
 若者は紙幣を片手で持ったままじっと立っていた。指についた血を見た。あんたどうしたんだい?
 撃たれたんだ。
[『血と暴力の国』(扶桑社ミステリー版、以下同じ) 150ページ]

とはいえ、上の文のように、地の文とセリフ部分が同じ段落に入っているところも多々あります。読者はその文の主語とか語調などによって、それがセリフか地の文かを推測しないといけません。というか、カギ括弧が無いので、「セリフ」とか「地の文」といった区別自体そもそも適切ではないかもしれません。全部が渾然一体となった一つの文章としても読めます。
ちなみに、先ほどの読点は、このセリフ部分を示すためにも使われます。

 ベルは群庁舎の裏の階段をのぼり廊下を歩いて自分の事務所へ行った。回転椅子をまわし腰かけて電話を見た。さあ鳴れよ、と彼は言った。おれはここにいるぞ。
 電話が鳴った。受話器をとった。はいベル保安官、と言った。
[『血と暴力の国』 53ページ]

2. 『血と暴力の国』
コーマック・マッカーシーはそれまで純文学作家として知られていたそうですが、2005年に発表されたこの作品はいわゆるクライム・ノベル(犯罪小説)なので、ファンを驚かせたそうです。
2.1 あらすじ
1980年、アメリカ・テキサス州西部で、酸素ボンベを持ったアントン・シュガーという男が保安官に連行される。しかし、事務所に入ったところで、シュガーは保安官の隙を突いて彼を手錠の鎖で絞殺、パトカーを奪う。州間高速道路上で彼は別の車を止めさせ、その運転手を酸素ボンベの圧縮空気で打ち出したボルトで殺害すると、新たにその車を奪って逃走した。
メキシコ国境の砂漠地帯でハンティングをしていたルウェリン・モスは、偶然にもマフィア達の殺害現場を発見する。麻薬取引が行われるはずだったらしいそこには多数の死体が転がり、唯一生き残っていた男はスペイン語で「水を」と言うばかりだった。モスはその現場で、300万ドルという大金を見つけると、それを持ち去る。しかし、モスは水を持って夜に現場に戻ったため、そこでマフィアの仲間に見つかり、命を狙われる。生き延びたモスは妻と家を出て、逃亡生活を始める。しかし、マフィアに雇われたシュガーが、モスの金を狙って動き出していた……。
モスの住む地区の老保安官エドトム・ベルは、犯罪が時代を経るごとに凄惨さを増していくことに憂いを覚えていた。相次いで起きた殺害事件と、モス夫妻の失踪を調べに彼は動き出すが、次第に明らかになる事態の深刻さに、ベルは苦悩を深める。
逃げるモス、追うシュガー、二人を捜すベル。様々な人間の運命を巻き込んだ事件の行き着く先とは――。

2.2 概要
本作は、各章にベルの短いモノローグ部と、三人称視点の部分が含まれています。
三人称部では、三人の主人公およびその他の人物が描かれます。地の文は淡々としていて、行動の描写が細かく、人物の内面を表す描写はかなり抑えられています。なので、人物が何を考えているのか、行動から察しなければならないこともしばしばなのですが、それが文章に緊張感をもたらしています。一方で会話部はなんだか独特です。時に冷たく、時にコミカルで、時に哲学的です。これらが相まって印象的な文章が出来上がっています。
前述した通り、この作品はジャンルとしては犯罪小説として見られます。しかし、ただハードで冷徹なだけの物語ではなくて、文章の下をある一つの思想のようなものが流れているように思えます。
それを象徴するのが、主人公の一人であり、悪役である、「アントン・シュガー」という男です。彼はもの凄い強烈なキャラクターで、一度読んだら絶対に忘れられないと思います。非常に興味深いキャラなので、以下は彼を中心に紹介します。
2.3 アントン・シュガーという男
あらすじの通り、冒頭から間もなく彼は人を殺します。さらに間を置かずにもう一人も。彼のためらいの無さから、読者は彼が「本物の殺人者」だと直観します。正直言うと、本作で人殺しをしているのはほとんどの場合、このシュガーです。出会った人間を全員殺す勢いで殺しています(ただし、例外も意図的に作っています)。
彼は口数が少なく、無駄な思考を一切しないような印象があります。他人に対してもどこか機械的に接し、感情の起伏がまるで無いように見えます。また、「仕事」に関しての手際も洗練されており、必死に逃げるモスを無慈悲に追い詰めていくさまが描かれます。
こういった要素により、シュガーは極めて不気味な印象を与えるキャラクターになっています。

