リカラス その一

 発端は、一匹の猫だった。リカラスという名前で、全身真っ白の、どこにでもいそうな猫。
 しかし、どういう経緯があったかは知らないが、ある宗教団体がその猫を神獣として敬い、奉った。何でもその猫には未来を予知する力があり、近く来る厄災を人類に伝えようとしているとか何とか。
 その宗教が生まれたのが三年前、この街を中心に流行したのが一年前で、信者の一人が死体で見つかったのは、一週間前のことである。それが、教会の金を使って幹部が豪遊しているのをリークしようとして口封じに殺されたのだと判明したのが三日前のこと。そして昨日、教祖を含む多数の教団幹部が事件に関与しているとして逮捕された。
 で、その教団のあがめていた猫が、今俺の目の前にいる。缶詰をむしゃむしゃ食ってる。こいつが家に来たのは今朝、十年来会っていない同級生が突然押しかけてきて、どうかお守りくださいなどとのたまって置いていった。いろいろと言いたいことはあったのだが、その前に本人は姿を消していた。
「まったく、いいよな、お前は。能天気で」
 意味がないとわかりながらも、俺はリカラスに語りかける。独り言のようなものだ。当然、返事はなにもない。きっとこいつは、こんなふうにのんきに振舞っていたのだろう。それをよくわからない人間が敬い、神獣として奉ったわけだが、きっとこいつは、そんなことはなにもわかっていなかったにちがいない。
「じゃあ俺はちょっと出かけてくるぞ」
 そう言ったが、もちろん返事はない。やっぱり、どう見ても普通の猫だ。きっとリカラスを祭っていた信者たちも、こいつがどこかの野良猫とすりかわっても気づかなかっただろう。
 俺はリカラスをそこに置いたまま、部屋を出て鍵を掛けた。西日の眩しさに顔をしかめる。横からの光に照らされた街並みは、橙と黒のコントラストを描いている。いつもの変わらぬ光景。俺はアパートの階段を下り、暮れなずむ街に繰り出した。
 俺が向かったのは、いつもの自販機。街の中心部からはほんの少し外れたところにあるが、すぐ近くにちょうどいい塩梅にベンチが置かれたりしているものだから、俺たちはいつもそこをたまり場にしている。しかし今日はまだ誰も来ていなかった。夏でも冬でもラインナップの変わらないそいつに小銭を入れ、コーラを買う。
 炭酸の感覚を味わいながらそれをちびちびと飲んでいると、缶の中身が半分ほど空になったところで聞きなれたエンジン音が聞こえてきた。程なく姿を現した大型バイクは滑らかな動きで減速し、俺の座るベンチの少し手前で停止する。
「なんだ、今日はまだカズトだけか」
 そう言いながらバイクから降りたのは、愛車に不釣合いなほど小柄な影。メットをとると、年齢不詳な童顔が現れた。彼はチバ。苗字が千葉なのではなく、ちっさいバイカーでチバだ。俺は一瞬だけ顔を逸らしかけたが、すぐに思い直して挨拶する。顔に似合わずヘビースモーカーなチバは、早速タバコをくわえると、火をつけながら俺の隣に腰を下ろした。
「さっきそこで職質されちゃったよ。別にマフラー改造してるわけでもないのにさ」
 それは突っ込んでほしいのだろうか。そう思ったが、俺はあえてスルーした。沈黙は金だという。俺はどちらかといえばシルバーのほうがかっこよくて好きだけど。
 缶を傾けてコーラを飲み、中心街へと伸びる直線を目で追う。その先で三人組の男女が、慌てた様子でかけていくのが見えた。パトカーのサイレンが遠くのほうから聞こえてくる。部活帰りと思しき男子学生が歩いてきて、手前の住宅に消えていった。
「やっぱり、少ないね」
 横でチバがぼやく。時刻は七時過ぎ、しかしまだ日暮れからまもなく、空はオレンジ色をしている。いつもならこの二倍、いや、三倍は人通りがあるはずだ。どうやら例の何とかという宗教団体の影響は、俺が思っていた以上に大きいらしい。
 二人目が姿を見せたのは、午後九時を回ったころだった。髪を銀に染めて派手な白いスーツを着た、身長百八十センチ越えの優男。
「ミロク、珍しいね、こんな時間に」
 六本目のタバコをくわえていたチバが反応すると、ミロクは片手を上げて挨拶した。ちなみにミロクというのは苗字からとったものであり、本名は弥勒院正徳吉祥丸。どっかの寺の跡取りを思わせる名前だが、実家はサラリーマンの家庭で、本人はホストである。
「ああー、今日は女の子は誰も来てないのかー。どうしよう? 帰ろっかなー」
 開口一番、そんなことを口にするミロク。
「別に帰ってもいいぞ」
「ミロクが来ても、僕らもあんま嬉しくないしねー」
「うわっ、ちょっとひどくない? あーあ、こんなことならアイコたちのところに遊びにいけばよかったよ」
 そう言いながらもミロクは自販機でコーヒーを買い、それを手に隣のベンチに座る。
「まったく、ミロクはミロクなんだからさ、もうちょっと弥勒菩薩っぽくしなよ」
