故障かな、と思ったら その2

二章


 信じること、それが強さだ。


 一点の光もない。何も見えない。すぐそばにいるはずの顔すらまったく見えないし、どこに壁があるのかもわからない。ごつごつとした岩に覆われた足元が、ひどく不確かなものに思われる。地面が、揺らぐような錯覚さえ覚えた。
 完全なる闇。
 闇とはすなわち恐怖だ。光差さない茂った森はそれだけで魔窟であるし、月のない夜は魔物の跋扈する時間だ。
 と、にわかに視界が赤くなった。ほのかな、橙色の光が洞窟の壁を照らし、すぐそばに少女の顔の輪郭を浮かび上がらせる。
「ランプを持っていたのですか。すごいです。ソト」
 ハナイが、手を合わせていった。それにソトが嘆息で返す。
「当たり前だろ。どのみち奥に進めば真っ暗なんだから。準備っていうのは、こういうことを言うもんなんだよ。まさかお菓子つめて準備完了なんて思ってたわけじゃないだろうな?」
「でもお菓子は大切です」
 毒のあるソトの言葉にハナイはそんな返答をする。サナはそんな二人の会話を笑顔で聞いていて、だけど不安感は、なおもぬぐえなかった。入り口が崩落してしまったことなんて、たぶん些事だ。本当に恐ろしいことは、これから起こる気がしてならない。
 にわかに、気配が生まれた。
「あれは、何でしょうか?」
 その存在に、サナだけでなくハナイとソトも気づいたようだ。三人が同時に気配のしたほうを向き、ハナイがつぶやいた。
 それは、およそ人のようでもあった。黒の長いコートに身を包み、フードを目深にかぶっている。その奥に見える顔は、白地にさけた紅色の口を持つ、ピエロのマスク。
「あ……あ……」
 サナは、声が出なかった。
「人でしょうか。それとも魔物?」
「ちょっ。ふざけんなよ。こんな状況で魔物が出るなんて、それこそ最悪……」
「いえ、大丈夫です。やっつければいいのですよ」
 そう言って、ハナイは変身しようとする。それが、間違いだった。刹那、ハナイの首が跳んでいた。
 驚きのあまり、ソトは動けなかった。
 恐怖のあまり、サナは動けなかった。
 指をわずかに動かすことも、息をすることすらできない。
 サナは、その存在を知っていた。破壊と殺戮を好み、ただ殺すために人を殺す、たった一体で国を滅ぼしたという伝説を持つ、史上最悪にして史上最強の魔物。名前を呼ぶことすら禁忌とされるそれは、魔物ではなくもはや天災だ。
 ハナイの首が跳んだ直後、それはソトの頭を貫き、サナの喉を裂いた。
 その存在は、息をする厄災と呼ばれている。


 村のはずれの小高い丘。そこに墓地がある。そこからは村の全体が見渡せ、エスケトの採れる洞窟も向こうのほうに見える。スズキは、師匠の墓標の前に手を合わせ、黙祷する。
 周りには誰もいない。ハナイの家には誰もおらず、もしかしたらと思い墓地に来たものの、やはり誰の姿もなかった。悲しいかな。村の男どもはともかく、孫であるハナイすら師匠の命日を忘れているとは。
「こんな、偉大な人なのに……」
 スズキは、小さな声でひとりぼやく。今のこの村があるのは、彼女のおかげだというのに、どうして誰も、彼女を正当に評価しないのだろう。感謝の半減期は短いというが、この扱いは、少々ひどすぎやしないだろうか。
 ため息を漏らし、スズキは無人の丘に立ち上がる。
 恨めしげな視線を、村のほうへと向ける。と、村の際に建てられた見張り台のすぐそばに、巨大な影たたずんでいるのが見えた。魔物だろう。その高さは、見張り台をも超えている。かなり大きい。それに人型だ。
 しかし、そうも驚くようなことではないだろう。高価な宝石を狙う盗賊や魔物が現れるのは茶飯事だし、だからこそ村には屈強な戦士たちがいるのだ。見張り台のすぐそばにまで接近しているのが少しだけ気になるが、上位魔族すらたやすく討ち取るような戦士が何人もいる村だ。多少大物が現れても、あわてる必要などないのである。
 スズキはそれから目を離し、もう一度師匠の墓碑を見やる。殺風景だ。せめて花でも摘んでこよう。そう考え、スズキは、村とは反対の方角に向け歩き出す。
 彼女はまだ、約束事を忘れたままだった。