彼というキャラを紹介するため、ここで本編の一場面を引用しましょう。物語前半、シュガーはテキサス州の田舎のガソリンスタンドに寄り、代金を払うために店内に入ります。すると、店主が話しかけます。

 来る道で雨が降ってましたかね? と店主が訊いた。
 それはどこの道のことだ?
 お客さんダラスのほうから来たんでしょ。
 シュガーはカウンターから釣り銭をとった。おれがどこから来たかなんてあんたになんの関係があるんだ?
 今のは別になんの意味もないですよ。
 今のは別になんの意味もなかったわけだ。
 ただ世間話ですから。
 あんたら貧乏白人はそれをお愛想だと思ってるわけだ。
 今のは謝りますよ。謝ってもだめだと言うんならほかにどうしたらいいかわかりませんな。

店主は今の会話から、シュガーの持つ異様な雰囲気を感じ取り、目を合わせることもできなくなります。シュガーは金を払って菓子を買うと、その場で食べ始めます。

 ほかに何かご入用のものは?
 さあな。あるかな?
 何か気に入らないことでもあるんですか?
 何が?
 いやなんでもいいですがね。
 そんなことをおれに訊いてるのか? 何か気に入らないことがあるかどうか。
 店主は眼をそらし拳を口にあててまた咳をした。シュガーを見てからまた眼をそらした。窓の外の店先を見た。ガソリン計量機と客の車が見えた。シュガーはまた少しカシューナッツを食べた。
 ほかに入用のものはありますかね?
 それはさっき訊いただろう。

店主は今から店を閉めると言って、シュガーを避けようとします。しかし、シュガーはそれを真に受けたかのように、何時に閉店するのかと問いただします。店主は「いつも暗くなる頃」と答えると、シュガーは「おまえ自分が何を言ってるかわかってないだろう」と断じ、今度は何時に寝るのか、ここにずっと住んでいるのか訊きます。店主はこの土地は妻の父親のものだったと答えると、シュガーは「財産付きの女房をもらったわけだ」と評します。やがてシュガーは菓子を食べ終わり、唐突にこう尋ねます。

 おまえが今まで見た中でコイン投げで失くした一番でかいものはなんだ?

ここからがこの場面でもっとも重要な部分です。

 シュガーはポケットから二十五セント硬貨を出して頭上の蛍光灯の青みがかった光の中へくるくる回転させながら弾きあげた。それを受けとめて腕の血のにじんだ布を巻いた部分のすぐ上に叩きつけた。裏か表か、シュガーは言った。
 裏か表か?
 そうだ。
 こりゃなんです?
 いいからどっちだ。
 何を賭けるのかわからないとねえ。
 それがわかったらどうだというんだ?
 店主は初めてシュガーの眼を見た。ラピスラズリのように青かった。光っていると同時に完全に不透明だ。濡れた石のように。さあどっちか言え、とシュガーは言った。おれが代わりに言うわけにはいかないからな。それじゃフェアじゃない。正しいことでもない。さあどっちだ。
 あたしゃ何も賭けちゃいないですよ。
 いや賭けたんだ。おまえは生まれたときから賭けつづけてきたんだ。自分で知らなかっただけだ。このコインはいつ作られたか知ってるか?
 いいえ。
 一九五八年だ。このコインは二十二年間旅をしてここへ来た。今はここにある。おれはここにいる。おれがコインの上に手をかぶせている。表か裏のどっちかだ。おまえはどっちか当てなくちゃいけない。さあ言え。
 勝ったら何が手に入るのかわからないんじゃあ。
 青い光の中で店主は顔に汗を薄く浮かべていた。上唇を舐めた。
 勝ったらすべてを手に入れるんだ、とシュガーは言った。すべてを。