「なんだよ弥勒菩薩っぽくって」
「さあ?」
 チバはとぼけた顔をする。
「まあ、少なくとも四股かけるようなことはしないだろうね」
 三股だと思っていたが、また増えたのか。いつか刺されるのではと心配になる。一方のミロクは、だってみんなかわいいんだもん、などとのたまって笑う。むしろ刺されたほうが世のためになるのではないだろうか。てか刺されてしまえ。
 しかしそんな俺の怨念をよそに、ミロクは携帯で彼女とやらとチャットをはじめる。どうやら俺たちと会話するつもりはあまりないらしい。
「ところでカズト」
 チバが話を振ってきた。俺はそれに、どうしたと応じる。なんら身構えることなく。
「例の件は考えてくれた?」
 ごく普通の、あまりにも普通すぎて作られた声音だと分かってしまう声。一瞬、俺の心臓が撥ねる。
「いや……もう少し、時間がほしい」
 我ながら、声が上ずっていたと思う。だけど仕方ない、あれは、そんな簡単なことじゃない。
 結局、それを機にお互い何も言うことがなくなり、場が一気にしらけてしまった。相変わらずミロクは携帯とにらめっこ、チバは八本目のタバコの火を消し、俺はコーラの最後の一滴を飲み干した。日はいつしかとっぷり暮れ、夜のわだかまる空間で自動販売機の光が頼りなく闇を払っている。
 最初に立ち上がったのはミロクだった。彼女に呼ばれたからと、歓楽街のほうへと歩いていく。どうせこの後どこかのホテルにでもしけこむのだろう。その数分後、チバもバイクにまたがって夜の街に消えていった。
 チバの乗るバイクの音が聞こえなくなってから数十秒、このままここにいても意味はないと、俺も立ち上がる。もともとたむろすることに意味があるのかは不明だが。しかしこれ以上ここにいても、誰かが来るとは思えない。もともと決まりがあるわけでもなければ約束をしているわけでもない、なんとなく集まっているだけなのだ。
 軽く伸びをして、首をぐりぐりと回す。これからどこかにいく予定もないし遊ぶ金もない。さっさと帰ろうと、ひとまず西に向かう。この後しばらく進んだところで右に曲がり、さらにいくつかの交差点を過ぎてからもう一度右折すると、借りているアパートに着く。本当なら真っ直ぐ北に向かったほうが近いし、今使っている道順だと最短ルートと比べて二倍近い道程になるのだが、俺はあえてその合理的な選択肢を排除する。別に寄りたいところがあるわけではない。最短ルートで行こうとすると、大学のキャンパスを通り抜けることになるからだ。
 ただ通り抜けるだけなら、あの広い大学構内で誰かとばったり遭遇、なんてことにはならないだろうし、この時間ならなおさら人は少ない。それでも、気持ちがあの場所を避けようとしている。というのも、俺はもうひと月以上も大学に行っていないのだ。
 なぜそうなったかと聞かれても、俺自身、答えることはできない。ただなんとなく、面倒くさくなって、けだるくなって、気づいたら行かなくなっていた。こうなる前もさぼりがちではあったが、しかし単位は取れるよう、出席日数をちゃんと計算していた。
 今のところ親には悟られていないだろうが、成績の通知は実家にも行くようになっているし、いずれはばれるだろう。このままではいけない。それはわかっている。だけどそれがわかっていても、ただ大学に行けばいいのだと思っていても、結局は講義に出ないまま、もうひと月以上も経ってしまった。バイトもしていない俺は、無為徒食の生活を送っている。
 小さなため息をつき、俺は交差点を右に曲がった。途端に目に入る光の量が増加する。このあたりは、この時間でもにぎやか、もとい、このあたりからが本番だ。居酒屋や風俗、夜の街に輝くネオンはそれぞれが自分だけを主張し、光の中に埋もれている。
 俺はしつこい客引きを手で追い払い、脇を通り過ぎる自動車のテールランプを目で追いながら歓楽街を通り過ぎる。変化は顕著だった。賑々しい場所を少し過ぎれば光量は激減し、まるで違う次元の世界のように音が静まる。一瞬の賑やかさをすでに忘れた俺は、家に向かって坦々と歩く。両脇に建つ家やマンションは、どれも形は違うがいずれもありきたりで、いたって無個性だ。テレビで見た、どこかの街のカラフルな家々は、きっと御伽の国のものなのだろう。夢を見るのをやめた俺は、いつもどおりの道を通り、部屋を借りているマンションに入る。冷たいコンクリートの階段を登り、自分の部屋の前にまでたどり着いた。
 違和感を覚えたのは、鍵を差し込んだときだった。試しにドアノブを握ってみると、それは抵抗なく回る。そして腕を引いてみれば、ドアはごく当たり前のように開く。
 俺の脳内で、恐怖と不安が膨れ上がる。ノブを引けば扉が開く。それは当たり前であって、当たり前じゃない。だけどそれは普通に開いた。出るとき、確かに鍵を掛けたはずなのに。



(すばる)