 村に魔法少女は五人いる。ハナイ、ソト、サナ、スズキ、そして最後の一人が、ユメ。彼女がハナイたちとともに洞窟へアセラの修理に行かなかった理由はひとつ。好機だと思ったからだ。まだあどけなさの残る十二歳の少女は、現在、巨大な魔物の肩の上から村の戦士たちを見下ろしている。
「ユメ、これは一体、どういうことだ」
 ひとりの戦士が、ユメを見上げて叫んだ。
「言う必要はないのです」
 ユメはぴしゃりと言った。その直後、彼女の乗った巨大な魔物が、巨大な腕を振り上げる。
 振り下ろされた腕が大地を抉る。然るに、その腕に叩き潰されたものは一人もいなかった。戦士たちはすばやい動きで腕を避けたのだ。そしてそのうちのひとりが、手にした剣を抜き放ち、魔物の胴体を斬り裂く。深く深く入った刃が、巨大な腹を半分近くまで裂いた。
「ユメ、どういうことかは、じっくりと聞いてやる」
 別の戦士が、険しい声で言った。しかしユメは涼しい顔をしていて、逆に、男たちの表情は凍りついた。確かに刻まれたはずの切り傷は、何事もなかったかのように塞がり、魔物は涼しい顔で戦士たちを見下ろしたのだ。
「この子の名前はレヴィオストーム。あらゆる魔物の頂点に君臨する、八柱の魔神が一柱。そう簡単に、斃されるはずがないのです」
「魔神? そんなもの、聞いたことも――」
「いいえ、存在するのです」
 その言葉の直後、巨大な魔物レヴィオストームは、腕を大きく振るった。戦士の一人がすばやく懐に飛び込み、腕を根元から断つ。しかし一秒と経たないうちに、腕は何事もなかったかのように元の形に戻った。
「これがこの子の最大の武器なのです。レヴィオストームは、確かにそこにありながらも、不確かで、朧げな存在。手ごたえ、なかったでしょう? この子に触れることは夢幻を掴むようなもの。つまり、どんな物理攻撃も、この子には通じないのです」
 ユメの言葉に幾人かの戦士が、絶望の色を隠せずにいた。しかしひとりの戦士が、ユメの言葉を聞くなりレヴィオストームの腕を駆け上がり、ユメの目の前に飛び出す。そして、大きく振りかぶられた大斧が、少女に向けて振るわれる。
「悪く思うなよ」
 その男は、ユメに向かって叫んだ。彼は、この村でも一、二を争うほどの凄腕の戦士だ。しかし、ユメは、巨石を一撃で割るほどの破壊的な一閃を、その華奢な片手で、受け止めた。一瞬で動きを止められた斧は、そこからわずかも動かない。
「無駄ですよ。あなたたちでは、私たちには永劫敵わないのです」
 ユメの手から、閃光が迸る。魔法少女は戦闘に際して変身するが、変身しなければ魔法が使えないというわけではない。ただ、変身していないときに使える力は、変身時と比べて微々たるものでしかない。しかしその微々たる力は、一人の人間を、一瞬にして消し炭にした。
「さて、こんなところで無駄な時間をすごすのもくだらないので、そろそろ終わらせるのです。レヴィオストーム、攻撃を開始するのです」
 ユメの指示を受け、強大なる魔神は咆哮を上げた。


 その日、長瀬は走っていた。理由は単純。寝坊して学校に遅刻しそうになっていたのだ。というよりも、もう授業が始まっている時間だ。遅刻は確定、だけどだからといって歩こうなどと思えるほど、長瀬の神経は図太くはない。
 アスファルトで舗装された道に、スニーカーの音が響く。背負ったランドセルの中から、教科書の動く音が聞こえた。目の前の信号が赤に変わり、長瀬は立ち止まった。やきもきする。ただ遅刻しているからではない。なんとなく、嫌な予感がしたのだ。長瀬は勘が鋭い。ほかの人が気にも留めないようなことにもよく気がつく。
 息を切らせて校門をくぐる。同じように校舎を目指す児童は一人もいないけれど、グラウンドを駆け回る児童たちの姿が見えた。
 校舎まで走っていき、昇降口で靴を履き替える。廊下は走ってはいけない。だけどなるべく静かに走り、階段を駆け上がる。そして、三年三組の教室のドアに立つ。息を整える。たぶん、怒られるだろうな。そう思ったけれど、仕方がない。寝坊して遅刻した自分が悪いのだ。意を決して、教室のドアを開けた。
 と、にわかに視界が赤くなった。教室の前には先生がいて、並んだ座席にはそれぞれに児童が座っている。どうやら、長瀬以外の全員がすでにいたようだ。だけど誰も、彼女を振り返ることはない。全員が、変わり果てた姿で席に座らされていたからだ。そして、教室のちょうど真ん中にある、長瀬の机には、ひとつの人影があった。黒くて長いコートを着て、フードで顔を隠している。その影が、長瀬の存在に気づいたか、顔を上げた。
「おや、今来るとは運が悪い。あるいはいいのか」
 そう言ったそのものは、顔に、ピエロのマスクをつけていた。
 そして、長瀬佐奈は絶叫した。


 オレンジの光に照らされ、少し湿った壁がぬらぬらと輝く。ただひとつ、ランプの明かりだけが洞窟の中で光源となっている。
「アセラがあるのは、もっと奥でしょうか?」
「だから言ってんだろ。それよりもまずは出口を探すべきだって」
 ハナイの言葉に、ソトはいらだたしげに言った。
「大丈夫だよね?」
 サナは怯えた声で呟く。
「大丈夫だ。大丈夫。風は流れてたんだ。出口はどこかに必ずある。たとえなくても、異変に気づいた大人たちが助けに来てくれるはずだ。だから大丈夫」
 強い語気でソトが言う。本当はあのままあの場所で助けを待つのが一番合理的なのかもしれない。だけど、なんとなく、あの場所にはいたくなかった。
 とにもかくにも奥に進もうということになって、今三人は、さらに奥へと目指し進んでいる。


(担当:すばる)