店主が「表」と答えると、実際にコインの向きは表でした。シュガーは「幸運のお守りになる」と、店主にその硬貨を渡し、こう言います。

 どんなものでもきっかけになりうる、とシュガーは言った。どんな小さなものでも。おまえの眼に留まらないようなものでもな。それらは人の手から手に渡る。人はそれに注意を払わない。ところがある日突然清算日がやってくる。それ以後はすべてががらりと変わるんだ。でもたかがコインだとおまえは言うだろう。たとえばな。特別なものじゃないと。これがなんのきっかけだというんだと。問題がどこにあるかわかるだろう。その物と行ないを区別するのが難しいんだ。人は歴史のある瞬間を別の瞬間と取り替えてもなんの違いもないと考える。どんな違いがあるんだ? ただのコインじゃないかと。なるほど。それはそのとおりだ。そうだろう?
[以上、『血と暴力の国』 67-75ページ]

そうしてシュガーは店を後にします。
まず補足をしておきます。このコイン投げで、実際に何が賭けられていたか。それは「店主の命」です。シュガーはそれを明らかにしていませんが、しかし読者は既に、彼がためらいもなく人を殺す奴だと知っているので、それを予感しているとこの場面は潜在的な緊張感を持ちます。実際、物語終盤にももう一度コイン投げの場面があり、そこでも人の命が賭けられているので、この場面でも意図は同じといえます。
つまり、こういうことです。二十二年間世間をさまよったコインが、その日偶然あるガソリンスタンドに行きつき、一人の人間が生きるか死ぬかを決めている。店主の側からしてみれば理不尽極まりない話です。自分の命が、偶然この場所に流れ着いたコインの向きによって決められるなんて。偶然このスタンドに客が来て、偶然世間話をしようとしたら、その客に一方的に命を賭けたコイントスをされるなんて。
しかし、アントン・シュガーは、独自の運命論を持っているようです。そして、それを人にも強制します。人は誰でも気づかないうちに、自分の人生の行き先を決めている。そして、その自分の選択が清算される日が、いつか突然やってくる。全ては偶然ではない。しかし、人はそのことに気づかない。

この小説を全体的に見てみると、この店主より不運な人が実は多くいます。その日偶然にシュガーに遭遇してしまったという、ただそれだけのことで彼に殺されてしまう人々がいるのです。基本的に彼らには何の落ち度もありません。それまで平凡に自分の人生を送ってきた人もいるし、悪事に手を染めてしまった人もいますが、それでも明らかにシュガーに殺されなければならないという因果がある人は、ほとんどいません。
彼らも、それまでの選択の清算として殺されたのでしょうか? それは分かりません。前述のような運命論を信じない人には、理不尽以外の何物でもないです。だから、私達の目に、シュガーは理不尽そのものとして映ります。彼は容赦なく制裁を加えてきますが、そんな存在の前に私達はどうすることもできない。僕自身、シュガーのことを「自然災害」のようなものだと思ってます。
しかし、そもそも彼は何者なのでしょうか?
2.4 「外の闇」
この小説の翻訳者、黒原敏行氏は、あとがきで興味深い考察をしています。以下ではそれをまとめてみます。
これだけ強烈なキャラであるシュガー。しかし、劇中では彼の過去、経歴、出身地などは実は一切不明です。先ほどの引用場面で、彼が「おれがどこから来たかなんてあんたになんの関係があるんだ?」と言っていたことがそれを象徴しています。彼がどういう人間なのか、読み終わってもすべて謎のままです。
もしシュガーに「メキシコの極貧地区ですさみきった子供時代を過ごして……」というような過去があって現在に至るのなら、この物語は現実の社会問題とか心理的な問題とかがテーマであることになるでしょう。しかし、実際にはそんなことは書かれません。何も背景がありません。
そうすると、彼は、もはや共感や理解を超えた悪、悪としか言いようがない悪、純粋悪(pure evil)、と見ることができます。
黒原氏はさらに、社会問題や心の問題は人間にとって「内なる闇」といえるが、シュガーのような存在は「外の闇」と呼べる、と言っています。つまり、人生のある時点で偶然遭遇するかもしれない、私達の力では対処しようのない存在。それは私達の内側ではない、外部からやって来る災いです。自分の外部というのは、すなわち「世界」そのものといってもよいかもしれません。そんな世界の理不尽に対して、私達はどうすればいいのでしょう?
もしかしたら、実はシュガーが言うように、それを運命として受け入れるほかないのかもしれません。私達がなかなかそれをできないのは、私達が普段、内なる闇にばかり注目していて、外なる闇について考えたことがないからなのかもしれません。黒原氏は、シュガーという人物について、そう分析しています。
2.5 むすび
私達は、世の中の犯罪の原因は、社会の歪みとか心の闇にあると思う傾向があります。実際、その通りのことが多いです。それでも、時には、私達の信じる規範や常識からまったく逸脱してしかも平然としているような存在を目撃してしまうこともあります。そういう存在のことを、私達は理解できません。手の施しようがないのです。社会の歪みなら是正すれば良い、心の闇は人との繋がりの中で除いていけば良い。しかし、世界には、そういった対策が全く通用しない存在が確かに"いる"のです。
これは、実は主人公のベルの憂いと同じです。彼は、世間の犯罪が昔と違って、どんどん手に負えなくなるどころか、理解することも難しくなっていると感じています。シュガーのような奴が現れたらそう思いたくもなりますが、彼は老年の保安官として何ができるかを深く悩むようになります。
最終的に彼はどう考えることにしたか。本文の結末は、いろいろと示唆的です。それを読んでみると、自分の回りの世界について、何か見方が変わるかもしれません。


3. 『ザ・ロード
さて、こちらの作品は打って変わってSF要素があります。いわゆる終末モノ、ポスト・アポカリプティックな作品です。僕が今年読んだ中で一番感動した本はこれです。
3.1 あらすじ
空には薄汚い雲が広がり、大地にはどこまでも灰が降り積もる。文明の崩壊した世界。そこではすべてが廃墟となり、動植物も死に、生き残っている人間の間では、略奪や殺人、そして食人が横行していた。
その世界にあって、一組の父親と息子は、冬を避けるため、大陸をひたすら南へ歩く。ショッピングカートで荷物を運び、まだ食べられる物を探し出し、弾があと二発しかない拳銃を持って、父親は世界から息子を守ろうとする。自身も病魔に身体を蝕まれていることを知りながら。
日に日に体力は奪われ、気温は下がり続ける。長く過酷な旅の中で、父子は何に出会い、何を思うのか。

3.2 概要
世界がなぜ滅びたのか、劇中では理由は書かれていません。何か、人類自身が原因であるかのようなことが示唆されていますが、ともかく、物語の開始時ではそれは既に問題ではなくなっています。"事後"の人類にとっては、ただ今日を生き延びることが最大の関心事なのです。
本作では、「終末の世界で生きる」ということがとにかくリアルに描かれています。二人だけで生きていく父子。彼らを取り囲む世界は灰色に沈み、道端には死体が転がり、まれに出会う生きた人間達は彼らを襲おうとする。そんな中で、廃墟から食べ物を探し出し、寝るために安全な場所を見つけなければいけない。その過酷さ、劣悪さが、説得力をもって描写されています。本編の冒頭部に、そんな世界観が暗に集約された良い段落があります。

 一時間後二人は道に出た。彼がカートを押し彼も少年もナップサックを背負っていた。ナップサックにはとりわけ大事なものを入れていた。カートはいざというとき棄てて逃げなければならない。カートのハンドルに自転車のクロムめっきをしたバックミラーをとりつけてあるのはうしろを警戒するためだった。彼は背中のナップサックを揺すりあげてから荒廃した土地を眺めた。道は無人だった。下の狭い盆地には静止した灰色の蛇のような川。その不動の精確な輪郭。両岸には死んだ葦の繁みがまつわりついていた。大丈夫か? と彼はいった。少年はうなずいた。それから二人は砲金色の光の中でアスファルトの道を歩きだした。灰を小さく蹴立てながら、それぞれが相手の全世界となって。
[『ザ・ロード』 10ページ]

ここからも分かる通り、この作品の一番重要な点は、父子の間の関係です。
3.3 父と子
劇中では父と子の名前は書かれません。ずっと、「彼」とか「父」、あるいは「少年」、「息子」と書かれます。息子は父のことを「パパ」と呼びますが、父は一度も息子を名前で呼びません。これに限らず、本作では固有名詞が極めて排除されています。
父親がかつてどういう人間だったのかは分かりません。医学の知識があるかのような描写がありますが、医者だったのかは不明です。一方で、息子は、文明が滅亡した後に産まれたと思われる描写があります。つまり、たくさんの人々が生きていた世界を知らずに産まれてきたのです。そして、母親は物語の開始時では既に死亡しています。父の回想シーンで、自殺したことが強く示唆されています。
残った父親には、何があっても必ず息子を守るという強い信念が感じられます。彼が少年に深い愛情を持っていることは何度も描かれ、それは物語の第一文目からもう分かります。

 森の夜の闇と寒さの中で眼を醒ますと彼はいつも手を伸ばしてかたわらで眠る子供に触れた。
[『ザ・ロード』 7ページ]

もちろん、危険な状況を息子に分からせるために叱ることもありますが、一度も本気で怒りをぶつけることはありません。息子が何かミスをしても、それを責めることはなく、自分の責任として受け入れます。また、彼が携行している弾が二発だけの拳銃は、自衛用というよりはむしろ自害用です。略奪者達に襲われて進退窮まったとき、彼らには殺されないために使うものです。しかし父親は、いつか来るかもしれない「その瞬間」について、深い葛藤を抱えていることが書かれています。
そんな息子は、まさに地上最後の純真、といえるような存在です。年相応な面と、奇妙に達観した面が同居しています。悪いことをしたと思ったらちゃんと父に謝ります。分からないことは何でも父に聞こうとします。絶望的な世界の中で、少年はあくまでまっすぐで、唯一無二の存在に見えます。本文の情景描写が暗く重くなるしかない中で、彼ら二人のやり取りには本当に心が温まるものがあります。

ただ、父親はあくまで、自分達二人が生き残ることを第一にしています。たとえそれが、略奪者の命を奪い、助けを求めている弱者を見捨てることになっても、心を鬼にしてそれを実行します。それは自分達を取り囲む現実をよく理解しているからかもしれません。
しかし、息子は彼らを見捨てることができません。どれだけ自分達が困窮している状況にあっても、弱っている他者を助けたいと言うのです。
物語序盤で、父子は、雷に打たれたと思しき衰弱した人間を見かけます。息子は、「助けてあげられない? パパ?」と訊きますが、父親は「無理だ。助けてあげられない、してあげられることはなにもないんだ。」と言います。その人を通り過ぎても、息子は何度も後ろを振り返り、しまいには泣き出します。父親は謝りますが、「でもあげられるものはなにもないんだ。助けようがないんだ。あの人は気の毒だけどパパやお前にはなにもできない。それはわかるだろう?」それでようやく息子は振り返るのをやめます。
このような場面もあります。中盤、略奪者達にカートの中身を奪われ、食べ物が尽きてきた父子は飢え死にしそうになります。目につく町や民家の跡を探りますが、どこも略奪者達にパン屑一つまで持ち去られた後でした。疲労だけが蓄積し続ける中、ある町はずれの一軒家に入ります。部屋部屋を探り、庭に出た父親はふらふらになりながらシャベルで地面を掘り始めます。そこからは南京錠のかかったドアが姿を現しました。子供はひどく怖がり、父親に中に入ってほしくないと言いますが、父は錠を壊し、ドアの中に入ります。そこは、奇跡的に取り残されたシェルターで、十分な保存食と物資がありました。餓死の寸前で出会った幸運。けれど、「シェルター」というものを知らない少年は、なぜこんなところに食べ物があるのか分かりません。父親はこう言います。 

 ここにあるのはある人たちが必要になるかもしれないと思ったからなんだ。
 でもその人たちは使わなかったんだね。
 そう。使わなかった。
 死んじゃったから。
 そうだ。
 ぼくたちがもらっていいの?
 ああ。いいんだ。その人たちはもらってほしがるはずだ。パパとお前がきっとそう思うのと同じように。
 その人たちも善い者だったんだね?
 ああ。そうだよ。
 ぼくたちと同じように。
 同じように。そうだ。
 じゃあいいんだね。
 ああ。いいんだ。
[『ザ・ロード』 160ページ]

お腹が空いて空いてたまらないところにようやく食料を見つけても、「ぼくたちがもらっていいの?」と訊く少年。かつて人類が互いを助け合い信頼し合っていた世界を知らないはずなのに、それでも他者を助けようとする少年。彼の良心は、いったいどこから来るのでしょう?
3.4 "Carry the fire"
先ほどの引用部で、息子は「善(い)い者」という言葉を使っています。劇中で父親は、自分達は善い者だと息子に言い聞かせており、二人はそれを信じようとしています。何をもって「善い」とするのかは明示されませんが、ともかくその対照にあるのは、物を奪い、人を殺し、その肉を食べる「悪者」です。父は、どれだけ腹が減って困窮した状況に陥っても、ある一線だけは超えまいと心に決めているようです。そういうわけで、彼らの言う「善い」(good)とは、私達の現実でよりも大きな意味で使われています。つまりそれは、彼らの信じる「人間らしさ」といえます。自分達を取り囲む世界がみんな「悪」に堕ちていっても、己の信じる道を進もうと決めているようです。
しかし、父にはジレンマがあります。息子には自分達は善い者だと教える一方で、自分は他者を殺すこともある。人を喰わなければ直ちに「善い者」だとは言い切れません。「悪」から身を守るために、「悪」に近いやり方をせざるを得ないときがある。おそらく、これが父と息子との対立点です。父は息子への愛ゆえに、他者を排除しなければならない。一方で、息子の良心はより普遍的で、他者を見捨てたくない。だから、作中ではしばしば父と息子との間でせめぎ合いがあります。
それでも、なぜ父は息子に、自分達は善い者だと教えることにしたのでしょうか?

 二人が通り抜ける街々の広告板にはよそ者は出ていけと警告する言葉が書き殴られていた。広告板は白く塗り直されていたがその薄いペンキの層の下にはもはや存在しない商品の広告が淡く透けていた。二人は道端に坐り残りの林檎を食べた。
 どうした? と彼はいった。
 なんでもない。
 食べ物はまた見つかる。いつだって見つかるんだ。
 少年は返事をしなかった。彼は少年をじっと見た。
 そのことじゃないんだね?
 別にいいんだ。
 話してごらん。
 少年は道のほうへ眼をやった。
 話してほしいんだ。怒らないから。
 少年はかぶりを振った。
 パパの顔を見るんだ。
 少年は彼に顔を向けた。今まで泣いていたように見えた。
 話してごらん。
 ぼくたちは誰も食べないよね?
 ああ。もちろんだ。
 飢えてもだよね?
 もう飢えてるじゃないか。
 さっきは違うことをいったよ。
 さっきは死なないっていったんだ。飢えてないとはいってない。
 それでもやらないんだね?
 ああ。やらない。
 どんなことがあっても。
 そう。どんなことがあっても。
 ぼくたちは善い者だから。
 そう。
 火を運んでるから。
 火を運んでるから。そうだ。
 わかった。
[『ザ・ロード』 146-148ページ]

「火を運ぶ」(carry the fire)というのも、劇中にしばしば登場する言葉です。具体的な意味は読者に示されず、何か二人の間だけで通じる合言葉のように使われます。読者はこの言葉についていろいろイメージを膨らませることができます。たとえば、松明を人から人へ伝える聖火リレーのような。しかし、劇中では、雷による山火事で焼け死んだと思われる人がいたり、大地の至るところに灰が降り積もっていたりします。そういう意味で、「火」は両義的な印象を与えます。人間を温かさで癒し、同時に人間を殺しうるもの。
それでも、もし父子にとって、火が無かったらどうなるでしょう? 寒さに殺されてしまう。食べ物を調理することもできなくなる。作中では、火を起こす父の苦労が時々描かれています。薪になりそうな枯れ枝を探すために息子の場所から離れたり、上手い火起こしの方法を試行錯誤したり。火は、この世界を生き抜く上で大切な要素として描かれます。
「火を運ぶ」の言葉の解釈は、人それぞれあると思います。その意味が何であれ、父親が子にそれを教えるのは、ある種の希望を子に託しているからだと思われます。息子は文明が崩壊した後に生まれた人間です。つまり、全ての法律や倫理や道徳が消え去った後のカオスを見て育っていくことになるのです。親だったら、その子の未来を案じないわけにはいきません。自分自身が病気に命を削られているなら、なおさら。だから、父は自分の信じる「人間らしさ」を教えようとしているのでしょう。彼の深い親子愛を通して。「火を運ぶ」と言いますが、自分でそう思わない限りそもそも「火」を「持つ」こともできません。逆に言えば、そう信じ始めれば、誰でも「火を運ぶ」ことができます。父は息子に「火を運んでいる」と信じられる存在であってほしいと願ったのでしょう。
息子の普遍的な良心は、その父の教え、あるいは愛情の反映かもしれません。絶望の時代にあって、それでも彼のような少年の存在は、希望となります。つまり、この本で描かれる父子の旅は、彼らの信念を象徴する「火」を守り運ぶ旅と読み替えられます。
その旅の終わりに何があるか。それはぜひ、自分の眼で確かめてください。
3.5 むすび
最後に僕自身の感想を書いて終わらせてください。
読み終わったとき、この小説は僕にとって一つの「極限」となりました。極限まで無駄が削ぎ落とされた文体、極限まで排除された固有名詞などの具体性、極限まで絞り込まれた人間関係、極限まで先行きを見えなくされた物語展開、極限まで徹底された絶望感、そして、極限まで突き詰められた物語のメッセージ。
それらの点で、僕はこれ以上に「力」を持った物語を知りません。ある種の「神話」にさえ思えます。あたかも、これまで人類に語られてきたあらゆる物語と、これから語られるであろうあらゆる物語の、「原型(プロトタイプ)」であるかのように思えます。それほどにこの物語は純粋で、根源的です。過大評価してるかもしれませんが。
確かに、万人受けしそうにない、重苦しい空気に満ちた小説です。また、どことなくキリスト教的なイメージが見えなくもありません。それでも僕としては、人間なら誰でもこの本を読んでほしいと思います。この小説の映画版で「父親」役を演じたヴィゴ・モーテンセンは、アメリカを越えて世界で受け入れられているこの物語について、「誰でも、どこの文化でも、理解できる(Anybody and any culture can understand)」と述べています。
父親がいる。子供がいる。互いを頼りに旅をしている。たとえ世界が絶望に満ちても、助け合って生きていく。彼らには信じていることがある。彼らは火を運んでいる。難しく考える必要はありません。読めばきっと、心の一番深い部分で直観できるものがあるはずです。
生きている間にこの本に出会えたことを、僕は幸運に思います。そして、僕自身も、火を運んで生きていこうと思いました。
ぜひみなさんに勧めたい、そんな一冊です。



4. おまけ
上記の2小説の映画版を少しだけ紹介します。
まずは『ノーカントリー』。

↓例のコイントスのシーン。このアントン・シュガー役でアカデミー賞を受賞したハビエル・バルデムの怪演をご覧ください。

(※流血表現あり)シュガーによる衝撃的な「屠殺」シーン。


ザ・ロード』。

↓「あと2発。お前の分と、パパの分」

↓「今度あの子を見たら撃つ」


↓あと、映画とは関係ありませんが、僕の好きなバンドに、『ザ・ロード』の世界観に影響された曲があります。僕がこの本を読んだ直接のきっかけです。

"Help me to carry the fire
We will keep it alight together
Help me to carry the fire
It will light our way forever"
 (火を運ぶのを手伝ってくれ
 一緒に灯し続けよう
 火を運ぶのを手伝うんだ
 いつでも俺達の道を照らしてくれるだろう)